2011年08月19日

自死という生き方(須原一秀)



大学1年、僕がまだ理工学部にいた頃、須原一秀というちょっと風変わりな講師がいた。

『論理学』という講義だったと思う。教材として、彼が書いた『超越錯覚―人はなぜ斜にかまえるか』という本を買わされた。ところが本の内容はおろか、講義自体も論理学とほとんど関係ないのである。

単位を取るのはたやすかった。生活の中でふと疑問に感じたことをレポートで出すか、そんな疑問を講義中に質問すればよかった。

「最近何か疑問に思ったことない?」

そんな感じで須原氏が学生に話をふる。僕も何回か質問した。彼は「うん、それはね・・・」と話し出すのだが、話は決まって途中でそれ、ちゃんと回答してもらったことがなかった。学生の質問からインスピレーションを得て自分の問題を考えているように見えた。

たとえるなら、見た目はアル・パチーノ、語り口はピーター・フォーク。ひょうひょうとしているがダンディーな先生だった。

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それから数年後、僕は文学部哲学科に移籍した。そこで僕はウィトゲンシュタインという哲学者について学ぶのであるが、出会った先生ふたり、あの須原氏と講義の進め方がどこか似ているのである。

よくよく調べてみたら案の定、須原氏もウィトゲンシュタインから続く分析哲学→日常言語学派を研究する学者だった。

この学派は、哲学の歴史の中ではちょっとした異端なのである。簡単にいうとこんなふうに。

1.哲学や科学、その他どんな手段を使っても、『人生の真理』『宇宙の真理』など語ることはできない。
2.魂や死、人類、命について議論をしても、決して核心はつかまえられず、あくまでも言葉上の問題として堂々巡りするだけである。
3.我々にできることは、日常の出来事を日常の言葉で語ることだけである。
4.よって哲学は無意味である。ただし、『哲学は無意味だ』ということを理解するためには哲学をしなければならない。
5.『答え』はむしろ『問い』の構造の中に隠されている。


道理で、いつまでたっても結論めいたことを言わず、ただえんえんと学生と質疑応答するという講義スタイルになるわけである。

さて、先ほどあげた『超越錯覚』だが、これがけっこう面白く、これまでも思い出したらひっぱり出してきてペラペラと読んでいた。ふと、この先生は今頃何をしているのか気になり、ネットで調べてみた。

驚いた。須原氏は2006年に65歳で自殺していた。それもかなり「奇妙」な動機で。その遺書(遺著)が出版されているというので、さっそく取り寄せてみた次第である。

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この本によると、須原氏は某県(おそらく滋賀県と思われる)の神社の裏山で首をつって死んだ。同時に頚動脈を自ら刃物で切っており、念の入った自殺だった。自宅には本書の原稿が残されていた。それは、『自死』の正当性を哲学的に検証する内容だった。

「平常心で死を受け入れるということは本当に可能か? ――それはどのようにして可能か?」
「本書と私の自死決行とはワンセットで一つの哲学的プロジェクトである」


なんか知らんがすさまじい意気込みだ。

さて、実際に出版されたこの本は、最初の20ページほどが無関係な評論家の文章で埋められ、ラストは須原氏の家族による手記で終わっている。須原氏オリジナルの文章はちょうどサンドイッチにされた形式になっているわけだ。『自死という生き方』というのもあとでつけられたタイトルで、須原氏自身は別の題名をつけていた。残された人たちが、かなり強引に『死を考えることによってより良い人生を送ることができる』的なムードにもっていこうとしているようにすら感じられる。

おそらく、そのまま出版するにはあまりにも過激な内容だったからだ。須原氏は『よい生き方』云々なんてことは一言も書いておらず、もろに『みんなもっと明るく気軽に死のうぜ! 気軽に死ねる社会にしようぜ!』と主張しているからである。こりゃ過激だ。文章だけならともかく、須原氏による実践もともなっているのだ。

社会通念をズバズバと痛快に切り捨て、ユーモアに富み、僕が受けた講義のように時々脱線するが、とにかく面白い本である(死を決意した人が書いたものとは思えない)。と同時に、僕は大きな盲点をひとつ見つけた。それを是非とも書きたいので、ちょっと長めに内容をふりかえってみる。

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■「人生は虚無」だとか言って苦悩している人間が長々と生きて、自殺とはまったく無関係に見える幸福そうな人生の達人がいきなり命を絶ったりするのはなぜか?

後者の例として、須原氏は、ソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三をあげる。3人とも、あらゆる幸福にめぐまれ、人生を楽しむ達人だった。そして大して悩むようすもなく、むしろあっけらかんと自決した。なぜか?

■「極み」と「高」

「高を知る」という言葉があるが、これはようするに、人生や自分の頂点がどのあたりにあるか知ることである。「極み」とは、自分が感じる幸せの頂点のこと。

「極み」をたくさん感じられる人間というのがいて、彼らはちょっとしたことで最高級の幸せ(極み)を日々感じられる人種である。(これは僕の言い方だが)「極み」は質の問題であって、量の問題ではない。

僕のたとえで言うと、たとえば仲間で焼肉を食べていたり、みんなでキャンプに行ったりするのは「極み」の瞬間である。つまり、これ以上ない幸せ。3,000円の焼肉が3万円になったり、キャンプ旅行がドバイ旅行になったりしても、僕の幸福感は大して変わらないだろう。つまりそれが僕の幸福の上限なのである。逆に、値段やテレビの評判など、観念的なものにしばられている人はいつまでたっても「極み」を感じることができない、と須原氏は言う(このへんの発想、いかにもウィトゲンシュタインっぽいなー)。

楽しすぎて「もうじゅうぶんだ!」「もう死んでもいい!」という気分になることがある。ところが老齢を過ぎると、心身の衰えから「極み」を感じられることもだんだん減ってくる。先にあげた3人は、「極み」をじゅうぶんに感じられるうちに死を選んだのではないか? そういう死に方もアリなのではないか?――というのが須原氏の主張だが、これには大きな盲点がある。あとで論ずる。

■自然死は悲惨である

「眠るような安らかな死」とよく言うが、そんな死に方はほとんど奇跡に近い。須原氏は、さまざまな資料や自分の身内の死を取り上げて説明する。

僕にとって衝撃だったのは、キューブラー・ロスの死だ。死にゆく患者のメンタルケアを初めて提唱した医者。ホスピスや終末医療の創始者であり、病院ではなく自宅での死、無益な延命治療の中止を訴えた人である。死を間近にした何千人もの患者に寄り添い、恐れることはないと励まし、周りから「聖女」と呼ばれた(ちなみに、死後の世界の存在について初めて科学的な検証を試みた人物でもある)。

ところが晩年、本人が脳卒中で倒れ、半身不随で身動きできなくなった。彼女は豹変した。

「精神分析は時間と金の無駄だった」
「愛なんて、もううんざり。よく言ったもんだわ」
「40年間、神に仕えてきて、引退したら脳卒中の発作が起きた。神はヒトラーだ」


そのようすの一部は以下で見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=Tp0eYiAOsZY

何千人もの死を看取り、死の不安を取り除いてきた彼女ですら、晩年は神を呪うようになってしまう。自然死はそれだけ悲惨なものだ、と須原氏は主張する。たしかに上記動画を見ても、本人はかなり死にたがっているし、延命処置も拒否しているのに、自殺(尊厳死)だけはかたくなに拒んでいるのが少し奇妙に思えなくもない。それは彼女がキリスト教徒だからだが、須原氏いわく、何千人もの魂を救ったのに最後に自死を選んだくらいで神様は彼女を地獄に落とすのだろうか。

■武士道のように思い立ったら死ね

須原氏は、日本の武士道における切腹を持ち出す。ガチガチの封建社会において、切腹こそが武士に許された唯一の自由意志だった。「いざとなったらさっさと死ぬさ」とか言いながらもダラダラ生きるくらいなら、思い立ったときに何も考えずにスパッと死ぬべきだ、と言う(ただしこのへん、武士も第二次大戦の日本兵もいっしょくたに論じられており、僕は正直なところ「?」な部分である)。

さらに、夢中になって何かを楽しんでいるときは死の恐怖やこの世への未練なんかまったく考えないものであり、その幸福の「極み」の状態でさらっと死んでしまうのがベストだ、と主張する。

また、「魂」だとか「かけがえのない命」とかを持ち出して生きることの大切さを説明する人間たちを、以下のように切り捨てる。ちょっと長いが、秀逸というか過激すぎて笑けるので引用しよう。

「確かに、自分の家族などに対しては「かけがえのない命」という言葉の持つ重みは誰しも感じることはあるが、外国で起こった列車事故の死者数の少なさに少しはがっかりしたり、インド洋の津波被害について、どこか面白がっているような感じで仲間と話題にしたり、介護に疲れて老親の早急の死を夢みたり、残酷焼きを喜んで味わいながら、のたうつ貝やエビにちょっとだけ同情したり、さらには畜産動物や実験動物の境涯を知って、心を痛めたりしている人間が無条件に「かけがえのない命一般」について声高に論じるのは無理であり、場合によってはそんなことを言う人は無神経としか言いようがないと思ってしまうのである。
(中略)
問題は、環境問題や現代社会の退廃を論じる文脈で、「自然」を捻じ伏せるようにして構築された人工的な環境でぬくぬくと衣食住を満たしている人間が、「大いなる自然」を持ち出すのは普通は無理ではないかと思うのである。我々は、実験動物や畜産動物の地獄の苦しみを経由した薬や食物を利用しているのである。そして臨終にあたっては、人工的に命を縮めてもモルヒネの投与を願うかもしれないのである。そんな人間が「大いなる自然」を口にしても説得力はあるのだろうか」


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結局のところ、須原氏の生きる指針は次のようなものだった。

長年、科学とか自然とか人間について研究してきても何もわからなかったが、

「ただし、「自分にとっての自分」と「自分にとっての世界」の問題だけは、なんとか体感的に克服できているような気がしている。それは、普通人の普通の立場である。つまり、中途半端と非合理を抱え込んだ人間が日常語圏という共同体で、その場その場で通じる範囲内での日常語を使用して、その場限りで主張しうる圏域内だけに自分の意識が及ぶように限定できるようになっているということである」

これなんかもろにウィトゲンシュタインくさいなー。僕は「わかりもしないことをわかったつもりになるな」を自分のモットーとしているが、言っていることは同じである(なぜなら僕も、幸か不幸かウィトゲンシュタインの影響下にあるから! 実際はそこまで達観できていないが)。

(おまけ:こんなことを書くと矛先が僕に向きそうでこわいが、前の東北の震災だって、僕は「がんばれ日本!」なんて仰々しいことを言う気分にはどうしてもなれないのである。僕がしたことと言えば、東日本にいる友人数人に連絡を入れ、困ったときには物資を送ると伝え、昔貧乏旅行をしたときの東北の町並みや気仙沼の峠から見た星がきれいだったことを思い出し寂しく思い、心ばかりの募金をした程度である。結局のところ僕が実感として感じられた範囲がそこまでだったからである。一線を越えて「日本よ立ち上がれ!」てなことを言い出すと、実感を離れた空虚なものがひとり歩きしそうでこわかったのである。もっとも、政治家や有名人、運動家、宗教家、天皇、一部の医療関係者などは、そういう「大ボラ」を言うのが仕事であり、言う使命がある)。

話を戻そう。須原氏は『自死』についてはとにかく本気なのだった。そして「後進の方々」に、自分に続けとばかりにアドバイスしている。そしてこう締めくくる。

「こだわりを捨ててちょっと工夫すれば人生はなかなか良いものである。定年後も老後も、工夫しだいでなかなかのものである。(中略)しかし、その先は誰にも保証できない。その頃の少し手前で考えれば充分間に合うが、しかしどこかでその先に行くことに不安になったら、その時まで本箱の隅にでも置いていた本書を参考にしていただきたい」

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以下、僕の批判と総評である。

この本は、病と闘って生きている人やその家族にとっては、まさに神経を逆なでするような内容である。ネットを見ても、感情的な批判は少なくない。

須原氏は、自然死という選択もひとつの死に方として認めている。しかし、対極にある自死という死に方も筋が通っているにもかかわらず、現在は少数派であまりにも迫害されているので、かなり過激に主張を書いた、と述べている。それにしても、である。

でもいちおうは「哲学的主張」をしている須原氏に、いくら感情的に反論しても無駄だろう。そこで哲学的反論を試みる。

幸せの「極み」のところで、それは量ではなく質の問題だ、と僕は書いた。これは僕の表現だが、趣旨はずれてはいないだろう。

たとえば水泳は楽しい(ふだんあまり泳がないが)。子どもの頃も現在も変わらず楽しい。普通に考えて、10代の頃よりも現在のほうが明らかに体力が落ちているはずだが、もとから気にしていない。だから楽しい。泳ぐことの「極み」を感じている。

だが、あるレベル以上まで行った水泳選手となるとこうは行かないだろう。20代半ばをすぎた頃から徐々にタイムが落ち始め、それに対して絶望的な気分になるかもしれない。須原氏の考えに基づけば、これは「タイム」という量的なものにこだわるから楽しくない、「極み」を感じられないのだ、ということになる。

ところが須原氏が、老衰すると徐々に「極み」を感じられなくなる、と言うとき、本来は質的なもののはずだった「極み」が、量的なものにすりかわっているように思えるのである。

心身が衰え、歩ける距離が短くなり、思考が鈍くなっても、量的な側面を気にしなければ「極み」が減ることはないのではないか。歩く距離が半分になっても「散歩」が「散歩」であることに変わりはないし、考えが鈍っても「将棋」は「将棋」として楽しめるはずである。

先述の動画で、キューブラー・ロスの若い友人がインタビューに答えている。ふたりはよくポップコーン片手にビデオを見て、「ジョニー・デップはかっこいい」とか、ガールズトークで盛り上がったという。身体が動かなくなっても、友人と映画を見ている瞬間に彼女はひとつの幸せの「極み」を感じていたのではあるまいか。

もちろん、年老いてなおも「極み」を感じ続けるためには、思考の切り替えが必要である。だが不可能ではない。須原氏は単純に、年老いていくのが怖かったのではないかと感じる。もっとも、だからと言って彼の『自死もひとつの選択肢として認めるべきだ』という主張をくつがえせるわけではない。

もうひとつは、ちょっとマニアックな解釈である。

須原氏は本書で、死ぬ前に読みたい本として、夢野久作の『近世快人伝』をあげている。なぜに夢野久作?と僕はちょっと首をかしげたのである。夢野久作のもっとも有名な小説といえば『ドグラ・マグラ』だろう。この怪奇小説には、正木博士というマッド・サイエンティストが登場する。

かつて中国に、自分の妻を殺してその腐っていく過程を描き残した、狂った画家がいた。正木博士はその子孫を見つけ出し、自分とのあいだに息子をもうけた。先祖の血を継いだ息子が、同じように狂って死体の絵を描くかどうか、実験するためである。まさに人生をかけた大実験!

須原氏が、本書と自死の決行とを『哲学的プロジェクト』と呼ぶとき、どうしても正木博士のイメージがだぶってしまうのである。須原氏自身、このプロジェクトの遂行にかなりワクワクしていたようすが本書からうかがえる。彼は哲学論を書き下ろし、その主張のとおりに死んでみせることで、人生をかけて「哲学者としての『極み』」を体感しようとしたのではあるまいか。

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須原氏の自死を僕は否定はしない。前にも書いたが、自ら死んでいった者について何を言っても無意味だ。

家族がかわいそう、という意見もあるが、寝たきりになって意識もない肉親を見守り続けるのがいいのか、あるいはピンピンしているうちに笑顔で去っていくほうがいいのか、それは家族が実感としてどう感じているかに尽き、それ以外にはありえない。

須原氏の息子が最後にこう書いている。

「父の自死からしばらくして、私たち家族が出した結論は、『父にもう会えないのは寂しいが、悲しむことではない』ということです」

「生きる意味」などというトリッキーな問題を考え出すととたんに哲学的ドツボにはまる。別の哲学者・中島義道が「人生は無意味なのになぜ生きなければならないのか」という学生の切実な問いかけに対し、こう答えている。

「人生は無意味だ。でもあなたがいなくなると僕は寂しい」

まあ、これが一番ミニマルで、でも一番体感できる「死なない理由」なのかもしれない。

須原氏に対して僕は特別な恩もなく(講義もかなりサボっていた)、向こうも僕のことなど記憶の片隅にも残っていなかっただろうが、僕は「もったいない」という思いがぬぐえない。これだけ面白い本を書く人だ。昔よりもさらに文章はさえわたり、切れ味も鋭くなっている。何よりユーモアのセンスが卓抜している。生きていれば、まだまだ面白い本を書いてくれただろうに、単純に「もったいない」と感じるのである。

それだけ本書は僕にとって面白かった。生と死の問題にとどまらず、さまざまな示唆に富んでいた。とにかく久々に出会う、ドーパミンがドバドバあふれ出すくらい刺激的な本であり、いまだ興奮さめやらず、だからこんなに長い文章を書いている。

で、この本をみんなに読んでほしいと思ったのである。全体的に読みやすい内容であるが、哲学がニガテな人は、最後の9章、10章あたりから読んでもらってもかまわない(須原氏による、死を決行するまでの約1年間の日記風文章がある)。そして読んだ人の反応を見たいのである。

決して「良薬」ではなく、「劇薬」と「麻薬」と「毒」と「ほとんど試験されていない新薬」をチャンポンにしたような本であるが、それなりの読み応えはあるはずだ。


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2011年08月02日

幻の光(宮本輝)



死をテーマにして書かれた、宮本輝の短編集。特に表題作は自殺がテーマとなっており、他の収録作品とは趣を異にする。

主人公である女性が、自殺した夫にえんえんと語りかける、という文体である。

主人公は、同じ長屋で育った幼馴染の男と結婚し、子どもをもうける。貧乏だが幸せな日々がいつまでも続くかと思われた矢先、夫が鉄道自殺をする。夫はいつもどおり仕事に行き、帰りに喫茶店に立ち寄り、だがその数時間後、彼は線路の上を歩いていた。後ろから電車が迫ってきても淡々と歩き続け、そのまま轢かれて死んだ。

理由は誰にもわからない。

「なんであんた死んでしもうたんやろ」

主人公は、イメージの中で線路を歩いていく夫の後姿に語りかける。いつしか、死んだ夫に向かって心の中で話しかけるのが習慣になっている。やがて主人公は子連れで能登の漁村に嫁ぐ。それでも、前の夫に話しかける癖はぬけない。

これは僕の個人的興味なのだが、小説などで、自殺の理由を文章で表現するのは不可能に近い作業だと思う。なぜなら、ほとんどの自殺には、実は理由なんて存在しないからだ。

有名人が自殺するたび、マスコミはあれこれと理由を推察し書きたてるが、どれも的外れのように感じる。

自殺に理由はない。いや、人間のすべての言動には実は理由はない。人は他人の行動に理由を後づけし、自分の行動や人生にも、スジが通っているかのように思い込む。ところが実際は、人は日々、理由もない行動をくりかえしているだけだ。哲学者クリプキの言うところの『暗闇の中での跳躍』を、瞬間瞬間くりかえしているのである。

よって人が自殺する「きっかけ」はあるかもしれないが、その真の理由は他人には決して理解できないし、おそらく本人にもわからない。批判しても哀れんでも、結局のところ真相にはまったくたどりつけない。『暗闇の中での跳躍』をくりかえしていて、何かのはずみでそうなってしまった。僕が考えうるのはそこまでである。

主人公は嫁いだ町に少しずつ馴染み、新しい幸せを育んでいく。でもそれをどこかうしろめたく感じている。ある雪の日、ひとり海辺を歩いていた彼女は、突然感情が破裂し、砂浜で初めて嗚咽する。

「ああ、あんたは死にたいだけなんや、理由なんか何もない、あんたはただひたすら死にたいだけなんや」
「ああ、あんたはなんて寂しい可哀そうな人やったやろ」

いまの夫に話すと、彼はただ一言こう答える。

「人間は、精が抜けると、死にとうなるんじゃけ」

僕はというと、先を考えると途方もない気持ちに襲われるゆえ、とにかく目の前の物事を淡々とこなすのみである。もっとも、『跳躍』をくりかえしていて足を踏みはずす可能性もあるが、死が端的に無であるならば、そこには自覚も理由もないだろう。
タグ:宮本輝 自殺
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2011年03月26日

サマーウォーズ



こんな寒い季節にこの映画の紹介。ただ以前にアニメ映画「時をかける少女」を紹介していたので、ふと思い出した。同じ貞本義行と細田守コンビの映画だ。

「時をかける少女」と、この「サマーウォーズ」、この2作はあとあと残る映画だろうと思う。僕はそれほどアニメをみる方ではないが、「エヴァンゲリオン」以来の衝撃を受けた。僕の中のアニメランキング、いや映画ランキングを塗り替えた。

夏休み、主人公の高校生は、ひょんなことで憧れの女子先輩のいなかについていくことになる。そこには古き良き日本の大家族のきずなが待っていた。

かたや世界は、「OZ」と呼ばれる巨大なサイバー世界とつながっている。全人類が「OZ」のIDを持っていて、ネットゲームはもちろん、電気料金の支払いから住民票登録まで、すべて「OZ」にログインしておこなう。

「OZ」に強大な敵が忍び寄る。「OZ」はのっとられそうになる。主人公と先輩の大家族は、おのおのパソコンやケータイなどで「OZ」にログインし、団結して敵と戦う……という話。

現代社会は人と人とのつながりコミュニケーションが希薄になった。よく言われる話だ。

でも僕は実はその逆だと思う。現代はむしろ、コミュニケーション過多の時代なのだ

ケータイで毎日何十通ものメールのやりとりをする。ブログを頻繁に更新する。昼ごはんを食べているときも「吉野家なう」とつぶやく。

おそらく人はもともとさびしがりやなのだろう。別にネットでコミュニケーションすることが悪いとは思わない(僕もブログ書いてるし)。

ただ、コミュニケーションが多すぎて、ひとつひとつが粗雑でテキトーになっているような気がする。結果として、意味のない情報に埋もれることになる。時には心無い情報に惑わされ、傷つく。

この映画の面白いところは、近未来のネットによるコミュニケーションと、昔ながらの家族的コミュニケーションとを合体させたところにある。これぞ理想的なネットの未来の姿だと感じる。

思えばインターネットが普及する以前のパソコン通信の時代がこれに近かったように思う。あのころはパソコンでコミュニケーションをとりながらも、画面の向こうに人がいることを実感しながら、みな礼節をもってチャットをしていた。

コミュニケーションの手段としては、ネットはいまは過渡期なんだろう。この映画にみるような、リアルとバーチャルがバランスよく融合し、人と人とがつながる時代が来ると願いたい。

そんなわけで、ストーリーのよさと同時に、長年WEBの仕事をしている立場もあって、結局みながら号泣してしまったわけである僕は。

細田守はかつての宮崎アニメと似たものを感じる。いまの宮崎アニメは行き着くところまで行ってしまって、妙にゲージツ的すぎてついていけないことがある。

「宮崎駿の後継者」とまでは言わないが(そもそも別の人が同じ視点を持っているわけがない)、次回策にも期待したい。
posted by にあごのすけ at 11:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月22日

ミスト



2007年作品。原作スティーブン・キング。監督は名作『ショーシャンクの空に』などを手がけたフランク・ダラボン。こうくれば、いったいどんな映画だろう、観てみたいという人が多いだろうと思う。

舞台は現代。アメリカの田舎町が突如として霧に包まれる。1メートル先も見えないような、真っ白な濃霧。

スーパーマーケットに取り残された人々に魔の手が忍び寄る。なんとか生き抜こうと道を模索する人々や、狂信的になって宗教にすがり、暴徒化する人々。そんな人間模様が描かれる。

すさまじいのは、なんと言ってもエンディングだろう。ハッピーエンド大好きなアメリカ映画、まさかこんなドンデン返しが待っていようとは夢にも思わなかった。

ネット上での評価も、賛否両論にはっきり分かれている。一部の人々は絶賛し、一部の人々は最低な映画だと酷評している。

僕が思うに、この映画の背景には、いまだアメリカがひきずっているアフガンやイラクの戦争がある。映画には、戦地(おそらく中東)に赴こうとしている若い兵士が登場する。隠しヒントとして監督があえて登場させたのではなかろうか。

アメリカの戦争を裏のテーマとして、「意味のある死」っていったいどうなのよ? と監督は訴えたかったのかもしれない。

しかしとにかく後味の悪い映画ではある。観る側の予想を見事に裏切ったという点では成功というべきか。
posted by にあごのすけ at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月09日

アセンション 終焉の黙示録



アセンションとは本来は、「キリストの昇天(はりつけにされて死んだキリストが復活して天に昇っていったこと)」を指す。

最近はやりの「2012年人類滅亡説」によると、2012年に人類の意識が高次元へと進化するらしく、それもアセンションと呼ばれている。まあ僕は否定も肯定もしない。結局のところ未来はわからない。科学だろうと占いだろうと宗教だろうとそれは同じだ。

さて、この映画「アセンション」。舞台は近未来か。「神」が何者かによって殺された。神が持っていた万能の力は飛散し、人類の誰もが奇跡を起こせるようになった。だが精神はしょせん人間のまま、力を身につけた人間同士のみにくい大殺戮がはじまる。こんな世界を終わらせるため、夢によってみちびかれた3人の女が、廃工場にやってくる。そして最上階にいるという「何か」と会うために、さびついた階段をのぼり始める。

……と書くと、いったいどんな映像だろうと思うかもしれない。でも驚くなかれ、これだけの設定を、冒頭の5分ほどのナレーションですませてしまうのである! あとは3人の女が、ひらすら階段をのぼるシーンがどこまでも続く。まさに低予算カルト映画と呼ぶにふさわしい作品だ。

この映画、レンタル屋で借りたのだが、SFのコーナーにあった。店の人も分類に困ったのだろうが、明らかにSFではない。死体の映像がいくつもあるが、ホラーと言うほどでもない。

宗教映画でもない。しいて言うと「哲学映画」か。そんなジャンルはもちろんない。

クライマックスもオチもない。ただ階段をのぼりながら、見知らぬ同士の3人がブツクサと話し続ける。

テーマはいろいろ解釈できるが、僕が思うに、神がいない世界とはどんなものかを極端な手法で描きたかったのだろう。

いまのこの世界がまさにそうだからだ。神も道徳も愛も信じられない。階段をひたすらのぼっていくだけの、無意味な人生。ただ科学だけが発達し、人間は万能の力を手にいれつつある。人間はまったく不完全な精神のまま、「神」になろうとしている

映画の中の会話で、僕が好きなものがある。

「万能であるはずの神がなぜ殺されたのか?」

3人がいきついた答えはこうだ。

神は実はこれまで誰にも愛されたことがなかったのではないか? 愛されたがゆえに殺されたのではないか? なぜなら愛は誰もを無防備にするから。おそらく神でさえも。

「答え」はないが、「考える」ためのヒントにはなる映画である。あと付け加えると、いわゆる廃墟萌えな人にもおすすめの映画だ。

さて、いささか脱線するが、神も道徳も人も、信じるに値する根拠があるから信じるものではない。根拠がないのに正しいと思うことを「信じる」と言うのだ

ならば「信じられない」という表現自体が矛盾をはらんでいる。「信じられない」は「信じようとしない」と同義語だ。

よって、神を殺せる存在がいるとすれば、それは人間以外に他ならないと思うがどうか。

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2009年11月22日

MASTERキートン(勝鹿北星・浦沢直樹)



「自分の人生を変える本」なんてそう簡単にめぐり会えない。

もしめぐり会えたとしたら相当ラッキーか、あるいはすでに読み手側に潜在的に人生を変える準備ができていたかのどちらかだろう。

僕にとって、『MASTERキートン』はそんなマンガだった。特に大きな影響を受けたわけでもない。でも、僕が人生の選択に迫られていたとき、このマンガが「ポン」と背中を押してくれたような気がする。

主人公である平賀・キートン・太一は、日本の大学で非常勤の考古学教授をするかたわら、副業でイギリスの保険調査員もしている。イギリス特殊部隊に属した経歴を持つ。

一見ひ弱そうな男である。いつも「なんだかな〜」という表情をしているが、保険調査の仕事で危険な目にあったとき、その優れた頭脳と軍隊経験を活かしてピンチを切り抜ける。

でも彼が不屈のヒーローであるかというとそんなことはない。優柔不断である。自分が本当にしたいことは何か、いつも悩んでいる。

軍に入ったのも調査員の仕事も、なりゆきでそうなってしまったところがある。本当は考古学に没頭したいのに、金もなく、チャンスもない。

彼のこの優柔不断さに僕は共感した。15年前のことだ。

僕の「奇妙な」経歴を少し明かそう。

僕は高校時代はオカルトの研究に没頭していた。入信こそしなかったものの、さまざまな新興宗教団体に首をつっこんだ。

その後は左翼団体の連中と交友をもった。が、自分は科学者になるべきだと思い立ち、大学の理工学部に進んだ。

でも大学は合わなかった。理系の勉強もしっくりこなかった。僕は苦悩した。でもやがて、僕が本当に知りたいのは「科学」の領域ではなく、「哲学」なのだと気づいた。

僕は転部しようかどうか悩んだ。科学にはパワーがある。世界を物質的に変える力がある。それに比べて哲学は無力な学問だ。

そんなときに『MASTERキートン』を読んだのである。

物語の結末は書かないが、キートンはさまざまな人と出会い、経験をしていくうちに、人生の「マスター」へと成長していく。

物語の後半にくりかえし出てくる言葉がある。

「人間いつでもどこでも学ぶことができる」

そしてキートンはついに決意し、自分の本当に進みたい道を歩み始める。

そして僕は科学者になる夢を捨て、哲学を学ぶ道を選んだ。このマンガを読んで吹っ切れた部分が少なからずあるように思う。

もう15年以上前のマンガなので、設定が古い。冷戦前後のヨーロッパがよく登場する。だがその時代を知るにはよいマンガだ。

また、考古学ネタもよく登場する。アクションあり、ミステリーあり、人間ドラマあり。とてもよくできたストーリーだと思う。

いまは著作権問題か何かで「絶版」状態にあるようだ。ネットカフェかなんかで探して是非とも読んでいただきたいマンガ。復刻を切に願う次第。



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2009年11月18日

永遠の仔(天童荒太)



「まったく救いのない小説」というふれこみで読んだ。数年前にテレビドラマ化もされたようだが、僕は見ていない。

長い小説である。単行本の上巻を読むのに数週間かかった。でも下巻は数日で読み終えた。いちおうミステリー小説であり、読む側をグイグイ引き込んでいく。

四国の田舎町にある児童向けの精神病院。さまざまなトラウマを抱え、さまざまな症状を持った子どもたちが入院している。

そこで知り合い、心を分かち合った少年ふたりと少女ひとり。

3人が17年ぶりに再会したことによって、止まっていた時計は再び動き始め、悲劇が悲劇を生む連鎖反応に陥っていく。

幼児虐待の描写がすさまじい。目を覆いたくなるほどである。そんな子どもの頃のトラウマを、3人はひきずりながら生きている。

だが、「まったく救いのない小説」かというと僕はそうは感じなかった。3人は最後に、それぞれの方法で、過去との決別をおこなう。決してハッピーエンドなんかではない。しかし、全体において非常に暗い、真っ暗闇な小説だからこそ、そこに浮かんだ非常にかすかな希望の光も読み取ることができる。

この小説で描かれている虐待の構図はこうだ。

親は子どもに対して無償の愛は与えない。あくまでも「条件つきの愛」しか与えない。それは親のエゴのせいだったり、親自身が逆に子どもから「愛されたい」と思う気持ちの反映だったりする。

子どもが親の要求に応えないとき、親は子どもを虐待する。子どもは親を責めると同時に、親の要求に応えられない自分をも責める。これがトラウマとなって子どもの内面に焼きつけられ、性格やその後の生き方まで決定づけてしまう。そして時には、自分が大人になったとき、自分がやられてきた虐待を自らの子どもに対してぶつけてしまうこともある。

僕は「虐待」と呼べるほどの仕打ちは受けたことはないが、ある種の疎外感の中で育った。問題児でもあった。だから登場人物たちの気持ちは部分的にはわかる。

だが精神科医の斉藤環香山リカが主張しているように、自分の現状のすべてをトラウマのせいにしてしまっていいのか、という疑問を僕も感じる。

僕が子どもだったとき、親も子どもだった。いまの僕よりも若かった。そう思うと自然と許す気にもなれるし、お互いに「大人」になっていくにつれて自然に「和解」することもできた。

「無償の愛」というのも非常に難しい問題である。まず、親自身も不完全な人間である。また、「良いことをすれば褒め」「悪いことをすれば叱る」というのはある意味条件つきの愛であるが、別の言い方をすればこれはしつけである(善悪の基準が親側にゆだねられているのが問題ではあるが)。

もしも親の「無償の愛」の中で育ったならば、大人になったら自立できない・自己中心的な人間になってしまうかもしれない。「無償の愛」を与えつつもしつけができれば一番いいが、そんなことは可能だろうか。

いずれにせよ、僕たちは親の影響を受けて育った。そしてそれに縛られながらも、それに支えられたり、バネにしたり、逃れようとしたり、逆に暗い過去として背負いながら生きていく。それは誰でも同じだと思う。

ともかくも、この小説を単なるトラウマ話として読んだら、重要な部分を見落としてしまう気がする。

幼児虐待やトラウマ話を話の中軸にすえながら、「人間はいかにいきるべきか」を描き切った小説である。

読み終えたとき、なんだか僕は、自分の身代わりに登場人物の3人が「いけにえ」になってくれたような、そんな不思議な気分になった。
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2009年10月19日

幸福論(アラン)



これは大槻ケンヂもネタにしていた話だが、かつてホットドッグプレスなる男性雑誌があり、ハードボイルド作家の北方謙三が読者の人生相談コーナーを持っていた。

しかしその回答がすごかった。

女性にモテないと悩んでいる童貞青年に対しては、

「まずソープに行け!」

小説が書けないと悩んでいる読者に対しては、

「とにかく何百枚も何千枚も書き散らせ!」

どんな相談に対してもこんな具合なのである。考えるよりまず行動ありき。とにかく行動すれば悩みは消える、という論理。

アランの『幸福論』についても同じにおいを感じた。

彼曰く、悩みや不安なんてものは自分で作り出したものだ。「苦しい」「悲しい」と思うからますます苦しく悲しくなり、無意識のうちにその考えに固執し、悪循環に陥る。そんなことよりも笑いなさい。運動しなさい。そうすれば憂鬱なんてふっとぶから……云々。

死や未来に対する不安も同様。いつ来るともしれない死についてあれこれ思い悩むのは愚かなことだ。死なんて大した問題じゃない。自分が考えているひまもなく、それは一瞬でやってきて駆け抜けていくものにすぎない。

また彼は躁うつ病患者についても書いている。ある躁うつ病患者がいて、人生に絶望してみたり、逆に躁になって世界は美しいと思ってみたりする。だがこの患者の血液を調べてみると、躁うつのパターンと赤血球の増減とには関係があることがわかった。

それ見ろ、とアランは得意げに言う。躁うつ病は心じゃなくて身体が作り出したものだ、身体のサイクルに自分でいろいろ理由をつけて悩んだりするのは無意味なことなのだ、と。

アランにしろ北方謙三にしろ、「悩むひまがあったら行動しろ!」という論理に対して、僕はふたつの意見を持っている。

まずひとつは、「そんな無茶な」ということだ。

つらいときは何をしたってつらい。ウツな人間をピクニックにつれていったところでなんの解決にもならない。むしろ悪化するかもしれない。ひきこもりを強引に外に連れ出したところで、すぐにまたひきこもり生活に戻るだけである。

うつ病者に対して一般にやってはいけないとされていることを、アランも北方謙三も無神経におこなっている。

つまり、「無理にはげます」「強引に連れ出す」などなど。

アランのノーテンキさには、僕は一種のいきどおりすら感じる。

だがしかし、とも思う。

「考えるより行動」。これは状況によっては、たしかに一理あるのである。

先日僕は「心の静止摩擦係数」について書いたが、ダメだ、今日は何もやる気がしない、外にも行けない。そう思っていても、やってみると意外とすんなりできたりすることはある。

これも以前に書いたかもしれないが、「哲学的に悩むことは不可能だ」というのが僕の考えである。哲学はあくまでも物事を考察する手法なのであって、哲学自体がユーウツさを持っているわけではない。ただ、自分のモヤモヤした気持ちを解明するために哲学というツールを使っているうち、いつしか手段と目的は逆転。哲学的問題について自分は悩んでいると思い込むにいたる(もっとも、哲学的問題自体は重要な意味があるものではあるが)。

自分の苦悩を他人と比べることはできないが、うつ病だとしてもたぶん症状的には(この「症状的には」というのが実はやっかいだったりするのだが)僕は「軽度」のうつ病なのだろう。

もちろん、体中に不具合が生じて本当に寝たきりになってしまうような「重度」のうつ病も存在する。

しかし僕は思うことがある。うつ病は実は現代社会が作り出した病なんじゃなかろうかと。

ちゃんと調べたわけじゃないが、昔はうつ病はもっと少なかったんじゃないか。何かショッキングな出来事があって「寝込む」ことはあっても、そんなに長引くことはなかったような気がする。

あくまでも僕の考えだが、うつ病が増えた原因は、まず医者が簡単に「うつ」の診断を下すようになったこと。もうひとつは、社会生活が昔と比べて「ひま」になったにもかかわらず、依然としてなんらかの行動に対する制約があること

「悩むより行動しろ!」とまでは言わないが、行動したいのに行動できない、かと言って、ひまで他に何もすることがない。それゆえにユーウツになったりして悩みの淵に落ちていくのかもしれない。
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2009年10月13日

心が雨漏りする日には(中島らも)



連休というのはどうも苦手である。休み自体はうれしいのだが、調子が悪くなる。うつになるのである。睡眠パターンが崩れるからかもしれない。

しかし果たして自分は本当に躁うつ病なんだろうか、いまだに確信が持てないところがある。うつ病じゃなくて単なる悩み症(神経症)なんじゃないだろうか、とか。憂鬱だから悩むのか、悩んでいるから憂鬱なのか、区別がつかない。それに自分のユーウツをネタ話みたいにして面白おかしく人に話すこともあるので、「うつを楽しんでる」と揶揄されることもある。まあこれは僕の芸人気質がそうさせるのであって、つらい体験であっても「おいしい」と思ってしまうことがある。調子がいいときに限るが。

しかし、ひどいときは憂鬱以外にもうつ病的な症状(離人症、聴覚過敏症、会話性幻聴)があり、過去に躁エピソードもあるので、医者の言うとおり「典型的な躁うつ病」なんだろう。まあ病名はなんだっていい。

うつ状態のときは、たとえるならば心の静止摩擦係数が増大している「もうダメだ、家から一歩も外に行けない」と思っていても、思い切って出てしまえばどうってことなかったりする(外に出てもやっぱりダメなときもあるが)。そんなわけで近所でやっていた古本市へでかけた。そこで買ったのが、中島らものこの本である。

本を開くと「ありがとう」と書かれた手づくりのしおりがはさんであった。また、ユナイテッド航空のハワイのパンフレットの切れ端もはさんである。

想像するに、この本の持ち主はうつ病になった友人に本を貸し、「ありがとう」のしおり付きで返してもらい、そのままハワイに旅立ったのではないか。これだから古本は面白い。

さて、この『心が雨漏りする日には』、中島らもの躁うつ病体験記である。

ちょっとした自伝としても読めるが、とにかくハチャメチャな生活ぶりである。彼の場合、アルコール依存症とドラッグ中毒もからんでいる。うつ病になったときの精神状態や自殺未遂の話など、具体的に書かれているが、悲壮感はない。意図的に触れていないのかもしれないが。いたって前向きに自分の病気を捉えている。

彼のうつ対処法は、とにかく仕事をすることだった。考えたり立ち止まったりする余裕がないように仕事をすきまなく入れ、うつが入りこむ余地をなくすのである。

僕も似たようなところがある(僕の主治医いわく、こういう患者は70年代頃に多かった、けっこう古いタイプのうつ病者らしい)。しかし中島らもの場合、酒が入らないと仕事ができない。よってアル中になる。悪循環もはなはだしい。

よくこんな状態で、あれだけの量の本や脚本を書いたりできたもんだ。驚くばかりだ。あとは、こんならもさんに連れ添った奥さんの気丈さ(というか、のん気さ)にも驚く。

2002年の本である。つまりこれを書いた2年後の2004年、彼は酔って階段から落ち、帰らぬ人となった。

同じく大阪という土地で飲み歩いている身、いまだに飲み屋で生前の中島らもの話を耳にすることがある。

もしも生きていたら、どこかのバーでばったり会っていたかもしれない。会ってみたかったと思うし、話してみたかったとも思う。でも知り合いになるとたいへんですな、この人は。まあ「天才」という称号がふさわしい人だと思う。
posted by にあごのすけ at 22:30| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月12日

ウィトゲンシュタイン入門(永井均)



ついに登場! 哲学の巨匠ウィトゲンシュタイン!

……と息巻いているのは僕くらいかもしれないが、そんなことはさておき。

常々思うのだが、果たして日本人に哲学(具体的にいうと西洋哲学)は必要か? そもそも日本人は哲学できるのか?

僕なりに定義しておくと、哲学とは、論理的に(つまり理屈で)考えて、「この世とは何か?」を探求する方法である。

だから、哲学が「万学の祖」と言われるとおり、あらゆる学問の中で哲学的探求がおこなわれている。数学も物理学も、哲学から派生した学問である。

だが、そういう特殊なジャンルで研究しているわけではない一般庶民に哲学が必要か、というと疑問がある。

欧米の場合は事情が異なる。西洋哲学は文字通り、西洋で生まれたものであるわけで、欧米の言語や文法に深く根ざしている。

欧米の言語は、主語と述語がはっきりしていて、時制も明確である。だから論理的な思考が組みやすい。極端な話、何気ない日常会話がそのまま哲学的議論になっていることもありうる。

でも日本語はちがう。

主語も述語も時制もあいまい。論理的思考をするのに向いていない。

だから日本人同士で議論をするとすぐに話が脱線する。

「それは屁理屈だ!」

僕がよく言われる言葉であるが、日本人は「非常識な考え=屁理屈」と思っているフシがある。実は非常識な考えでもスジが通っている場合はあるし、逆に常識的な考えでもスジが通っていないこともある。そのへんを判別するのが日本人は苦手である。

で結局、議論しても最後はうやむやになるか、「まあまあ考え方は人それぞれだから」で終わる。和をもって尊しとなす。そのくせ、自分が正しいと感じたことは根拠が破綻しているのにも気づかず正しいと言い張るからタチが悪い。

だから、ちょっと哲学書でも読んでみようかな、と思っている人、悪いことは言わないからやめときなさい。

哲学的素養がない人が哲学をやっても、自分をちょっと賢く見せるためのツールくらいにしかならんから。哲学的素養のある人間なら、そもそも哲学書を読む前からひとりで哲学を始めている。

さて。我らが日本人のことをケチョンケチョンに言っているように見えるかもしれないが、実はそうではない。実は持ち上げているのである。それはいまから話する。

ウィトゲンシュタインを読むにあたっても哲学の素養が必要である。

たとえばこんなことを真剣に考えたことのある人。

「自分はどこから来たのか?死んだらどうなるのか?」
「神様はいるのかいないのか?」
「自分にはなぜ意識がある?なぜここにいる?」
「この世界は本当に存在するのか?自分がつくった幻なんじゃないのか?」


ただ考えただけではだめで、自分自身で試行錯誤して答えを求めようとしている人でなければならない。

そんな人にとってウィトゲンシュタインは、目からウロコの哲学者になるだろう。

なぜなら彼は、ありとあらゆる哲学的問題の答えをひとりで出してしまった哲学者だから。

具体的に言うと、「哲学なんて無意味だ!」ということを哲学的に証明してしまった哲学者。ウィトゲンシュタインの登場で、2500年の歴史を持つ西洋哲学は終わりを迎えてしまったのである(もちろんそう思っていない学者もたくさんいるが)。

そして彼がたどりついた境地は、日本人の感覚(あるいは中国や日本の禅思想)に非常に近いものだった。

だから哲学の素養がない、まして日本人とくれば、ウィトゲンシュタインはまったくもって理解不能であることもある。他の哲学者なら、入門書を読んで最低「わかったようなわからんような…」くらいに理解することはできても、ウィトゲンシュタインともなるとわかったような気になることすらできない。

「何あたりまえなこと言ってんの?」

ウィトゲンシュタインを学んでも、そう言ってポカンとする人が多いのではなかろうか。実際僕はそういう人間にたくさん会った。

これまで「哲学の素養」と偉そうに言ってきたが、これも表現を変える必要がある。

ウィトゲンシュタインは、哲学する人間を、壷にはまって出られないハエにたとえている。

言ってみりゃ哲学とは、脳という回路の、無限ループに陥るバグなのである。哲学とは「病」なのである。

意味がないとわかっていながらえんえんと哲学的に考えずにはいられないという点でまさにその通り。

僕もまたそのひとりである。
posted by にあごのすけ at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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