2008年07月31日

太宰治・滑稽小説集



二十歳の頃、ニヒルを気取ろうとして太宰治を何冊か読んでみたが、良さがちっともわからなかった。理解できなかった。

でもいまならわかる。太宰治の小説はおもしろい。「良い」というのではなく、文字通り「面白い」。可笑しいのである。

太宰というと一般には、表情に憂いをたたえ、苦悩して自殺した作家、という暗いイメージがあるようである。

でも僕にはしっくりこない。僕にとって太宰は、自虐ネタを売りにしているお笑い芸人のように映る。

このイメージはあながち的外れではないように思う。太宰は短編を中心に数多くの小説を残したが、意外と笑えるものが多い。あの『人間失格』だって、僕は「自虐ギャグ小説」として読んだ。そういう視点で読むことによって、初めて「おもしろい」と感じることができた。

太宰のユーモアのセンスは秀逸である。まさに天才的である。実際、お茶目な人だったのだろう。

では、なぜそんなユーモアあふれる人間が何度も自殺未遂をしたあげくに本当に死を選んでしまったのか。

なんとなくわかる気もする。でもうまく説明できない。

「可笑しさ」の影にはどことなく「悲しさ」の影がつきまとう、と言ってみたところで説明にはなっていない。

『人間失格』の中で主人公は、他人の心が理解できず、その恐怖を隠すために道化を演じ続けてきた、と書いている。でもこれがそのまま太宰にあてはまるかというと、そうでもないような気がする。

人生や世界の前では、人間は明確な答えを出すことができない。真理に手を伸ばしたとたん、言葉は空回りし始める。この「空回り」こそがユーモアの源泉なのか・・・・・・などと哲学的言語学的に考えてみたりもするが、ともかくいまの僕はまだ結論を出し切れずにいる。

さて、今回ご紹介する本は、太宰治の短編小説のうち、特にユーモアあふれるものを選び出して編纂したものである。

この本に収録されている「畜犬談」「男女同権」が特におすすめである。
何度読んでも飽きない。何度読んでも笑いがこみ上げてくる。

でも。これは僕の個人的意見ですが。

「あの太宰にもこんなお茶目な一面があったんだ」という風に読んではいけない。

実はお茶目な人間ほど、案外あっさり自殺してしまったりするモンなんです。
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2008年07月30日

サイン



この映画に対する世間の評価は決して高くない。いや、むしろ駄作扱いである。でも僕はこの映画が好きなのである。なんというか、僕の哲学的探究心をくすぐるような、ざわざわとした興奮をおぼえるのである。こんな映画にはなかなか出会えない。

この映画が本当に描きたかったテーマを誰も理解できていない!

そう叫びたくなるのである。

僕はこの映画を、あの『マトリックス』の対極にある作品ととらえる。

マトリックスの構図はこうだ。

「社会にしっくりなじめない」→「ホントの自分じゃないみたい」→「やっぱり全部嘘だったんだ!本当の(もっとすばらしい)自分は別にあったんだ!」

ヴァーチャルリアリティをうまく取り入れたところは斬新だが、構図としては古典的なヒーローもの&サクセスストーリーである。

しかし『サイン』はそのまったく逆を行く。

メル・ギブソン扮する元牧師のまわりに、不思議な出来事が立て続けに起こる。ミステリーサークルができたり、宇宙人が現れたり。夢みたいな出来事ばかり。

しかしこうして起こる「夢みたい」な出来事たち、どれもこれもウサン臭いのである。

「映像やストーリーがウサン臭くてリアリティがない!」そう怒っている評者が多いが、それはこの映画の趣旨を完全に読み違えている。監督はあえて意図的にこうした出来事を「ウサン臭く」映像化したとしか僕には思えないのである。

たとえば現実にいま、目の前にUFOが現れたとしよう。それを見てどう思うだろうか? 

「リアルだ!」とは感じないだろう。「夢みたい」「何コレ?」「うそでしょ」。それが正直な反応だろう。

つまり、現実に起こる不思議な出来事は、どれもすべて「夢みたい」であり、「ウサン臭い」ものなのである。それこそがリアルな不思議さなのである。

つまりどんな不可思議な事件も、それが起こったとたん、日常という手垢で汚されていく。人間はしょせん世界を自分の許容範囲内の思考で、「日常」という視点からしかとらえることができないし、それに対して「日常的」な解決策しか成し得ない。そして実際、それで事足りる。

たとえば大阪のおばちゃんが道で宇宙人にバッタリ出会ったらどう言うだろう?

「いやー何あの人? 顔を緑色に塗りたくって。挙動不審やしいややわ〜、ケーサツに電話したほうがいいんとちがう?」

かくして、どんな超常現象も人間の前ではどこまでも「日常」に丸め込まれてしまう。そして日常的な解決を探ろうとする。そしてそれで済んでしまう。自分の許容範囲の外の物事など正しく認識できるはずもなく、結局は「ウサン臭い」ものとして理解されておしまいなのだ(大阪のおばちゃんには失礼ですが)。

人間の想像を超えた出来事なんて起こりえない。

何が起ころうともそれは人間の想像力を超えるはずはない、しょせん人間の解釈できる範囲内の出来事に矮小化されてしまう。それが監督の意図だと思う。

この点、20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインの思想に通じるものがある。

言語を超える出来事は当然言葉で語り得ない。語ろうとしたとたん、我々の日常的な「言語ゲーム」の中にとりこまれてしまう。語りえないことに対しては「(サインを)示す」ことしかできず、その前で人は無言に祈ることしかできないのだ。

「神」や「大いなる存在」と呼ばれるものがいるとすれば、それはこの日常世界にはいない。事物を超えた、言葉で説明しつくせない、そのはるか果てに存在している。

斬新、かつ先見的な映画。それゆえに実はかなりこわい映画である。
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逆説のニヒリズム



人間に存在意義なんかない。

この宇宙や地球はなんらかの偶然でたまたま生まれ、人類も進化の過程で偶然に誕生したにすぎない。

そしてこの自分はいつかは死に、人類もいつかは滅び、地球も宇宙もいつかは無へと還ってゆく。

意味もなく生まれ、意味もなく生き、意味もなく死ぬ。

それが人生のすべてだ。ならば僕はいったいなんのためにこれから生きていけばいいのだ?

――20歳の頃に僕が苦しめられていた問題だ。

この問題の重要さを、誰に話しても理解してくれなかった。

ある人はキョトンとして僕を見つめるだけで問題の趣旨すら理解してくれなかった。またある人は「そうだよ、だから何?」と平然と返してきた。

彼とて、この問題の重大さをよくわかっていないように僕には思われた。

人生が無意味ってことはつまり、ごはんを食べることも、好きな娘とデートすることも、カラオケに行くことも、テストのためにがんばって勉強することも、喜ぶことも悲しむことも、何もかもが無意味ってことなのだ。

「人生は無意味」。この意味を心底痛感しているのなら、なぜ平然と生きていけるのだ?

僕はひょっとしたら気が狂っているのかもしれない。妄想じみた思い込みにとらわれてしまっているのかもしれない。でもしかし・・・・・・。

と、もがき苦しんでいたときに手にしたのがこの本だ。

そして安心した。納得した。僕がおかしいわけじゃなくて、この問題が哲学では真剣に議論されている「ニヒリズム(虚無主義)」というものであることがわかったからだ。

僕が初めて読んだ哲学の本も実はこれが最初である。哲学なんて人生訓を語り合うだけの無駄な学問だと思っていた自分を恥じた。

いちおう「哲学」の本だが、非常に読みやすい。人生はなぜ無意味なのかを、筋道だてて説明してくれる。

そして、「人生が無意味ならどうすればいい?」という、生き方のパターンを、過去の人物や文学作品の例をとって説明してくれている。

「人生は無意味」。口には出さずとも、この問題にとり憑かれている人は実はけっこういると思っている。そんな人に読んでもらいたい一冊。

最後に。

人生は無意味か?という問題にする僕自身の答えだが

かなり長くなるので、おいおい書いていきたいと思っている。

だが、自分の人間観にもそれはかなり影響を及ぼしているように思う。

このブログのサブタイトルにも書いてあるとおり。


「すべての人間は「無」のもとに平等である。」
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2008年07月29日

聖母マリアを撃て!

何年か前の夏祭り。

ある射的屋の前で立ち止まる。

陶器製の聖母マリア像が何十個もならんでいる。

マリア像を撃つなんてなんて不謹慎な!

でも僕はそれが急にほしくなった。僕はクリスチャンではない。でも聖母マリア! 大いなる母の象徴! 男にとっての女の理想イメージ!

僕は500円払ってコルク銃をかまえた。どんどん当たる、僕の腕がいいのか、マリア像どんどん倒れる。

撃ち終わり得意顔で手を差し出すと店のおっさん無表情で、

「はい、3体しか倒れなかったからコレね」

マリア像ではなく、うしろから陶器でできたヒゲのない「なんちゃってドラえもん人形」を僕の手のひらにポンとおいた。

捨てるに捨てられず、いまだに部屋に飾ってある。
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2008年07月28日

人間臨終図巻(1)(2)(3)



僕はこの本の豪華版を、古本屋でけっこうな金を出して買ったのだが、いまは文庫本で手に入るらしい。

古今東西の著名人の死に様を、死去年齢順に記録した本。

哲学者ハイデガーは、人間は自らの死を思うことによって初めて人間になるのだとかなんとか、そんなことを言った。

たしかに、人間にとって共通のゴールがあるとすればそれは「死」以外にない。「誕生」という共通のスタートもあるのだが、それはすでにすぎてしまったことだしおぼえてもいない。

結局人々は自分の根本にある「死」を見つめながら生きる宿命にある。

「すべての人生は「死」の前では負け戦である」

これはブログのサブタイトルにも書いている僕の信条である。

人生の勝者と敗者、「勝ち組」「負け組」、それはこの短い人生の間に一時だけ成立する分類であって、死んでしまえばみな同じである。

死後の世界があるかは僕は知らない。しかし死ぬことによってすべては少なくともいったんはゼロ、チャラになる。良いことも悪いこともすべて。

結局人生は「死」の直前の悪あがき、負けるとわかってたたかう戦にすぎない。

この本を紐解くとき、僕は決まって自分のいまの年齢の項をひらく。僕と同じ歳の人間がいったいどのように生き、死んでいったかを見る。

そして、もし仮にいま僕が死んだらどのような死に様をさらすのかを想像し、比較してみる。

不思議といやな気分にはならない。

さきほど、「死後の世界があるかは知らない」と僕は書いた。

でもこの本を読むとき、自分と「タメ」の友人たちがあっちの世界で大勢待っていてくれるのではないか。そんな妙な安堵感が沸いてくる。
posted by にあごのすけ at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月27日

精神科のくすりを語ろう―患者からみた官能的評価ハンドブック

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精神科のくすりを語ろう―患者からみた官能的評価ハンドブック
熊木哲夫/日本評論社


子どもの頃からさまざまな精神症状にふりまわされ生きてきた。でも精神科というものに通いだしたのは2年前からである。へんな言い方だが、長年、精神症状と共に生きてきたので、ある意味慣れっこになっていた自分がいる。

しかし精神科というところがどういう場所か、ずっと興味はあったし、第一うつがひどくてどうしようもなかったので精神科のドアをたたいた。それが2年前。

それからいくつかのクリニックを移った。そして驚いた。

向精神薬に対する共通見解というものが、精神科医の間でまったく存在しないに等しいのである。

あるクリニックが処方した薬を別の医者に見せて、「こんな危険な薬飲むなんて!」と、けんもほろろに怒られたこともあった(僕に怒るなんてお門違いもいいところだが)。

僕は現在、抗うつ剤「パキシル」をやめようとしていて、その断薬症状に苦しんでいるのだが、いま通っている医者は、「パキシルがやめられない? 断薬症状? 私が知るかぎりでは聞いたことありませんねえ・・・・・・」と首をかしげるばかりである。

精神科医という存在は、「科学者」というよりも、むしろ自らの経験と勘に頼ってくすりを処方する「漢方医」に近い。

さて、本題に移ろう。

「先生の言うとおりにおくすり飲んで〜」と最初は思っていたのだが、先述のとおり、医者によって言うことはバラバラ。薬の添付文書を読んでも、「効能:うつ病・うつ状態」と判で押したようなことしか書いていない。

非常に歯がゆい。
そこでこの本の登場である。

著者である熊木徹夫氏は精神科医で、自らのウェブサイトで、服用体験者から薬を飲んだ感想を募っている。それを1冊にまとめたのがこの本である。

たとえば同じ抗不安薬でも、効果も利き方も微妙にちがう。そして「どう利いているか」を感じているのはあくまでも患者の主観である。

科学というのはやっかいなところがあって、さまざまな実験結果や統計結果から「客観的に」薬の有効性を判断しようとする。しかし「客観的」であるがゆえに、飲む側の「主観」がどこまでも抜け落ちていってしまう。その点で、患者の主観的な感じ方を収集したというこの本は意義があると思う。

向精神薬を飲んでいる人、この本を読んで初めて「そうそう」と腑に落ちる人も多いと思う。

ひとつ気になる点は、個々の患者の感想に、著者である熊木氏がいちいち反応しているところ。

たとえばある患者が「向精神薬××を飲んだら下痢がなおった」と発言する。それを受けて熊木氏は「××が下痢を治す効用があったとは新しい発見だ」といちいち真に受けすぎているのである。

下痢が治ったというのは思い込みかもしれない。あるいは薬を飲むことによって生活が改善されたことによる二次的な結果かもしれない。あるいは同時に飲んでいる別の薬のせいかもしれない。

そこを突き詰めていくのが科学なのであるが、熊木氏はそういう姿勢を放棄してしまっている。あるいは彼は確信犯的にそうやっているのか? この本のテーマからして、そうかもしれないとも思う。

とにかく、現在向精神薬を飲んでいる人にはおすすめの本。なんの参考にもならないかもしれない。でも、「ああ、みんなたいへんなんだな」と、妙に孤独感が癒される本である
posted by にあごのすけ at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月26日

ブロークン・フラワーズ

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ブロークン・フラワーズ
監督:ジム・ジャームッシュ
出演:ビル・マーレイ
05年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作

金持ちだけれど孤独な壮年男のもとに、ある日ピンクの便箋に書かれた手紙が届く。「あなたと別れて20年、あなたの息子はもうすぐ19歳になります」。そして主人公は、自分の息子をさがす旅に出る。過去につきあった女たちのもとを順番に尋ねていくのだ。

僕にとっては(というか男という生物にとっては)身につまされる話である。ともかく、あとは匂わせぶりなシーンがえんえんと続く。おっ、この女こそそうなのか!?と思わせておいて実はちがう。おっ、この少年こそ息子!?と思いきや何も起こらない。旅先で新しく出会った女とロマンスが始まるかと思いきや、やっぱり何も起こらない。

どこまで行ってもオチはない。ストーリーもない。しかしよくよく考えてみれば、実際の人生なんてそんなものだ。一貫したストーリーなどあるはずもなく、無関係な出来事がバラバラに起こってはすぎ去っていく。人間失格の葉蔵ではないけれど、「ただ、いっさいは過ぎていきます」。それが人生である。

そう思って見るとき、この映画は単なる「お話」の域を飛び出し、ほとんど肉迫的に見る側にせまってくる。

思えば「ストーリー」と呼ばれるものたちの、なんと胡散臭いことか。成り上がり社長が自慢げに語る自らのサクセスストーリー、「この映画は実話に基づいています」とわざわざ断わってから始まる感動映画、どれも胡散臭い。現実を「ストーリー」に仕立てた段階で抜け落ちていく事柄は無数にあるはずで、そうしたほんの些細な哀しみ、取るに足らない喜び、実はそこにこそ、人間、そして生きることのの愛しさがあるように思う。

ストーリー性の意義を否定するつもりはないけれど、時々はこういう映画を見て、ストーリーというレールから脱線して人生を眺めてみるのもいい。
posted by にあごのすけ at 22:12| Comment(0) | TrackBack(2) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サナギの夢

うたた寝がひどい。最近特に激しい。「眠い」と感じるまもなく、ストンとあっちの世界に行ってしまう。

かろうじて意識はあるので、厳密には眠っているわけではない。しかし夢うつつである。朦朧状態である。病的である(いや、おそらく実際になんらかの病気だろう)。

具合が悪いことに、会社にいるとコレが頻発する。イカンと前後不覚で立ち上がり、パーティションに正面衝突したり足もとの書類をけちらしたりするので、迷惑極まりない。何のおとがめもないのが不思議である。きっと変人どころか、「怪人」「奇人」あつかいで恐れられているのではあるまいか。

パソコンに向かっているうち、思考がグニャリとねじれてくる。かたづけるべき仕事は山積み、でもそれがなんだか珍妙な禅問答みたいに思えてくる。そして僕は幻覚を見る。パソコンの横に置いてあるプリンタが、巨大な伊勢エビに変形する瞬間を僕は見た。

消え入りそうな意識で考える、いま僕が見ているこの世界。僕はあるいは現実世界の背後に隠れたなんらかの「真理」を見ているのではなかろうか。

いや、それもバカな話だ。「事実」ではないにしろ、僕は何らかの「現実」を見ているはずである。白昼夢や幻覚、それは少なからずリアリティを伴って感じられるからそう言えるのであって。リアリティのない幻覚ならそもそも認識すらむずかしい。「無意識」を意識できないのと同様。

言葉で説明できないモノは当然説明できない。逆にこうも言える、「すべては言葉で説明できる」。科学は科学の領域においてすべてを科学的に説明できる。キリスト教はキリスト教の領域においてすべてをキリスト教的に説明できる。あたりまえの話。

でも僕は、説明できるはずもない「世界のしっぽ」、つまり真理とやらを掴もうと手を伸ばす。無駄とわかっていながら。

夢の中ではサルが言葉を話し、馬が深海にもぐり、僕は空を飛ぶ。でもそれは理解できる世界に含まれる。「事実」ではないにしろ、現実にありえたかもしれない世界だ。

僕が言う「世界のしっぽ」、それは夢と現実のはざまで一瞬だけ垣間見えることがある。

布団にもぐりこむ、意識が遠のいていく、そのとき僕は世界が分解(溶解)されていくのを感じることがある。枕は僕の頭になり、足は地面に根をはやす。1+1=無限大であり、悪魔は神であり、人間はドのシャープであり、テレビは十字軍である。

世界は混沌とし混ざり合い、僕は思う、世界の正体いまこそ垣間見た。「世界のしっぽ」を掴んだぞ。

だがその瞬間、それはとたんに再融合する。夢。それは現実とは違う世界、でもどこまでも理解可能な世界。

昆虫はサナギの中で、透明なトロトロの液体になっているらしい。羽化するときに液体が、成虫の形に再融合するというのだ。

覚醒時の現実世界でもなく、夢でも幻覚でもない。

僕が見たい世界を「サナギの夢」と呼ぼう。

そして今日も僕は仕事に行く。これでも会社のWEB担当、ライバル業者のホームページをチェックしてみる。

HTML、css、Javascript、php。サイトのソースを見ているうち、また例の夢うつつ状態に僕ははまり込んでいく。そして僕は世界の秘密のひとつを解き明かしたと思い込む。

そうか!
ウェブサイトは、製作者の心身をまるごとコピーしたものなのだ!

タグにheadやbody、そしてフッタがあるように。HTMLソースが製作者の身体を反映しているのだ! そしてその身体を性格づけているスタイルシートは、製作者の心を映しているのだ!

僕はすべてを理解した! もはやソースを見ただけで製作者を100%正確に思い描くことができる、男か女か、身長は何センチか、体重は、視力は、口癖は、好きな映画は、きのうの晩ごはんは何か、すべてはWEBのソースの中に書き込まれているのだ! まるで遺伝子のように。

「おひさしぶりです」

声をかけられ、僕は我にかえる。見ると別の事務所にいる同僚だ。

「どうしたんですか、目が赤いですよ」

そう聞かれ、5秒、6秒、考えをめぐらす。しかし結局こう答えざるを得ない。

「いや・・・・・・眠かったもんで」

さっきまで見ていた僕の世界、伝えられなくて残念だ。
でももしも、

「世界のしっぽを掴もうとしてたんです」

そんなこと言おうモンなら。
posted by にあごのすけ at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月25日

奇妙な生物

会社帰り。人ごみ。雑踏。
ふと目がとまる、母親と娘。

「これあんたに似合うんちゃう、小さすぎる?」

僕は歩き続ける。駅へと走る女子高生。

「はよせなまにあわへんでー!」

さらに歩き続ける。男ふたり連れ。

「このまえのあれなー、正直どう思った?」

僕の横をすり抜けていく。駅員と乗客。

「この切符まちがえて買うてしもてんけど」

駅前で警備員がスピーカー。

「現在宝くじ販売中です!」

僕はだんだん不思議、いや不安になってくる。
言葉、言葉、言葉があふれかえる。

何この生物?

僕は思う。

何このヘンな生物?? 

言葉なるものをあやつり意思疎通を図る、いや、この生物の営みのほとんどは言葉がなければ成り立たない。

何だこのヘンな生物は?!

考え始めるとなんだかだんだん気色悪くなってくる。

しかし自分もそうやって言葉で考えているのだった。
posted by にあごのすけ at 05:14| Comment(1) | TrackBack(0) | もの思う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このブログの趣旨

このブログは、以下の条件のいずれかにあてはまる方には、なんらかの共感をもって読んでいただけるものと信じています。

■自分の「故郷」がどこかよくわからない。
■哲学・文学・物理科学・考古学・生物学などに興味がある。
■人間とは何か、世界とは何かといった疑問に苛まれている。
■何もかもが無意味ではないかと感じることがある。
■なんらかの精神疾患であるという診断を受けたことがある。
■何かを「表現」せざるをえない人間である。
■自分は求道者であると感じている。


そう、僕はこんな人間です。
これまで少なからず違和感を感じながら生きてきました。
ないとわかっていながら「答え」を追い求めて、貪るように生きてきました。

でも僕はいまだに、人生やもろもろの「答え」がわからない。
何もかもわからない。
せいぜい、そこへ向かって「考え続ける」僕の思考の過程を記録することしかできない。

それがこのブログです。
posted by にあごのすけ at 05:04| Comment(0) | このブログの趣旨 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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