2008年08月30日

4コマ哲学教室



非常によくできた本、と感心。

全編4コママンガからなる。人生の意味を求めて旅に出た青年「浩」と、途中で出会った豚「ブタ公」との問答を描く。

テーマはただひとつ。

「生きる意味とは何か!?」

「浩」はついに生きる意味を理解したと思い、「ブタ公」に得意げに説明するのだが、ことごとく否定されてしまうのである。

たとえばこんな具合に(以下同書より引用)。


なぁ、ブタ公、俺さ、ついに分かったんだ!自分の生きる意味が
ブタ公:なに?
:俺はさ、本当の自分を見つけるために生きてるんだよ!
ブタ公:本当の自分なんてものはないよ。自分がイケてないことの理由を、今の自分が本当の自分じゃないからなんてところに求めること自体がすでにイケてないんだよ。そんなイケてない今の自分こそが本当の自分なんだよ
:ぐおおおお〜っ!!(悶絶して倒れる)
ブタ公:パンもらうよ


世間でよく言われている、人々が信じがちな「生きる意味」をほぼ網羅している。そしてすべて容赦なく否定していく。

この本には哲学者の名前も哲学用語も、ひとつも出てこない。基本はギャグマンガとして読める。でもちまたにあふれる、哲学史をなぞっただけの「哲学入門」を読むよりはよっぽど自分の血肉になるし、考えさせられる。

では、すべてを否定しつくしたあとに何が残るのか? 結局のところ人生は無意味なのか?

それは読んでからのお楽しみ。
posted by にあごのすけ at 18:06| Comment(1) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月29日

どうせ死んでしまう・・・・・・私は哲学病



こんなにも熱くて真剣な哲学者というのはなかなかいない。

いわゆる「熱い」のではない、まるで氷のように熱いのである。ものすごく冷たいものに触れたときに思わず「熱い!」と感じてしまうあの感覚。それに近いものをこの中島義道という人は持っている。

この本のテーマは、文字通り「どうせ死んでしまうのになぜ生きなければならないのか?」ということだ。

人間は、僕は、早かれ遅かれ死んでしまう。死というゴールは決まっていて、決して逃れることはできない。いつかは消え、自分が存在していた痕跡さえもいつかは消えるならば、この人生はむなしい。喜びも悲しみもすべてむなしい。無意味だ。

なぜ生きなければならない? 結局生きていく必要なんかないのだ。

こうした問題について、いわば仕事として研究している哲学者はおおぜいいる。しかしこの著者のすごいところ(そして信用できるところ)は、彼自身本気でそう考えている点だ。

著者は何度も自殺を考えた。妻とも離婚した。いちおう教授職は持っているが、生活は半ばひきこもり、半ばフーテンの状態である。彼はそれを恥じることなく赤裸々に告白する。

そして、本当に憎むべき存在は、社会の中でのほほんと生きているフツーの善人どもだと主張する。

自殺を考えてしまう僕らは決して弱いわけでもなく、間違っているわけでもない。僕らは論理的にまっとうなのである。

シェイクスピアいわく、「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」。まさにそのとおり、この問題と向き合っている人間こそが正気なのである。そしてそんな正気である僕らを追い詰めているのは、「命はたいせつだ」「生きてたらいいことがあるから」、善人面してそんな借り物のセリフをあびせかけてくる常識人どもに他ならない。

これは僕自身、非常に痛感する。

20歳の頃、僕はひきこもった。毎日自殺することばかりを考えていた。

「どうして学校にこない?」「ちゃんと勉強しなさい」。親や「友人」たちは、そんな心無い言葉を容赦なく僕に浴びせかけた。そして僕は、ぐうたらでやる気のない、弱い人間だとレッテルを貼られた。

だが、ボロアパートに閉じこもりながら、ある夜「待てよ」と思った。

連中は「自分は生きるに値するか」なんて真剣に考えたこともないのだろう。それどころか、学校に行くことに意味があるかどうかすら考えたことがないに違いない。まるで生ける屍だ。

それに比べて僕はどうだ。毎日生きる意味と向き合いながら、自殺の誘惑と戦いながら、それでも何とか一日一日を乗り切っている。

ルサンチマンと言いたければ言うがいい、でも本当に弱いのは、何も考えず流されて生きている彼らのほうではないのか? そうだ、生死のふちをつなわたりしながらも、それでも生きている僕こそが、真に「強い人間」なのだ。

「生きることは無意味だ」、そう吐き捨てつつも、著者はひとつの結論を出している。

著者のもとに悩める学生がときおりやってくる。

「どうせ死ぬのに、なぜいま死んではいけないか?」

著者はすぐに返事ができない。なぜならそれは非常にもっともな疑問だからだ。

だが著者は、本書の中でこうつぶやく。もうあの世へ旅立ってしまったかもしれない彼らに向かって。

「きみがいま死んでしまうと、僕は悲しい。だから、君は死んではいけないのだ・・・・・・」
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2008年08月28日

酒の肴

今年の秋は早すぎる。

まだ8月だというのに。急にすずしくなってしまった。僕の好きな蝉の鳴き声も聞こえなくなった。蝉は死んだ。毎日曇天模様、入道雲もどこかへ消えた。

秋と同時に僕の「うつ」のシーズンが始まる。

いまだに納得できていない、僕は本当に「そううつ病」なのかと。僕は哲学的に悩み始める、悩むからゆううつになるのか、ゆううつだから悩むのか。

僕は前者であってほしいな。でないと、古今東西の無数の哲学者たち、作家たち、芸術家たちの苦悩がすべて「うつ病のせい」になってしまうから。

「問題」と「気分」とはそもそも別のもののはずである。気分が良かろうと悪かろうと、問題は残る。

僕は自分の居場所がないと感じる。会社だろうと家だろうと。街の片隅だろうと。理由はわかっている。僕は僕のいない場所に行きたいのだ。でも僕はどこまでもついてくる。

仕事が終わる。でも僕の心はずっと重たい。まるで脳みそに釣り糸でおもりを吊るされているみたいだ。それも大物狙いの沖釣りで使う六角シンカーみたいなやつだ。

僕は助けを求めるみたいにして立ち飲みに入る。質素なつくりの昔ながらの立ち飲み。

いらっしゃい。店主が威勢よく言う。でもきっと僕のことは覚えていない。

僕は雲海のロックをたのんだ。ずらりと並んだ一品料理の中から適当に選んだ。壁をみつめてひとりチビチビと飲んだ。

そこへ50前後のおっさんが入ってきた。鼻ひげを生やしている。僕の隣についた。

「おーひさしぶりやね」

店主が言うと、男は少しかすれた声で、

「うん、しばらく広島に行っとってん」
「広島? 何しに」
「そのまえにビールちょうだい」


男はコップに注いだビールを一気に飲み、

「コレやコレ」

 首筋にある傷を自慢げに見せた。

「ずっと大阪の病院に行ってたやろ。薬がなくなったゆーから広島まで行って見てもろてん。そしたらコレ、癌やねんて」
「うわああ」


店主がわざとらしく嫌そうな顔をした。

「それでいきなり手術や。いきなりここ、ガッと切ってな。でも広島まで行ってよかったわ、でなかったらいまだに癌見つかってない」
「治療は続けてんのか」
「今日でおしまい。今日医者に行ったら言いよった。治療は今日でおしまい」


死ぬのは怖くなかったんですか。僕は思わず口をはさみそうになった。だがすでに話は終わっていた。癌の話はおわり、男はどうでもいい世間話を続けて機嫌よく飲んだ。

僕はある老人のことを思い出した。

******

以前、別の店で飲んでいたら、そこに人のよさそうな老人が入ってきた。

「明日手術やねん。胃がんの手術」

老人は楽しそうに言った。本当に、遠足の日を待つ子どものような笑顔だった。

「それでな、献体の申込書書いてん。一度くらいは人様の役に立とうと思ってな。弟を説得して無理やり同意欄にハンコ押させたった」

老人はウイスキーをかみ締めるように飲んだあと、

「それじゃあな。生きてたらまた来るわ」

老人は二度と店に来なかった。

******

僕の目の前には、一品料理がずらりと並んでいる。

「○○ちょうだーい」

注文の声、店主は慣れた手つきで皿を取り、客に回す。空いたスペースには別の一品料理が加えられる。だから台の上は常に料理でいっぱいだ。

あるいはそんなものなのかもしれない。

どんなに深刻な話でも、立ち飲み酒場ではひとつの「話のネタ」「酒の肴」になってしまう。誰も深刻になることもなく、酒場の楽しげな雰囲気は決して途切れることはない。

あるいはそんなものかもしれない。

生も死も、出会いも分かれも、老いも病も、悲しみも苦しみも、しょせん酒の肴みたいなもんだ。

そう思うとちょっとはかなくもあり、でもわずかに気が楽になる。

あるいは雲海が回ってきたせいか。
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2008年08月27日

カラマーゾフの兄弟(全3巻)



言わずと知れた「名作」。僕が読んだ新潮文庫版の帯にはこう書いてあった。

「東大教師が新入生にすすめる100冊1位」

東大の先生が薦めたからと言って読むものではない。自分が読みたかったら読めばいいのだ。そんなことを意固地に思いながら、結局買ってしまった。

ドストエフスキーは何度かチャレンジしたが、ほとんど途中で放棄している。

ひとつ目の理由は、名前の呼び方が多すぎる。「アレクセイ」という人物が次の瞬間「アリョーシャ」になったり、「ドミートリー」が「ミーチャ」になったりする。混乱してイライラして終了。

ふたつ目の理由は、なかなか本題に入らない。たとえばこんな具合に。

A:「おおA君!」
B:「どうしたんですかBさん」
A:「どうしたもこうしたもないよA君!僕はずっと君を待っていたんだ、この場所に立ってね。するとどうだろう、君が向こうから歩いてくるではないか!これぞ神のおぼしめしというものだ、そうだ、これは運命なんだよ!この場所で、ああ、僕はいま君にこの話をしたくてうずうずしているんだ、この場所でこうして君と話をする、これが神の意思でなくてなんだろう!」


と、こんな具合でえんえんと続く・・・・・・。

しかし今回はなぜか苦もなく読み通せた。僕も「大人」になったのか。

しかし読み終えた感想は、「文学の最高傑作」という前評判とはほど遠いものだった。「うーん」と首を傾げてしまった。たしかに面白かったのだが。

僕はこういうことがよくある。以前に書いた「人間失格」もそうだったし、世間で「名作」と言われているものを読んでもピンとこないことが多い。

僕の感受性が鈍いからか? これでも物書きだと言うのに。

いや、おそらく僕自身がすでにドストエフスキー的であり、太宰治的だからかもしれない(これは「自慢」ではなく「蔑み」のつもりで書いている)。

あらすじを簡単に説明するとこうだ。

強欲で女好きな父親フョードル。そのもとに、3人の息子たちがひさしぶりに集まることで物語はスタートする。

粗野で熱血漢の長男ドミートリー。ニヒルな無心論者である次男イワン。修道僧の見習いである三男アレクセイ。カラマーゾフの兄弟である(正確にはもうひとり兄弟の疑惑がある人物がいるが)。

性格も思想もちがう三兄弟がさまざまな哲学的・宗教的テーマについて語り合い議論し、その間にさまざまな出来事がおこり、父親と長男ドーミトリーは女の取り合いで大ゲンカになる。

そしてついには、父親が何者かに殺されるという事件が起こる。このあたりから物語は急にサスペンスタッチになってくる。

くりひろげられる哲学的議論の中に、こんなものがある。

「この世にもし神がいないのであれば、何をやっても自由であり、許されるのではないか?」

この問いは僕にとってはなんの目新しさもない。なぜならこれは、僕自身が長年かかえてきたテーマだからだ。

僕はアメリカで生まれ、11歳までアメリカで育った。おまけに母はクリスチャンだった。

だから神様は存在するものと、物心ついたときから自然と思っていた。

「ひょっとしたら神はいないんじゃないか?」

そう初めて頭をよぎったときの衝撃はいまでも忘れられない。中学生の頃だ。

創造主としての神が存在するのなら、人間が何をすべきで何をすべきでないかというルール(モラル)も存在する。でももしも神がいないのなら? 我々は飼い主なき捨て犬である。見捨てられた水槽に生きる魚である。そこで何が起ころうが誰が死のうが、絶対的には誰も知ったこっちゃない。

この衝撃が、僕が以前に書いた「人生が無意味かもしれないのに、どうして人々は平然と生きていけるのだ?」という疑問につながっていくわけである。

「カラマーゾフの兄弟」を読んだときの僕の感想もこのへんと関係があると思う。日本人にとってこの本は、未知の問題提起がたくさんつまった本であり、衝撃を受けるか理解できないかのふたつにひとつだ。しかし僕にとってのこの本は、僕自身にあまりにも近すぎるのである。

ドストエフスキーは、実はこの本を「前編」としてとらえていた。「後編」も書くつもりだったらしいが、「前編」を書いた直後になくなっている。

ドストエフスキーは前編を、言わば「問題提起編」として書いたのではなかろうか。ならば後編は当然、「解答編」になるはずだった。

僕は、さまざまな宗教的・哲学的問題に対して、ドストエフスキーがどのような解答を出したかを読みたかった。

ひとつ気になっていることがある。小説の中の、父親殺しの犯人についてだが。

犯人は、父と女の取り合いをしていた長男ドーミトリーか。

あるいは、家の使用人スメルジャコフか(スメルジャコフは、「神がいないなら何をやってもいい」と主張する次男イワンを尊敬していた)。

だが僕は第3の犯人を想定する。

父を殺したのは三男アレクセイではなかろうか?

彼の(狂信と化した)信仰心が父を殺させたのである。アレクセイは、物静かで信仰心の厚い青年として描かれている。ところが、彼が敬愛するゾシマ長老が亡くなったある夜、彼が錯乱して(ある意味で、目が覚めて)咆哮するシーンがある。

その3日後、アレクセイは僧院を後にした。

犯人=アレクセイであることを示唆しているように読めるのだが、また例によって深読みのしすぎか?
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2008年08月25日

回転寿司再び

人身事故が発生しました、ただいま現場検証中です、上下線とも全面ストップしております、人だかり、詰め寄る乗客、半べそ顔で説明する駅員。肉片でも落ちてるんじゃないか、僕は足元を気にしながら高架をくぐり、回転寿司再び。

寿司を食いながら考える、人の命は地球より重い、誰かが言った、でもそんなことはあるはずもない。

さっきすり抜けた人ごみ、顔、顔、顔、いらだち、怒り、あせり、誰もが迷惑顔、でも「悲しみ」の表情などひとつもなかった。事故、病死、殺人、自殺、戦争、1日何百万回も地球が消滅しているというのに、僕はトロサーモンが回ってこないことばかり気に病んでいる。そしてやっぱり今日も食べ過ぎてしまう。

店を出る、改札前、さっきまでの人だかり見る影もなく、人の流れ、スムーズな流れ、ネクタイしめた鉄火巻き、携帯片手にウニ、イクラ、アナゴ、疲れきったハマチ、トロサーモン。

ベルトコンベアをゆく。
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2008年08月24日

童話

サボテン君は砂漠を歩いていました。

水を求めて旅をしていたのです。

見渡す限りの砂、照りつける太陽、サボテン君は何日も何日も歩き続けました。砂丘をいくつも越え、30日目にようやく町が見えました。

サボテン君はさっそく雑貨屋に入りました。

「水をください」
「おっとあぶない」

店番をしていた楠木氏は飛びのきました。

「そんなにトゲだらけじゃ下手に金もうけとれねえや。他の客にも迷惑だ。金をそこに置いてとっとと出てってくれ」

サボテン君は楠木氏の対応にあっけにとられ、しょんぼりとして店を出ました。トボトボと歩いていると背後から声をかける人がいました。

「よお同郷人」

ふりかえるとそれはアロエ氏でした。

「こんな都会でサボテンとはめずらしいな」
「水を求めてやってきたんです」
「そうかい、たいそうなこった。でもそんな風体じゃみんなに嫌われるぜ」

サボテン君はアロエ氏につれられてエステサロンに行きました。ムダ毛よろしくムダトゲの処理をしてもらうためです。トゲを抜くのは激痛をともないました。でもアロエ君の「トゲは都会には似合わない」という言葉を信じてじっとガマンしました。

ツルツルになったサボテン君の肩にアロエ氏は手を回しました。

「さあ、さっぱりしたところでどこに行きたい? 水を求めてここにやってきたんだっけな」

ふたりはバーに行きました。サボテン君はこれでもかというほど水を飲みました。彼にとって水は貴重品でした。

ツルツルでかわいいと夜の街の女の子ら、スミレちゃんやお菊ちゃんやアヤメちゃんからもかわいがられました。気をよくしたサボテン君は夜な夜なバーへとくり出すようになり、最初は水、でも次第にエスカレートしてウイスキーにブランデー、ジン、酒におぼれるようになりました。

ある日、サボテン君はトゲを抜いたところがどす黒く変色していることに気がつきました。それはどんどん広がり、サボテン君は日に日に体調を崩していきました。水を飲みすぎたのがよくなかったのでしょう、根っこも腐りはじめ、ついにはベッドから一歩も起き上がれなくなってしまいました。

サボテン君は病の床でふるさとをなつかしく思い出しました。僕の居場所はやっぱり砂漠なんだ、太陽の照りつける乾いた砂漠で孤独に生きていくのが僕にはお似合いだったんだ。

サボテン君は真っ白い花を咲かせました。サボテン君は涙で目をうるませながら、見舞いにきたアロエ氏に言いました。

「僕が死んだら僕の種を砂漠にまいてください」
「わかった、オレにまかせろ。約束する」
「たのみます」

サボテン君は息をひきとりました。アロエ氏はサボテン君のことなどすぐに忘れてしまいました。

サボテン君は都会のはずれの人気のない墓地に埋葬されました。

やがて墓地の片隅に、誰にも知られることなく、サボテンの芽が芽生えました。
ラベル:童話 サボテン
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2008年08月23日

神科薬物治療を語ろう―精神科医からみた官能的評価



以前に紹介した精神科のくすりを語ろう―患者からみた官能的評価ハンドブックの姉妹本。

前の本は、患者の立場から見たくすりの利き方を語っているのに対し、この本では数人の精神科医がくすりを語る。対話形式で「あーでもないこーでもない」と、治療経験から得た感想を語っている。

おそらくあまり科学的ではない。精神科医個人の主観的感想も含まれているように思う。しかし、向精神薬に対する医者の本音を読んでいるようで、おもしろくもあり、参考になる。

たとえば具体的に、ある薬に対してはこんなことが書かれていた。要約。

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【ランドセン(抗てんかん薬だが、抗不安薬としても活用)】

普通の抗不安薬が効かない人にこれを処方すると効く場合がある。感受性がデリケートで、たとえば文章を書く仕事をしている人に効く場合がある。

【パキシル(抗うつ剤)】

なかなかやめられない人が多い。減らすことはできても、最後の一粒がやめられない。患者のものの考え方自体に問題がある場合が多い。考え方が変わるにつれ、パキシルを飲まずにすむようになった例がある。

【リーマス(抗躁剤・気分安定薬)】

リーマス(リチウム)は一種の毒であり、飲んだ患者はちょっと感性的に鈍くなったように見えることがある。芸術家にこれを飲ませると、その芸術性が損なわれる場合がある。たとえば画家がこれを飲むと、絵は書けるけれど自分でそれが満足できなくなる。その画家はリーマスをやめたとたん、再び自分の満足のゆく作品が書けるようになった。

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上記3つの薬は、実は僕が現在飲んでいる薬である。

まず、ランドセンでいくと、僕の場合抗不安薬がなかなか効かなかったのは確かである。いくつかの薬を転々としたあと、ようやくこの薬に落ち着いた(現在は同じ成分のリボトリール)。

「文章を書く仕事」というのも、まあ僕は作家志望なので一応あたっている。

パキシルは僕自身、なかなかやめられない。当初1日50mg飲んでいたのを、数ヶ月かけて10mgにまで減らした。医者のすすめで、パキシルからトレドミンに切り替えようということになったのである。

しかしパキシル、10mgから減らすことがなかなかできない。15mgから10mgに減らすときもたいへんだった。たった5mgの差で、全身のしびれやふらつき、不安などの断薬症状が出てくるのである。

本にあるとおり、考え方を根本的に変えないといけないのかもしれない。これは「脳の病気」だと思おうとしても、やはりどこか「思考回路の病気」なのだろう。それは自分でもわかっている。でも僕は果たして変われるのだろうか。いまの思考を捨てられるのだろうか。

リーマスについては、他の本やサイトにも似たようなことが書いていた。

つまり感性が鈍るというのである。これは僕にとっては大ゴトである。

作家志望、音楽活動もやるし、本業はWEBデザイナー。芸術的センスがなくなると非常に困るのである。

例によって先生に相談した。

「先生、リーマスを飲むと才能が損なわれるって聞いたので、飲むのが不安です」
「だいじょうぶ、そんなことはありませんよ」
「本当ですか」
「躁状態の人は、自分に才能があると思い込んでいるだけです。リーマスを飲むと躁状態が改善されて思い込みが消えるわけです」


・・・・・・そう言われてしまうと元も子もない。もっとも、「思い込み」も重要な才能のひとつのようにも思うのだが。

とりあえず、現在のところ、自分の感性が鈍ったという自覚はないので、このまま飲み続けることにしよう。
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2008年08月21日

仮釈放



はっきり言って非常につまらん小説である。

ある男が、殺人と放火の罪で無期懲役の罪を言い渡される。

数十年たって男は仮釈放される。月2回、保護司と面談をする以外は、毎日淡々と養鶏場で働く日々。

時々ふと思い出す。

どうしてオレはあんな罪を犯してしまったんだ?

ただそれだけの話。

つまらないけれども苦にもならないので、ダラダラと読んでいた。しかし油断していた僕が甘かった。

つまらないくせに、読んでいてこんなに動悸が激しくなった小説は初めてだ。

吉村昭と言えば、どちらかといえば歴史小説で有名な作家である。そちらのほうは実はあまり読んだことはない。ただ僕が読んだかぎりで言えることは、吉村昭は「静」と「動」を使い分ける名手だということだ。

たとえるならば、まるで合気道の達人のようである。

ノロノロしててひ弱そうなやつだな。そう思ってふと気がつけば、すでに急所を突かれている。完敗。そんな作家である。

『仮釈放』がまさにそうだった。

ひまつぶしにいい小説だと思って、映画館の待合室で僕はそれを読んでいた。そして不意に急所を突かれた。

僕は動けなくなった。文章から目を離せなくなった。

結局、待合室で一気に読んでしまった。映画も見ずにである。

これ以上よけいな説明はやめておこう。

とにかく読んで、この「静」と「動」の躍動感を体感してほしい。

でも一言、小説の中身の感想を言っておくと、

犯罪の動機ってのはたいがい言葉で説明できるようなものではないのである。だからコワイのである。誰もが犯罪者になる可能性を秘めている。
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2008年08月20日

夢供養(「空蝉」収録)



告白しておくが、実はさだまさし好きである。

ちなみに自分を「さだまさしファン」とは呼びたくない。「ファン」とは英語の「fanatic」の略で、「狂信者」という意味なのである。僕はさだまさしを狂信しているわけではないので、「さだまさしずき」でいい。ま、どうでもいい話か。

さだまさしは意見をはっきりと持った人である。テレビでも本でも、自分の意見をはっきりと主張する。

実は僕の考えとはかなりぶつかることろがある。ただ、さだまさしは僕と同じスタンスに立っているように感じる。同じ立ち位置から物事を考えているように思える。

僕の個人的経験上、同じ意見の人よりも同じスタンスの人間のほうが仲良くなれる。一度でいいから、ファンとしてではなく、一個人としてさだまさしと会って意見を交わしてみたい。

さて、今回取り上げたアルバム『夢供養』、1979年作だから30年近く前の作品である。名曲ぞろいであるが、その中の『空蝉』という曲がずっと気になっている。

ちなみに、このブログのタイトルにもなっている「空蝉」という言葉はこの曲で初めて知った。

以下引用。


空蝉

詩・曲 さだまさし


名も知らぬ駅の待合室で
僕の前には年老いた夫婦
足元に力無く寝そべった
仔犬だけを現世の道連れに
小さな肩寄せ合って
古新聞からおむすび
灰の中の埋火おこすように
頼りない互いのぬくもり抱いて

昔ずっと昔熱い恋があって
守り通したふたり

いくつもの物語を過ごして
生きて来た今日迄歩いて来た
二人はやがて来るはずの汽車を
息を凝らしじっと待ちつづけている
都会へ行った息子がもう
迎えに来るはずだから
けれど急行が駆け抜けたあと
すまなそうに駅員がこう告げる

もう汽車は来ません
とりあえず今日は来ません
今日の予定は終わりました

もう汽車は来ません
とりあえず今日は来ません
今日の予定は終わりました



聞いた話によると、さだまさしは当初この曲をあまり気に入っていなかったらしい。グレープ時代にはすでに完成していたが、その後約5年間公表しなかった。

理由はよくわからない。たしかに、ストーリー性を重視するさだまさしの曲において、この曲だけなんだか突き放したような、唐突な感じで終わっている。異色ではある。

普通に聞けば、「大事に育てたはずの息子に約束をすっぽかされた哀しい老夫婦の話」である。

だがあるとき、まったく別の解釈がわいてきた。まったくの深読み、独自解釈であるが、それで妙にしっくり来た。

息子は実はもう死んでいるのではなかろうか。

それもとっくの昔、子どもの頃に。

老夫婦はもちろんそれをわかっている。わかっているつもりでいる。

でも老いた夫婦はだんだん思い出の中に生きるようになる。そして、まるで息子が生きているかのような錯覚にとらわれている。

すると、息子が汽車に乗って迎えにくるのを待っているとは、必然的に死が迎えにくるのを待っているということになる。

しかし駅員が告げる。


「もう汽車は来ません
とりあえず今日は来ません
今日の予定は終わりました」


何もかもやりつくした、もう何もかも手遅れになったあとの灰色の人生。つまり空蝉、蝉の抜け殻。しかし最後の救いである「死」はなかなか訪れない・・・・・・。

この曲を聴くとき、少なくとも僕はそういう意味にとって聴いている。

すると、これまで以上に深みのある(そして凄みのある)、哀しい歌に聴こえてくるのである。

posted by にあごのすけ at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月19日

回転寿司

裏町の回転寿司、カピカピの鉛色した握りが流れるのを見て考える。いつだってこうだ、うまいかもしれない、かすかな期待に抗えず手を伸ばしては裏切られ、僕はいつだって食べ過ぎてしまうのだ。店を出たときにあるのはただ吐き気、まずい寿司を喰ったという感慨すらなく、ただ本能的生理的な吐き気。

そして僕の生活はつづく、陽は昇りまた沈み、一発、二発、三発、これでもかこれでもか、力石の重いパンチみたいに止むことを知らず、そして僕は自分が寿司屋のベルトコンベアの上を流れる幻影をみる。

酸っぱい香り、腐臭、ふやけ切った手、握られ産み落とされ、どこにもたどりつかないベルトの上、グルグルグルグル、いつしか身体は乾き果て、無間地獄から抜け出すことはすなわち死。

「でも人生なんてそんなもんだぜ」

寿司をほおばり、小汚いおっさんがうそぶく、自称パチプロ歴四十年、そんなおっさんが、いかにも言いそうな台詞。
ラベル:回転寿司 人生
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2008年08月18日

コーヒー&シガレッツ



コーヒーを飲み、煙草をふかしながら淡々と流れていく人々の会話を撮っただけの映画。

トム・ウェイツビル・マーレイロベルト・ベニーニなど、ジャームッシュの映画ではおなじみの面々が出てくる。

いくつかの短編からなる。いや、短編集というか「コント集」というべきか。笑えるエピソードもあればそうでないものもある。

あるいは脚本と呼べるものがなかったのか、みなアドリブと思えるような普通の会話をくりひろげる。

まるで実際の喫茶店やバーの一場面を見ているようでもある。

思ったのは、人間って結局、あんまし意味のあることを話してないんだな。

僕の経験だが、原稿に起こすつもりで酒場での会話を録音したことがある。

その会話には僕も加わっていたのだが、あとで聞いて困り果てた。みんな全然意味のないことばかり話している。だいたい会話がかみ合っていない。酒が入っていたせいもあるが、とにかく人間の会話の無意味さを痛感した。

会話が無駄だ、と言っているのではない。会話には意味を伝えるという目的以外に、もっと重要な意義がきっとあるのだろう

映画の話に戻る。やはりみんな、どうでもいいようなことばかり話している。はかない存在である。ただ、テーブルとその上に置かれたコーヒーカップと煙草だけが、不変な存在としてそこにあり続ける

たぶんこれが真実なのかもしれない。

ひとはみんな自分が主人公だと信じて疑わない。

でもそれは実は思い込みで。本当の主役はコーヒーであったり煙草であったり、酒であったり、街であったりする。僕たちはその周囲をただよう影のような存在にすぎないのかもしれない。

そんなことを考えた映画。
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2008年08月17日

グミ・チョコレート・パイン



最近活動を再開した筋肉少女帯・大槻ケンヂの半自伝的小説。

全3巻なのだが、最初の巻を読んだときの感想は、なんというか、「ここまで書いていいの!?」という印象だった。

大槻ケンヂの高校時代がもとになった話なのだが、青臭い性欲がドロドロあふれ出している。劣等感もドロドロである。

大いに共感はするのだが。いくらなんでも僕にはここまでさらけ出せない。いくら「半」自伝的と呼ぼうとも。

彼は羞恥心のない人間なのだろうか。じゃなければ露出狂か(失礼)。

もうひとつ感じたのは、文章力ってあまり関係ないんだな、ということ。

これは第1巻について言えることだが、文章が稚拙である(失礼)。しかし大槻ケンヂの「負」のエネルギーが文字ひとつひとつに満ちあふれていて、それが文章力を充分にカバーしている。

1巻目の「グミ編」が出たのが1993年。最終巻の「パイン編」が出たのが2003年。足かけ10年間にわたって書き続けられた小説である。僕はリアルタイムで読んできた。

3巻目を読んだとき、「あれれ??」と思った。

「負」のエネルギーが消えているのである。文章が格段にうまくなっている代わりに。強引にハッピーエンディングに持っていっている感がある。それも「若者よ、好きなことをしてがんばれよ」という単純なメッセージ性ばかりが目立つ。

ああ。大槻ケンヂも大人になったんだな。少しさびしい気もする。

もっと早くに完結させていれば、おそらく違ったエンディングになっていただろうと思う。いいか悪いかはともかく。

最後に僕自身の10代との比較だが、この本を読んで、「ああ、オレも単純に好きなことやってつきつめればそれでよかったんだな」としみじみと思う。

僕は途中から目先が外界ではなく、完全に内面に向かってしまった。だから2年間ひきこもった。決して後悔はしていないけれど。


最近になって映画化もされた。

http://gumichoco.com/


映画はまだ見ていない。
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2008年08月13日

私の精神症状書

これまで何度かこのブログで、僕がなんらかの精神疾患をもっているということを書いたが、この際明言しておこう。

僕は(現時点で)双極性障害と診断されている。

僕は幼少の頃から、いろいろな「奇妙なこと」、つらい「症状」を経験してきた。

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【1歳】
僕は1歳から記憶がある。それもかなり明晰な記憶であり、昨日のことのように思い出せる。「そんなことはありえない」と医者は言った。でも事実なんだから仕方がない。

【3歳】
3歳まで言葉を話さなかった。しかし先ほど述べたように1歳からの記憶があり、僕は実は周囲の人間の話す言葉をちゃんと理解していた。自分から話す必要性を感じなかったから話さなかっただけである。3歳のときに弟が生まれたので、たぶんそれが原因で発話する必要が出てきたのだろう。

【4歳】
この頃から小学校低学年まで、僕はいろいろな奇妙なものを見た。2階の窓から巨大な目玉がのぞいているのを見たことがあるし、何もないはずの壁にある日突然窓が開いてきて、でもあとで見たら消えていた、なんてこともある。しかしこうした体験はたぶん子どもはみんな経験しているんじゃないかと思う。

【小学校時代】
あまりちゃんと授業を受けた記憶がない。学校ではいつも白昼夢の中で遊んでいた。その中に僕は複雑な社会背景や登場人物を設定し、僕もその中の一員として、白昼夢の中で生活していた。

この頃から、僕は別の遊びもおぼえた。「身体から抜ける」という遊びである。現実に目を向ける、するとだんだん疑問がわいてくる。「これは夢なんじゃないか?」。するとだんだん周囲が消えていって、気がつくと僕は真っ白な世界の中をただよっている。
意識はある。ただ現実が消えるだけである。現実とは別のどこかに僕はいる。しかし、長いことそこにいると、現実世界のことが心配になってくるので、僕は現実に戻る。これを意識的におこなうことができた。ちなみにいまでもできる。医者に話すと「解離性障害?」とのこと。

【7、8歳】
必ずといっていいほど真夜中に起き上がって、泣き叫びながら家中を走り回った。夜驚症。いわゆる夢遊病。自分ではおぼえていない。しかし僕の知らないうちに自分が暴れ回っているらしい、ということが恐ろしかった。恐ろしくて夜眠れなくなった。いまだに夜は眠れない

【8歳〜中学校】
キレる少年だった。カッとなると弟をナイフで切りつけたりした。庭中の木の枝をノコギリで切ってまわった。ダンボール箱があると、カッターナイフでボロボロになるまで切り刻んだ。「おまえはいつか家族全員を殺す」。親父にそう言われた。
学校ではいじめられキャラだった。よくちょっかいを出された。しかしキレやすい性格がここでは幸いした。不良をホウキでボコボコにぶちのめした。背中に氷を入れてきたやつの頭からジュースをぶっかけてやった。いじめはすぐに止まった。

【中学校】
声が聞こえるようになった。耳のうしろあたりから、聞こえるはずのない声が聞こえるのである。それは自分の考えが声になったものであったり(考想化声)、意味不明なつぶやき声だったりした。誰もいないときはよくそれと会話をしていた。考想化声はいまも時々ある。
この頃からオカルトにハマるようになった。一番よくやっていたのはダウジングである。5円玉に糸をつけぶらさげて、いろんなことを当てた。恐るべきことに百発百中あたった。この能力はいまは失われてしまった。

【高校】
これは病気と言えるかどうかわからないが、オカルト趣味が高じて、学内でビラを配り始めた「世界はもうすぐ終わる」という終末思想のビラである。一躍?学校の有名人となったが、成績は下がる一方だった。
この頃から僕の凶暴性は身を潜める。理由はよくわからないが、ある日突然、他人への同情が自然とわいてきたのである。僕はこれまでの自分の残虐行為を悔いた。
オカルト狂いは高校3年の頃にはおさまった。研究熱心さがあだとなって、オカルトの矛盾が見えてしまったのである。一時期、左翼運動の連中と行動を共にしていたが、これもなじめなかった。
高3の夏、僕ははじめて自殺を考えた。毎日夜明け前、橋の上やマンションの最上階に行ってはじっと下を見下ろした。結局実行できなかった。

【浪人時代】
理工学部に入ろうと志す。この世界の謎を、不条理のわけを、人生の意味を解明できるのは科学しかない。そう思ったのである。
しかしあまり勉強せず、ギターばかり弾いていた。この頃、「煙草の火を手に押し付ける」という自傷行為を何度かやった。

【理工学部時代】
2浪してようやく理工学部に入学したが、すぐに失望した。誰も人生の意味なんて研究してなかったのである。
この頃一時期、聴覚と嗅覚が異様に鋭くなる。数十メートル離れた人のジュースのにおいがわかるくらい。これは何らかの初期症状だったのかもしれない。
夏ごろから、自分はハゲる、一目と見られない醜い姿だと思い込み(醜態恐怖)、下宿しているアパートに閉じこもるようになる。そして矛盾するようだが、自分の髪の毛を抜く(抜毛癖)ようになる。一時的に頭髪が薄くなり、再び生えてきたときには髪質がすっかり変わっていた。
ひきこもりから脱出しようと引越ししてみるも、悪化する一方。アパートの一室、雨戸を閉め切り、寝たきりの生活。これが2年間続く。不安、恐怖、絶望感、無力感。さらには、ドアがバタンバタンと音をたてたり、蛍光灯がバチバチと鳴ったりといった幻聴考想化声もひどい。
ものが大きく見えるという大視症もある。天井がどんどん自分に向かって迫ってきて、あげくはおしつぶされてしまうのではないかという幻覚にもがき苦しむ(不思議の国のアリス症候群)
両親が僕を捕まえて精神病院に閉じ込めようとしている、という被害妄想あり。UFOも何度か見た。
思えばこの頃の僕は明らかに、重度のうつ病(あるいは統合失調症)だったように思う。精神科に行こうとも思った。しかし知識に乏しかった僕は、自分は少なくとも狂っていない(と思っていた)わけだし、医者に一笑にふされるか、隔離病棟に閉じ込められるかのいずれかだと思っていた。結局医者にはいかなかった。

【哲学科時代】
地獄の苦しみを味わって2年、ある朝突然、人生の答えが降りてきた。もはやすべてを理解した、僕は悟りの境地に至ったのだ、と思った(躁転)。不思議な感じだった。足は地面と、頭は空とつながっているようで、自分と世界との区別がつかなくなった(変性意識状態)。ひさしぶりに大学に行き、みんなに人生の真理を説いて回った。
宗教団体を設立しようかとも思った。しかしその前に、自分の身に何が起こっているか知りたかった。仏教書を紐解くと、悟りの体験として僕の身に起こったのと同じことが書いてあったので確信を持った。しかしもっと深く探求したかった。
僕は理工学部を中退し、文学部哲学科に編入学した。僕が得た「人生の答え」と同じようなことを考えている哲学者(ウィトゲンシュタイン)がいたので、彼で卒論を書いた。卒業した。
不思議な話だが、「悟り」の経験を経てひきこもりを脱した直後から、対人恐怖・広場恐怖・赤面恐怖がはじまった。それまでは自分以外はバカだと思っていたのである。だからひきこもっていたのである。しかし「悟り」経験をしてからは、人間はみな平等だ、偉いも偉くないもない、ホントの意味での善人も悪人もない、と思うようになった。それで急に他人が怖くなったんだと思う。大学の教室では、いつもドアのすぐ横の席にすわった(教室の奥にいけなかった)。本屋などでレジの人と目を合わせるのも恐怖した。
この恐怖症は徐々におさまった。


【会社員時代】
親父のコネでしかたなく会社勤めをすることになった。しかし意外と働きやすかった。ひとつには、僕がWEBの知識に長けていたことがある(哲学科時代にWEBと出会い、「これで世界が変わる」と衝撃を受けて夢中で勉強していた)。
僕は会社のWEB担当になった。他にWEBにくわしい人間が会社にいないから、仕事はやりやすかった。僕の独断場だった。別の子会社に転属になったり、会社が統廃合したりした現在も一貫してWEB担当である。
入社以来、遅刻の常習犯だった。なんども注意を受けた。しかし小学校以来、朝まで起きている癖があるので直せないのである。やがて誰も何も言わなくなった。
------------------------------

そして現在に至る。

入社以来10年間、何度か躁とうつをくりかえした。何度か死のうとしたが幸い実行しなかった。逆に調子のいいときは会社以外からも仕事をとってきて、副業のほうが本業よりも儲かっている時期もあった。

1年半前、ゆううつがかなりひどくなった。しかし正直なところ、ハイなときとローなときがある自分の性格はよくわかっていたから、慣れっこになっていた部分もある。うつで死にたいと思っても「ああ、またいつものアレね」と妙に冷静な自分がどこかにいるのである。
しかしかなり不安がひどかったので、初めて精神科に行ってみることにした。
診断名は「季節性うつ病」だった。
しかしそこの先生、患者の話をあまり聞かない。2分ほど問診して終わりである。そのくせ薬は増える一方だった。特に抗うつ剤「パキシル」が問題で、飲んでいるときはいいが、飲み忘れでもしたらすさまじい断薬症状が襲ってくる。

今年になって病院を変えた。
そこの先生はのんびりしていて、なんぼでも話してください、という態度だった。そこで上記の僕の遍歴を語った。
ついた病名は「双極性障害」いわゆる躁うつ病である。

しかし正直言って、僕は精神医学をあまり信頼していない。
行動に問題ある人に「行動障害」というあたりまえな病名をつけるような学問である。
それに長年、こうした「症状」と共に生きてきた自分がいる。病気かどうかはあまり関係ない。とにかくこれが僕の人生なのである。病気がなくなってしまうと、自分がただの平凡な人間になってしまいそうでこわいのである。
そう、僕は自分になんらかの才能があると確信している。あるいはこれも「病気」なんだろうか。

「先生、僕の病気、あまり完全になおさないでください」
「えっ」
「首を吊らない程度になおしてください」


すると先生、やさしく笑って、

「それはあなたがいま調子がいいからそう思ってるんでしょう? うつのときならどう思います?」
「・・・・・・何がなんでもこの苦しみを消してほしいと思うでしょうね・・・・・・」
「そうでしょう。・・・・・・ま、わかりました。首を吊らない程度になおしていきましょう」
posted by にあごのすけ at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

脳内現象



最近、NHKの科学番組などでよく見かける茂木健一郎の本である。あの髪の毛モジャモジャのマッドサイエンティスト風の男である(テレビに出すぎていて本業の研究がおろそかになっていないかちょっと不安であるが)。

僕が最初にこの本を読んだときは驚いた。自分の知らないことが書いてあったからではない。

「科学者でもこんなことを考える人がいるのか」

こういう問題はてっきり哲学の領域のもの、科学者なんて見向きもしないものと思っていたからだ。

「こういう問題」とは説明するとこうだ。

意識のハード・プロブレムと呼ばれるものがある。1994年に哲学者デイヴィド・チャーマーズが提唱した。

科学者は、脳の構造や血流量やらを実験的・解剖学的に調べ、「心とは何か」をわかったつもりになっている。研究が進めば、そのうち人間をゼロから作り出せるようになるかもしれない。あるいは、人間と同じように考え行動するロボットができるかもしれない。

だがしかし。そうやってできた生き物に「心」や「意識」があるかはどうやって証明する? 見た目や言動が人間でも、心は持ってないかもしれないではないか(これを「哲学的ゾンビ」と言う)。

つまり、これまでの科学のやりかたでいくら脳を調べてみたところで、そこからどうして「僕」が生じているのかは解明できない。同様に、たとえば触感と脳の関係をいくら研究したところで、岩肌を触ったときのあのザラザラとした感じ(「クオリア」と言う)がどうして生じるのか説明できない。

この大問題に取り組んだのが本書である。彼はこの問題について色々本を書いているが、一番わかりやすくて問題の核心を理解しやすい本のひとつである。

しかしこれは僕の考えであるが。

科学によって「僕」とは、「心」とは何か、永久に解明されないと思う。

理由は簡単だ。科学は客観的方法であるから科学なのである。それに対し、「心」は主観でしか感じることができない。

主観を客観でとらえることはできない。主観的な「心」を科学のまな板の上に乗せたとたん、それは客観的な「ココロ」に姿を変えてしまう。

なにはともあれ、茂木健一郎というこの人、個人的には非常に共感をおぼえる。

彼は表面上は科学者であるが、内面は詩人であり、哲学者である(それは彼のブログなどを見ればわかる)。

科学とは非常に冷たく、味気ない学問である(これは理工学部を中退して哲学科に編入学した僕の経験からも言える)。茂木氏は、この殺伐とした科学の世界に、少しでもいいから温かみを持たせたいのではないか

現代科学はとっくの昔に人間の手をはなれ、あまりにも一人歩きしすぎた。少なくとも僕は思う。
posted by にあごのすけ at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月12日

世紀末の詩



『家なき子』『高校教師』『ひとつ屋根の下』などの企画・脚本を手がけたヒットメーカー、野島伸司が1998年につくったテレビドラマ。

一般には「駄作」という批評が多い。視聴率が伸びなかったからだ。しかし僕はとっては、このドラマこそ彼の最高傑作であると思う。

このドラマは、いわば大人向けのおとぎ話である。

花嫁に逃げられた青年と、教授職を追われた老科学者。自殺をしようとしたまさにそのとき、ふたりは偶然に出会い、物語ははじまる。

ふたりは海辺の小さな町はずれの倉庫にこもり、潜水艦づくりに没頭する。なぜ潜水艦をつくっているのかは最後まで明らかにされない。

そしてふたりの周りで、さまざまな「愛」のストーリーが展開していく。それも恋愛に限らず、親子愛などを含んだ包括的・普遍的な愛である。

基本的には一話完結である。全11話。

さまざまなカタチの「愛」をまのあたりにして、竹之内豊演じる「野亜 亘」と、山崎努演じる「百瀬 夏夫」が、毎回「愛とは何か」を真剣に議論するシーンがある。

愛とは何か。やはりこれは永遠のテーマなのだ。

僕自身、いまだに酒を飲みながらそんな議論を真剣にしていることがある。ドラマの中で、あの山崎努が眉間にシワをよせ、かすれた声でまじめに「愛」を語る。こっけいでもあり渋くもあり、また哀しみも漂う名演である。

しかし先述したようにこれは大人のためのおとぎ話。かなりメルヘンチックで現実離れした物語である(もっとも、「愛」に対する指摘は、残酷なまでに鋭い)。

そのあたり、生理的にダメな人もいるだろう。しかしハマる人にとっては、涙なしでは見られないドラマである。そして一度ハマったが最後、何年たっても尾をひくドラマである。

Amazonのレビューに書いてあったが、これはVHSのみ、まだDVD化されていないらしい。DVD化を僕も切に願う。後世に残すべきドラマ
posted by にあごのすけ at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月11日

孤独の発明



「文学」というものに対しては僕なりの定義がある。

登場人物のキャラクターやストーリーで読ませるのが大衆小説。それに対して、ストーリーよりも言葉が秘めた力やリズムを引き出し、それをカタチにしたものが「文学」。

だから文学小説は実は最初から読まなくとも惹き込まれる。よくできた文学小説は、パッと開いたページ、その瞬間から作家のあやつる言葉の魅力にとりつかれてしまう(大衆文学が文学より劣っているというつもりはまったくない)。

この定義でいくと、ポール・オースターの小説『孤独の発明』はあきらかに文学だろう。

父が死ぬ。主人公は死んだ父を理解しようと思いにふける。そして、父と自分との関係を、自分と息子との関係にだぶらせていく。

ストーリーとしてはそのくらいしかない。

あとは、親子とは何か、家族とは何か、小説を書くとはどういうことか、自問自答が延々とつづられている。

これは一応、オースターの自伝的小説ということらしい。しかし自伝の体をなしているかどうかも怪しい。そもそもオースターは、読み手のことなんか考えていない。ただひたすら、自問自答である

しかしこの問い、問い、問いの連続、そして考察、答えに届きそうで届かない、そして再び問い。

それを言葉で、まるで音楽を奏でるように書かれると、なんだか自分の考えと著者の考えがゴッチャになってくるのである。心が溶け込んでいくような感じがするのである。それがやみつきになるほど心地よいのである。

いつか書くことになると思うが、この自問自答ぶり、写真家・森山大道の『犬の記憶』に近い。また、この小説のもつ言葉のリズム感、それも非常に心地の良い波動は、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』に近い。

この小説、ストーリー性を求める人にはあまり面白くないと思う。しかし言葉そのものの流れ・リズムを堪能したい人はハマるのではないだろうか。

さきほどの「文学」の定義、おもしろい例えを思いついた。

大衆小説は、スケジュールが決められたツアー旅行、すべて事前に仕組まれたオバケ屋敷である。

それに対し、「文学」は端的に「麻薬」である。

結論:「文学はドラッグである」。
posted by にあごのすけ at 06:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月10日

精神病コント

(場面は病院の診察室。白衣を着た医者がデスクに向かっている)

医者:次の方どうぞ。
(男、腹を押さえてドアから入ってくる)
男:うーん……。
医者:どうされましたか。
男:おなかが痛いんです。
医者:おなか。胃腸ですか。
男:たぶんそうですね。
医者:どれくらいの頻度で。
男:月に2,3度、おなかが急にズキズキ痛み出すんです。
医者:いつからですか。
男:もう長年ずっとそうです。
医者:なるほど。……それはまさしく「腹痛病」ですね。
男:えっ、「腹痛病」!?
医者:腹痛と同時に、下痢または便秘をともなうことはありませんか。
男:そのとおりです、おなかが痛いときはいつも下痢するんです!
医者:「腹痛病」の典型的症状ですね。
男:自分がまさか「腹痛病」だったなんて……。なおりますか。
医者:長期にわたって治療する必要がありますが、改善はされます。アドバイスとしては、おなかが痛いときはガマンせずトイレに行けばだいぶんよくなると思いますよ。
男:そうですか……。
医者:これから週1回診察にきてください。がんばってなおしていきましょうね。
男:ありがとうございます。先生それから。
医者:なんでしょう。
男:診断書を書いていただきたいんですけど。
医者:何に使うんですか。
男:おなかが痛くて会社休んだりすると上司がうるさいんです、ハライタくらいで休むなって。「腹痛病」というれっきとした病名がついていれば会社も理解してくれると思うので。
医者:わかりました。処方箋も書いておきますね。
(医者、ペンを走らせる。診断書と、「ビオフェルミン」と書かれた処方箋を男に手渡す)。
医者:ではお大事に。
男:ありがとうございました。

(男、頭を下げ、退場)
posted by にあごのすけ at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | もの思う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス



タイトルからしていかにも怪しげなオカルト本のようだが、れっきとした哲学書である。

ここ数年、僕の心にとりついて離れない、奇妙な予感があった。

「ひょっとしたら僕は死なないんじゃないか??」

酔狂と思うなかれ。「世界」と「僕」とは必ずセットになっている。「世界」はどこまでいっても「僕」が見ている世界に過ぎない。

じゃあ「僕」が死んだらどうなるのだろう。世界は消えるのだろうか。

いや、逆のことも考えられる。

世界が存在するためには「僕」が存在しなければならない。ならば「僕」は永遠に存在し続けるのではなかろうか・・・・・・。

論法は若干ちがうが、これと同じようなことを説いているのがこの本だ。

話はまず、「宇宙のファインチューニング」というところから始まる。

この宇宙はあまりにもよくできすぎている。何かがちょっとでも違ったら人間は(そして僕も)誕生しなかった。まるで神様が意図的につくったみたいだ。

そこで著者は考える。「ひょっとしたら宇宙は無数に存在しているんじゃないか?」。この宇宙しか存在しないならまさに奇跡としか言いようがないが、宇宙が無数に存在していて、そのうちのひとつがたまたま人間が住める環境にあったと考えれば筋が通る。

こんな論法で話はどんどん進み、最後はついに「『僕』は永遠に存在し続ける」という結論に至る。

なぜそんな結論に至ったのかは、読んでもらうしかない。なぜなら僕もまだ完全に理解しきれていないからだ。

簡単な言葉で書かれていて読みやすいが、論法が非常に複雑なのでなかなか頭に入ってこない。しかし僕の心をとらえて離さない本である。

この本で唱えられている説は彼の完全オリジナルではない。しかし哲学界で以前から議論されてきた問題をもとに、オリジナルな結論を導き出している。非常にスリリングな本である。

物理学者は数式だけを使って宇宙の始まりを論じたりできる。

それと同じように、実は言葉で考えるだけで宇宙とは、自我とは何かの核心にせまることもできるのだ。
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2008年08月07日

恋文



世間に広くヒットした曲というのは、実はアーティストの本当の姿を反映していないことが多い。

大衆ウケする曲を作ったからヒットしたのである。逆に、自分の本当の部分が現れた曲は大衆ウケしない。ヒットしない。

しかし有名になった曲のイメージばかりがひとり歩きし、「あの歌手はこんな人だ」と勝手にレッテルを貼られてしまう。

さだまさしもそういうミュージシャンのひとりである。

「精霊流し」「関白宣言」「防人の詩」「案山子」、さだまさしの曲というと決まってこんな曲目が出てくる。しかしどれも70年代〜80年頃までにヒットした曲である。30年も前である。

しかしさだまさしはいまも歌い続けている。毎年ほぼコンスタントにアルバムを出し続け、毎年100回以上のライブをおこなっている。

そして彼は、明らかに進化し続けている。

今回紹介するさだまさしのアルバム『恋文』。2004年の作品。その中でも特に圧巻なのが『遙かなるクリスマス』という曲。

以下に全文引用。

遥かなるクリスマス

詩・曲 さだまさし


メリークリスマス
二人のためのワインとそれから君への贈り物を抱えて駅を出る
外は雪模様気づけばふと見知らぬ誰かが僕にそっと声をかけてくる
振り向けば小さな箱を差し出す助け合いの子供達に僕はポケットを探る
携帯電話で君の弾む声にもうすぐ帰るよと告げた時のこと
ふいに誰かの悲鳴が聞こえた正面のスクリーン激しい爆撃を繰り返すニュース
僕には何も関係ないことだと言い聞かせながら無言でひたすらに歩いた

メリークリスマス
僕達のための平和と世の中の平和とが少しずつずれ始めている
誰もが正義を口にするけど二束三文の正義 十把一絡げの幸せつまり嘘
僕はぬくぬくと君への愛だけで本当は十分なんだけど
本当は気づいている今この時も誰かがどこかで静かに命を奪われている
独裁者が倒されたというのに民衆が傷つけ合う平和とは一体なんだろう
人々はもう気づいている裸の王様に大人達は本当が言えない

メリークリスマス
いつの間にか大人達と子供達は平和な戦場で殺し合うようになってしまった
尤も僕らはやがて自分の子供を戦場に送る契約をしたのだから同じこと
子供の瞳は大人の胸の底を探りながらじわりじわりと壊れてゆく
本当に君を愛している永遠に君が幸せであれと叫ぶ
その隣で自分の幸せばかりを求め続けている卑劣な僕がいる
世界中を幸せにと願う君といえいっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる

メリークリスマス
僕は胸に抱えた小さな君への贈り物について深く深く考えている
僕は君の子供を戦場に送るためにこの贈り物を抱えているのだろうか
本当に君を愛している永遠に君が幸せであれと叫ぶ
本当に本当に君を愛している永遠に永遠に君が幸せであれと叫ぶ

メリークリスマス
凍りつく涙を拭いながら生きてくれ生きてくれ生きてくれと叫ぶ
メリークリスマス
雪の中で雪の中で雪の中で
メリークリスマス
白い白い白い白い雪の中で



2004年の紅白歌合戦で僕は初めてこれを聴いたのだが、歌を聴いて何年ぶりかで鳥肌が立った。震撼した。

いまの時代に、ここまで徹底して反体制的な反戦歌がかつてあっただろうか。いや、反戦歌にすら迎合していない、悲しみも無力感も希望も全部ひっくるめた、とにかくまっすぐな歌である。

特に歌詞の中のこの部分、

世界中を幸せにと願う君と
いえいっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる


ここまではっきりと自分の中にもいる「悪魔」を語ってしまう勇気は僕にはない。

これはもはやフォークなんかじゃない。
明らかにロックである。

蛇足だが、近年のさだまさしの曲は人生を肯定するようなものが多い。しかしポップソングによくある『永遠に君を愛している〜♪』的な、上ばかり見ている前向きさとは種類がちがう。

さだまさしは、一度人生のすべてに絶望した人間であり、人生が無意味であることを認識した人間である。

それについて書くスペースはないので、昔の曲やら自伝やらを参照していただきたいが。

ただ単に「YES」と言うか。
あるいは人生が無意味とわかっていながらそれでも「YES」と言うか。


そこには大きな隔たりがあるのである。

さだまさしが後者の人間であるとわかっているから、僕は彼の歌が聴けるのである。



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2008年08月05日

二十歳の原点



僕の世代でさえすでに知っている人が少なかったこの本、現在の二十歳の人のいったいどれだけが知っているのだろう。

1969年、立命館大学の学生だった高野悦子が、鉄道自殺するまで書き続けていた日記。それを後になって父親が一冊にまとめたのがこの本である。

時代はいまとはちがう。当時は学生運動真っ只中、いまとはちがう時代の空気が文章の背景には流れている。

しかし、彼女の感じている疎外感、絶望感、挫折感、無能感。それはいつの時代でも人間が共通に感じうるものだと思う。

一番救いがないと思うのは、絶望している自分、それを彼女自身がときとして傍観者的に見ているところだ。

絶望しているうちは救いはある。悩んでいるうちはまだ救いはある。

しかしそんな自分を傍観するようになったとき。気分は一時楽になる。それも人間の防御反応のひとつだ。しかし傍観者となってしまったその果てにあるのは、救いのない絶対的な「絶望」である。

近年はメンタルケアなるものが盛んになった。昔と比べると精神科や心療内科に抵抗なく通えるようになった。

医者にかかると人は診断名を与えられる。

「うつ病」

かく言う僕もうつ病だ(正確には双極性障害)。「自殺する人の大半はうつ病にかかっている」なんてことも言われる。

でも、僕が言うのもなんだが、果たしてそれでいいのだろうか。

悩むことは病気なのか?
絶望することは病気なのか?


一概には言えないだろうが、こうした人間のマイナス面もまた、人間の「まっとう」な一面なのではないか。

自殺の原因を「うつ病」の一言で片付けてしまうことで、死んだ人がかかえていた深い心理(真理)をないがしろにしてしまうのではないか、そんな危惧も感じる。

自殺を肯定こそしない。

しかし、悩みぬいた末に死を選ぶことも、また人間のまっとうなありようのひとつだと言うと言いすぎだろうか。
posted by にあごのすけ at 07:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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