2008年09月30日

解夏



さだまさしの短編小説集。小説『精霊流し』に続く2作目である。

前作『精霊流し』は自伝的小説なので書きやすかっただろうと思うが、今回はどうだろう。少し心配していたのだがけっこう心に残る良い作品ばかりだった。短編なので、若干物足りない感じはあったけれど。

表題になっている『解夏』は映画化もされた。

学校の教師をしている主人公は、奇異な症状に悩まされる。口内や下半身の炎症、そして視力の異常。

それはベーチェット病という不治の病だった。この病気は(あくまでも小説によると)、さまざまな症状と共に、だんだん目が見えなくなっていく。

この病気が完治するとき、それは完全に盲目になったとき。完全に見えなくなると同時に他の症状はピタリと治まり、苦痛から開放されるのだ。

なんともやるせない病だ。

主人公は教師をやめ恋人と別れ、故郷の長崎に戻る。

目が見えなくなるまでに、ふるさとの風景をできるかぎりたくさん記憶に焼きつけておこう。主人公を追ってきた恋人とともに、長崎の町を散策する日々が続く。

そんなとき、主人公はあるお寺の僧侶と知り合う。

僧侶は言う。「あなたの病気は修行なのだ」と。目が完全に見えなくなった瞬間に、あなたは失明する恐怖から開放されるのだと。

タイトルの「解夏」とは、仏教の修行が完了するときのことを指す。

主人公の視力は徐々に衰えていくが、日々はおだやかに流れていく。

あるとき、いつもの散策と同じような雰囲気で、お寺に竜舌蘭を見に行くことなる。しかしそのとき、主人公の視力はほぼ完全になくなっていた。

恋人が異常を察する。

「見えない?」
「うん」
「いつから?」
「さっきからだ」


声をふるわせる彼女に向かって、主人公は言う。

「泣くな。僕が開放される瞬間なんだ」

淡々としたストーリーである。しかしなんと壮絶な物語だろう。

だが人生は続いていく。

ひとつの修行を終え、ひとつ自由になるたびごとに、次の修行が、苦しみが、待ちかまえている。

僕はいつまでそれに耐えられるだろう?
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2008年09月29日

Blue Selection



井上陽水のセルフカバーアルバム。自分の曲をジャズアレンジしたもの。

音楽のジャンルとして『メッセージソング』というものがあるが、それは純粋な意味では芸術ではないと思う。

別にすべての音楽が芸術的である必要はない。だが「言葉にできない何か」を表現するのが芸術なのかもしれない。

井上揚水はその点、芸術家だ。「つまりこういう歌なんだよ」と言葉で要約できてしまう歌は芸術ではない。芸術的な歌は「説明できん! とにかく聞いてもらうしかない」。彼の歌は芸術的である。

昔の友人が詩を書いていて、よくこんなことを言っていた。

「人生に意味はないかもしれない。しかし詩は意味を創造するのだ」

何わけのわからんことを言っているのだ。昔はそう思ったが、いまはなんとなく理解できる。

芸術は、哲学とか理屈とはまったくちがうシステムで動いている。

「生きるべきか死ぬべきか!」

そんな僕のガチガチな問いかけに対して、芸術はYESでもNOでもなく、まったく別の方向へと僕をいざなってくれる。

と言いつつ、今回紹介するアルバムは、まだメッセージ性のある曲が多いほうだ。恒例で1曲ご紹介。

ワカンナイ

作詞・作曲 井上陽水


雨にも風にも負けないでね
暑さや寒さに勝ちつづけて
一日、すこしのパンとミルクだけで
カヤブキ屋根まで届く
電波を受けながら暮らせるかい?

南に貧しい子供が居る
東に病気の大人が泣く
今すぐそこまで行って夢を与え
未来の事ならなにも
心配するなと言えそうかい?

君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ

日照りの都会を哀れんでも
流れる涙でうるおしても
誰にもほめられもせず、苦にもされず
まわりの人からいつも
デクノボウと呼ばれても笑えるかい?

君の言葉は誰にもワカンナイ
慎み深い願いもワカンナイ
明日の答えがわかればつまんない
君の時代のことまでワカンナイ

君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ


ごらんのとおり、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のパロディである。昔、哲学者の竹田青嗣がこの曲を絶賛していた。

それはおいておいて、たとえばこの曲の次の歌詞、

「カヤブキ屋根まで届く電波を受けながら暮らせるかい?」

こういうところに僕は井上陽水の芸術性を感じるのである。

一見何を言っているのかわからない言葉。支離滅裂。でも雰囲気は非常に伝わってくる。井上陽水のにおいがプンプンする。こういうのを僕は芸術性と言っているのである。

別の歌で『Tokyo』という歌があり、こんな歌詞ではじまる。

「銀座へ はとバスが走る」

この曲を作った理由として、井上陽水はテレビでこう言っていた。

自分の声と口は「ギ」の音が響く、だから「ギ」で始まる歌を作りたかったのだ、と。

メッセージも思想も哲学もそっちのけ、まずは「音」ありき。

まさに芸術的、井上陽水的だなあと思うのである。
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2008年09月28日

最後の聖戦



いまは活動再開した筋肉少女帯の、活動休止直前のアルバム。

タイトル『最後の聖戦』からして、制作段階ですでに活動休止が決まっていたのだろうか。

以前にも書いたが、大槻ケンヂの作った歌というのは泣けるのである。まるでコミックソングのようであっても泣けるのである。

この感覚、わかってくれる人がどれだけいるか、不安ではあるのだが。

特に泣けるのはこの曲。以下引用↓。

トキハナツ
作詞:大槻ケンヂ
作曲:本城聡章&King-Show


OK!『孤独ですか』
OK!『くやしいですか』
OK!『ありでしょうそれも』
OK!『人生はね』
OK!『バスカービル家の犬だ』
OK!『恐ろしいのが』
OK!『あたりまえなんですよ』
OK!『OKとしましょう』
OK!『犬になれ!』
OK! OK! OK!

犬を飼っています ヨロヨロの犬です
名前は「憂鬱」で 死だけを見つめ

OK! OK! OK! OK!

怒りとか孤独を いやしく喰らっては
闇の夜にお散歩 やっかいものだなー

だがな犬よ お前がいるから僕は生きてく
さあ ガブリとやってくれよ
アイ・アム・ア・トップ・オブ・ブリーダー
トキハナツ この獣
OK! OK! OK! OK!

何度も捨てようと 自転車にのせたが
さみしげな遠ぼえ はたせなかった

だがな犬よ お前がいるから僕も死なない
さあ ガブリとやってくれよ
アイ・アム・ア・トップ・オブ・ブリーダー
トキハナツ この獣

だがなOK! お前は僕の最愛の友さ
「憂鬱」よ お前がいるから負けはしない
さあ 噛みつきに行こうぜ
アイ・アム・ア・トップ・オブ・ブリーダー
トキハナツ トキハナテ
OK! OK! OK! OK!

OK!『孤独ですか』
OK!『くやしいですか』
OK!『ありでしょうそれも』
OK!『人生はね』
OK!『バスカービル家の犬だ』
OK!『恐ろしいのが』
OK!『あたりまえなんですよ』
OK!『OKとしましょう』
OK!『犬になれ!』


この曲はHyperJOYのカラオケにも入っていて、歌ってはみるのだが、なんだか途中涙声になってしまうのである(やっぱり僕はおかしいのだろうか)。

歌詞を読むとわかるが、ここでいう「犬」とは「憂鬱」の象徴だ。ウツであれうつ病であれ。

元ネタは、第二次大戦中のイギリス首相・チャーチルの言葉だろう。

チャーチルはうつ病(一説では躁うつ病)で、自分のウツを「黒い犬」と呼んでいた。

そう言いたい気分は僕にもわかる。僕自身は「寄生虫」と呼んでいるが。

ウツの気分は、「ハッピーな気分」と「つらい気分」のどちらでもない。表向きは元気に見えても、心の底で黒い犬がうなり声をあげているときもある。逆につらいときでも、黒い犬さえ現れなければ案外気楽だったりする。

ウツは第3の感情。表向きの感情とは関係なく暴れ出したりするからタチが悪い。

ちなみに補足しておくと、歌詞中の「バスカービル家の犬」とは、シャーロックホームズの小説に登場する魔の犬のことだ。

このアルバムは他にも名曲ぞろいである。

『221B戦記』もいいねえ。水木一郎・神谷明・宮村優子という豪華キャストとのデュエット&セリフ入り。


『タチムカウ』もいい。これも泣ける曲。

とにかく「ウツ」な人は癒されること間違いなしである。
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2008年09月27日

季節の記憶

春の日は写生会を思い出す。

古ぼけた寺院、砂利の上にすわり画用紙をひろげ、しかし地面は湿り得体のしれない昆虫がひそみ、いっしょに弁当を食べてくれる相手を必死に探していたことを思い出す。

夏の日は宿題を思い出す。

夏休み最後の日、ドリルの山、漢字を何個もくりかえし書かせる無意味な作業、すでに遠い記憶となった夏の日々を思い出し、泣きながら日記帳を書いていたことを思い出す。

秋の日は遠足を思い出す。

高圧的な教師のもと、一列に並ばされ、見たくもない菊人形、僕はひたすら小便をがまんしていたことを思い出す。

冬の日は親父を思い出す。

待ちに待った冬休み、クリスマス、年の瀬、テレビの特番、しかしそのとき親父に突然力まかせに殴られ、なぜ勉強しないのかと1時間も説教されたことを思い出す。

思い出なんかクソ食らえ。
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2008年09月26日

童話の中の聖母マリア

子どもの頃に読んだマンガの中に『世界の不思議物語』とかなんとかというのがあり、こんな話が載っていた。

老いぼれたバイオリン弾き。冬空の下、街角に立ち、指先はふるえかじかみ、それでもバイオリンを奏でる。でも聞こえてくるのは「へたくそ!」という通行人の罵声のみ。

結局老人一銭も稼げず、人気のない教会でうずくまる。

「神様! どうして私はこんなつらいめにあわなければならないのですか」

そこへ祭壇パッと明かりがさし、光の中に現れたのは幼子イエスを抱いた聖母マリア、金でできた靴を脱いで老人にさしだすのだ。

どうして僕の前にマリア様は現れないのか?

僕は母にきいた。するとクリスチャンの母、酔ったような目をして、

「きれいな心を持った人の前には、きっと現れて救ってくださるのよ」

だから僕は祈った。自分の汚れた心を懺悔した。そして実は毎日どんなにつらいかを祈った。何度も何度もお祈りした。

聖母マリアはただの一度も現れなかった。

悲しかった。

そして正直、うらめしく思った。
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2008年09月25日

放熱への証



高校の頃、尾崎豊がきらいだった。

「盗んだバイクで走り出す」「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」。正義漢だった僕はそんな歌詞を断片的に聴いて「なんというふとどきな奴だ!」とひとり憤慨していた。

でも曲をフルで聴いて認識が変わった。

前者の『15の夜』には「自由になれた気がした15の夜」という歌詞が続くし、後者の『卒業』はラストで「仕組まれた自由に誰も気づかずにあがいた日々も終わる」という歌詞が出てくる。

つまり尾崎豊は、そうした反抗がいかに無意味であるか充分に認識していた。そして表面上の反抗のその向こうを見据えていたのである。

彼の作品を、無理やり前期・中期・後期に分けるとするならば、前期は「学校」という場を通して人生を語り、中期では「社会」を通して人生を語っている。

そして後期ではどうなるかというと、むき出しの「人生」そのものに目が向いてくる。

つまり「人生とはなんぞや!?」

禅問答めいてくるのである。

尾崎が新しいアルバムを作っているらしい。そんなうわさが流れてきたまさにその直後、彼の訃報がニュースから流れた。

享年26才。ずっと年上だと思っていたのに、気がつけば彼の年齢をとっくに過ぎてしまった。

死の1ヵ月後に発売された、彼の新しい、そして最後のアルバムを聴いた。

呆然とした。

これはまるで遺書ではないか。

を連想させる歌があまりにも多いのである。

あるいは彼の死は自殺だったんじゃないか。いや、そうでなくとも、自らの死を予感していたんじゃないか。いろいろな想像がわいてくるが、いまとなっては確かめようもない。

そのアルバムの中から1曲引用したい。

闇の告白

作詞作曲:尾崎豊


何ひとつ語れずに うずくまる人々の
命が今日またひとつ 街に奪われた
憎しみの中の愛に 育まれながら
目覚めると やがて人は大人と呼ばれる
微笑みも 戸惑いも意味を失くしてゆく
心の中の言葉など 光さえ奪われる
ただ一人 握りしめた引き金を引く
明日へと 全てを撃ち抜く
ただ一人 答えを撃ち抜く

何ひとつ理由も知らず 悲しむ心への
その哀れみは たやすく消し去られてゆく
暖かなぬくもりに 手を伸ばしてみても
誰一人 心の中知る者などない
ごらんこの涙が滴るのを その意味と訳を
人が一人で 生きられぬための悲しみなのに
疲れの中弾丸をこめ 引きがねを弾く
誰に向け 今日を撃ち抜く
ただ一人 答えを撃ち抜く

血にまみれて 汚れてしまう心
償う術もなく生きる
この世に生をうけた時から 人は誰もが
罪を背負い何時しか やがて銃の引きがねを弾く
いつの日か 自分を撃ち抜く
ただ一人 答えを撃ち抜く
明日へと 全てを撃ち抜く
ただ一人 答えを撃ち抜く


尾崎の死の直後、テレビでコメンテーターのおばちゃんが(彼女の息子が言ったことの引用として)こんなことを言っていたのを思い出す。

「尾崎豊をずっと聴いているような人間はいつまでたっても大人になれない」

これは批判として発言された言葉だが、ある意味的を得ている。

「生きる意味」「人生の答え」、そんな問題を捨て去って、会社のルール、社会のルール、家族のルール、道徳、そんなものたちを盲信することによって人は初めて「大人」として機能しうる。

憎しみの中の愛に 育まれながら
目覚めると やがて人は大人と呼ばれる


親の愛は、見方を変えれば憎しみの裏返しである。

自分がピアノを弾けなかったから子どもをピアノ教室に通わせよう。
学校で苦労しないように塾に通わせよう。
将来食っていけるように良い大学に行かせよう。

自分が世の中に対して感じている恨みつらみを、ひっくりかえして子どもにぶつけているにすぎない。

この世に生をうけた時から 人は誰もが
罪を背負い何時しか やがて銃の引きがねを弾く


こうして人間は生まれた瞬間からゆがめられていく。親の影響、社会の影響、教育、そんなものをたたきこまれているうち、気がつくと人はもはや色眼鏡を通してでしか世の中を見れなくなっていく。

それを尾崎豊は「罪」だと断言する。

なぜか。僕が思うに、なんらかの観念を身につけてしまった人間は、同時に、何が良くて何が悪いかを判断する能力を身につけたことになる。

その身につけた観念がゆがんでいる以上、自分の価値観に適わない他人は「ダメだ」と思いこむ。人は必ず誰かを傷つけざるをえない。そういう宿命を背負っている。

歌詞の中に良く出てくるフレーズ、「答えを撃ち抜く」、これはいったいどういう意味なのか。

文字通り、死ぬしかない、という意味なのか。あるいは「人生の答えを問う」という行為そのものを押し殺して屍のように生きるしかないと言っているのか。僕はいまだに考えている。

尾崎豊の商業的なピークはおそらく10代すでに終わっていただろうと思う。

30代、40代になった尾崎はきっと表舞台からは姿を消し、一部のマニアに受けるだけのB級ミュージシャンになっていたかもしれない。

それでも僕は、自分より年上の尾崎豊を見続けたかった。そして彼がいったいどんな答えを出すのかを見たかった。

それが残念でならない。
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2008年09月24日

理由なき反抗



若くして死んだジェームス・ディーンの映画のひとつ。

タイトルどおり、とにかく理由もなく反抗しまくるのである。

ジェームス・ディーン演じるジムは、飲酒、ケンカ、無謀運転などに明け暮れる不良少年である。理由はない。実は反抗する相手も定まっていない。これは反抗というよりも「あがき」に近い。

ではどんな理由であがいているのかというと、これもはっきりしない。もっとも実際に、十代の頃のやけっぱちな行動など、本人も他人も理由なんてあまり考えないだろう。

「若気の至り」

あとになってそう思い出すだけだ。

しかし、制作者の意図としてこの「理由なき反抗」の理由を示唆するシーンがある。

学校の社会見学でプラネタリウムに行くシーン。スクリーンには宇宙の一生について映し出される。そしてこんなナレーションがつく。

宇宙は誕生し、やがて終わりが来る。宇宙の終わりが来る日には、もちろん人類も滅亡する。いや、とっくに滅亡しているだろう。人間の一生、人類の歴史なんてとてもはかないものだ・・・・・・云々。

主人公ジムの友人プレイトウが最後に、このプラネタリウムに銃を持って立てこもる。

結局プレイトウは警官に撃ち殺され、泣きすがるジム。彼を慰める両親。

映画のイントロとラストにプラネタリウムを持ってくるあたり、プラネタリウムでのナレーションがこの映画のメッセージのようにも思えてくる。

つまり、人生なんてしょせんはかないものだ、何をやっても結局のところ「人生の無意味さ」に対する悪あがきにすぎないのだ、と。

ただひとつ気になることは、警官に撃ち殺されたプレイトウだ。英語書くとPlato、つまりプラトンのことである。

プラトンと言えばギリシアの哲学者だ。プラトンはこう唱えた。

「この世は不完全なものだらけである。完全な世界は、死んだあとの「あの世」にあるのだ」


制作者は彼の名前の中に、人生への一縷の望みを含ませたかったのだろうか。
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2008年09月22日

アバウト・シュミット



ジャック・ニコルソン演じる「シュミット」という男がこの映画の主人公である。

66歳で定年退職し、社員みんなから祝福される。

「まだまだいろいろ教わりたいことがあります、いつでも会社にきてくださいよ!」

ところが後日、実際に会社に足を運ぶと「何しに来たの?」という目で見られ、体よく帰される。

家にいるのはがひとり。長年連れ添ってきたと言えば聞こえはいいが、ただの口うるさいオバハンだ。はどこの馬の骨ともわからないバカ男ともうすぐ結婚しようとしている。

シュミットはひまつぶしに、ボランティア団体を通してアフリカの貧しい少年の里親になる。

少年に手紙を書いているうち、シュミットは相手が子どもだということを忘れ、会社や妻や娘に対する不満を文章に綴るようになる。

そんなとき、妻が突然死する。さびしさはない。少なくとも本人は意識していない。でも話し相手がいない。家は荒れ放題。

シュミットはついに家を出てキャンピングカーに乗り、娘の結婚を止めるべく旅に出る。

最後のシーンで、アフリカの少年から返事が来る。その返事に書いてあったものは・・・・・・。

この映画を見て(いや、いつも考えているのだが)、人生とはつくづく得体の知れないものだと思う。否定的な意味で言っているんじゃない、本当に純粋に、人生は不思議だと思うのだ。

「人生の意味」という大きな問題は置いておいて。

僕たちはいったい何を求めているのだろう。

僕なりの答えを一言で言うならば、やっぱり何かとの「つながり」を求めて生きているんだろうと思う。

「モノ」とのつながりである場合もあるだろうが、やはりほとんどの場合、他人とのつながりを求めているんだろう。

尾崎豊の『誕生』という歌の中に、こんなセリフがあった。

「誰も一人にはなりたくないんだ、それが人生だ」

クサいセリフであるが、非常に的を得ていると思う。

難しい哲学や言葉をいくら並べようと、結局僕らはさびしいだけなのかもしれない。

「理解」すらもいらない。単純な「ふれあい」がほしい。

人生の意味なんて、最終的にはそんな単純なところにたどりつくのだろうか。
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2008年09月21日

カノン



これは『カルネ』という映画の続編なのだが、映像のキレと言い、救いようのなさといい、僕はこっちのほうが好きである。これ単独でも充分作品として鑑賞できるようにつくられている。

主人公は馬肉屋のおっさんである。無口で愛想笑いひとつできない、不器用なおっさん。

前作では、彼は馬肉屋を営みながら一人娘(この娘も無口である)と暮らしている。妻はとうの昔に家を出たきり行方もしれない。そして主人公は、毎日娘を風呂に入れているうち、屈折した愛情に目覚める・・・・・・。

最後は、娘が乱暴されたと思いこんだ主人公が怒り狂って家を飛び出し、まったく関係ない男を刺し、刑務所入りになってしまって終わり。

ここまでが前作『カルネ』。

『カノン』では、刑務所を出た主人公はある女&その母親と暮らしている。飲み屋で知り合った、やたらとむかつく感じの女。ゆきずりでこうなってしまったのだが、いそうろう状態。非常に肩身が狭い。娘は施設に預けられていて、会うこともできない。

女は妊娠する。しかし主人公は特にうれしくもなく、うっとうしいと思うだけ。女に馬肉屋を開いてもらう約束も立ち消えになり、働けとうるさくと言われてバイトをするもなじめず、だんだんうっぷんがたまってくる。

そしてついにはキレて、女とその母親をボコボコに殴りたおし、一人で家を飛び出す。

金もない。家もない。50過ぎなので未来もない。

ただ、主人公のこの男、ひたすら悪態をつき続ける。声には出さない、ただ心の中でブツブツ言い続けるのである。

彼にとってもはやすべてが憎い。社会が憎い、女が憎い、仕事の上司が憎い、隣に座っているやつが憎い、もはや人間というこの欺瞞だらけの存在自体が憎い。

ストリーの8割が彼の悪態、独り言で占められている。もはや何もできない彼にとっては、悪口を心の中で言うことしかできないのだ。

そういえば実際に街中でときどきこういうおっさんを見かける。酔ってるんだか精神的に病んでるんだか、大声で文句を吐き散らしているおっさん。

主人公のように、声には出さずに心の中で悪態をつき続けているおっさんならもっとたくさんいそうだ(自分もその一人にならないよう祈りたい)。

主人公はピストルを手に入れる。うらんでいる連中をひとりずつ殺してやろうと空想する。何度も何度も空想する。

男は施設から娘を連れ出す。自分が泊まっている安ホテルに連れて行く。

いまこそ自分の禁断の欲望を実行に移そう。つまり娘とセックスをしよう。そして娘を殺して自分も死のう・・・・・・。

とにかく、空想と独り言がどこまでも続く映画である。

それでも退屈しないのは、主人公の男の悪態が非常に的を得ていて説得力のあるものであり、同時にズバンズバンと切れのいい効果音とカメラワークのおかげだと思う。

ときどきふと思う。僕は調子の悪いときなんかは、人生はむなしいむなしいと心の中で独り言をつぶやき続けている。でも、それなりに仕事をしてそれなりに食っていけてるからこそ、そんなことを言っていられるんであって。哲学とは贅沢病なんじゃないかと。

宝くじで3億円当たったりなんかしたら、「人生はむなしい」なんて僕のつぶやきはふっとんでしまうんじゃないか。

逆に自分がホームレスになったとき、夜の公園の片隅、ダンボールの中にうずくまりながら、僕はいったいどんな「哲学」をつぶやくのだろうか。
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2008年09月18日

わたしは真悟



少年時代、まことちゃん』を読んで悪夢にうなされた経験のある僕は、ずっと楳図かずおが好きになれなかった。エログロなだけの漫画家としか思っていなかったのである。

しかし大人になり、『漂流教室』を読んで評価は大きく変わった。彼は天才である。天才という言葉はあまり使いたくないのだが、言うなれば変人である。独特の世界観を持った人である。

今回紹介する『わたしは真悟』だが、彼の作品の中では一番オドロオドロしくないもののひとつ。暗いタッチの画は変わらないが、感動巨編であることはまちがいない。

ある町工場に入荷された産業用ロボットが、「さとる」と「まりん」という少年少女によってプログラムされ、ついには意識を持つ。やがてふたりは離れ離れになり、「まりん」の想いを伝えるためにロボットは工場を抜け出して「さとる」を探す旅に出る。

ある意味、荒唐無稽な話なのだが、妙に説得力があるのはなぜだろう。

このロボット「真悟」は、「さとる」を探し続けるうちにどんどん壊れていき、ついにはマニピュレーター(手)だけになっても最後の力をふりしぼって「さとる」に会いに行くのである。

電子頭脳がとっくに破壊されてるのに、手だけで動くなんてそんなバカな。でも納得させられてしまうのである。納得させられてしまうだけのバックボーンを楳図かずおはちゃんと描ききっているのである。

この話を読んであることを思い出した。

以前にも書いたが、哲学界・脳医学界では意識のハード・プロブレムという問題が提起されている。

脳をいくら研究し、そのしくみがわかったところで、「じゃあ脳が認識したものを感じている『私』はどこにいるの?」という問題が残る。パソコンだけあっても、それを操作する人がいないと意味がない。それと同じことだ。

で、細かい理論はすっとばすが、この問題を提唱したデビッド・チャーマーズ氏は驚くべき結論に達する。

「サーモスタットであれ機械であれ岩石であれ、外界に対してなんらかの反応をするモノにはすべて意識があるのだ!」

びっくりする結論だが、ある意味筋が通っている。

霊魂なんか存在しない、人間の心は「脳」という機械の中にある。そう主張するなら、パソコンはもちろん自動車にだって簡単な心のようなものがあると考えてもおかしくはない。

さて、『わたしは真悟』に戻るが、この話を読んでなんともせつなくなる理由のひとつとして、すべては過去形で語られている点にある。ロボットである「真悟」が過ぎ去ったこととして語るのである。

「わたしはクマタ機械製作というところで生まれたそうです・・・・・・」

イントロからしてこうである。この口調が延々と最後まで続く。「手」だけになってしまってもである。

さらに不思議な点は「真悟」が「〜だったそうです」という風に、誰かから聞いた話として語っているところだ。

では「真悟」はどこにいて、誰から聞いた話を語っているのだろう。

「真悟」はひょっとして「天国」にいるのだろうか。

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2008年09月17日

ロヒプノール(ビビットエース)

医者からある薬をもらった。

不眠を治すため、もともと短期作用型の睡眠薬をもらっていた。しかしこれを飲んでも悪夢にうなされ、2、3時間で目が覚めてしまう。

そこでさらに、睡眠中に利くという抗不安剤をもらった。しかしこれを飲むと悪夢は見なくなったものの、深夜に無意識のまま徘徊するというやっかいな事態が起きた。

それで次にもらったのが、この問題の薬である。

効き目は7時間。朝までぐっすり安眠できる。しかし「問題」というのは目が覚めない点だ。無理やり起きても、朦朧状態がつづく。

たとえば目を覚ます。仕事に行かなければ、僕は服を着替える。が、次の瞬間、僕はいつのまにか布団に横たわっている。着替えてすらいない。さっきのは夢だったのか。

今度こそは、と僕は身なりを整える。準備万端、ドアを開け、階段を下りる。調子いいぞ、と思った次の瞬間、僕は実はまだ家の中にいて、着替えの途中で床に横たわっている自分に気づく。またしても幻。

やったつもりが実はやっていない、夢と現実とが交互に訪れる、こんな状態が昼までつづく。物事がなかなか先に進まない。「目がさめる薬」というのももらっていて、これを飲むと少しは意識がはっきりする。しかしやっぱり起きられなくて僕は会社を午後出勤する。

不眠を治すはずが、薬のせいで会社に行けない。本末転倒ではないか。これはまずい、問題がありすぎる。

そこで今日、通院の日、僕は「問題の薬」を止めてもらうことにした。

通院の日が一番つらい。というのは、例の「目がさめる薬」は前日分までしかもらっていないわけで、前後不覚のまま医者に行かなければならない。

僕は家を出る。クリニックまでタクシーで行こう。僕はタクシーを止め、後部座席に乗り込む。

と思ったら、僕はなぜか歩道に突っ立っている。おかしい、さっきタクシーに乗ったはずなのに、さてはあれも幻だったのか。

次はだまされないぞ、僕は再びタクシーを止める。なんとかクリニックにたどり着く。診察券を渡し、順番を待つ。

「○○さんどうぞ」

名前を呼ばれ、診察室のドアを開ける。

「このまえもらった薬ですけど」
「はい」
「あれは僕には合わないです、利きすぎます」
「そうですか」
「毎日昼まで朦朧としてしまいます」
「じゃあ止めましょうか」
「はい、お願いします」

その時、

「○○さんどうぞ」

名前を呼ばれ、僕は驚く。我に返ると僕はまだ待合室にいる。またこれだ。僕は診察室に入り、さっき「予習」したことをくりかえす。

「このまえもらった薬ですけど」
「はい」
「あれは僕には合わないです、利きすぎます」

これで「問題の薬」とはおさらばだ。午後から出勤しなければいけないので、僕は電車に乗り込む。会社の前に着くも、まだ朦朧としている。こんな状態で出社するのはさすがにマズイだろう。喫茶店に行こう。そこでさきほどもらった「目が覚める薬」を飲むのだ。

テーブルについた僕はアイスコーヒーを頼む。いつのまに来たんだろう、向かいにはY子さんがすわっている。

「なんで喫茶店入ったん?」
「目が覚める薬を飲むねん。それが利き出してから会社に行くねん」

僕はそう言って薬を取り出し、コーヒーで胃に流し込む。しかし気がつくと彼女はいなくなっている。手もとを見ると薬が握られている。まだ飲んでいなかったようだ。そもそもY子さんがこんなところにいるはずないではないか。

今度こそちゃんと薬を飲み、ここは文庫本でも読もう、そして目が覚めるのを待とう。

僕は読み始める。すらすらと読み進む。ようやく目が覚めてきたか。そう思い、でも気がつくと手もとに文庫本がない。本はいつのまにか床に落ちている。じゃあさっき僕が読んでいたのはなんだったんだ?

30分ほどたち、ようやく正気を取り戻した僕は店を出る。

店の前で、僕は偶然昔の友人にでくわす。高校以来だ、17年ぶりの再会だ。互いに驚きながら、近況についてしばらく立ち話をする。電話番号を交換し、近いうちに飲みにいこうと約束する。

いま、携帯を見るとちゃんと彼の番号が登録されている。さすがにあれは現実だったようだ。

それとも、あれも僕の幻覚にすぎなかったのか?
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2008年09月16日

啄木歌集



5年ほど前になるが、短歌を書くことに熱中していたことがある。

アメリカの留学先から帰ってきた友人、でも仕事も何もすることがなく、部屋に閉じこもって短歌らしきものを書き溜めていたのである。それに僕も便乗した。ふたりで短歌を書き散らかした。

もっとも、短歌とはどういうものか、僕らは何もしらない。5・7・5・7・7で言葉を並べる、ということくらい。

だから僕らの書いたものは正当な短歌ではない、と思っていた。あくまでも「なんちゃって短歌」にすぎないと。

そんなとき、石川啄木を手にとって驚いた。

「なんだ!?結局僕らのやっていることと同じやんか!?」

良し悪しはともかく、書いている内容、書いている視点は自分たちと同レベルでなのである。何か特殊なルールがあるようにも見えない。ただ、日々感じたことを短歌の文字数に当てはめているだけ。

そうか、短歌はこんなのでよかったのか。

文学者の中には、いや、短歌(和歌)にはもっと守るべきルールがあると主張する人もいる。しかし石川啄木は自分の書きたいように短歌を書いて、結局それが後世に残った。

たぶん、常識的に見ると「こんなのあり?」と思うようなものを「これでいいのだ!」と堂々と世に出してしまえる人が、本当の意味でのすごい人なんだろうな。

もっとも、啄木は歌人になりたいわけではなかった。本当は小説家を目指していたという。ひまつぶしに書いていた短歌が(それも死後に)注目されたということらしい。啄木は26歳で病に倒れ死んでいる。もう100年近くも前だ。

それなのに、彼の短歌はいまだに現代に生きる僕の胸を打つ。古典っぽくなく、今の文章としてスラスラと読める。

そして僕の痛いところを突くのである。グサッグサッ。アイタタタ、と。

全部は本を読んでいただきたいが、いくつか有名なもの&僕の好きなものを引用↓。

はたらけどはたらけど 
猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る


猫を飼はばその猫がまた争いの 
種となるらむ かなしきわが家

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

薬のむことを忘れて
ひさしぶりに
母に叱られしをうれしと思へる


で、いきなり話は変わるが、何かモンモン、ウツウツとしている人は短歌を書くことをお勧めする

たった31文字というルール、しかしこのルールが、自分の心の核心部分を無意識のうちに切り取り、具現化してくれるのである。

そして100も書いた頃には、どの短歌がよくてどの短歌が悪いか、なんとなくわかってくる。

そう言っている僕は最近書いていないが。5年前は自分の短歌集を個人出版するほどに熱中したのだが。
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2008年09月15日

I STAND HERE FOR YOU



大槻ケンヂのソロアルバム。半分カバーで半分オリジナル。

彼自らの解説本『大槻ケンヂ20年間わりと全作品』にも書いてあったが、この頃の大槻ケンヂは精神科にも通っていて、相当ウツな状態だったらしい。

その空気がもうモクモクと立ち込めてきて僕を煙に巻き、1曲目からしてもうダメである。泣けてくるのである。はたから見たら『こんなコミックソングまがいのアルバムでどうして!?』と怪訝に思われるかも知れないけれども、どうしようもないのである。

暗い歌ばかりではない、明るい曲もあるのだが、これまた「ウツ」の人特有の明るさなのである(そういうものがあるのである)。これまた僕の琴線に触れるのである。

最初にこれを聞いた人は、まるで自己啓発か何かの怪しげなCDと思うだろう。

要所要所に朗読が入っている。それも「明在系」「暗在系」だの、「死後の世界」だの、「クォーク」だの、ニューエイジサイエンスっぽい講釈なのである(その一部は、なんと菅野美穂が朗読している)。

朗読の中にはさらに「生きていこう」という言葉がそれこそ何十回と出てくる。連呼。普通ならビビッて途中でCDを止めてしまいかねない。しかし何度も言うが僕の琴線に触れるのである。

大槻ケンヂはどうやらこのCDで、人生には生きていく価値があるんだというメッセージを伝え、苦悩している人々を救いたかったようだ。

アルバムのタイトル『I STAND HERE FOR YOU』は「オレはおまえらの味方だぜ!」という、大槻ケンヂからリスナーへのメッセージなのである。

「ウツの人間に救ってもらいたかないわっ!」と言いたいところだが、気持ちは非常によくわかる。

自分がウツの時、なぜか、同じ(と思われる)苦しみを抱えている別の人に目が言ってしまう。そして自分じゃなくてそっちの人を救いたくなってくることがある。

理由は自分でもよくわからない。

ひとつには、世界が絶望に満ち満ちているように思えてくる、そして自分が「ウツ」なのは、自分にそれを見る力があるからだ、という風に錯覚する場合がある。ならば同じ「ウツ」の人間は、共通の敵と対峙している同志に思えてくる。

あるいは、自分の苦しみを何かに役立てることによって、「自分は無駄に苦しんでるんじゃない」と思いたいのか。他人を救うことによって自分の救い方を模索したいのか。

とにかく「ウツ」な大槻ケンヂと「ウツ」な自分との不思議な共鳴を体感できるアルバムである。
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2008年09月14日

shade〜saw the light and shade〜



ヴィジュアル系? ロック? メタル? ジャンルはよくわからないが、元『黒夢』の清春が出したカバーアルバム。

なぜこれを聴いたかというと、さだまさしの『防人の詩』がカバーされていたからである。

もっとも、別に僕は特にフォーク好きというわけではないのである(フォークの話ばかり書くのでおっさんかと思われてるかもしれんが、僕はフォーク世代よりずっと若い)。

曲は、歌詞、メロディ、アレンジなどに分解できると思うが、僕はなぜかまっさきに歌詞に注目してしまうのである。だから歌詞にピンとくるものであればどんなジャンルの音楽でも聴く。

清春が『防人の詩』をカバーしたと聞いても、実はあまり期待していなかった。

当然ながら、カバーよりもやっぱり原曲のほうが良い場合が多い。また、これは特に古い歌に多いが、カバーするとなんだか現代風にいろんなわけのわからない凝ったアレンジが施されて、原曲の素朴さはふっとび、台無しになってしまうことが多いのである。

だが清春の『防人の詩』はちがった。

【youtubeの動画↓】
http://jp.youtube.com/watch?v=IbIZRPtoAW0

まず、アレンジがシンプルでよい。なおかつ、原曲にはないドロリとした病的なムードが加わっていて、いい味を出している。

清春とさだまさしは歌い方は異なるが、なんというか、切迫してキレそうな高音で歌うあたり、相通ずるものを感じる。心にグサグサと突き刺さってくるのである。

さて、この『防人の詩』だが、さだまさしが元にした短歌がある。

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ

wikipeddeiaによれば訳するとこういう意味になる。

「海は死にますか 山は死にますか。死にます。死ぬからこそ潮は引き、山は枯れるのです」

万葉集の中の歌である。いまから1200年以上も前である。そのことに僕は驚く。

自分もいつかは死に、地球も宇宙もいつかすべて消えてしまうなら、生きることは無意味ではないのか?

これは僕がこのブログの中で何度も書いてきたことだ。でも1200年前にすでに似たようなことを考えていた人がいたのか。

少し孤独感が癒される気がする一方、この問題は人間にとっての普遍的な宿命であり、永遠に逃れることのできない苦しみなのかもしれないと思うと、途方もない気分になる。
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2008年09月13日

2001年宇宙の旅



この映画についてはもういたるところで語られ、語りつくされていて、いまさら何を書いても2番煎じにしかならないだろう。1968年制作とは思えないリアルな特撮、進化を扱った壮大なテーマ、などなど。

でもここでは、宇宙船ディスカバリー号に搭載された人工知能「HAL9000」に焦点をしぼってみたい。僕がいつも考えている「心って結局なんなの?」という疑問について考えるにあたって、よい題材だと思うからだ。

人類史上のポイントポイントで突然姿を現す謎の物体「モノリス」。それが木星近辺で見つかったということで、ボウマン船長はじめとする探査隊が宇宙船ディスカバリー号で木星に送り込まれる。その宇宙船を完全に制御しているのが、コンピュータ「HAL9000」である。

HALに心や自我といったものがあるかはあまり問題にされない。映画内でそれについて触れるシーンがあるが、乗組員は「さあどうだろうね」てな程度で流してしまう。

しかしHALは宇宙船内のあらゆる物事をチェックし、乗組員たちにも気を使い、無表情で淡々と事務をこなしたりひまをつぶしたりしている人間たちよりもよっぽど人間っぽく見える。

ところがここで問題発生。「モノリス探査」という任務はトップシークレットで、乗務員らには知らされていなかったのである。木星に到着して初めて任務が告げられることになっていた。

この真の任務を事前に知らされていたのは、HALだけである。

そしてHALの「苦悩」がはじまる。

HALは乗務員に任務を知らせるわけには行かない。だから乗務員らに何か聞かれても「ごまかし」をしたり「ウソ」を言ったりしなければならなくなる。

乗務員らは、HALが壊れたんじゃないかと思い始める。そしてHALの主電源を落とそうと試みる。しかしそれを察知したHAL、そんなことをされたら任務遂行ができなくなる。困る。

そしてHALは「迷った」あげく、乗務員らを殺そうと「決意」する(このへんの謎解きは続編『2010年』が詳しい)。

表面上は「コンピュータが狂った!」という話だが、僕から見ると、単なるコンピュータだったHALが「苦悩」することでどんどん人間的な心・自我を獲得していく過程がおもしろい。

僕の友人にこんなことを主張しているやつがいる。矛盾した命令を与えられたり、究極の選択を迫られたりしたそのときにこそ、コンピュータは自我や意識を持ちうるのではないか?

だとすれば人間も同じことが言えるのか。「こころ」があるから「苦悩」するのではない。「苦悩」が生まれたから「こころ」が生じたのか?

最近の人類学の研究によると、精神分裂病(統合失調症)が生まれた時期と、人間が壁画などの芸術を生み出した時期とは一致するそうである。

人間はその存在自体が「精神病にかかった霊長類」なのかもしれない。苦しみも悲しみも喜びも芸術も、ひょっとしたら全人類が発症しているある種の精神病の産物なのかもしれない。

コンピュータの話に戻ろう。

コンピュータが「意識」「心」を持つ(少なくとも持っているように見える)日は近い将来必ずやってくる。僕はそう思う。でもそうして生まれてきた「連中」は、きっと冷静沈着で、公正で、おだやかで、静かなやさしさをたたえている、そんな連中にちがいない、僕にはそう思えるのだ。

もう15年も前だが、テレビの特番で『2001年』の原作者アーサーCクラークが出ていた。

「将来、コンピュータと人類が敵同士になって戦争をすることはあり得るか?」

こんな質問に対し、彼はこう答えた。

「ありえないことではないと思います。でもその戦争を始めるのは・・・・・・人間とコンピュータのいったいどっちからなんでしょうね?」

彼は意味深に笑った。彼はみなまで言わなかったが、僕は妙に納得してしまう。
posted by にあごのすけ at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月12日

勝手に生きろ!



チャールズ・ブコウスキーの小説、『勝手に生きろ!』だが、僕はこのタイトルに違和感を感じる。誤解を生む邦題だと思う。

原題は『Factotum(ファクトタム)』だ。「なんでもやれ」という意味で、雑役夫のことを指すらしい。

だから『勝手に生きろ!』は必ずしも誤訳ではないが、実は我々読者に向けたカッコいいメッセージでもなんでもない。

これは小説の中で、世間だか社会だかよくわからない大きなものが主人公に対して強制した命令なのである。「どうにでも好きにやってくれ、でもワシゃしらんよ」という、突き放した言葉なのである。

主人公「チナスキー」は二十歳そこそこの青年である。でもどんな仕事をしてもしっくりこない。納得できない。だからすぐにやめてしまう。

親にも見離され、チナスキーは全米の旅に出る。「旅に出る」と言えば聞こえはいいが、実際は居場所を求めて転々とせざるを得ない。

新しい街に行き、仕事をさがす。でもやっぱりすぐやめてしまう。酒を飲む。女が誘ってくる。女と寝る。街を出る。

それを何度もくりかえす。チナスキーは常に受身である。社会に対する漠然とした不満はある。漠然とした夢も持っている。でもどうやってカタチにすればいいのかわからない。結局世の中に翻弄され続け、自分がどんどん転がり落ちていくとわかっていながらどうすることもできない。

この救いようのない寄る辺なさ。この感覚は僕にも覚えがある、でもおそらく現代日本のフリーターやネット難民の人たちのほうがもっと痛感しているだろうと思う。

僕は時々思う、僕はひょっとして何かの「影」なんじゃないかと。階段をのぼり、上昇しているつもりでいるけれども、実は階段も「影」で、僕は単に地べたを這いずり回っているだけなんじゃないかと。その感覚に似ている。

かつて哲学者サルトルは、「自由の刑」という言葉を使った。人間は「自由」という名の刑罰に処されていると言うのである。

人間は自分の行動をなんでも自由に選択できる、でも「何をすべきか」というマニュアルは存在しない。そして、こんなにつらいことはない。

なぜならこれは「何をやっても自由だけども、結局何をやってもいっしょ」ということだからだ。

また、別の哲学者スピノザは、「人間は『神』に拘束されているからこそ幸せなのである」とかそんなことを言った。

「信じることは大切だ」、よく聞く言葉だ。ヒット曲なんかにもよく出てくるフレーズ。

だが逆から見ると、人間は何かを信じていないと生きていけない。だとすると、信じることは逃げである

でも他にどんな道がある?

だから僕は、宗教を信じている人を笑うことはできない。どんなにヘンテコな宗教であろうと。逆に、宗教を笑う人々にこう言いたい。

おまえらも結局何かを信じていないと心細いくせに。
posted by にあごのすけ at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月11日

スモーク



唐突だが、ハーヴェイ・カイテルはいい役者である。レザボア・ドッグス』でもそうだったが、渋さとカッコよさと同時に、なんともいえない哀愁を漂わせている。個人的には、ロバート・デニーロもいいが、やっぱりハーヴェイ・カイテルなのである。

そのハーヴェイ・カイテルが、ニューヨークはブルックリンの煙草屋の主人を演じる。

そこへ毎日煙草を買いにくる、スランプの小説家。

その小説家の家にひょんなことで居候することになるひとりの少年。

この3人をメインにストーリーは展開していく。

この映画は、言うなれば人生のすみっこに追いやられた人々を描いた作品である。

煙草屋という商売自体、禁煙ブームのいまとなっては後ろ指をさされるような商売だ。小説家は数年前に強盗に妻を殺され、いまだに立ち直れずにいる。少年は生き別れた父親を探している。

でも彼らは生きている。淡々と生きている。本当はいまにも人生から振り落とされそうな状況におかれているのに、知ってか知らずか静かに生きている。

煙草屋のハーヴェイは、もう10年以上も、毎日同じ時刻に店の向かいから写真を撮る。撮った写真をファイリングしている。

店は変わらない、しかし写真に写っている行きすぎる人々は毎日ちがう。そのうちの何人かはもうこの世にしないかもしれない。

ハーヴェイはなぜそんなことを続けているのか。それは最後まで明かされない(いや、最後の種明かしも完全に納得できるものではない)。

ふと、彼は生きるために写真を撮り続けているのではないかと僕は思う。どんなくだらないことでも、これと決めた日課があれば続けていこうと思う。明日が来るまで生きようと思う。

人間にとっての「生きる支え」、それは実は非常にか細いものなのかもしれない。立体でも平面でもない、言わば一本の線。意識していようとなかろうと、まるで蜘蛛の糸みたいな細い糸、実はそれだけが人間を活かし続けているのかもしれない。逆に言うと、どんなに小さなことでも、何かがひとつあれば人間は人生を耐えていける。この映画を見てそんなことを考えた。

この映画の特徴として、ストーリーは淡々としているが、登場人物の言葉が非常に重い。小話みたいなのもいくつか出てくるが、普通の何気ないセリフが非常に重く、味わい深いのだ。そしてユーモアに富んでいる。

あとでポール・オースターが脚本を手がけていると知り、納得した。そうかあのポール・オースターか(以前に彼の『孤独の発明』を紹介した)。

言われてみればたしかに、ポール・オースターのにおいがプンプンする映画である。

ラストシーンは必見。
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2008年09月10日

惑星ソラリス



旧ソ連が1972年につくったSF映画。「旧ソ連」というイメージのとおり、暗く、冷たく、そしてカルトな映画である。

ドロリとした海と雲に包まれた惑星ソラリス。そこに停留している宇宙船との連絡が途絶え、主人公は原因究明のためにソラリスに派遣される。

そしてソラリスの宇宙船内で出くわしたのは、なんと自殺したはずの妻だった。この星では、人間の潜在意識にあるものが現実となって姿を現すのである・・・・・・。

この映画は2002年にアメリカでリメイクされた。アメリカ版のほうがわかりやすいが、カルトな雰囲気を味わいたいなら旧ソ連版が断然よい。

結末はここでは書かない。

が、僕はこの映画のエンディングと似たような感覚を持つことが時折ある。

たとえば、どうしても避けられない重大事が目の前にせまっている時。

「これはもう過ぎ去ったことなんだ、僕は実はもう死んでいて、過去のことを走馬灯で思い起こしているだけなんだ」

そう思ってみることがある。するとなんとなく気が楽になる。

実際の体験としては、医者からロヒプノール(ビビットエース)という睡眠薬をもらっていたときはヒドかった。この薬、僕には合わないのである。効きすぎるのである。

朝起きる。薬の影響が残っていて、身体はふらふら、意識は朦朧である。と思ったら、僕はまだ布団の中にいる。おきたと思ったのは夢だったのだ。

今度こそ、と思って起き上がり、ワイシャツに着替える。顔を洗う。と思ったら、僕はまだ下着姿のまま洋服ハンガーの前で立ち尽くしている。

なんとか支度を済ませ、僕はバスを待つ。バスが来て僕は乗り込み、ようやく一息つく。やれやれ。・・・・・・と思ったら、僕はまだバスに乗っておらず、バス停で呆然と立ち尽くしている。

またしても幻覚か。こんな状態が昼まで続くのである。

だんだん不安になってくる、本当の僕は「いつ」にいる? 今は本当に「今」なのか? 今日は本当は明日なんじゃないのか、いやひょっとすると昨日か?

いやいや。

実はすべては過去。すべては思い出。本当の自分は実ははるか数億年先の未来にいて、はるか昔の夢を見ているんじゃないか?

まあこれは僕の空想、ひとり遊びである。
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2008年09月09日

無名



沢木耕太郎といえばノンフィクション作家である。さまざまな物事を、事実としてとらえ、忠実に文章にする。その沢木耕太郎が、自らの父の死の過程を描いたのがこの本。

沢木耕太郎の本はいくつか読んだはずなのだが、『深夜特急』くらいしか記憶に残っていない。

あれは夢中になって読んだ。若い頃の著者が日本からロンドンまで大陸横断の旅をした記録である。僕も影響された。僕は結局、北海道までヒッチハイクしただけだったけれど。

さて、この本『無名』なのだが、まったくと言っていいほど装飾がない。山場もない。

ただ、父が入院し、父を見舞い、世話をし、死んでいく経過を淡々とつづっている。まるで日記のように。

著者は、父の青年時代の話をもっと聞きたかった、と書いている。父が若い頃何をしていたのか著者はしらない。しかし父が病気になってしまったせいで聴くチャンスを逃す。

そして父は、父の記憶と共に土に還っていく。

まさに無名の人だった父。だから著者も、大げさな文章にはしたくなかったのだろう。一般庶民が普通に死んでいく風景を描きたかったのだろう。

本の中では死は何か特別なことではない。日常の景色の一部に過ぎない。たとえ肉親の死であっても。

著者は最後に、父が残した俳句を集めて自費出版する。父の存在が人々の記憶から消えてしまうことに対する、最後のあがきなのだろうか。

ちなみに仏教的には、人は死んで50年たつと「先祖」の仲間入りをするそうである。

過去帳に名前は残れども、故人を記憶している人もほとんどいなくなり、文字通り、「無名」の人となる。
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2008年09月08日

ブッダ



僕が手塚治虫の漫画を本格的に読むようになったのは、実は彼が死んでからである。理由は特にない。彼の作品に触れる機会がなかったのだ。

もっとも、幼少の頃に『リボンの騎士』『ふしぎなメルモ』は見ていた(おそらく再放送)。だから実は、僕にとっての手塚治虫体験は、僕の女性観に少なからず影響を与えているような気がする。

本格的に読み出した頃はすでに青年だったので、当然青年向きの作品を多く読んだ。『火の鳥』『アドルフに告ぐ』『 きりひと讃歌』『ブラックジャック』などなど。

そんな中に『ブッダ』もあった。

ゴータマ・シッダルタは、小さいながらも一国の王子である。身体は弱かったが、何不自由ない生活をしていた。いわゆるボンボンである。

そんな彼が、あるとき城壁の外に出る。そして人間の現実を目の当たりにしてガクゼンとする。

老いさらばえていく人々
病に苦しむ人々
死にゆく人々
それでも生きていかざるを得ないという苦しみ


いわゆる後の仏教で言うところの「四苦」である。そしてゴータマは悩む。

なぜ人間はこんなに苦しまなくちゃならないのだ!?

手塚治虫の『ブッダ』は創作した部分が多く、必ずしも史実に合っていないのであるが、だいたいこんな感じだったようである。キアヌ・リーブスが出ていた映画『リトル・ブッダ』にも似たようなシーンがある。

そして、ああ、僕と同じだな、と思うのである。

僕もいわゆるボンボン育ちである。父親は一流企業に勤め、世の中にはソニー、パナソニック、トヨタ、などなど、一流企業しか存在しないと思っていた。

当然、一流の大学に行くことを希望されていた。これも同様、世の中には早稲田や慶応や東大しか存在しないと思っていた。

ところが高校に入って学力は落ち、2浪してようやく入った三流大学。一人暮らしを始め、初めて世の中の真実を目の当たりにしてガクゼンとしたのだ。

僕がいまだに抱えている苦悩の原点も、あるいはそのへんにあるのかもしれない。

さて、『ブッダ』だが、途中までは非常に面白い。共感する。ところが僕にとっては、ある時点から急に面白くなくなるのである。

それはブッダが悟りを開いたシーン以降である。

それまでは、ブッダは苦悩するひとりの人間として描かれていた。だから共感できた。

ところが悟りを開いたとたん、顔つきも口の聞き方も変わり、全然人間っぽくないのである。まさに神様みたいに描かれているのである。

誰かが、「仏教はボンボンだからこそ作れた宗教である」と言っていたことを思い出す。

そうかもしれない。動物には煩悩がない。腹が減ったら食い、敵が来たら逃げ、そして死ぬときは未練なく死ぬ。

ブッダの時代の平民もそういうものだったのではないか。苦しみはあれど、病や死はあれど、「そういうもの」と受け入れていた。

つまり、ボンボンで煩悩だらけで育ったブッダにとっては、悟りを開く必要はあったとしても、一般庶民はすでにはじめからある程度悟りきっていたのである。

「『哲学というツボにはまってしまった人を救い出すこと』。それが哲学の唯一の目的である」

哲学者ウィトゲンシュタインがそんなことを言っていた。

悟りを開くことは、超人になることではないと僕は思う。

生老病死をあたりまえのものとして受け入れ、ありもしない幻影を求めたり妬んだりすることなく、ただ普通の人間として生きていく、それが悟りの境地なのではないだろうか。

なかなかそうはなれないけれども。
posted by にあごのすけ at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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