2008年09月07日

変身



もう説明する必要もないほど、カフカの有名な小説。

青年・グレーゴル・ザムザが、ある朝目をさますと、巨大な甲虫に変身していた、という話。

仕事に行こうにも自分の部屋から出るに出られない。やがて家族が心配してやってくる、会社の人まで様子を見にやってくる。

やっとのことでドアを開ける。甲虫になったグレーゴルを見てみんな大騒ぎ、グレーゴルは部屋に軟禁状態にされ、食事を与えられるだけの日々を送る。

僕が興味があるのは、他の人がこの小説を読んだときにどんな感想を持つのだろう、ということだ。

この小説に対しては、僕は肉迫的な共感をおぼえるのである。

なぜなら僕は、家族の中で実際に常々こんな存在だったからだ。

少年時代は暴力的で家族からのけものにされ、中学高校に入ると僕はオカルトやら左翼思想に走って変人あつかいされ、大学時代は僕はひきこもりになり、まさに軟禁状態であった。

僕はまさに家族の中の毒虫だったわけである。

僕を見つめる家族らのまなざしも、まるで汚らわしい虫でも見るようなまなざしだった。

カフカもあるいは同じような経験をしたんだろうか。

物語の最後で甲虫であるグレーゴルは死に、家族らはほっとした表情で、過ぎたことは忘れよう、生活を取り戻そうと誓う。

あまりにもヒドイ終わり方である。

もっと別な解決策はなかったのか。

虫になったグレーゴルは、あるいは家族の側の潜在的な偏見が生み出した幻想だったようにも思えるのである。
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2008年09月05日

「死んでもいいや」症候群



この本を紹介すべきかどうかちょっと悩んだ。あまりにも生々しいからである。ま、あの『別冊宝島』を文庫化したものだからしかたないか・・・・・・。

思うに自殺とは、人間にとっての最後のロマンなのである。

この世に夢も希望もないと感じた者が、最後に求めるユートピア、それが死である(もっとも、もっと現実的な問題で自殺する人もいるけれど)。

「もうどうしようもなくなったら死んでしまえばええねん」

こういうことを平然と言う人間が時々いる。彼らは死を心のよりどころにして生きている。こんな生き方もアリだろう。でも僕は嫌悪感をおぼえる。

この本では、「自殺するってことはホントはこういうことなのだ」という自殺の現実をまざまざと見せつけられる。

富士の樹海の実態、自殺体のようす、自殺を試みた患者が運び込まれる救急医療センターの徹底取材、リストカットの取材、自殺の実例集、自殺サイトの裏側、薬物中毒の実態、などなど(ただし、2000年に出た本なので内容がやや古い。リタリン中毒の話があったりとか)。

いやな気分になる本である。自殺に対するロマン・幻想なんてふっとぶ。

でもこれでいいのだと思う。

僕は躁うつ病である(もっともこの病名には若干疑問を感じるが。僕はむしろ「哲学病」だろう)。

ダメな時期が続くと、死にたいという欲求が出てくる。まるで空腹のときに「何でもいいから食いたい!」という衝動が生じるように、死への衝動が襲ってくる。

でも僕は自殺しないだろう。自殺しないと心に決めている。

人生はむなしい。信頼できるよりどころなどない。すべては最後に消えるだけの無意味な存在だ。

それでも人生にYESと言えるかどうか。

それが僕のテーマであり、このブログのテーマでもある。

根アカな前向き思考、プラス思考なんて嫌いだ。

僕は人生の最底辺、絶望感のどん底に立って空を見上げていたい。

僕にとってのうつ状態、自殺願望は、一種の「苦行」だと思っている。まるで高野山で千日苦行をおこなう行者のように。

思えば僕はこれまで何回「苦行」を重ねてきただろう。

でもあとから思えば、うつ状態のときの自分のほうが輝いているようにすら見えるのである。少なくとも、必死に生きようとしている。


(追記)

上記で僕が書いたことが、すべての自殺志願者に届くとは思っていない。

僕にとってこれは苦行である。うつ状態のときの僕のおこないは、すべて苦行の一環である。


僕は死なないために歌をかく。
僕は死なないために小説を書く。
僕は死なないためにこのブログを更新し続ける。
僕は死なないために人と出会う。


でもこういうことができるのは、僕が軽度のうつ状態だからだと思う。薬が効いているからかもしれない。

重度のうつ状態になると、文章を書くどころか起き上がることすらできなくなるときくから。

そしてたぶん、どんな思想も言葉も届かないような、衝動的な自殺というのも存在する。

すでに死んでしまった人を責めるつもりは、僕はまったくない。
彼らはすでにあっちの世界に行ってしまった。生きている僕らがどんな批判をしたところで、その言葉はあっちの世界には通用しない。

ただ、彼らがなぜ死を選んだのか。それを考え、理解しようと努力することが、残された僕たちに課された義務だと思う。
posted by にあごのすけ at 11:34| Comment(4) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月04日

友川かずき初期傑作集



太宰治寺山修司。そしてこの友川かずき。いつも不思議に思うのだが、東北人が作る作品には共通の暗さがある。

僕は自分の造語で、よく「心の基礎体温」という言葉を使うのだが、それが総じて低いような気がする。単なる「マイナス思考」「暗い」といった言葉で表現できない、得体の知れない悲しみとおどろおどろしさが作品の中に混じっている。

先日病院で、「あなたは『基底感情』が低い」と言われた。僕の言う「心の基礎体温」と同じようなものか。ニュートラルな状態でも感情の針がマイナスのほうにズレているということらしい。

ちなみに僕も緯度40度あたりで生まれているので、いうなれば「東北人」である。出生地の緯度と性格に関連性がある? だんだん疑似科学めいてきたのでこのへんでやめておこう。

友川かずきの話にもどるが、一度だけ彼のミニライブを見たことがある。

ミニシアターで『17歳の風景』というこれまたひどくマニアックな映画の舞台あいさつにひとりで出ていた。友川かずきがテーマ曲をてがけていた。

いつまでたっても抜けない東北訛りで、なぜこの映画の音楽を担当するハメになったのか、ボソボソと言い訳めいたことを話したあと、「酒を飲まないで歌うことはあんまりないんですけど」と、彼は椅子にすわってギターを持った。

歌い始めた瞬間、空気が変わった。空気が凍りついた。

鬼気迫る、という言葉は彼のためにあると思った。東北弁でまるで魂をしぼり出すように叫ぶ。明らかに殺意を感じる言葉が刃物みたいにビュンビュン飛んでで来る。

弦が切れそうなほどギターをかき鳴らす。すわっている椅子がガタガタと動き(ギターのリズムにあわせて、椅子がガタ、ガタ、と左に移動していくのだ)、椅子が壊れるんじゃないか、椅子ごとひっくりかえるんじゃないかと気が気でなかった。



※上記動画の曲は今回紹介したアルバムには含まれておりません。

この動画、ドラムとかピアノとかのバックバンドといっしょにやっているのだが、友川かずきがバックバンドの存在をまったく無視しているところがおもしろい。

ドラムを無視して自分のリズムで叫び歌い、ドラムのほうが友川かずきに合わせないといけない始末。

これぞ友川かずき。
posted by にあごのすけ at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月03日

ゴーダ哲学堂



最近映画化された『自虐の詩』のマンガ家・業田良家の短編集。

ここでひとつ、「哲学」の定義について簡単に触れておこう。

哲学とは、言葉を使って論理的に物事を考察することである。

論理的であるというところがポイント。「〜だから〜である」「〜である、なぜだから〜だからだ」。論理的であるためには、他人の反論に耐え得るものでなければならない。他人の反論を論駁し、あるいは自分の間違いを認め、さらに議論を発展させていく。これが哲学である。

だから厳密には「私の哲学」は存在しない。「僕は人生は〜だと思うんだよなー」では哲学にはならない。これは哲学というよりはむしろ文学・思想と言った方が近い。

僕は哲学科出身なので、こういう細かいことが気になる。まあ、どうでもいいといえばどうでもいいことだ。

さて、本書『ゴーダ哲学堂』、さきほどの定義でいけば哲学ではない。むしろ文学である。しかし気にすることはない、人生の意味を探求するのに哲学的である必要はないのだ。

本書では、いくつかの短編を通して、人間の奥底に眠る苦悩や絶望感、そして救い、あるいは破滅を描く。

短編によっては感動するものもあるし、逆に目を覆いたくなるようなものもある。どのみち、なんらかの示唆を得られるマンガである。

「あとがき」で著者はこんなことを書いている。

『「人生に意味はあるか」という問がずっと私の心に引っ掛かっていた』

そして、このテーマに関する考察をけっこうな長文で論じている。ちなみに、論じていることは、以前に紹介した本『逆説のニヒリズム』に通ずるところがあるので、合わせて読むと面白いかもしれない。

著者の結論はこうだ。

『人生には真・善・美という意味(価値)がある』

これについて僕は同意する。

前提として、「人生は無意味だ」と考えてみる。

それに対する積極的な結論は分かれる。

1.人生は無意味だからさっさと自殺しよう。
2.人生が無意味だとしても生きていこう。


人生が無意味、すべてが無意味ならば、自殺することも生きることも無意味である。

それでも人生にYESと言えるかどうか。論理的には破綻している、でも、どれだけ強烈な証拠を見せられても、どんなに苦しい目に合っても、それでもYESと言い続けられるかどうか。

これはたぶん、一人ひとりのDNAなどの中に眠っている「美意識」の問題だと思うのである。
posted by にあごのすけ at 13:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月02日

クレイマー、クレイマー



1979年、ダスティン・ホフマン主演の映画。これはたぶん後世に残る名作だろう。

ダスティン・ホフマン演じる、バリバリの仕事人間テッド。ところが妻が突然キレて、一人息子をおいて家を出て行ってしまう。

ここからテッドの地獄のような日々が始まる。

これまで家事なんてしたこともなかった仕事人間、料理をするのも一苦労。息子ビリーの学校の送り迎えもしなければならない。

会社の仕事が次第におろそかになってくる。一時は重役候補とまで言われていたのが、クビ。

そこへ妻がテッドの前に姿を現す。息子のビリーを引き取りたいという。そして親権をめぐって夫婦間の裁判がはじまる・・・・・・。

あらすじをなぞればそういう話なのだが、僕がこの映画を好きなのはもっと別の点にある。

主人公テッドと、ご近所さんマーガレットとの関係である。

マーガレットはもともとはテッドの妻の友人である。妻が家を出たとき、マーガレットはテッドを責める。

だが時間がたつにつれ、マーガレットはだんだんテッドの子育てを手伝うようになる。そしてテッドのよき理解者になっていく。

息子ビリーがケガをして病院に運ばれた晩、テッドはマーガレットにこうつぶやく。

「万が一僕の身に何かあったら・・・・・・ビリーのことを面倒みてやってくれないか」

テッドとマーガレットはそれ以上の関係にはならない。肉体関係なし。恋人でもないし、かと言って友人というのとも少しちがう。単なる仲のいい、互いに頼みごとのできるご近所さん。微妙といえば微妙な関係、でも互いに固い信頼関係で結ばれていく。

こういう男女関係っていいな、と常々思う。なんの約束もないが信頼し合える関係

だいたい、付き合って愛の言葉をささやきあって、命かけるみたいなことまで言っていっしょになった男女が、別れる段になって手のひらをかえしたようになじり合い傷つけあい、互いにボロボロになってさよならをする。

これってなんかおかしくないか?と僕は思うのである。
posted by にあごのすけ at 11:51| Comment(3) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月01日

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない



この本を最初に読んだとき、僕の頭の中は「?」でいっぱいだった。

「翔太」という名の中学生、買っていた「インサイト」という名の猫がしゃべり出した。そして一人対一匹の問答がえんえんと始まるのだが・・・・・・。

一見、童話のように書かれている。そして一見、子ども向きである。哲学用語もまったく出てこず、一見読みやすい。

ところが、そこでくりひろげられる問答たるや、最先端哲学のエッセンスを含んでいるのである。

たとえばこんなテーマが出てくる。

「いまいるこの世界が夢じゃないってどうしてわかるの?」

非常に子どもっぽい疑問である(実際、哲学的問題は、人間が成長するにつれて忘れてしまったような子どもっぽい疑問が多い)。

これに対して、猫のインサイトが物知り顔で語りだす。

「それはね、」

ところがこの答えがものすごく難解なのである。翔太は「うーん、でも」と首をひねるばかり。インサイトは翔太のことなんかほっといて、哲学的解答を語り続ける。

僕が読んで「?」と思ったのは、どのような読者層をターゲットにしたのかさっぱり理解できない点。

一見子ども向け、でも子どもが読んで理解できるようなものではない。

かと言って、大人が手に取るような装丁にもなってない。

考えられるとするならば、おそらく子どもの心を持ったまま大人になってしまった(それはある意味悲劇である)人間を対象としているんだろうな。

著者の永井均は、50年前に死んだ哲学者ウィトゲンシュタインの研究でそれなりに有名な人物である。だから本書にもウィトゲンシュタインの思想の断片があちこちにちりばめられている。

哲学とは、理屈で考えることである。理屈で「どういうこと?」と考え始めた時点で、その人はれっきとした哲学者であると言える

だからこの本を読んで「なんで?」と疑問に感じた瞬間から、あなたは立派な哲学者である。そういう意味では良い本。

前にも言ったが、ちまたにあふれる「哲学入門」を読んでわかった気になるよりもずっといい。
posted by にあごのすけ at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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