2008年09月03日

ゴーダ哲学堂



最近映画化された『自虐の詩』のマンガ家・業田良家の短編集。

ここでひとつ、「哲学」の定義について簡単に触れておこう。

哲学とは、言葉を使って論理的に物事を考察することである。

論理的であるというところがポイント。「〜だから〜である」「〜である、なぜだから〜だからだ」。論理的であるためには、他人の反論に耐え得るものでなければならない。他人の反論を論駁し、あるいは自分の間違いを認め、さらに議論を発展させていく。これが哲学である。

だから厳密には「私の哲学」は存在しない。「僕は人生は〜だと思うんだよなー」では哲学にはならない。これは哲学というよりはむしろ文学・思想と言った方が近い。

僕は哲学科出身なので、こういう細かいことが気になる。まあ、どうでもいいといえばどうでもいいことだ。

さて、本書『ゴーダ哲学堂』、さきほどの定義でいけば哲学ではない。むしろ文学である。しかし気にすることはない、人生の意味を探求するのに哲学的である必要はないのだ。

本書では、いくつかの短編を通して、人間の奥底に眠る苦悩や絶望感、そして救い、あるいは破滅を描く。

短編によっては感動するものもあるし、逆に目を覆いたくなるようなものもある。どのみち、なんらかの示唆を得られるマンガである。

「あとがき」で著者はこんなことを書いている。

『「人生に意味はあるか」という問がずっと私の心に引っ掛かっていた』

そして、このテーマに関する考察をけっこうな長文で論じている。ちなみに、論じていることは、以前に紹介した本『逆説のニヒリズム』に通ずるところがあるので、合わせて読むと面白いかもしれない。

著者の結論はこうだ。

『人生には真・善・美という意味(価値)がある』

これについて僕は同意する。

前提として、「人生は無意味だ」と考えてみる。

それに対する積極的な結論は分かれる。

1.人生は無意味だからさっさと自殺しよう。
2.人生が無意味だとしても生きていこう。


人生が無意味、すべてが無意味ならば、自殺することも生きることも無意味である。

それでも人生にYESと言えるかどうか。論理的には破綻している、でも、どれだけ強烈な証拠を見せられても、どんなに苦しい目に合っても、それでもYESと言い続けられるかどうか。

これはたぶん、一人ひとりのDNAなどの中に眠っている「美意識」の問題だと思うのである。
posted by にあごのすけ at 13:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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