2008年09月11日

スモーク



唐突だが、ハーヴェイ・カイテルはいい役者である。レザボア・ドッグス』でもそうだったが、渋さとカッコよさと同時に、なんともいえない哀愁を漂わせている。個人的には、ロバート・デニーロもいいが、やっぱりハーヴェイ・カイテルなのである。

そのハーヴェイ・カイテルが、ニューヨークはブルックリンの煙草屋の主人を演じる。

そこへ毎日煙草を買いにくる、スランプの小説家。

その小説家の家にひょんなことで居候することになるひとりの少年。

この3人をメインにストーリーは展開していく。

この映画は、言うなれば人生のすみっこに追いやられた人々を描いた作品である。

煙草屋という商売自体、禁煙ブームのいまとなっては後ろ指をさされるような商売だ。小説家は数年前に強盗に妻を殺され、いまだに立ち直れずにいる。少年は生き別れた父親を探している。

でも彼らは生きている。淡々と生きている。本当はいまにも人生から振り落とされそうな状況におかれているのに、知ってか知らずか静かに生きている。

煙草屋のハーヴェイは、もう10年以上も、毎日同じ時刻に店の向かいから写真を撮る。撮った写真をファイリングしている。

店は変わらない、しかし写真に写っている行きすぎる人々は毎日ちがう。そのうちの何人かはもうこの世にしないかもしれない。

ハーヴェイはなぜそんなことを続けているのか。それは最後まで明かされない(いや、最後の種明かしも完全に納得できるものではない)。

ふと、彼は生きるために写真を撮り続けているのではないかと僕は思う。どんなくだらないことでも、これと決めた日課があれば続けていこうと思う。明日が来るまで生きようと思う。

人間にとっての「生きる支え」、それは実は非常にか細いものなのかもしれない。立体でも平面でもない、言わば一本の線。意識していようとなかろうと、まるで蜘蛛の糸みたいな細い糸、実はそれだけが人間を活かし続けているのかもしれない。逆に言うと、どんなに小さなことでも、何かがひとつあれば人間は人生を耐えていける。この映画を見てそんなことを考えた。

この映画の特徴として、ストーリーは淡々としているが、登場人物の言葉が非常に重い。小話みたいなのもいくつか出てくるが、普通の何気ないセリフが非常に重く、味わい深いのだ。そしてユーモアに富んでいる。

あとでポール・オースターが脚本を手がけていると知り、納得した。そうかあのポール・オースターか(以前に彼の『孤独の発明』を紹介した)。

言われてみればたしかに、ポール・オースターのにおいがプンプンする映画である。

ラストシーンは必見。
posted by にあごのすけ at 02:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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