2008年10月24日

オイラーの贈物



数学書である。

「中学生レベルの数学からスタートして、大学理工学部1回生レベルの数学までをこの1冊でマスターする!」

壮大な目的を持った本である。

しかし実際、僕は浪人時代は数学はこの本しか読まなかった。予備校にしろ何にしろ、みんなと同じ時間に同じ場所に集まって勉強するのが大の苦手なのである。

高校では文系クラスだったので、数学の知識ゼロである(高校では数学は赤点ばかりとっていた)。

そんな僕が、この本だけで大学の理工学部に合格したのだから、やっぱり名著なのだろう(単に僕の大学がアホだったのかもしれないが)。

本書の最終目標として、著者は次のことを挙げている。

公式「e~iπ=-1」を理解する!!

簡単に説明すると、

「e」はオイラー数と呼ばれるものである(ややこしいので説明省略)。
「i」は複素数である(2乗したら-1になる仮想の数字)。
「π」はご存知円周率である。


別々の数学者が別々に発見したこの3つの定数。

そのはずなのに、

eを(i×π)乗したらなぜかマイナス1になる!!

これをスゴイと感じるかどうかは人それぞれのセンスなのだろうが。

たとえるならば、3人が別々のパズルを解いていたはずなのに、答えをつき合わせたらなぜか同じ結果だった。そいういう不思議さである。

もっと一般的に言うならば、「言葉」「理屈」「論理」の不思議さである。

たとえば友達と約束をする。

「じゃあ明日5時に駅前で。前貸してたCD持ってきてー」

すると翌日、友達はちゃんと5時にCDを持って駅前にやってくる。

あたりまえな話である。でもよくよく考えたら不思議ではないか?

考え方、感じ方は人それぞれ。
さらに言うと、他人の考えてることなんてわからない。
そのくせ、なぜか言葉は互いにちゃんと通じるのである。


この「言葉」や「理屈」という存在。あまりにもよくできすぎているのである。

そんな不思議さを体験できるのがこの本である。

数学があまりにもよくできすぎていることに驚嘆し、

「ひょっとしたら神様っているんじゃないのか?」

読み進んでいくうち、そんな宗教めいた思いさえ抱いてしまう。

そんな哲学的な話はおいといて。

もう一度数学を勉強しなおしたい、数学嫌いをなおしたい、そういう人には是非とも読んでほしい本である。

数式がいっぱい出てきて面食らうが、じっくり読めば誰にでもわかるように書かれている。

「3ヶ月ほど時間があるので旅に出るが、ひまでひまでしかたがない」

そんな人はこの1冊を持っていくといいかもしれない。

そんな人なかなかいないだろうけれど。

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2008年10月23日

尾崎放哉句集



五・七・五にしばられない自由律俳句といえば種田山頭火が有名だが、僕は尾崎放哉のほうが好きである。

あまりくわしくないのにこんなことを書くのは恐縮だが、山頭火は僕にとっては明るすぎるのである。なんだか陽気に旅をし、人の世話になりながら楽しく俳句をひねっているイメージがある。それはそれで「悟り」の境地なのだろうが。

尾崎放哉から受けるイメージは正反対である。

若い頃からエリート一直線、一時は生命保険会社の重役にまで昇りつめるが、職を捨て(正確に言うとクビになったのだが)、財産も失くし、妻とも別れ、無一文、文字通り「乞食」となる。

そして彼はこう俳句を詠む。

いれものがない両手でうける


本当に、人からの施しを受ける入れ物すらなくなったのだ。

その後、あちこちの寺を転々といそうろうしながら暮らすが、わずか3年で亡くなっている。

享年41歳。自らの死を予感していたのか、彼の俳句にははかなさが感じられる。本当に「いま」しかないのだ、それがすべてなのだ、そんな覚悟のようなものを感じる。

足のうら洗えば白くなる
咳をしても一人
めしたべにおりるわが足音
爪切るはさみさへ借りねばならぬ
行きては帰る病後の道に咲くもの


以前に石川啄木のところで書いたが、一時期短歌にはまっていたことがあった。そのとき思ったことがある。

小説が「映画」だとすると、短歌や俳句は「写真」である。

小説にはストーリーがある。つまり過去と未来があって、そのあいだにはさまれている現在が存在している。

しかし短歌や俳句には時間が流れていない。過去の余韻や未来の予感のようなものは漂っているのが、そこに描かれているのは、時間上のある1点、ある瞬間の出来事であり思いである。そのあたりが写真に似ていると思ったのだ。

乞食。ホームレス。そんな生活から抜け出したいと思っている人もいるだろうが、中にはきっと、人生を悟りきっている人もいる。

彼らには未来も過去もない。失うものはなにもない。あるのはただ「いま」だけ。ならばそれは一種の至福の境地と言えないだろうか。

乞食(こつじき)とは実は仏教用語である。

自ら働くことを放棄し、人からものを乞うという修行をしている僧侶のことを呼ぶ。ならば仏教的には、乞食は実は敬うべき存在である。

そんなことを考え出すと、僕は人と自分を比べたり、誰が誰よりも偉いか比べたり、そういうことを考えるのがアホらしくなってくる。

きっと乞食の中にも「勝ち組」はいるし、六本木ヒルズの社長の中にも「負け組」がいる。

だいたい僕がいつも言っているように、

すべての人生は「死」の前では負け戦である。
すべての人間は「無」のもとに平等である。


僕はいま、いっちょまえにまっとうな生活をしているが、それでもこれまでたくさんのものを捨ててきた。

言い方を変えれば「たくさんのものを失った」のでもあるが。

でもその結果、僕の人生はちょっとずつ軽くなっているような気もするのである。

喜ぶべきなのか。哀しむべきなのかはわからないけれど。

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2008年10月22日

ひとめあなたに・・・



これを読んだのはもうかなり前、僕が高校生のときだったが、一気にひきこまれた。こんなに熱中してしまう小説はあまり巡り合ったことがなかった。作者が(当時)まだ20歳そこそこの女性だと知ってさらに驚いた。

あとあと知ったのだが、新井素子と言えば、ライトノベルの元祖的存在とされる作家である。

例によってWikipediaによれば、高2で作家デビュー。口語体を取り入れた斬新な文体で、星新一の絶賛を受ける。「あたし」「おたく」と言った呼び方を多用し、のちの「おたく」という言葉を広める火付け役ともなった。「新口語体」との評価を受ける一方、日本語の貧弱化のきっかけともなったとの批判もある・・・・・・云々。

実際、彼女の他の小説もいくつか読んでみたのだが、「80年代おたく」のにおいがあまりにもプンプンしていて、ついていけなかった。

でもこの小説『ひとめあなたに・・・』だけは別である。

一週間後に隕石が地球に衝突して人類滅亡!

そのニュースを聞いて、主人公「圭子」は、骨肉腫におかされた恋人「朗」に会いに行くのだった。江古田から鎌倉まで。

ニュースが流れてから都市機能はマヒし、無法地帯。歩いていくしかない。その途中で、「圭子」はさまざまな人たちと出会う。

「明日地球が終わるとしたら何をする?」

無駄話で時々そんな話をしたりするが、そのケースパターンを並べたような小説である。人それぞれの「終わり」の迎え方。それが短編風に並んでいる。

これは別の小説にあった言葉だが、

「テレビで時代劇を見たら、そこにはさまざまな喜怒哀楽、悲劇、恨み、復讐などが描かれているが、よくよく考えたらそれは江戸時代の話。登場人物みんなすでに死んでいるのだ」

地球が滅びれば、すべては無に帰る。喜びも苦しみもすべて消える。あとに残される人もなく、悲しむ人もいない。オールリセット。終了。

しかし僕はなぜか「地球滅亡」という言葉に得体の知れない魅力を感じてしまうのだ。これは僕だけだろうか。

キリスト教には終末思想がある。中には、あからさまに世界の終わりを待ち望んでいる宗派もある。なぜならそのとき諸悪は滅び、信じる者は救われるから。

でも日本にはそういう思想はない。ただ、漠然とした「無」への誘惑はある。それも「自殺」よりも「地球滅亡」のほうに魅力を感じる、僕は。

これは一種の心中願望みたいなものなのだろうか。

たしかに、人生で一番幸せな瞬間に、すべての終わりが訪れたら、と感じることはある。

昔聞かされたおとぎ話、でも僕はいつも不安にかられた。

「そして王子様とお姫様は、一生しあわせに暮らしました・・・・・・」

でも実際にはそんなことはありえない。

人生最高の瞬間に、本当に幕が降りてきてくれたら・・・・・・。
ビデオが終わるみたいに、ブツッと切れて砂嵐の画面に切り替わってくれたら・・・・・・。


いやいや。
こんな破滅志向な話はこのへんで終わりにしておこう。

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2008年10月21日

犬の記憶



5年ほど前、バーで酔っ払いからニコンFM2を2万5千円で購入し、それから僕はモノクロ写真を撮り始めた。

なぜカラーじゃないのかと問われても答えにくい。ふだんはデザイン関係の仕事が多く、色には敏感なはずなのだが。

たぶん僕は世界をもっとわかりやすくとらえたかったのかもしれない。

「問題が複雑でわかりにくいときは変数を減らせ」

僕の友人の言葉だ。だから僕は、写真を撮るときは色彩を捨てることにした。明と暗。2元論で世界をとらえることで、なんとかそれを理解しようと思ったのかもしれない。

写真を撮りはじめてしばらくたった頃、この本を手にした。

森山大道。僕は写真は撮るが、プロの写真というものを知らない。森山大道だって、世界的に名の知れた写真家、ということくらい。

だが彼の写真は衝撃的だった。

ボケまくり。ブレまくり。おまけに粒子が粗い。粗すぎる。写真というよりはまるで表現主義の絵画のようだ。

僕にはずっと迷いがあった。

「写真は芸術じゃないんじゃなかろうか?」

写真はただ物事を写し取るだけである。単なる記録。何かを創造しているわけではないのに、芸術と呼んでいいのか。

しかし森山大道の写真を見てそんな思いはふっとんだ。彼の写真はもはや「記録」じゃなくてまるで「記憶」のようだ。

夢の記憶。なんだか思い出せないが、頭にこびりついて離れない記憶。彼の写真はそんなものを髣髴させる。

この本は写真とエッセイから成るのだが、このエッセイがまたすごい。

「写真とは何か?」「時間とは?」「記憶とは?」「自分って何だ?」

自問自答のくりかえしである。読み手のことなどまったく念頭にない。とにかく自問自答(このあたり、以前に紹介したポール・オースターの『孤独の発明』とスタンスが似ている)。

彼の写真も実は同じスタンスなのかもしれない。人に見せるために撮っているわけではない。自分の目や脳によってゆがめられたこの現実を、いかにして忠実に写真で再現するか。

「芸術とは自己表現である」

よく聞く言葉だが、これは明らかに間違っていると思う。芸術は自己表現ではない。

だいたい「オレは〜なんだぜ♪」なんて自己主張しているシンガーの歌なんて、彼のファンか、あるいは歌自体がよっぽど独自性を持っていない限り聞きたくもないだろう。

芸術家が向き合うべきなのは人ではない。あくまでも自分であり、作品である。なんらかの(神がかり的・狂信的な)ルールにのっとり、完全をめざす作業。

しかし、創作者が意図せずして、自分の本性が作品の中にさらけ出されてしまうのだ。

つまり芸術とは自己表現ではなく、「自己露呈」である。

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2008年10月17日

ほのぼの



僕の紹介する音楽ってかたよってるよな。まあ僕には僕の趣味があるのだからしかたがない。

あの頃僕は京都のはずれにいた。アパートを借りてひとり住んでいた。親の仕送りで生きていた。

ようやく入った大学にはなじめなかった。講義や他の学生らになじめず、僕は少しずつひとりになった。大学にもあまり行かなくなった。

気がついたらアパートから外に出ることすら恐怖するようになっていた。週1回、なんとか深夜のコンビニのバイトに行く以外は、アパートに閉じこもって暮らした。ひどいうつ状態だった。

その頃に、すがるように買ったのがこのCDである。CDプレーヤーがなかったので、一番安いやつ、フナイ製のやたらと図体のでかいプレーヤーもいっしょに買ってきた。

警戒水位

詩・曲 さだまさし

故郷の言葉さえもう忘れたふりをして
都会で息ひそめ 私はここで何をしたかったんだろう
知らず知らずのうちに私の心は
既に警戒水位 ギシギシ音をたてて揺れてる

せつなか せつなか
もう一人の自分が呼んでる
せつなか せつなか
故郷の海がみたいよ

無表情を装って傷つかぬふりをして
深夜のストアの中 棚をみつめて何を捜してるんだろう
あなたを待ち続けるのに疲れた訳じゃなく
ふと警戒水位 涙が音をたてて揺れてる

恋しか 恋しか
本当の自分が叫ぶよ
恋しか 恋しか
あなたの笑顔がみたいよ

せつなか せつなか
もう一人の自分が呼んでる
せつなか せつなか
故郷の山がみたいよ


さだまさしの歌は暗いというのが一般のイメージだが。ここまで絶望感を絞り出した歌もめずらしい。

アパートの一室でひとりこの歌を聴いて、僕はどうしたんだろう。激しく泣いたような気もするがおぼえていない。泣く気力もなかったような気もする。

とにかく、共感なんて生ぬるいものじゃない、残酷なほどの鋭さで歌詞の言葉が心に突き刺さってきた記憶がある。

でも、僕にとって「故郷」ってなんだろう。
僕が会いたい「あなた」とは誰だろう。


当時の僕にはそれすらもなかった。

このアルバムは名曲ぞろいである。70年代フォークを支えた大御所ギタリスト・石川鷹彦とほとんどふたりだけで制作したアルバム。アコースティックなサウンドが心地よい。

さだまさしの声質は時期によってかなりちがっていて、この頃(1992年)はかなりガラガラ声である(飲みすぎで喉をつぶしたらしい)。でもこのかすれた声が余計に切なさをかきたてる。

聖域(サンクチュアリ) 〜こすぎじゅんいちに捧ぐ〜

作詩・作曲 : さだまさし

テレビやラジオが毎日告げるのは
悲しい事件ばかり 生命は軽くなるばかり
みんな気付いてる 何かおかしいってこと
なのに明日になれば 忘れたふりをするのかな

それを尋ねたら みんな笑いながら僕に言うんだ
お前ひとり悩んでも無駄なことさ切ないだけだよ

君もそんな風に僕を嘲うのかな
君もそんな風に僕を嘲うのかな

愛は音もなく現れては消える
君と僕とをつなぐ 確かなものは何もない
何が真実か 何を信じるのか
それを考えることは 古くさいことらしい

愛について生命について時の流れについて
父や母や友達や 君のやさしい笑顔について

君はいつまで僕を愛せるだろう
僕はいつまで君を守れるだろう
君はいつまで僕を愛せるだろう
僕はいつまで君を守れるだろう


このまえの秋葉原通り魔事件はやるせなかった。

事件の非道さはもちろんのことだが、容疑者が犯行前に残したネットの書き込みを見てますますやるせなくなった。

(リンク)秋葉原通り魔事件殺人犯の書き込み

これは。
これはまるで、うつでひきこもってた頃の僕と同じではないか。

そう思うと、僕だって追い詰められた挙句に自暴自棄になって、何らかの犯罪に手を染めなかったとも限らないのである。

さだまさしが、テレビやライブでこの事件について触れ、こんなことを言っていた。

「亡くなった方々や遺族の方々の無念さを思うと言葉もありません。
でももし、あの事件を起こした青年が前日にたまたま川のほとりを歩いていて、溺れている子どもを見つけていたとしたら。
彼は手を差し伸べなかっただろうか。
自然と手が伸びて、子どもを助けようとしたんじゃないだろうか。
世の中、善人と悪人がはっきり別れているわけじゃなくて、人間の心はそれだけ揺れやすいものだと思います。誰だって犯罪者になる可能性はある。
だからあの事件は防げたと思う。
もし事件の前日、友達が彼に声をかけていたら。
「おいおまえ、だいじょうぶか?」そう一言ねぎらってくれる人がいたら。
事件は起こらなかったかもしれない。
不幸なことに、彼にはそんな友達もいなかった」


人生は不条理。
人生は不公平。

人間はみなどうしてこんなにも苦しい思いをしなきゃならないんだろう。
そのくせ、人間はどうして他人を傷つけてしまうんだろう。

僕はなんの力もない人間である。
でもインターネットというのは世界中の人々とつながっているらしいから、一言言っておきたい。

いま追い詰められているひとへ。
あなただけじゃないんだよ。


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2008年10月16日

悩む力



タイトルだけ見て、また例によってビジネスマン向けの成功ハウツー本かと思っていた。

しかし読んでみてまったくちがった。姜尚中というこの人が自ら悩んだ経験を軸にして書かれた、自伝的エッセイだった。

よい意味で裏切られた。好感を持てた。姜尚中といえば「朝まで生テレビ」のパネリストというイメージしかなかったが、いつも物静かで、そのくせ話し出すとなぜかみんな黙って聞いてしまう、彼の人柄がどこから来ているか少しわかった気がした。

好感を持って読めた個人的な理由のひとつとして、彼が在日韓国人だというのがある。

韓国と日本というふたつの祖国を持ったことが、彼の「悩む」という行為のスタート地点だったと書いている。

僕自身もそうだった。僕は日本人だけれどもアメリカ生まれ、小学校が終わる頃まで、日本とアメリカとを何度か移り住んだ。

そして結局、日本人にもアメリカ人にも染まり切れなかった自分が残った。

僕はいつも傍観者だった。日本人が日本的固定観念に翻弄され、アメリカ人がアメリカ的固定観念に翻弄されているのを、いつもハタから眺めていた。

そして小学生ながらこう思ったものである。

「何も信じてはならない。何が正しいかは自分で考え、選択しなければならない」

これが僕の「悩み」の原点のひとつである。

僕はこれまでずっとひとりで悩み考えてきたから、自分の書いたものやつくったものにオリジナリティがあるかどうかなんて気にしたことがない。オリジナリティがあって当然。それは僕の自信にもつながっているし、同時に孤独を感じる部分でもある。

彼は夏目漱石と経済学者マックス・ウェーバーを取り上げ、ふたりとも、近代化・資本主義化する時代に巻き込まれて苦悩していたこと、そして彼らの思想が現代にも当てはまると主張している。

たしかに納得できる説明ではあるが、姜尚中は政治学者であり、自分の経験に触れながらも、あくまでも学者としての立場を捨てずにこの本を書いている。

彼の悩んだ経験についてもっと赤裸々に書いてほしいと思った。ひょっとしたら別の著作に書いてあるのかもしれないけれど。

僕は悩んでばっかりの人生である。

小学生の頃からそうだったし、大学時代は2年間ひきこもって悩み、自分を極限までいじめ抜いた。いまでもことあることに何かしら悩んでいる。

悩むとは、答えを先延ばしにすることである。放置するという意味ではなく、いろいろある選択肢の中から何がベストで何が正しいのかを、精神が疲弊するまで考え続けることである。

だから悩んだあとは、たしかに少しだけ視界が広くなったような気はする。そして少しだけ中立的に物事を考えられるようになった気はする。

本書の中で、現代の若者はあまり悩んでいない、という趣旨のことが書いてあったが、必ずしもそうではないと思う。みんな人それぞれ、それぞれの方法で悩んでいるのだろう。

だいたい人に向かって「悩め!」なんてとてもじゃないが言えない(姜尚中もそこまでは主張していない)。

だって悩むのはつらいもの。悩めと言われて悩めるものでもないし。悩まずにすむならそのほうがずっと楽だし。

でも僕は、日々悩みぬいて、ひとつの悩みを乗り越えたらまた次の悩みに飲み込まれる、そんなマヌケな人のほうが好きだし尊敬できるなあ。

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2008年10月15日

空想ルンバ



このブログを読んでいただいているのがどんな人たちなのか、そもそもちゃんと読んでくれている人がいるのか、僕は知らない。

しかし読んでいただいている方がいるとするならば、この歌は「ドンピシャリ」なんじゃなかろうか。あまりにもハマりすぎていて取り上げるのをためらっていたのだが、これは紹介するしかないでしょう。

「空想ルンバ」。大槻ケンヂと絶望少女達。アニメ『さよなら絶望先生』続編のテーマ。

空想ルンバ

作詞:大槻ケンヂ 作曲:NARASAKI


ルンバルンバルンバルンバ・・・

徨う姿はさながらルンバ
よろめく姿も目茶苦茶ルンバ
ふらつきながらも生きていルンバ
はたから見りゃダンスに見えルンバ

良ければ一緒に踊りませんか
いえいえ貴方じゃ踊れませんわ
ひとりじゃ虚しい踊ろうよルンバ
おとといきやがれ一人でルンバ

俺の値段を誰が決めた?
虎や豹が僕等の心にも
獣達が潜む事 知らないから奴等
安い値をつけやがって 解き放つぜ  

さあ 逃げ惑えその隙に
踊ろよ僕達はルンバ
微笑み軽やかに君と
その日は来るのか分からなくて

ルンバルンバルンバルンバ・・・

深夜の通販 レクチャールンバ
見るだけ踊れる貴方もルンバ
お高いでしょうねお幾らルンバ
セットで売るならお値引きルンバ

それなら僕などセットでどうじゃ
いえいえ貴方とセットは嫌じゃ
負けたら 人生悔しいルンバ
地団駄踏め踏め人生ルンバ

ルンバルンバルンバルンバ・・・

俺の値段を誰が決めた?
星や花が僕等の心にも
輝いてる事を知らないから奴等
安い値をつけやがって・・・高を括ったな?
牙や爪を研ぐことを知らないから奴等
破格値をつけやがって!食らいつけ!

さあ 逃げ惑えその隙に
踊ろよ 本当のルンバ
微笑み軽やかに君と
その日が来るのを 信じてるわ

人に値段があるのなら
それは誰が決めるのか?
僕もプライス決めようか?
君の価値さえも 決めかねて
分からなくて




大槻ケンヂがどのようにして作詞しているのか知らないが、よくもまあ人間の現代的問題と普遍的問題の両方ともひっくるめて詰め込めたものである。


現代的問題とは、一時流行った「勝ち組」「負け組」という言葉で象徴されるこの風潮。格差社会。

かたやネットカフェ難民となり、日雇いや請負労働者として搾取され、かたや億万長者になって六本木ヒルズでふんぞりかえっている。「がんばれば必ず夢はかなう」なんて言葉が空虚化した、何が勝ち負けを決めているのかすら混沌としているこの社会

普遍的問題とは、結局のところ人は他人との関わりの中でしか生きていけなくて、そのくせ他人を値踏みし、他人に値踏みされながら生きているという事実

仕事仲間を、友達を、無意識のうちにランク付けしている自分。そしておそらく、実は周囲からもランク付けされている自分。

モノを買うにはお金がいるけれど、体験や経験はプライスレス、どこかのカード会社のCM、でもとんでもない、現金ではないけれど僕たちは体験や経験にすら無意識に価値のランクをつけてしまっている。

無償の愛は? ・・・・・・いやいやそれすらも、やたらと値段が吊り上げられた「かけひき」にすぎない。

無償の愛が本当にあるとすればそれは・・・・・・人間どころか万物すべてに平等に向けられた、慈しむ心か?

自分でもわからなくなってきた。何も言えなくなってきた。第一何も言う資格がない。

ただ言えることは、この歌詞の言葉を借りるならばコレしかない。

とにかく逃げ惑え!!

僕らを傷つけるすべてのものから逃げ惑え!!

逃げることは弱いことではない。人間誰だって逃げているのだ。

オリンピックで金メダルをとったあの選手だって結局、「金メダルをとれない自分」が怖くてそこから逃げのびてきた結果にすぎないのだ。

僕の格言がひとつ増えた。

すべての人間は、ただただ逃げているにすぎない。

だがしかし、

逃げ切れない相手とは戦うしかない。

これもまた事実なのだ。

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2008年10月14日

私は「うつ依存症」の女



主演クリスティーナ・リッチのなんと華奢なことよ。個人的には『バッファロー'66』の頃のムチムチした体型が好きなのだが。

しかしこの邦題にはどうしても納得できない。まるで、うつ状態に依存する病気があるみたいではないか(最近は「擬態うつ病」なんてのもあるが、あれもれっきとした精神疾患のひとつである)。

うつ病に対する誤解を世間に広める恐れもある。悪訳はなはだしい

原題は「プロザック・ネイション」である。プロザックと言えば、アメリカでもっとも多く飲まれている抗うつ剤だ。日本では未認可。

だから直訳すれば「プロザック国家」、ちょっと意訳して「抗うつ剤大国」となる。

この映画では、アメリカであまりにも多くの人がプロザックに依存している現状も描かれている。たぶん「抗うつ剤依存症」と言いたいところを、長すぎるので「うつ依存症」に短縮したのだろう。しかしとにかくいいかげんな訳だ。

実話(自伝)に基づく映画。

クリスティーナ・リッチ演じる「リジー」が、名門ハーバード大学に入学し、ミュージシャンの批評記事で賞も取る。

だが彼女はだんだん書けなくなっていく。生活は荒れ、自分を追い込み、彼氏ともうまくいかず、幼少の頃の両親の離婚の経験もあいまって、負のスパイラルをどんどん転げ落ちていく。

いわゆる僕の知っている「うつ病」とはだいぶんちがう。正確には「非定型うつ病」らしいが、僕にはボーダーラインのようにも見える。

病名はさておき、彼女が陥っていく、思考の悪循環というのは多かれ少なかれ誰もが経験したことだと思う。

たぶん世界は、何も描かれていない真っ白なキャンパスみたいなものだ。

人はそこに勝手に幸福を見ることもあるし、悪い部分ばかりを見つけて不幸になることもある。

「ものは考えよう」

よく言われる言葉だし、たしかにそうだとは思う。しかし悪循環に陥って自分の意志ではどうしようもなくなってしまうことも、事実としてある。

僕はいつも不思議に思う。

どうして悪循環に陥ってしまうのだろう?

人間の脳に、あるいは論理構造自体になんらかのバグでもあるんだろうか。心というコンピュータがフリーズしてしまうまで続く無限ループ。

結局彼女は、抗うつ剤プロザックを服用することであっけなく治癒する。性格は安定し、また前のように文章が書けるようになる。本当にあっけないエンディング。

彼女は精神科医に問いかける。

「気分はよくなったけれど・・・・・・なんだか自分が自分じゃなくなったような気がするんです」
「それでいいのよ、あなたが治りかけている証拠よ」


僕自身、似た経験はある。

同じ抗うつ剤であるパキシルを1日50mgも飲んでいたとき。気分はよくなった。でも、足もとに「うつ」の波がドロドロと流れているのは感じるのである。でもそれを見ることができなくなった。まるで浮き輪を体中に縛りつけられて、うつの渦に潜ろうとしても潜れない、強制的に浮かばされているような感じだった。

この映画が何を主張したいのかはよくわからない。

抗うつ剤の効果を支持しているようにもとれるし、逆に疑問を投げかけているようにもとれる。

そりゃ僕だって「うつ」はなるだけ経験したくはない。

しかし思考の悪循環の末にかいま見える「この世の地獄」だって、ひとつの真実だとも思う。

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2008年10月11日

のんのんばあとオレ



水木しげるの自伝的マンガ。少年時代、彼の家にお手伝いとして来ていた老婆「のんのんばあ」を中心に物語は進んでいく。

「のんのんばあ」は、日常生活で起こったできごとを何でも妖怪で説明する。「のんのんばあ」は実在した人物らしく、妖怪マンガ家・水木しげるに多大な影響を与えたようである。

昔は科学も文明も進歩していなかったから、人々は迷信にたよって生きてきた――と多くの読者は思うだろうが、僕には別の意見がある。

たぶん昔は、本当に妖怪が存在していたのだろう。

たとえば科学者は、「宇宙はビッグバンではじまった」「死後の世界は存在しない」と言う。

でも科学者が実際に宇宙のはじまりに行って見てきたわけではない。科学者が死んでみたわけでもない。

世の中にはわからないこと、確かめられないことが多すぎる。状況証拠はあっても物的証拠はない。

「いや、それでもたしかに宇宙はビッグバンで始まったのだ」、そう主張する科学者は、「科学的方法」を使ってそれを証明しようとする。

でもこれって、「聖書に書いてあることは正しい」ということを、聖書を使って説明しようとするキリスト教牧師に似てないか?

僕が思うに、確かめようのないことは、どんな説明でも筋が通るのである。「宇宙はビッグバンではじまった」「宇宙は神がつくった」、アプローチこそ異なれど、どっちの説明も正しいのである。

だから、世の中の出来事を「妖怪」で説明するのもまた正しいと僕は思う。そしてこれは正しいことだと当時の人々の間では認められていた。

これは別に僕だけの解釈ではない。科学哲学者であるクワインも似たようなことを主張している。

何かを説明するにあたって、正解がひとつしかないなんてことはあり得ない。筋の通る説明は何種類も存在する。

だとすれば「『火の妖怪』が存在していて、そのおかげでモノが燃えるのだ」という理論に基づいたとしても、自動車のような乗り物は発明できるのではないか。いまの自動車とは少しは形状のちがったものになるかもしれないが。

大切なのは、ひとつの説明に執着しないこと。

科学だけに執着しない。ひとつの宗教だけに執着しない。スピリチュアルだけに執着しない。

いろいろな考えを並列的に受け入れることが大事だと思うのである。

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さて、このへんでそろそろ釈明しておく必要があるかもしれない。

「人生は無意味だ」

僕はこのブログで何度もそう主張してきた。

そのくせ最近は「神」だの「死後の世界」だの「妖怪」だのについて触れることが多い。

「ホントにおまえは人生が無意味だと思っているのか?」

そんなツッコミを入れられそうだ。

正直なところを言うと、僕は、人生に意味があるとかないとか言うこと自体、無意味だと思っているのである。

それでも僕は自分の存在意義を考えざるを得ない。人生について宇宙について、どうしても考えてしまう。何かが僕を突き動かして止まないのである。そして、そんな無意味なことを考え続けている自分を嘲笑している自分がまたいたりするのである。

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2008年10月08日

コンタクト



僕は文学部哲学科を出たのだが、哲学者ウィトゲンシュタインについての卒論を書くにあたって、この映画から大きなヒントを得た。

僕の思想に少なからず影響を与えた映画のひとつである。

地球外生命体からの電波をキャッチする!

この映画のテーマである。ジョディ・フォスター演じるアロウェイ博士が人生をかけて研究に取り組んでいる。24時間、何年もかけて、巨大電波望遠鏡で宇宙からの電波を観測し続けるのである。

その日はついにやってきた。電波望遠鏡が謎の信号を受信する

その信号を分析すると、それは宇宙空間移動装置の設計図だった。

ここでひとつ重要なキーワードが出てくる。

「オッカムの剃刀」。

14世紀の哲学者オッカムが残した言葉をこう呼ぶ。それは僕なりの言葉で言うとこうだ。

「何かを説明するために余計なものはいらない。単純な説明が一番正しい」

アロウェイ博士と、その恋人である牧師が議論するシーンがある。

「神はいるかいないか?」

アロウェイ博士はコテコテの科学者、神様なんて信じていない。その根拠として「オッカムの剃刀」を出してくる。

この世界の物事はすべて科学で説明できる。わざわざ神様なんかひっぱり出してくる必要はない。つまり、神は存在しないのだ、と。

空間移動装置にはアロウェイ博士が乗り込むことになる。そして彼女はこの世のものとは思えない景色を見る。

宇宙にちらばる星々。銀河。その美しさ。

彼女は泣きながらつぶやく。

「私なんかが乗るんじゃなかった。詩人が乗るべきだったんだわ」

そして彼女はどこか遠い星に行き、死んだはずの父親に姿を変えた知的生命体とコンタクトするのだ。

この壮絶な旅を終えたあと、問題が起こる。

アロウェイ博士は果てしない距離を長い時間をかけて旅をした。

しかし地球の基地では、そのデータがまったく記録されていなかったのだ。空間移動装置も、外から見る限り何もおこらず、ただ壊れて動かないように見えただけだった。

たしかに自分は宇宙を旅したのだとアロウェイ博士は主張する。でも誰も信じてくれない。

「夢でも見たんじゃないの?」

彼女は審議にかけられる。そして審問官が、よりによって「オッカムの剃刀」を例に出してくるのである。

誰も見ていない、記録にも残っていない。ただあなただけが見たと主張している。あなたが実際にあの装置で宇宙を旅したと考えるよりも、単にあなたが幻覚を見たと考えたほうが、単純明快で全うな説明なんじゃないか? と。

信じるとはいったいどういうことなのだろう。

「信じることは逃げだ」。

僕はこのブログの中で何度かそう書いてきた。それも一理ある。だがしかし、と思うのだ。

根拠があるから信じるのではない。
根拠がないのに信じるからこそ、「信じる」という言葉を使うのだ。


僕はニヒリストである。無意味主義者である。でも「だがしかし」と心にいつもひっかかっている。正直にいうと実は、何かよくわからないけれどたしかに「何か」が存在すると心の中では信じているのだ。子どもの頃からずっと。

「神」と呼びたければ呼んでもいい。逃げだ、妄想だ、なんとでも呼んでくれたらいい。

それでもやはり何かを信じている自分がいる

その点で僕は、「宗教人」である。それは認めざるをえないのだ。

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2008年10月07日

serial experiments lain



1998年作のテレビアニメ。しかしいまさらのようにその先見性に目をむいてしまうアニメである。

新世紀エヴァンゲリオンが70年代〜90年代日本文化の集大成だとすれば、lainは2000年代以降を予感させるアニメだと思う。

ひとつにはその精神病理学的な描写とストーリーにある。

以前の記事で、「現代はボーダーライン(境界性パーソナリティ障害)よりも解離性障害が増えつつある」と書いた。そのことがこのふたつのアニメ作品にもあてはまる。

エヴァンゲリオンはボーダーライン的である。情緒不安定、見捨てられ感、空虚感、などなど、登場人物のほとんどがボーダーライン的病相を示している。

lainはそれとはまったく異なる。中学生の玲音は、ふだんはおとなしい少女である。ところがワイヤード(ネットの世界)に入ると、とたんに性格も能力も豹変するのである。普段の玲音はそのことをまったく記憶しておらず、まるで多重人格のようである。

絵のカット割りにしてもそう。場面がコロコロ変わる。というか飛ぶ。自分が一種の解離性健忘になったような錯覚をおぼえる。とにかく何かにつけてlainは解離性障害的なのである。

このアニメのもうひとつのすごいところは、インターネットや仮想現実のとらえ方にある。

仮想現実というと、現実の対極にあるものとしてとらえるのが普通だ。映画『マトリックス』でもそうだった。

しかしこのアニメでは、現実世界とネットの世界は地続きなのである。さらにネットの世界は、死後の世界ともつながっている。

いや、むしろネット界のほうが現実界よりも上層にある。情報があふれるネット界が具現化したもの、それが現実であるとする。

このあたり、僕個人にとっては非常にリアリティがある。「ネットは死後の世界ともつながっているんじゃないか?」。本気でそう思うことがある。

人間の心が、脳に記録されたデータやプログラムの産物にすぎないとすれば、宇宙そのものがひとつの巨大なデータベースであると考えることができる。

ならば人間には「死後」は存在する

サーチエンジンやパソコンにキャッシュ機能があるように。ハードディスクが断片化していてもプログラムが起動するように。

・・・・・・話がかなりそれてしまったが、とにかく僕は予言的にとらえているアニメである。
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2008年10月06日

葬列

葬式の参列を見た!

大勢の人間が喪服に身を固めていた!

貸切バスが何台も到着し、真っ黒な集団を次から次へと吐き出していた!

しかし親戚の老人老婆、昔話に花を咲かせ語らい笑い合い、従兄弟の子どもら小突き合いふざけ合い、学生服の少年ら休日がつぶされたことにふてくされ不服顔、悲しみの色などどこにもない!

人生はまだまだ長いだって?

それもよかろう! だが人生は往々にして、心の準備できぬままある日突然に打ち切られるのだ!

明日は我が身だって?

それもよかろう! だがそれに限って人生はなかなか終わらぬ、老いさらばえ身体は衰え、目と耳は弱り、尻すぼみの人生ひたすら消え入る時を待つ、地獄の苦しみを味わうのだ!

そこへ青空にわかに曇り、1滴2滴、大粒の水落ち、そして突然の豪雨。

黒い喪服にさらに真っ黒な染み無数につくり、叫び声、逃げ惑う老人、夫婦、少年少女、地元権力者、葬儀屋、我先にと屋内に駆け込み、ようやく暗い瞳でみな空を見上げる。

あとに残るは棺桶のみ。霊柩車に半分突っ込まれたまま放置され、誰にも目を向けられることもなく、鈍く光る雨筋いくつも流れる。

死者だけが雨に濡れる。
ラベル:人生 葬式
posted by にあごのすけ at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | もの思う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月05日

生きづらい<私>たち



香山リカといえば、時々テレビに出てくるタレントまがいの精神科医、というイメージしかなかった。

でもこの本を読んで印象は変わった。

冷静だけれどもできる限り患者の視点に近づいて心の病をとらえようとしている。なおかつ現代という時代を非常によくとらえている。好感が持てた。医者としての暖かい視線を感じられる本である。

(この本は4年前に書かれた本なので、現在は心の病をとりまく状況が若干変わっているかもしれない。逆に言うと、4年程度で古くなってしまいかねないほどの「旬」なネタを扱っている)。

彼女は現代社会を生きる「生きづらい」と思っている人々を取り上げ考察する。

リストカットなどの自傷行為をくりかえすボーダーライン(境界性パーソナリティ障害)な人々の考察。

個人的な話になるが、僕も20歳ごろは煙草で根性焼きをくりかえしたり、髪の毛を抜いたり(抜毛症)していたので、多少なりともそのケはあるのだろう。

僕の注意を惹いたのは、香山リカが「現在はボーダーラインよりも解離性障害が増えつつある」と主張している点だ。奇しくもやはり精神科医の斎藤環が同じことを言っていたからだ。

解離性障害とは、言うなれば「自分」がバラバラになる精神症状の総称である。

僕は精神科医ではないので責任は持てないが、症状をまとめると以下のようなものになる。

記憶が飛ぶ。気がつくとまったく別の場所にいたり、自傷などをやらかしていたりする。
多重人格。複数の人格がひとりの中に同居する。
離人症。周りの出来事がリアルでなくなり、まるで映画でも見ているようにしか感じられなくなる。また、モノが実際より巨大に見えたり小さく見えたりといった知覚障害も含む。
■その他、トランス状態、憑依状態、失神、混迷、運動障害など。

一般に解離性障害というとき、「自分が自分でなくなる」諸症状をさすことが多い。

香山リカは解離性障害が増えた原因についていくつか原因を考えているが、そのひとつとして、ネットが普及したことによって、いつでも『自分じゃない自分』になることが容易になったからではないか、と主張している。

いまいち説得力に欠けるが、僕自身もろにネット世界の人間なのであまり反論できない。

・・・・・・で、いきなり結論だが。

僕は精神病や心の病の本を読んで「よかった」と思うことはあまりない。なんだかいきなり土足で心の中に踏み込まれて、それも全然的外れなところをいじられているような気がして、気持ち悪いのである。

しかしこの本は読んで「よかった」と思った。

本書の最後のほうに、「じゃあこうすればちょっとは生きやすくなるのでは」ということを書いている。

「こうすればいい!」などと断言はしていない。あくまでも彼女の意見として、言葉を慎重に選びながらアドバイスを書いている。そのあたりも、香山リカはちゃんとした精神科医なんだな、と好感が持てる本である。
posted by にあごのすけ at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月02日

暴れだす



トータス松本はじめとするウルフルズの曲。アルバム『9』に収録。

暴れだす

詞曲 トータス松本


あぁ 神様オレは 何様ですか
どうしていつもまちがえるのか
悩みはたえず オトナになれず
眠れぬ夜を 今夜もまた
笑ってごまかす 声もむなしく
飛び出すことも できないままに

あぁ 胸が
暴れだす 暴れだす
誰かそばにいて

あぁ あのコはなぜ 笑っているのか
あきれるほどの オレのダメさに
イヤな顔もせず 知らん顔もせず
少ない言葉で はげましてくれる
「泣いたりしたら 苦しくなるよ」
わかっているけど 止まらないのさ

あぁ 胸が
暴れだす 暴れだす
どうかそばにいて

もしも あの時 もっと心に余裕があればなぁ
今まで こんなに人を悲しませずにすんだなぁ
人のために出来ることはあっても
人のために生きることができない

あぁ 神様オレは これでいいですか
本当に何も わからないままで
オトナになって やることやって
ケガの数だけ 小さくなって

あぁ 胸が
暴れだす 暴れだす
誰かそばにいて

あぁ 胸が
暴れだす 暴れだす
どうかそばにいて

あぁ 胸が
暴れだす


いきなり歌詞の引用からはじまったが、僕はウルフルズのウンチクを語れるほどくわしくないのだった。

だがこの詩はもうダメである。歌詞を見ただけで泣けてくるのである(最近どうも情緒不安定である)。最初に、たしかラーメン屋かどこかで飯を食っている最中に有線からこれが流れてきて、僕は箸をとめてただただ言葉を失った。

結局人間孤独なのである。ひとりなのである。

「あぁ神様」

僕は無宗派だけれども信仰心はあるほうだ。子どもの頃はよくこうやって神様に語りかけていたような気がするが、いつのまにかやめてしまった。

もしも あの時 もっと心に余裕があればなぁ
今まで こんなに人を悲しませずにすんだなぁ
人のために出来ることはあっても
人のために生きることができない


僕はいまだに心に余裕がない。僕から「どうかそばにいて」とすがった人々を、最終的には悲しませることになる。それも徹底的に裏切ってしまうことになる。ずっとそうだ。

人間はひとりきりであり、だから誰かそばにいてほしいのであり、けれどもその誰かを傷つけてしまう。人間は、というか僕は罪深い人間である。

子どもの頃は、大人になることが目標だった。

いまはできないことも、悔しいことも、無力なところも、大人になればすべて解決すると思っていた。

けれども大人になった僕はいまだに不完全であり、無力である。

過去は思い出となり、夢はあるけれども、時々階段の影をのぼっているだけで実は地面を這いずり回っているだけのような気分になる。

それでも人生は続く。
そして僕は、もっともっとたくさんの人々をきっと傷つけていく。

posted by にあごのすけ at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月01日

深海



ミスチルことMr.Childrenの5枚目のアルバム。

だがそれまで出していたアルバムとはまったく別の空気と方向性をもつものとなった。

美しいラブソングを歌うさわやかでポップなユニット。これがそれまでのミスチルのイメージだった。ところがこのアルバムから急に、メロディも歌詞もへヴィになり、ドロリとしてくるのである。

僕が本格的にミスチルを聴き出したきっかけは、次の曲をテレビで見たからだった。

マシンガンをぶっ放せ

詞曲:桜井和寿


あのニュースキャスターが人類を代弁して喋る
「また核実験をするなんて一体どういうつもり?」
愛にしゃぶりついたんさい
愛にすがりついたんさい

やがて来る”死の存在”に目を背け過ごすけど
残念ですが僕が生きている事に意味はない
愛せよ目の前の不条理を
憎めよ都合のいい道徳を
そして僕に才能をくれ

見えない敵にマシンガンをぶっ放せ Sister and Brother
正義も悪もないこの時代を行進していく兵士です
殺人鬼も聖者も凡人も共存してくしかないんですね
触らなくたって神は祟っちゃう
救いの唄は聞こえちゃこないさ

参考書を持って挑んだんじゃ一生謎は解けぬ
良識を重んじてる善人がもはや罪だよ
愛せよ目の前の疫病を
憎めよ無能なる組織を
そして僕にコンドームをくれ

僕は昇りまた落ちてゆく 愛に似た金を握って
どうせ逆らえぬ人を殴った 天使の様な素振りで
毒蜘蛛も犬も乳飲み子も共存すべきだよと言って
偽らざる人がいるはずないじゃん
この現実に目を向けなさい

愛せよ単調な生活を
鏡に映っている人物を
憎めよ生まれてきた悲劇を
飼い慣らされちまった本能を
そして事の真相をえぐれ

見えない敵にマシンガンをぶっ放せ Sister and Brother
天に唾を吐きかけるような行き場のない怒りです
宗教も化学もUFOも信じれるから悲惨で
絡まりあって本心偽って
めくるめくの every day
僕は昇りまた落ちてゆく
何だってまかり通る世界へ




まず一番に驚いたのは「僕にコンドームをくれ」という歌詞。コンドームが出てくる歌ということで単純に驚いたのである。

あとは、
「残念ですが僕が生きている事に意味はない」
まあ、このブログのテーマと同じことを歌っている点。それまでのさわやかなミスチルでは考えられない歌詞だった。

「良識を重んじてる善人がもはや罪だよ」
そう、僕(ら)はいったいどれだけ「良識ある善人」に苦しめられていることか。

家にひきこもっていたときもそう、うつ病になったときもそう、僕を苦しめるのは常に「良識ある善人」どもだった。

さらに
「宗教も化学もUFOも信じれるから悲惨で」

まさにそのとおり。信じられるマガイモノがこの世には多い。そして人は何かにすがりたくて、何かを信じることで逃げ込もうとする。

かくして、この曲は当時の僕のフィーリングにドンピシャリだったのであり、僕はミスチルを聴くようになったのだった。

中には当時のシングル曲も含まれており、すべての曲がそうというわけではないのだが、このアルバムには「不条理」「死」のにおいが満ち満ちている。

こんなアルバムつくってしまったら、これからフツーのラブソングが歌えなくなるんじゃないか?

僕は人ごとながら心配したが、そのとおりになった。

このあともいくつものアルバムを出し、ラブソングも人生の応援歌もつくっているのだが、以前とは少しちがうのである。どこかひねくれている。ひんまがっているのである。それを言っちゃおしまいよ、というようなセリフが、フツーの歌詞の中にまぎれるようにして出てきたりする。

普通なら「愛している」の一言で終わってしまうところが、その言葉の背後にあるしがらみ、疑い、偽善、計算、そんなものまですべてひろいあげて詩につめこもうとしているように見える。

ミスチルのこのひねくれ具合が僕は好きなのである。
posted by にあごのすけ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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