2009年02月11日

現代思想の遭難者たち



哲学の入門書とは正反対に位置する本。具体的に言うと、いしいひさいちが、哲学者をパロディにしたマンガ集なのである。

10年ほどまえ、現代思想の冒険者たちという全31巻からなるシリーズが刊行された。重厚だがわかりやすく、なおかつけっこう深いところまで突っ込んだ、哲学の入門書としてはおすすめのシリーズである。

その本1冊ごとに小冊子が付録でついていた。その小冊子の片隅に、いしいひさいちが哲学をギャグにした4コママンガを連載していた。それを集め、さらに新作を追加して1冊のマンガ本にしたのがこの本である。

だからこの本は、正統な入門書である『現代思想の冒険者たち』シリーズの番外編に位置する(出版社も装丁も同じである)。

しかし、よくもまあこんなモノ(と言うと失礼だが)出版したものである。言うなれば哲学マニアの内輪ネタ・楽屋ネタなのである。哲学を知っている人にとっては笑いどころ、ツッコミどころ満載。爆笑もの。でも哲学を知らない人にとっては何が面白いのかさっぱりわからないのではないか。

だがしかし。さきほど、「入門書とは正反対に位置する本」と書いたが、言わば哲学の裏入門書として、ここから入っていくのもアリなのかな、とも思う。

時々テレビでお笑い芸人たちが、一般にはわからない楽屋ネタや内輪ネタで盛り上がってたりする。さっぱり意味はわからなくても、なぜかおもしろかったりする。

ああいうのを面白がれる人ならば、この本も面白いのかもしれない。そして哲学に興味を持つきっかけになるのもしれない?とも思う。



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2009年02月09日

子どものための哲学対話



以前の記事でも永井均の似たような本を取り上げた(「 翔太と猫のインサイトの夏休み」)。

この人は、子ども向けの哲学入門書を何冊か書いている。これもその一冊なのだが、「 翔太と猫のインサイトの夏休み」と同様、この本もかなりやっかいである。

章立てを見るとその奇妙さが少し伝わるかと思う。

第1章 人間は遊ぶために生きている!
第2章 友だちはいらない!
第3章 地球は丸くない!


さて、あなたはこの本を自分の子どもに読ませたいと思うだろうか?

内容は、小学生(あるいは中学生)の「僕」と、言葉をしゃべる「ペネトレ」という猫との哲学対話である。

あるテーマについて、「僕」と「ペネトレ」が語り合う。簡単な言葉が使われているし、文章も短い。挿絵もたくさん入っている。

しかし書いてある内容が非常に深いのである。あまりにも深すぎる。

たとえば「僕」が問う。

「どうして約束をやぶってはいけないの?」

こうして「僕」と「ペネトレ」の対話が始まる。でも結局、「ペネトレ」の哲学的な解答に「僕」は翻弄される。そして「僕」の最後の一言がコレ。

「???」

読者の反応もおそらくこれに近いと思う。子どもが読み解くにはあまりにも深すぎる内容。百歩ゆずって、考え方の固まっていない子どものほうがひょっとしたら理解できるのかもしれないが。

僕が思うに、おそらく著者は、僕ら大人の中にまだ眠っている「子ども」の部分に対して語りかけているのだろう。

別の本で書いていたが、永井均は、わかったつもりになるだけで実は何もわからない入門書は書きたくないそうである。

それはこの本にも当てはまる。哲学の入門書的な簡単なテーマを挙げるが、でもヒントしか書かない。「あとは自分で考えてください」というスタンスである。

そしてこの態度こそ真に哲学的であると僕は思う。

思えば僕らは、いかに多くの固定観念に毒されていることか。

「地球は丸い」「人を殺してはいけない」「うそをついてはいけない」などなど。さまざまな知識や道徳を身につけている。でも「なぜ?」と聞かれてすぐに答えられる人は少ない。

結局僕らは、自分で考えることを放棄して、ありものの教養を疑問もなく受け入れて大人になってしまったのである。

ふと考える、そんな何も考えていない大人が、果たして子どもを育てる資格はあるのか。「どうして?」とくりかえし聞いてくる子どものほうが、よっぽどいろいろ考えていて哲学的姿勢を持っているというのに。

そう考えれば、この本は僕らが真の大人になるための入門書とも言える。

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2009年02月06日

書斎曼荼羅--本と闘う人々



僕もいちおう「物書き」気取りなので、書斎には興味があるし、あこがれもある。

書斎は、文章を書く人間にとっての聖域なのである。

本棚を見ればその人の性格や趣味がよくわかると言うが、書斎には、誰にも立ち入ることのできない自分の世界がある。過去から現在にかけてのさまざまな人たちが書き残した書物に囲まれていると、それだけで妙な安心感がある。

今回紹介する本は、小説家、学者、評論家などの書斎部屋をたずねて描いたスケッチを集めたものである。

自分の書斎づくりの参考に、と思って買ったのだが、実際あまり参考にならない。

なぜなら、かなり散らかり放題の書斎が多いから(そうでない人もいるけど)。

この本で紹介されている人々(つまり本に関係する仕事をしている人々)には、ある種の共通点がある。

1.本の収集癖がある。
2.本以外のものにも好奇心旺盛で収集してしまう。
3.モノが捨てられない。


結果として書斎部屋はいつしか、インテリ版ゴミ屋敷と化してしまうのである。

しかし気持ちはわかる。僕は実はそれほどの読書家ではないが、そのくせ本は山のようにある。全部運びきれずに実家に半分以上おいてきたが、それでも本だらけである。買ったはいいものの、パラパラと飛ばし読みしただけで気が済んでしまったもの、そもそも買ったこと自体忘れて放置している本も多い。

結果として、本は本棚に納まり切らない。いつも不思議に思うのだが、どうしていつも本は本棚のスペースより多いのか。本棚に空きがある状況を僕は経験したことがない。

よって書籍は、本棚以外のところに山積みされることになる。この本でもそんな書斎がたくさん紹介されていた。中でも一番驚いたのは、床一面に本を並べて、その上を歩いて生活している作家の書斎だ。言わば床一面が、横に寝かせた本棚になっているのである。

結局誰でもそうなんだな。僕は妙に安心してしまったわけで。

でも著名な作家や学者の書斎だからこそ、散らかってても「さすが!」と思われるわけで。僕の部屋なんか本当にただのゴミ屋敷だからな。

これはとにかく小説でもなんでもいいからとにかく著名人の仲間入りをして、人から「すごい!」と思われるような人間になるしかない。半分冗談だが。

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2009年02月05日

kyupinの日記 気が向けば更新(精神科医のブログ)

このブログを紹介したいがために、わざわざ「WEB」のカテゴリーをつくってしまった。

kyupinの日記 気が向けば更新(精神科医のブログ)
http://ameblo.jp/kyupin/


その名のとおり、精神科医が書いているブログである。

プロフィールや記事内容から察するに、ある精神病院の院長。年の頃は40代後半〜50代。奥さんとふたり暮らし。総合病院に診察に行ったり、鑑定医をしたりもしている。祖母は温灸療法師だった、など。

匿名のブログである。もしも自分の素性がバレたときにはブログをやめる、と言っている。

このブログを紹介した理由は、簡単に言うと非常におもしろいからだ。自分が診察したさまざまな患者の話が出てくる。薬に関する知識も得られるし、薬を使用したときの実例もたくさん紹介されている。

しかし本当におもしろいのはその部分ではない。興味深いのは、このお医者さんが「科学者」らしからぬところ

精神医学の話と関連付けて、音楽や宗教の話が出てきたりする。

特筆すべきは、彼が霊感を信じているところだ。

いや、信じる信じないの話ではなくて、霊感があると考えざるを得ない場面を多く経験していて、霊感は存在するものという前提で文章を書いている。彼の祖母は言わば霊力で患者を治す治療師で、そのすごさも彼は目の当たりにしている。また、自分自身、予知能力で患者の自殺を何度か止めた、と書いている。

僕が言いたいのは、「こんなヘンな精神科医がいますよ」ということではない。逆である。精神科医はこれくらいの柔軟性がなければダメだと思う。

僕の話だが、以前に通院していたあるクリニックで、抗うつ剤を飲んでも不安が消えないと訴えたら、医者からこんな答えが返ってきた。

「そんなはずはない」

そ、そんなはずはないってアンタ(汗)。教科書的にはその薬を処方したら不安が消えると書いてあるのかもしれないが、不安であるのは間違いないのである。現に不安を感じている僕自身が主張しているんだから間違いない。内蔵とかケガだったら、機械を修理する感覚で治せるのかもしれないが、こころとなるとそうはいかない。

思うに、精神医学はどこか科学の領域を逸脱しているところがある。

そうでないといけない。なぜなら科学はどこまで行っても客観的な方法論であるのに対して、精神は(患者の側から見れば)どこまで行っても主観的だからだ。

いや、それでも精神医学は純粋な西洋科学だと主張する人がいたら、その人はきっと脳医学とか神経科学と問題をすげ替えている。

患者の「こころ」という主観的部分を治療しようと思ったら、科学の方法だけでは不充分である。宗教的アプローチ、芸術的アプローチ、そして人を見抜く「霊感」が必要である。僕はそう思う。

そしてたぶん系譜的には、精神科医は、古来からいた霊能力者やシャーマンなどの延長線上に位置する。少なくとも僕はそうあるべきだと思っている。

(注:僕は霊を信じているかと言うと、これまた非常に答えにくい。科学も霊も、どっちも解釈の違いにすぎないと思うからだ。「霊は存在する」「霊は存在しない」、そのどっちも不正解。真理はおそらく、言葉の届かないはるか遠くにある)

僕がいま通院しているクリニック。そこの先生もけっこう変わり者である。

初診のとき、いろいろと質問されたあと、最後に「舌を見せてください」と言った。精神科医なのに扁桃腺でも診るんだろうか。言われるままに舌を出すと、先生はマジマジと観察し、

「うん、やっぱりうつ病の舌をしてますね」

あとあと調べると、東洋医学には「舌診」という診察方法があるらしい。舌の色や形状で患者の体調や精神状態を調べる。先生は、西洋医学的アプローチで僕を診察したあと、補助的に東洋医学の手法で確認をとったわけだ。

あと、こんなことがあった。

趣味はありますか、と聞かれ、「時々山を散策したりします」と答えたところ、先生おもむろに立ち上がり、診察室の本棚を眺めだした。5分間も眺め続けた。僕は黙ってすわって待っている。

ようやく席についた先生はこう一言。

「すみません、山の写真集がどこかにあったはずなのですが見つかりませんでした」

のんきである。

ここの先生、僕にとっては妙に居心地がいい。話が通じやすい。なぜかと思ったらひとつ共通点があった。

ここの先生はなんと文学部卒だというのである。文学部を出てから医学部に行きなおし、精神科医になったと言う。僕はと言うと、理工学部を中退し、文学部哲学科に行きなおしてそこで卒業している。

お互い、理系思考と文系思考が混ざり合っているから、話が通じやすいのかもしれない。

話が若干それたが。

精神科医はある程度「ヘン」なほうがいい。科学だけでなく、さまざまな学問や手法に通じていて、人を見抜く「霊感」を持っている人がベスト。

本当にただの「ヘンな医者」だったら困るけどね。

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2009年02月03日

思い出トランプ



なんの予備知識もなくこの本を読んだ。

向田邦子と言えば脚本家。飛行機事故で亡くなった。・・・・・・それくらいの知識しかなかった。

だがあるとき、

「向田邦子はいいぞー」

薦められるまま買ったのがこの本だ。

読んで戦慄した。そして思った。

この人は、女の心理について知り尽くしているか、男の心理について知り尽くしているか。ふたつにひとつだ。向田邦子の経歴は知らないが、そうとしか思えないのである。

短編集である。主に中年から初老期にかけての、恋愛と夫婦関係がテーマになっている。でもそこに描かれているのは、決して幸福なラブストーリーではない。

人生は小さな幸せで満ちあふれている、のかもしれない。しかし同時に人生は、小さな不幸が満ち満ちているのである。

いや、「不幸」という言葉では足りない。人生に一瞬「地獄」を見る瞬間。「魔」が忍び寄る瞬間。

向田邦子はそれを直視する。いやというほど克明に描写する。

うつ気味のときに読むにはあまりにも重たすぎる本である。

向田邦子の洞察力、というか、人生の「地獄」を直視する勇気と忍耐力に僕は感服する。

そう、ある意味、この世はまさに生き地獄。

だがそこに、かすかな光が射すこともある。向田邦子は一部の短編ではそれも描いている。

人間は結局、その暗雲のすきまから射しこむ細い光をたよりに生きていくしかないのかもしれない。

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2009年02月02日

世界でいちばん好きな人



ひとつのジャンルとしてくくってしまっていいのかはわからないけれども、昔から、おそらく世界中に、「戦争に反対し平和を願う歌」というのがある。

日本で言えば60年代、学生運動の頃にそういった歌が多く作られた。

さて、911の世界同時多発テロという、おそらくは何千年も歴史に刻まれ続けるだろうあの大事件のあと。日本でも一部のアーティストが、この出来事や、それにつづく戦争をテーマに歌を書いた。

僕の聴いた中で一番メッセージが明確なのは長淵剛だろう。静かなるアフガン


とにかく熱い。力強い。ビンラディンやブッシュを名指しで非難し、戦争反対を攻撃的なまでに主張する。

もうひとつ僕の印象に残っている歌と言えば、以前の記事でも紹介した、さだまさし遙かなるクリスマス


こっちも熱いが、長渕に比べれば戦争反対のメッセージはずっとひかえめである。

「自分は戦場に行ったことがないので、自分の目線からでしか戦争を歌うことができない」

以前に行ったライブで、こういう趣旨の発言をしていた。世界情勢を憂いながら、途中から自分の身の周りの「不幸」に目が行き、最後は「永遠に君が幸せであれと叫ぶ」と、愛する人への想いへと収束していく。さだまさしは反戦歌をけっこう書いているが、こういうパターンのものが多い。

一言で反戦歌、平和を願う歌といってもさまざまである。

さて、次の歌はどうだろう。



世界でいちばん好きな人

詞曲 KAN

確かなことはわからないけど すごく不安がつのる
明らかなように伝わるあやふやに囲まれて

この国に生まれ 君と出会い この街にふたり暮らす
舞い降りた偶然を受け入れた真実

世界でいちばん好きな人
それはあなただと言い切れる
この想いがまっすぐに伝わるようにと手をつなぐ

日本がずっと平和なまま 続いて行くとは限らない
だから今この普通の日々を大切に生きる

時にぼくらは少しくい違い 意志をぶつけ合う
そんな時はただ雨降るように透明に丁寧に

確かなものは残ってないけど 少し自信が持てる
いつか静かに君の存在に裏付けられて

世界でいちばん好きな人
それはあなたと言ってくれるなら
その想いがいつまでも変わらぬようにと抱きしめる

遠くで起きてる戦争は いつ終わるのかもわからない
せめてぼくらはずっと互いを 許し合い生きよう

ぼくは誰とも争わないし 誰を憎む根拠もない
ただ落ち着きを取り戻すため ちらつくテレビを消そう

世界でいちばん好きな人
それはあなただと言い切れる
この想いがいつまでもずっと変わらすように
今この普通の日々を大切に生きる

KAN世界でいちばん好きな人という2006年の作品。

最初聴いたときは、「ああ、フツーのラブソングか」という印象しかなかった。でも何かがひっかかった。そして何回か聴いてようやく気づいた。

これはただのラブソングではない。実はKANなりの反戦歌なのである

「日本がずっと平和なまま続いて行くとは限らない」
「遠くで起きてる戦争はいつ終わるのかもわからない」


こう彼は歌う。しかし戦争反対とは一言も言わないし、戦争が悲しいとも言わない。ただ、「だから僕らは普通の日々を、許し合いながら生きよう」と結ぶ。

消極的である。「反戦歌」というジャンルに入れていいものかさえ迷う。でも実際のところ、一般の日本人の戦争に対する気持ちなんてこの程度なんじゃないのか。

戦争に対する等身大の思いをKANは正直に歌っている。

申し訳ないながら、僕はなんの平和運動もボランティアもしていない。でも戦争を嫌い平和を望む気持ちは持っている。酒場に行っては時々、世界平和について熱く語り合ったりする。

でも酔って帰り、翌朝起きればすっかり忘れて仕事へと向かう。悲しいけれどもそんなもんだ。

けれども、KANの秀逸なところは、歌詞の以下の部分だ。

ぼくは誰とも争わないし誰を憎む根拠もない
ただ落ち着きを取り戻すためちらつくテレビを消そう


僕はこの言葉に、大げさだがマハトマ・ガンディーの非暴力・不服従主義に似た決意を感じるのである。

戦争のことはわからない、でも世界がどうであれ、僕は誰とも争わないし誰も憎まない。

毅然とした態度を感じる。

また、「ちらつくテレビを消そう」という部分、情報のシャットアウトのようにも見えるが、ここもガンディーと共通している部分である。ガンディーは、新聞を読んで騒がしい世界情勢の情報が入ってくると心が乱れるとして、新聞を読まなかった。

結論。

「KANは、マハトマ・ガンディーに通ずる非暴力主義を貫こうとしている」

Wikipedia程度の知識でこんな仰々しい説を唱えるのはおこがましいにちがいない。

でも最近、この歌が僕の身の丈に妙にフィットしているように感じるのである。

posted by にあごのすけ at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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