2009年03月25日

離人症と言われる

朝、起きられなくなった。

医者に相談して睡眠薬を減らしてもらった。

今度は夜眠れなくなった。

目覚めているわけでもなく、夢うつつの状態が朝まで続く。

朦朧とした意識の中、無数の思考がグルグルとうずを巻く。

思うのは過去のことばかり。

ふと身体を起こして部屋を眺める。

母を呼んでみる。「おかあさん」声に出して呼んでみる。

返事はない。僕は気づく。

そうだった。僕はもう子どもではなかった。大人になってひとり暮らししているのだった。

そんなことが何度も続く。

次第にここがどこだかわからなくなる。大阪か滋賀かアメリカか。

「いま」がいつなのかわからなくなる。僕は小学生か、大学生か、会社員か、老人か。

これまでに出会った友人や彼女がランダムに目の前に現れては消えるが、どれが「いま」つきあいのある人間かわからない。

そして朝が来る。

僕は大阪にひとり住んでいる。会社勤めをしている。

それはわかる。

でも街の風景が奇妙に見える。

これは「過去」の風景なのか。あるいは「いま」なのか。

いまは1999年か、2009年か、はたまた2019年か。

頭ではわかっている。

でも過去の記憶や未来の想像と同じくらい、「現実」にリアリティがない。

すべてが架空の世界に見える。

「離人症」

医者に言われた。

こういう感覚を離人症と言うのだそうだ。

言うなれば、パソコンが僕の心身だとすると、それを操作している自分が「魂」であって。

パソコンと自分がどんどん離れていく感覚か。

世界は見えるし音は聞こえる。でもとても遠くに感じる。

離人症は薬ではなおらない。

様子をみるしかない。

心と身体を離れて、魂だけで飛んでみる。

それもありかもしれない。

そしてふと思う。

どこか遠くに「本当の世界」があって。

そこには苦しみも悲しみも争いもなく。

すべての人たちが、ただ幸せに暮らしている。

その世界のほうが、この「現実」よりもずっとリアルに感じられてくるのだ。
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2009年03月23日

2300年未来への旅



たしか「近未来映画パック」とかいう名前で、「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」と抱き合わせで売られていたのを購入した。

見てみて、抱き合わせになっていた理由がよくわかった。「2001年」「ブレードランナー」ともに、いまでもじゅうぶんに見るに耐える特撮技術、そして内容。それに対して、「2300年未来への旅」はあまりにもショボいのである。

ミニチュアだとバレバレの近未来都市、空を飛ぶ人間には吊らされている糸がもろに映っている。ウルトラマンとかのほうがよっぽど特撮技術レベルは高いのではなかろうか。

そしていかにも、「2001年」の2匹目のドジョウをねらったような邦題・・・・・・。原題は「ローガンズラン(ローガンの逃走)」である。

しかしそれなりに見ごたえはある。

西暦2274年、人類は巨大ドームの中で暮らしていた。ドームの中は、チューブの中を乗り物が走り回っているような(いま見るとかなりレトロフューチャーな)未来都市。人間は人工授精によって生まれ、30歳になると「火の儀式」によって消える。「火の儀式」によって人間は生まれ変わると信じられていた。管理社会。

世界はドームの中だけで、ドームの外には「何もない」と信じ込まされていた。それにも関わらず逃亡しようとする者が耐えない。そうした逃亡者たちを始末するのが、主人公ローガンはじめとする「サンドマン」と呼ばれる人々である。

ローガンはある日、メインコンピュータから極秘任務を受ける。

「逃亡者らが目指している、ドームの外にある『ユートピア』を見つけ出して破壊せよ」

ドームの外に出てローガンが目にしたものは・・・・・・。

という内容。

ちなみに余談だが、2005年作、ユアン・マクレガー主演の映画アイランド
と話の設定が非常に似ている。盗作か、あるいはリメイクか? そのへん比較しながら見るのも面白い。

しかしこういう映画を見て思うことがある。

果たして真実を知ることは人間にとって幸せか?

たしかに、人間には真実を知りたいという欲望があるし、知る権利もあるのだろう。

しかし真実を知らずにドームの中でなんの苦労もなく生きていたほうが、ある意味幸せだったとも言える。

僕たちが生きているこの社会だって嘘だらけだ。

意図的に隠蔽された嘘もある。でも、みんな無意識のうちに寄ってたかって「嘘」を別のもので封印していることもある。

人々はそれを「常識」と呼ぶ。自分たちを守るために封印するのだ。


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2009年03月20日

向精神薬の致死量

「睡眠薬で自殺」

なんてのはよく聞く話だけれど、実際はそんなに簡単ではないらしい。

なんでこんな話をするのかというと、アクセス解析を見ると案の定、「致死量」で検索してくる人が多いから。

このブログは自殺をすすめるブログではなく、「この無意味な人生をいかに生きるか」をテーマとしている。いかにネガティブな生き様を貫くか。方向性が自殺とは正反対である。

でも検索してくる人が多いから書いておこう。僕の調べた限り、向精神薬で自殺するのはけっこうむずかしい

だいたい、処方箋がいるとはいえ、普通の薬局でそんな危険なクスリを売っているはずがない。

クスリの指標には大きくわけて「作用量」と「致死量」がある。「作用量」は効き目が出てくる量、「致死量」は死に至る量である(もっとも、致死量を飲んだからと言って必ずしも死ねるわけではない)。

向精神薬は通常、「作用量」と「致死量」との間に、何百倍あるいはそれ以上もの差がある。つまり極端な場合、医者に処方された量の何百倍何千倍もの量を飲まないと死ねない。つまり向精神薬はそれだけ安全なクスリなのである。それくらい安全でないと、医者もクスリとして処方できない。

仮に致死量の向精神薬を飲んだとしても、酒と同じく猛烈な吐き気が襲ってくるから、まずそれに耐えなければならない。たとえ飲み切れたとしても、必ずしも死ねるとは限らない。「致死量」という場合、通常「半数致死量」のことを指す(らしい)。つまり50%の確率で死ぬ量。だから致死量の10倍飲んだとしても死なない場合もあるわけだ。

バルビツール系向精神薬リチウム(リーマス)は、作用量と致死量との間が比較的せまい部類に入る。それでも失敗する率は高い。代償として、重い後遺症を背負いながら生きていくはめになる。

僕が調べたかぎり、自殺に向いている向精神物質はもっと身近にある。

それはアルコール、つまりである。

なぜなら、作用量と致死量の間が極端にせまいからである。

アルコールは、血中濃度0.1%で酔っ払い状態。致死量は血中濃度0.3〜0.4%。

つまり、「けっこう酔っ払ったよ」という状態からさらにわずか3、4倍の量を飲めば死ぬわけである。

酒には知ってのとおり、抑うつを改善する作用がある。だから抗不安薬として使おうと思えば使えないことはないわけだ。しかし作用量と致死量との差が3、4倍とあまりにも近すぎて危険すぎるため、クスリとしては使いものにならないわけである。

だから向精神薬で死のうなんて思わないように。そんなに楽な死に方じゃありません。

もっとも、酒での自殺をすすめているわけでもありませんが。


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2009年03月17日

超訳『資本論』



『この世はすべて銭ズラ!』

というのは、前回紹介した『銭ゲバ』のセリフだが、そもそもお金とはなんなのだろう。

高校から浪人時代にかけて、僕は新興宗教がらみの人間か、学生運動をやっている奴らとばかりつるんでいた。結局僕はそのどちらにも染まらなかったのだが。「この世の真理を知りたい」「人間の生きる意味を知りたい」という点では波長が合ったのだろう。

共産主義団体に属していた友人から、資本主義とは何かという講釈を何度か受けた。

彼らが言うには、人間の大多数、普通に働いている庶民は、ごく一部のお金持ちに奴隷のようにこき使われているということらしい。

しかしお金持ちよりも庶民のほうが圧倒的に数が多いわけで。労働者が一致団結すれば必ず勝てる。労働者よ立ち上がれ!いまこそ革命だ、働く人々が主人公の社会を作り出すのだ!というわけである。

僕は彼らの主張があまりよく理解できなかった、というか魅力を感じなかった。しかしいまになって思えば、そう主張している彼らだって、共産主義や資本主義をちゃんと理解していたかどうかはあやしい。

今回この『超訳「資本論」』を読んで、長年もやもやとしていた疑問がちょっとはスッキリしたような気がする。

『資本論』は、19世紀の後半にマルクス(とエンゲルス)が書いた本だ。別に共産主義の啓蒙書ではない。お金中心のこの世の中(資本主義)が、どのようなしくみで動いているのか、論理的に暴いた本である。

『超訳』はこの『資本論』の言わば虎の巻、要約として書かれたもので、これを読めば『資本論』の大筋がわかるようになっている。

目からウロコである。『資本論』は決して過去の遺物ではない。いまの社会にも充分あてはまる内容だ。

『資本論』の主張を一言で言うならば、労働者は資本(家)からお金を搾り取られている、ということに尽きる。

たとえば資産が1億円の会社があるとする。翌年、その会社は黒字になって資産が1億2千万円になった。増えた2千万円はどこからきたのか? それは会社に勤める社員から搾り取ったお金なのである。

たとえば僕が月収20万円で、ある商品をつくったとする。会社はそれを50万円で売る。差額の30万円はどこへ行くかと言うと、会社に入るのである。本来は商品をつくった僕が50万円をもらうべきなのに!

じゃあ会社が悪いのかというと、そう簡単な話ではない。株式会社ならば、実権を握っているのは株式を持っている投資家である。

投資家こそ「資本家」なのか? でも彼らだって株式を売買するにあたって証券会社を使っているわけで、ある意味、証券会社のエジキにされて金を搾り取られているわけだ。

『資本論』は資本家を批判する本ではない。本当の意味での資本家なんて実は存在しないのかもしれない。資本主義の主人公はあくまでも「資本」つまりお金である。お金を巡って、人間がお互いに搾り取りあるいは搾り取られ、えんえんとバトルをくりひろげているのがこの社会なのである

『この世はすべて銭ズラ!』

再び銭ゲバのセリフが聞こえてきそうだ。僕は『資本論』の主張を必ずしも鵜呑みにしない。別の解釈だっていろいろ成り立ちそうだ。

しかし少なくとも、僕たちが「金」に縛られて生きていることは間違いない。本来は道具にすぎなかったはずの金にいつしか主導権を奪われ、僕らは金の奴隷になっている。

僕は搾り取られる側になるのはまっぴらゴメンだし、逆に搾り取る側に立つのも罪悪感を感じる。どちらの側にも立たずに生きていく方法はないものか。

すべての人生は「死」の前では負け戦である。

僕はブログのサブタイトルにこう書いた。でもせめて生きている間は勝ち組の側にいたいというのも人情である。僕の欲である。

ホームレスになっても幸せに笑って生きていられるほど、僕は達観できていない。


posted by にあごのすけ at 12:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月15日

銭ゲバ(上・下)



『銭ゲバ』、テレビドラマ化されていたらしいが僕は見ていない。僕は毎週決まった時間に決まったことをするのが苦手なのだ。ようするにズボラなのである。

ただ、ドラマ開始に合わせてジョージ秋山が書いた原作が書店に並ぶようになったので、買って読んでみた。

これは忠実にはテレビドラマ化できないだろうな・・・・・・。

というのが、読み終えた最初の感想。内容があまりにも凄惨なのである。放送禁止になること間違いなし。いや、差別表現をなくそうというヘンな風潮(あえて「ヘンな」と書くが)が浸透した現代日本においては、マンガとして描くことすら不可能なのではないか。

主人公・蒲郡風太郎は極貧な家庭に育つ。生まれつき片目に障害(または奇形)を持った風太郎を、父親は「この、生まれぞこないが!」と罵倒し、やがて愛人と家を出て行ってしまう。

母と子のふたりきり、でも母も病に伏せる。どこの病院に行っても、お金がないので誰も助けてくれない。

母は死に、風太郎は人生のある「真理」に気づく。

この世は金がすべて。

「銭のためならなんでもするズラ!」

この言葉のとおり、風太郎はどんな汚い手でも使い、時には人を殺し、大会社の社長に成り上がっていく。サクセスストーリーというにはあまりにも血なまぐさい話である。

金のためには恩人も殺す。

自分の妻も、女も、自分の子どもでさえ殺す。

でも本当は愛に飢えている。

あるとき、風太郎は偶然知り合った女学生に恋をする。お金のことなど気にしない、純真無垢な彼女の中に真実の愛を見ようとする。

だがある日、お金のために彼に身体を売ろうとする彼女を前に風太郎は愕然とする。

「君はわたしにとってたったひとつの真実だったのに!」

そして彼女も殺してしまうのである。

彼の右目は金に狂った悪魔のようだが、つぶれた左目は何も語らず、静かに泣いているように見える。

しかしともかく、彼の行動は「金がすべて」という点において首尾一貫している。悪の権化

だが時々思うのだが。純粋な「悪」と純粋な「善」とは実は相似形である。正反対であるにもかかわらず、いや正反対であるからこそ、非常に似た部分もある。

アジアの神々の多くが、神の顔と同時に悪魔としての顔も合わせ持っているように。

聖書の中で人々が、悪魔と同じかそれ以上に神を畏怖するように。

貧乏な生活、母親の死という経験を経て彼は「銭ゲバ」になったのだが、同じ経験をバネに、苦しむ人々を救う慈善家や宗教家になることもできたはずである。何が彼の人生を分けてしまったのか。彼に言わせると「そうするしかなかった」のだろうが。

最後のページに、おそらく著者のセリフとしてこう書かれている。

「そうだ。てめえたちゃみんな銭ゲバと同じだ。もっとくさってるかもしれねえな。それを証拠にゃ、いけしゃあしゃあと生きてられるじゃねえか」

時々、実際に、「金がすべて」と主張する人に会う。逆に「愛がすべて」という言う人に会うこともある。

だがどちらも嘘だ。どちらも実行に移して生きていくことなんかできない。

純粋な「悪」をおこなえるのは悪魔だけ。

純粋な「善」をおこなえるのは神だけ。

人間は神でも悪魔でもなく、その間をフラフラしている不完全な存在にすぎない。

だから人間、何を言っても何をやってもしょせん嘘になる。人間は何も徹底できない。人間はしょせん偽善者か偽悪者にしかなれないのだ

人間は誰もが不純である。そのことに目を伏せるから人は生きていける。


posted by にあごのすけ at 18:23| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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