2009年04月12日

精神科医にすすめられた本「言葉と沈黙」



「あなたの症状は複雑である」

ここ最近、かかりつけの精神科医からよく言われる言葉である。どう複雑なのかは僕にはわからないが、こうも言われた。

「あなたは自己内省しすぎである」

精神を病んでいる人間は普通、自己内省をするものなのかどうなのか。健全な自己内省とはいかなるものか。そのへんの標準が僕にはわからないからなんとも言えない。

しかし自己内省につまずいている人がいるから、そのサポートとしてカウンセリングという療法も存在するのだろう。

自己内省は自分のイメージをより明確にさせるためには必要だが、それをやりすぎると見てはいけない自分の真の姿まで見てしまう、ドツボにはまる。そういうことなのだろうか。実際、僕の通院している病院にもカウンセラーはいるが、カウンセリングをすすめられたことはない。

最近、医者に言われたことで強く心に残った言葉があった。

彼は遠い目をして、独り言でも言うようにこう話し出した。

「私が医者になりたての頃だからもう30年も前・・・・・・。インターンとして大学病院に勤務していたときに、あなたのような患者はたくさんいたような気がしますねえ・・・・・・」

彼の言葉の意味がすぐには理解できなかった。つまりは僕は、古いタイプの患者ということか。

高校時代、担任にこう言われたことを思い出す。

「君と私とは年齢こそちがうが・・・・・・実は同じ世代の人間なんだよ」

いまでも飲み屋に行くと時々言われる。60歳前後の男性に、話ほとんどしないうちから、

「君のようなタイプの人間はいまどき珍しいなあ。僕が若い頃にはたくさんいたけれど・・・・・・なつかしいなあ」

どのへんが「古い」のかはよくわからない。おそらくは哲学的に悩んでいるところが昔の学生運動の頃の若者と共通しているのだろう(もっとも、「哲学的に悩む」なんてことは実際には不可能に近いと思っている。自分の苦悩に哲学的解釈を与えようとしているだけだ)。

とにかく、医者のこの言葉ですべてが僕の頭の中でつながった感がある。そうか、僕は古いタイプの人間なのだと。妙に腑に落ちたのである。

さらに医者は、精神医学の専門書を読んだことはあるかと前置きしたあと、メモ帳に走り書きをして僕に手渡した。

「気が向いたら読んでみてください。何かの手がかりになるかもしれませんよ」

こうして薦められたのが、今回紹介する本『言葉と沈黙』である。

精神科医が書いた論文集。論文集だからテーマはバラバラだが、スタンスは一貫している。

精神病の患者は医者にさまざまなことを訴え、伝えようとする。言葉にできない感覚をなんとかして表現しようとする。統合失調の患者となると、その訴えはさらに理解不能になる。

そのような患者たちが本当はいったい何を訴えようとしているのか。著者はそれを考察する。科学的スタンスと臨床の立場は固持しつつも、患者の心の内部に踏み込んでいこうとする試みである。

精神医学用語のほかに、哲学用語もたくさん出てくる(著者は「人間学的なアプローチ」と言っているが)。専門書だから難解ではあるのだが、この手の本の中ではかなり読みやすい部類に入ると思う。

しかしどうしてこんな本を医者は僕に薦めたのだろう。学者向けの本なのである。いうなれば精神科医のための参考書、虎の巻である。それを患者に読ませるとは、自分の手の内を見せることに等しい。

もはや「自分で考え抜いて自力でそこから脱出しろ」ということなのだろうか。

きっとそうなんだろう。

医者に通って躁うつ病だと診断されたときは、正直言ってうれしかった。

自分の苦悩に名前がついたこともうれしかったが、それよりも何よりも、自分が「普通じゃない」「何か特別な」人間だと証明されたような気がしたのである。

でももはやそんなことを言っていられる状況ではなくなっている。

僕の心も、僕を通して見ているこの世界も、徐々に解体を始めているような気がする。もはや猶予はない。早くここから抜け出さなければならない。
posted by にあごのすけ at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月10日

母をたずねて三千里



「男は母なる女性を捜し求めて永遠の旅を続けるマルコなのだ!」

僕が酔っ払うと時々口にしていた言葉である。

これはあくまでも僕の考えだが、男という生き物は女性に対して少なからず「母性」を求めているものである。それを表現するための口実として、僕は酔っ払ってマルコを例に出していたのである。

だが最近、アニメの『母をたずねて三千里』全52話を見て考えが変わった。

これは単なる母親探しの話ではない。まさに人生の縮図であると。

ここで少し政治的な背景を考察してみたいが、1970年代はなぜにこのような深くて重いアニメが作られたのか。現在だって深いアニメは放映されているのかもしれないが、見ていないのでよく知らない。

おそらく当時は、子どもにどんなアニメを見せるか、親が決定権を持っていたからではなかろうか。だから親にウケる、逆に言えば5、6歳そこらの子どもにはあまりにも重過ぎる内容のアニメが大量に作られたのである。

僕はこのアニメをリアルタイムで見ていたが、その深さ、重さは当時は理解できていなかった。大人になって見てあらためて驚かされることが大いにある。

イタリアはジェノバに暮らす、マルコとその家族。ところが父親が慈善事業にのめりこみ、家計は破綻し、母親がやむをえずアルゼンチンに出稼ぎに行くことになる。

ところが、母親からの便りはやがて途切れる。仕送りもなぜかなくなる。心配でたまらなくなったマルコ、おそらく8、9歳の少年がひとりでアルゼンチンに、母親探しの旅に出る。

しかしその旅の内容がこれまた凄惨である。イタリアの不景気の現状。アルゼンチン移民の光と影。インディオに対する差別。貧富の差。人々の親切さと冷酷さ。

ファンタジーのかけらもない。現実の残酷さというものをこれでもかと見せつけられる。

不景気の渦中にある現代日本とダブる部分もあり、この『母をたずねて三千里』を見るにはいいタイミングであるとも思う。

マルコは命からがらブエノスアイレスにたどりつくが母と巡り会えない。南の町にいると聞いて何十日も旅をするがやはり巡り会えず、北にいると聞いて再び旅に出るがやはり再会できず。

「僕はきっと呪われているんだ!」

マルコが泣きながらそう絶叫するシーンはもはや鬼気迫るものがある。子ども向けどころか、こんな絶望的なアニメ子どもに見せていいものかどうか。

最初に、このアニメは人生の縮図だと書いたが、命がけであっちの町へこっちの町へ、時には人に助けられ、時には足蹴にされ、それでも旅を続けていくという部分はまさにそうだと思う。

だが大きな違いがある。

マルコには「母に会う」という明確で大きな目標があった。だが果たして僕らの人生の目標とはなんぞや?

僕らは、目的すらもよくわからないまま果てしない荒野を旅し続ける流浪の民なのかもしれない。

高畑勲と宮崎駿コンビ、のちのスタジオジブリがつくったアニメである。でもジブリの映画よりも、『母をたずねて三千里』のほうがよっぽどデキがいいと感じる。

登場人物のちょっとした表情。手の動きが持つ意味。間(ま)。シーンひとつひとつが重要な意味を持っている。非常によくできている。ジブリの映画よりもずっと手が込んでいて奥が深い。

ひとつには時間の問題もあるのだろう。ジブリはずっと、もっぱらアニメ映画ばかりをつくっているが、映画の2時間という枠の中に入れられるものにはやはり限界がある。1回につき30分、全52話のアニメとは時間的にあまりにも差がありすぎる。

スタジオジブリは原点に戻り、いまこそ長編テレビアニメをつくるべきなのだ・・・・・・「マルコ」を見てそう思った次第である。

このアニメについては、語りたいことがまだ山ほどあるのだが、それはまた次の機会に。
posted by にあごのすけ at 01:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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