2009年05月15日

HANABI



実は単なる個人的な悩みであったとしても、それを世界規模にまで拡張して、深く悩んでしまう男というのは存在する。

古くはビートルズのHey Judeの歌詞にもあるように。

「Dont carry the world upon your shoulders」

世界中の悩みをひとりで背負っているような気分になるなよ。でもそういう悩み方をするのは決まって男のような気がする。僕もまたそういう男のひとりである。

そういう男が求める女性は、決して自分を理解してくれる人ではなく、自分の悩みを笑い飛ばし破壊し、それでも笑ってそばにいてくれる人なのかもしれない。

以前に書いた記事で紹介したウルフルズの「暴れだす」で描かれていた女性も、まさにそんな感じだった。

ミスチルの最近の楽曲「HANABI」も、スタンスは同じである。



HANABI

作詞作曲 桜井和寿


どれくらいの値打ちがあるだろう?
僕が今生きてるこの世界に
すべてが無意味だって思える
ちょっと疲れてるのかなあ

手に入れたもんと引き換えにして
切り捨てたいくつもの輝き
いちいち憂いていれるほど
平和な世の中じゃないし

一体どんな理想を描いたらいい?
どんな希望を抱き進んだらいい?
答えようのないその問いかけは
日常に葬られてく

君がいたらなんて言うかなあ
「暗い」と茶化して笑うのかなあ
その柔らかな笑顔に触れて
僕の憂鬱が吹き飛んだらいいのに

決して捕まえることの出来ない
花火のような光だとしたって
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
僕はこの手を伸ばしたい

誰も皆 悲しみを抱いてる
だけど素敵な明日を願っている
臆病風に吹かれて 波風がたった世界を
どれだけ愛することができるだろう?

考えすぎで言葉に詰まる
自分の不器用さが嫌い
でも妙に器用に立ち振舞う
自分はそれ以上に嫌い

笑っていても泣いて過ごしても
平等に時は流れ未来が僕らを呼んでる
その声は今 君にも聞こえていますか?

さよならが迎えに来ることを
最初からわかっていたとしたって
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
何度でも君に逢いたい

めぐり逢えたことでこんなに
世界が美しく見えるなんて
想像さえもしていない
単純だって笑うかい?
君に心からありがとうを言うよ

滞らないように 揺れて流れて
透き通ってく水のような心であれたら

逢いたくなったときの分まで
寂しくなったときの分まで
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
君を強く焼き付けたい

誰も皆 問題を抱えている
だけど素敵な明日を願っている
臆病風に吹かれて 波風がたった世界を
どれだけ愛することができるだろう?
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回


ちなみにこの歌で語られている、世界が無意味だとしても一瞬一瞬の出来事には意味があるかもしれない、という思想は、さだまさしの「防人の詩」にも共通する。すべてはやがて死んでしまう、と歌ったあとで、さだまさしは「わずかな生命のきらめきを信じていいですか」と問いかける。

ともかくも、男の苦悩の構造というのは案外単純なのかもしれない。

女は、そんな頭デッカチな男の苦悩を一笑し消し去るだけのパワーを持っているように思う。いや、古代ギリシア以来、男たちが二千数百年かけて築き上げてきた哲学の歴史ですら、女の前では無力化する。

とにかくいくらいばっていても強がっていても、結局のところ男は女には頭が上がらない。言い過ぎか。

ちなみにミスチルだが、彼らは「未来」に目が行きすぎているように感じることがある。

自分が救われるヒントは「未来」だけにあるわけではない。「過去」にだってあるかもしれない。

過去は決して変えられない。
だが自分の見方ひとつで、自分の過去の持つ意味合いが大きく変わることだってある。


posted by にあごのすけ at 03:36| Comment(1) | TrackBack(2) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月13日

分岐点

過去に他人から、トラウマになるようなひどい目にあわされた人は、やがて同じように加害者の側に回ることがある。

部活で先輩からいびられいじめられた新入部員が、2年生になったとたんに今度は新入生をいびる側に回るように。

虐待を受けて育った子どもが、やがて大人になり、時として今度はわが子を虐待するようになるように。

だがその逆の場合もある。

人からひどい目にあわされても、「自分はあんな人間には決してならない」と心に決めて反対の道を生きる人もいる。

このちがいはどこからくるのか。

20歳の頃の僕は、底なし沼に首までつかっていた。

大学になじめなかった。親しい友人もできなかった。被害妄想もあいまって、僕はアパートにひとり閉じこもってもがき苦しみ続けた。でも、もがけばもがくほど絶望の淵に吸い込まれていくようだった。

だれも僕の苦しみをわかってくれなかった。周囲の人間は僕を単なる甘えた怠け者とみなした。そして僕は、自分の苦しみが理解されないのはみんながバカだからと思った。そしてますます孤独になった。

でも生活費のこともあり、週2回のバイトだけはなんとか行っていた。

深夜のコンビニのバイト。

ある夜明け前にその事件は起こった。

チンピラ風のにいちゃんが突然僕につっかかってきた。

レジでオレをいつまで待たすねん。

コワモテの男にすごまれた経験などなかった僕は、心底恐怖した。すみません気づきませんでした。でも彼はいまにも殴りかかってきそうな剣幕だった。いやおまえは気づいとったはずや。気づいとったのにオレを無視したんや。

小心者のくせに我を曲げない僕は、いいえ本当に気づかなかったんです、何度もくりかえした。向こうも引き下がらなかった。店長を呼べという話になり、僕は震える手でプッシュボタンを押した。

店長はすぐに飛んできた。僕の前でチンピラに平謝りした。そして僕にも非を認めるようにと言った。

しばらくの押し問答の末、僕は主張を曲げざるをえなくなった。

すみませんでした、気づいていたのに無視していました、申し訳ありません、と。

いま思えば、3者3様の立場があったんだろう。それがたまたま負の連鎖を起こした。しかたのないことだった。

でもその時の僕は、まるで人生が終わったような気持ちだった。いや、真剣にそう思った。すべては終わった。僕の人生はこれで終わったんだと。

朝になった。電車に乗る気力もなかった。タクシーをとめた。

40代サラリーマン風の、人のよさそうな運転手だった。僕はよっぽどひどい表情をしていたのだろう、何かあったのかときいてきた。押し黙っていると運転手はバックミラーの中で苦笑いした。でも気遣うようにチラチラと何度も僕を見るので、僕は静かに話し出した。

「それはひどい話やなあ」

運転手は大げさなくらいに僕をかばった。そして色々な話をしてくれた。

なぜタクシーの運転手になったか。将来どんな夢を持って働いているか、など。

「今日のことを絶対忘れたらあかんよ」

タクシーをおりる時、運転手は笑顔を崩さずに僕に言った。

「将来もし自分が人の上に立つことになったときは、部下の肩を持ってやらなあかん。でも自分の信念は曲げたらあかんで」

アパートのドアを開けるなり、僕は玄関先に泣き崩れた。慟哭した。それまでのやるせない気持ち、みじめな気持ち、悲しみ、苦しみ、不安、屈辱感、すべてが一気にあふれ出した。昼過ぎまで僕は泣き続けた。

でもいま考えると、あの運転手のおっちゃんとの、時間にしてたった20分ほどの出会いが、僕の人生をちょっとずつ、やがて大きく軌道修正してくれたような気がする。

あの人に出会っていなかったら、僕の生き方や人間観はもっとひねくれたものになっていたかもしれない。

でもいまの僕が果たして「善人」かというと、自分ではどうにも判断できない。

ときには気づかず、あるいはやむをえず、あるいはもっと卑怯な理由から、加害者の側に立ってしまうこともある。
posted by にあごのすけ at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

楽しい夕に



忌野清志郎ネタをもうひとつ。

僕がよく聴いていたのは、RCのデビューアルバムである『初期のRCサクセション』から90年代の忌野清志郎&2・3'sあたりの曲だが、個人的に一番衝撃的だったのは実は今回紹介するアルバム『楽しい夕に』である。

RCサクセションのセカンドアルバムである。名盤と言われた『シングル・マン』のひとつ前のアルバムになる。

1枚目と2枚目はアコースティック編成、3枚目『シングル・マン』からはエレキ編成となる。しかし先日紹介したドキュメンタリー本『GOTTA!忌野清志郎』の中で、1枚目のアルバムはあとから勝手にいろいろな音を重ねられて全然RCのサウンドじゃなくなってしまった、と清志郎は語っている。

よってこの『楽しい夕に』こそ、初期のRCのサウンドを忠実に記録しているのではなかろうか。

そして僕は衝撃を受けたわけである。

こんなフォークサウンドがあったのか!!

僕はアコギ弾きであってエレキは弾かない。どうしてもフォークなサウンドに反応してしまうわけである。

基本はたぶん3人編成、フォークギター2本とウッドベース。あとドラムとハモンドくらいか。

でもこれはもはやフォークソングなんかではない。ロックか、R&Bか、なんと呼んでいいのかわからないがとにかくすごいのである。どっちへ転がっていくのかわからないメロディとコード、ヘタなようなうまいような、でも斬新なベースラインとリードギター。そして清志郎がかき鳴らすアコギは本当に「ガッタガッタ」と鳴る。

当時このアルバムがどうして売れなかったのか不思議だ。時代がついてこれなかったのか。いや、そもそもこのサウンドを受け継いでいるミュージシャンが現在いるのかどうか。このアルバムのRCは、それ以降のエレキ化したRCとも大きく異なっているのである。

でもとにかく僕はこのアルバムを聴いて、アコースティックサウンドの新たな境地を見た。

ちなみに、収録されている『日隅くんの自転車のうしろに乗りなよ』という曲。「日隅くん」はRCのサポートメンバーだった。

だが『GOTTA!忌野清志郎』によると、バンドが売れないことに彼は悩み、追い詰められ、ついには自殺してしまった。

アルバム『シングル・マン』の中の名曲『ヒッピーに捧ぐ』は、彼の死について歌ったものである。

でもいまとなっては清志郎自身を追悼する歌のように聴こえる。
posted by にあごのすけ at 19:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

GOTTA!忌野清志郎



1989年出版? 忌野清志郎の、出生から80年代末までをたどった、インタビューに基づくドキュメンタリー。Amazonを見るとユーズドが数冊出回っているだけで、いまは絶版のようだ。

僕とこの本との出会いは本当に偶然で、10年以上前、普通電車で日本全国をまわる旅をしていたとき、たまたま寄った東京神保町の古本屋で見つけた。ひまつぶしにと軽い気持ちで買ったのである。

だが内容はかなり赤裸々である。

自分や養子だったこと、RC結成のいきさつ、デビューから売れるまでの苦しみや葛藤、バンド仲間の死、奥さんとの出会いまで、かなりあけっぴろげに語っている。

テレビで見る、ライブを離れてインタビューに答えているときの清志郎は無口で照れ屋で人見知りが激しそうなイメージである。そんな彼から、よくもここまで話を引き出せたと思う。

他の文献をあたったわけではないが、おそらくはここまで具体的に彼のナマの姿がわかる本はないのではなかろうか。

嘘くさいサクセスストーリーにはなってない。自分の過去の体験に対して、その場その場で感じたことを淡々と語っている。彼の発言からは、反骨精神は感じられるが、必要以上にカッコつけたりしない。ひょうひょうとしている。

これは彼の楽曲からも感じることだが、彼は自分の感じたことや体験を物語化しない。インプットに意図的なフィルターをかけずに、すなおにそのままアウトプットとして出している感じだ。

自分を物語にはめ込まないから、その時々によって歌う内容の方向性もメッセージもちがう。

「忌野清志郎は常に新しいことに挑戦し続けた」

そうコメントしていたテレビ番組があったが、それはちょっとちがうと思う。ただ「今」の自分の感情や気持ちをすなおに吐き出していただけだ。

だから過去の自分とつじつまを合わせるようなこともしないし、言い訳もしない。それがハタから見れば「常に過去の自分を破壊し挑戦し続ける」ように映ったのかもしれないが、彼自身はそんなことまったく考えていなかったのではと思う。

先日の記事で『世間知らず』という曲を紹介したが、以上を踏まえると別の解釈もできる。

世間知らず

詞曲 忌野清志郎


苦労なんか知らない 恐いものもない
あんまり大事なものもない そんなぼくなのさ

世間知らずと笑われ 君は若いよとあしらわれ
だけど今も夢を見てる そんなぼくなのさ

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

世間知らずと笑われ 礼儀知らずとつまはじき
今さら外には出たくない 誰かが迎えにきても

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

苦労なんか知らない 恐いものもない
世間知らず何も知らず 夢をまだ見てる
そんなぼくなのさ そんなぼくなのさ


これはひきこもり体験を歌った曲なんじゃなく、彼の創作のスタンスを歌ったものなんじゃないか。

世の中のことなんかよくしらないし、何を言われても気にしない。ただ僕は「ぼく」の中にひきこもって夢をみている。ずっと「ぼく」の立場から歌を歌っている。

そんな彼の思いが聞こえてきそうだ。たしかに、創作者というものは常に孤独である

彼は実際は音楽シーンを走り続けていたし、家族や仲間にも恵まれていた。だが人間は根源的にはひとりきりであり、どこまで行っても「孤独」な存在である。彼はそれをよくわかっていた。そんな気がしてならない。

【おまけ】

ほんとに個人的な追記です(汗)。

僕はさだまさし好きでもあるのだが。今回紹介した本の中で、忌野清志郎がさだまさしについて言及している箇所がある。

「さだまさしはすごい才能がある。あんな歌オレにはつくれない。そもそもつくろうとも思わないけど」

正確ではないが、たしかそんなことを語っていた。僕が聴いている音楽というのはとにかくジャンルがバラバラなのだが、実はどっかでつながっている。そう思って妙に納得した次第。
posted by にあごのすけ at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月03日

忌野清志郎逝く



忌野清志郎が死んだ。

昨夜それをテレビのニュースで知ったとき、僕は酒場で酔っ払っていた。酔ったいきおいで店のギターを手にとり、追悼のつもりでRCサクセションの歌を何曲か唄って帰った。

しかし今朝目が醒めて、あらためてニュースを見たりYoutubeを見たりしても、どうしても実感がわいてこないのである。簡単な言葉で言うと、信じられない。

尾崎豊が死んだときもショックだったが、彼はいかにも死にそうな、死と隣りあわせで歌っているようなオーラを出していたし、ショックをうけながらも「やっぱりな・・・」と受け入れられる部分はあった。

だが忌野清志郎となると僕はそうはいかない。すんなり事実として受け入れられない。ガンとの闘病、そして再発は知っていたが、それでもさすがに彼は死なないだろう。そんな気にさせるミュージシャンだった。

このブログではいろいろなミュージシャンを取り上げている。尾崎豊、さだまさし、ミスチル、大槻ケンヂ、などなど。

ジャンルが一見バラバラだが、僕の中では共通項がある。それは「人生とはなんだ!?」を深く考えて歌にしているところだ。僕は基本的に、「音」よりも「言葉」で聴く音楽を選んでいるふしがある。

しかしRCサクセション、そして忌野清志郎に関してはちがう。僕にしてはめずらしく「音」に惚れ込んで聴き始めたミュージシャンだ。

僕はRCサクセションの世代とは微妙にズレているが、年上の友達にすすめられて聴き始めた。そして目からウロコが落ちた。

当時(いまもだが)僕は作詞作曲をやっていた。ギターはへたくそ、音楽理論も何も知らなかった僕は、『やさしい作曲のABC』なる本を買ってきた。そこにこんな趣旨のことが書いてあったのである。

『C調の曲では、C、Dm、Em、F、G、Am、Bdim以外のコードは使ってはいけない!』

クラシックやフォークではたしかにそうなのかもしれないが、僕はこれを真に受けてしまった。そして苦しんだ。僕の心に浮かぶメロディーに合うコードが見つからないのである。

だからRCサクセションを最初に聴いたときは「これこれ、探していたのはこれだ!」という喜びがあった。変な話だが、RCを聴いて初めてビートルズの良さもわかった。

音楽理論なんて気にしなくていいのだ。無視していいのだ。もちろん彼らの音楽も、別の音楽理論にあてはめることは可能だが、そんなことはおいといてとにかく気持ちのいいコードを自分で見つけて歌えばいいのだ。

RCのおかげで、そんなあたりまえのことがようやくわかったのである。

忌野清志郎の歌詞に対しても驚きはあった。とまどいというべきか。

悪く言うと、全然詩的じゃない。でもストレートである。感じたことを心の中であまり加工せず、感情をすなおに、時には皮肉って歌う。

紹介しているソロアルバム『メンフィス』は、ちょうど僕が鬱でひきこもっていたときに聴いていて、その中の「世間知らず」という曲が自分にマッチした。

http://www.youtube.com/watch?v=uGW4eU-A4ao

世間知らず

詞曲 忌野清志郎

苦労なんか知らない 恐いものもない
あんまり大事なものもない そんなぼくなのさ

世間知らずと笑われ 君は若いよとあしらわれ
だけど今も夢を見てる そんなぼくなのさ

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

世間知らずと笑われ 礼儀知らずとつまはじき
今さら外には出たくない 誰かが迎えにきても

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

苦労なんか知らない 恐いものもない
世間知らず何も知らず 夢をまだ見てる
そんなぼくなのさ そんなぼくなのさ


1992年の曲だから、まだ「ひきこもり」という言葉がない時代である。彼はひきこもりの経験があるのか、RCのファーストアルバム『初期のRCサクセション』の中にもこんな曲がある。

寝床の中で

詞曲 忌野清志郎

腹が減っても金も無い
あの娘にふられても涙も出ない
情けない情けない

たずねてくれる人もない
出かけていくにも服がない
情けない情けない
何も何もしないで寝床の中で

やりたい事はあるけれど
どうにも出来ずにくちびるかむだけ

しけもくさがして空しくふかす
心はまるで老いぼれサ
心はまるで老いぼれサ

情けない情けない情けない情けない
何も何も出来ずに寝床の中で


彼の歌にはなんの示唆もない。根拠も方向性も示さない。何も答えない。でもそれがいいのだ。

何も言わずに微笑んでとなりに腰かけてくれる友人のような。ひきこもっていた僕にとって、このふたつの曲はそんな存在だった。救われた。

天国や地獄があるのかどうか知らんし、だから「冥福を祈る」なんて言葉も使いたくない。

ただ「ありがとう」と伝えたい。
posted by にあごのすけ at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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