2009年07月27日

時をかける少女(アニメ映画)



ひさしぶりに「良い!」と感動した映画。

まず主人公である女子高生・紺野真琴が良い。うつな僕としては、やっぱりこれくらい単純明快で明るくてボーイッシュな女の子にあこがれるのである(うつな男とうつな女が出会ってもろくなことがない……)。

それに登場人物全般に言えることだが、いわゆるアニメ声な声優ではなく、どこか素人クサイところがまたよい。貞本義行の絵も非常に良い。表情の微妙な変化の描き方がうまい。

昔の実写映画版は原田知世くらいしか印象に残っていないが、こっちのアニメ版のほうがずっと良い。

ストーリーは原作とも実写版とも大きく異なっているが、ストーリーのあちこちに散りばめられた何気ないシーン。それがあとあと意味を持ってくる。話として良くできていると思う。

何より、僕がまったく飽きることなく一気に最後まで見続けられたのは、この映画が持っている「疾走感」にあると思う。

実際、主人公の真琴はよく走る。自転車に乗って、あるいは自分の足で、とにかく走るシーンが多い。

ストーリー展開もテンポが良いのだが、合間合間に「静」のシーンがはさまっていて、見る側を惹きこんでいく。

……とまあ、僕としては大絶賛するアニメなわけだが。

この映画はSFであると同時に、青春モノ、恋愛モノである。

恋はせつない。

なぜこんな話をするかと言うと、この「せつない」という感覚と、この映画のテーマのひとつである「時間」とは、非常に深く関係しているからである。

「せつない」の語源である「刹那(せつな)」は実は仏教用語である。

心が感じられる時間の最小単位を仏教では「刹那」と呼ぶ(一説では75分の1秒)。

つまり「せつない」とは、この一瞬を愛惜しむ感覚のことである。「今」という一瞬を愛し、二度と戻らない「過去」という一瞬を惜しむ感覚。「今」という瞬間をつかんだと思った一瞬後には、すでに取り戻せない過去に飛び去ってしまう、あの感覚。

考えれば「愛」は不変的・安定的であることが求められるが、「恋」は非常に流動的である。

相手を意識し始めると同時に「恋」ははじまっている。距離を縮めていく過程も「恋」。つきあい出してときめくのも「恋」。そして別れも、また「恋」の一部である。

常に流れている。流れを失った時点で「恋」は終わる。恋している限り、せつなさは続く。いくらむさぼっても決して満たされきれず、矢のように飛び去っていく一瞬を取り戻そうにも取り戻せない、あの感覚。そして結果的に、この「せつない」という感覚が恋の終わりを加速する。

人の生き方もこのふたつに分けられるかな。

「不変性」を求める生き方と、「流動性」を求める生き方。

前者は変化を望まず、平和な夫婦関係や家族関係が一生続くものと信じ、判で押したような規則正しい生活、仕事は単調だが収入が途絶えることはない。

後者は常に新しいものを求め続け、異性にしても仕事にしても生活にしても常に「恋」をしている。そして出会いと別れとをくりかえす。

人はこのどちらかのタイプに必ずしも分けられるわけではなくて、ずっと安定志向だったのが急に新しい変化を求めたりする。

人生とは非常にタチが悪いものであるのだな。

恋愛ドラマとしても、青春ドラマとしても、非常にせつなさの残る映画でした。不覚にも泣けた。
posted by にあごのすけ at 05:16| Comment(2) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月18日

孤独の太陽(桑田佳祐)



僕にとっての「名盤」とそうでないものの区別はどこにあるのかを考えると、ひとつには「長く聴き続けられるかどうか」にあると思う。

その意味では桑田佳祐『孤独の太陽』は僕にとっての名盤中の名盤である。

1994年の発売以来ずっと聴いている。数年間聴いていなかったかと思えばまたひっぱりだして聴いている。そんなアルバムである。

サザンと異なり、アコースティックサウンドを前面に出している。桑田のブルースハープがいい味を出している。ゴテゴテしたロックもあるがとにかく荒削りである。そこがまた良い。

歌詞は社会風刺ネタが多い。いや、「ちゃかし」と言うべきか。どこまで本気で批判しているのかよくわからないのが桑田らしいところ(忌野清志郎にしろ、「天才」と呼ばれるミュージシャンは、往々にしてどこまで本気か、あるいはちゃかしているだけなのかよくわからないことがある)。


その中の1曲。
すべての歌に懺悔しな!!

詞・曲:桑田佳祐


ゆうべもゆうべ脳ミソ垂らして 女に媚びを売る
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
歌が得意な猿なのに 高級外車がお出迎え
スーパースターになれたのは
世渡り上手と金任せ

冗談美談でふんぞり返って ケジメも無しとする
言い寄る女と愚かな客とが それでも良しとする
大学出たって馬鹿だから 常識なんかは通じねえ
濡れた花弁にサオ立てて 口説き文句はお手のモノ

今は君のために飲もう 僕と風と共に行こう
すべての人に 恋をしな!!

道化も道化ウンザリするような 生き様シャウトすりゃ
小粋な仮面でどこかでパクった 小言を連呼する
子供の頃から貧乏で そのうえ気さくな努力家で
実はすべてが嘘なのに
芝居のセンスにゃたけている

天才奇才とおだてりゃエテ公は いつでも木に登る
儲かる話とクスリにゃ目がない バカヤロ様がいる
チンチン電車は走るけど 青春時代は帰らない
TVにゃ出ないと言ったのに
ドラマの主役にゃ燃えている

今は君のために飲もう 僕と風と共に行こう
すべての歌に懺悔しな!!
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
哀れ君の為に泣こう 僕も同じ夢を見よう
すべての人に 恋をしな!!



コード進行も歌詞の組み立て方もさすがですな……と感心している場合じゃなくて、この歌をめぐって当時おおさわぎが起きた。

まず、これはいったい誰のことを歌っているのか?と週刊誌が騒ぎ出した。候補は矢沢永吉と長渕剛にしぼられた。桑田は謝罪文を出すはめになった。

矢沢は「まあいいってことよ」と大人な反応だったが、長渕はカンカンだった。

「許さない!!」

怒ったのにはいろいろ理由があって、まず長渕はじめ聴く人が聴けばあきらかに長渕のことを歌っていることが明白な歌だった。

人は往々にして、本当のことを言われると腹が立つものである……長渕の場合どうかは知らないが。

結局、このしばらくあとに長渕は歌にあるとおり「クスリ(大麻)」で逮捕され、さわぎは収束した(詳細はWikipediaを参照)。

アルバムの話に戻るが、とにかく桑田が好き勝手につくったアルバムだな、という印象。

社会風刺が多いが、一貫したメッセージは感じられない。でもそれが「音楽」の本来の姿なのかもしれない。

言葉で説明できるようなメッセージならば、わざわざ歌をつくる必要もない。



posted by にあごのすけ at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月08日

ぼちぼちいこか(上田正樹と有山淳司)



ブルースは、いまから100年以上も前にアメリカの黒人たちの間で歌われていた鎮魂歌労働歌を起源とする音楽ジャンルである。

「Blues」というくらいだから、ブルーな心境・ブルーな状況を歌にする。しかしブルースには憂いは感じられるのだが、聴けばなぜか明るい気分になる。

今回紹介するアルバム『ぼちぼちいこか』はブルースを歌っている。

1975年発売。まだ若かりし頃の上田正樹と有山じゅんじ。日本ブルースの金字塔ともいえるアルバムである。

一方では同時期にデビューした憂歌団がいるが、このふたつのユニットには大きなちがいがある。

憂歌団は当時は京都を中心に活動していたのだが、京都について歌った曲はあまりない。しかし上田正樹と有山淳司の『ぼちぼちいこか』は、大阪という街を前面に押し出し、大阪弁で歌っている。

理由は明白だろう。大阪はブルースがぴったり来る街だからだ。

芸人気質というか、大阪の人はなんでもネタにしようとする。自分の身にふりかかった不幸ですらネタにして笑いにする。そういう部分が、「つらいことを明るく歌う」ブルースとマッチしたのだろう。

大阪の道頓堀からくいだおれが消えた去年2008年、ふたりは『ぼちぼちいこか』収録曲のうちの何曲かを録りなおした。こちらも聴いてみる価値あり。



posted by にあごのすけ at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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