2009年10月19日

幸福論(アラン)



これは大槻ケンヂもネタにしていた話だが、かつてホットドッグプレスなる男性雑誌があり、ハードボイルド作家の北方謙三が読者の人生相談コーナーを持っていた。

しかしその回答がすごかった。

女性にモテないと悩んでいる童貞青年に対しては、

「まずソープに行け!」

小説が書けないと悩んでいる読者に対しては、

「とにかく何百枚も何千枚も書き散らせ!」

どんな相談に対してもこんな具合なのである。考えるよりまず行動ありき。とにかく行動すれば悩みは消える、という論理。

アランの『幸福論』についても同じにおいを感じた。

彼曰く、悩みや不安なんてものは自分で作り出したものだ。「苦しい」「悲しい」と思うからますます苦しく悲しくなり、無意識のうちにその考えに固執し、悪循環に陥る。そんなことよりも笑いなさい。運動しなさい。そうすれば憂鬱なんてふっとぶから……云々。

死や未来に対する不安も同様。いつ来るともしれない死についてあれこれ思い悩むのは愚かなことだ。死なんて大した問題じゃない。自分が考えているひまもなく、それは一瞬でやってきて駆け抜けていくものにすぎない。

また彼は躁うつ病患者についても書いている。ある躁うつ病患者がいて、人生に絶望してみたり、逆に躁になって世界は美しいと思ってみたりする。だがこの患者の血液を調べてみると、躁うつのパターンと赤血球の増減とには関係があることがわかった。

それ見ろ、とアランは得意げに言う。躁うつ病は心じゃなくて身体が作り出したものだ、身体のサイクルに自分でいろいろ理由をつけて悩んだりするのは無意味なことなのだ、と。

アランにしろ北方謙三にしろ、「悩むひまがあったら行動しろ!」という論理に対して、僕はふたつの意見を持っている。

まずひとつは、「そんな無茶な」ということだ。

つらいときは何をしたってつらい。ウツな人間をピクニックにつれていったところでなんの解決にもならない。むしろ悪化するかもしれない。ひきこもりを強引に外に連れ出したところで、すぐにまたひきこもり生活に戻るだけである。

うつ病者に対して一般にやってはいけないとされていることを、アランも北方謙三も無神経におこなっている。

つまり、「無理にはげます」「強引に連れ出す」などなど。

アランのノーテンキさには、僕は一種のいきどおりすら感じる。

だがしかし、とも思う。

「考えるより行動」。これは状況によっては、たしかに一理あるのである。

先日僕は「心の静止摩擦係数」について書いたが、ダメだ、今日は何もやる気がしない、外にも行けない。そう思っていても、やってみると意外とすんなりできたりすることはある。

これも以前に書いたかもしれないが、「哲学的に悩むことは不可能だ」というのが僕の考えである。哲学はあくまでも物事を考察する手法なのであって、哲学自体がユーウツさを持っているわけではない。ただ、自分のモヤモヤした気持ちを解明するために哲学というツールを使っているうち、いつしか手段と目的は逆転。哲学的問題について自分は悩んでいると思い込むにいたる(もっとも、哲学的問題自体は重要な意味があるものではあるが)。

自分の苦悩を他人と比べることはできないが、うつ病だとしてもたぶん症状的には(この「症状的には」というのが実はやっかいだったりするのだが)僕は「軽度」のうつ病なのだろう。

もちろん、体中に不具合が生じて本当に寝たきりになってしまうような「重度」のうつ病も存在する。

しかし僕は思うことがある。うつ病は実は現代社会が作り出した病なんじゃなかろうかと。

ちゃんと調べたわけじゃないが、昔はうつ病はもっと少なかったんじゃないか。何かショッキングな出来事があって「寝込む」ことはあっても、そんなに長引くことはなかったような気がする。

あくまでも僕の考えだが、うつ病が増えた原因は、まず医者が簡単に「うつ」の診断を下すようになったこと。もうひとつは、社会生活が昔と比べて「ひま」になったにもかかわらず、依然としてなんらかの行動に対する制約があること

「悩むより行動しろ!」とまでは言わないが、行動したいのに行動できない、かと言って、ひまで他に何もすることがない。それゆえにユーウツになったりして悩みの淵に落ちていくのかもしれない。
posted by にあごのすけ at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月13日

心が雨漏りする日には(中島らも)



連休というのはどうも苦手である。休み自体はうれしいのだが、調子が悪くなる。うつになるのである。睡眠パターンが崩れるからかもしれない。

しかし果たして自分は本当に躁うつ病なんだろうか、いまだに確信が持てないところがある。うつ病じゃなくて単なる悩み症(神経症)なんじゃないだろうか、とか。憂鬱だから悩むのか、悩んでいるから憂鬱なのか、区別がつかない。それに自分のユーウツをネタ話みたいにして面白おかしく人に話すこともあるので、「うつを楽しんでる」と揶揄されることもある。まあこれは僕の芸人気質がそうさせるのであって、つらい体験であっても「おいしい」と思ってしまうことがある。調子がいいときに限るが。

しかし、ひどいときは憂鬱以外にもうつ病的な症状(離人症、聴覚過敏症、会話性幻聴)があり、過去に躁エピソードもあるので、医者の言うとおり「典型的な躁うつ病」なんだろう。まあ病名はなんだっていい。

うつ状態のときは、たとえるならば心の静止摩擦係数が増大している「もうダメだ、家から一歩も外に行けない」と思っていても、思い切って出てしまえばどうってことなかったりする(外に出てもやっぱりダメなときもあるが)。そんなわけで近所でやっていた古本市へでかけた。そこで買ったのが、中島らものこの本である。

本を開くと「ありがとう」と書かれた手づくりのしおりがはさんであった。また、ユナイテッド航空のハワイのパンフレットの切れ端もはさんである。

想像するに、この本の持ち主はうつ病になった友人に本を貸し、「ありがとう」のしおり付きで返してもらい、そのままハワイに旅立ったのではないか。これだから古本は面白い。

さて、この『心が雨漏りする日には』、中島らもの躁うつ病体験記である。

ちょっとした自伝としても読めるが、とにかくハチャメチャな生活ぶりである。彼の場合、アルコール依存症とドラッグ中毒もからんでいる。うつ病になったときの精神状態や自殺未遂の話など、具体的に書かれているが、悲壮感はない。意図的に触れていないのかもしれないが。いたって前向きに自分の病気を捉えている。

彼のうつ対処法は、とにかく仕事をすることだった。考えたり立ち止まったりする余裕がないように仕事をすきまなく入れ、うつが入りこむ余地をなくすのである。

僕も似たようなところがある(僕の主治医いわく、こういう患者は70年代頃に多かった、けっこう古いタイプのうつ病者らしい)。しかし中島らもの場合、酒が入らないと仕事ができない。よってアル中になる。悪循環もはなはだしい。

よくこんな状態で、あれだけの量の本や脚本を書いたりできたもんだ。驚くばかりだ。あとは、こんならもさんに連れ添った奥さんの気丈さ(というか、のん気さ)にも驚く。

2002年の本である。つまりこれを書いた2年後の2004年、彼は酔って階段から落ち、帰らぬ人となった。

同じく大阪という土地で飲み歩いている身、いまだに飲み屋で生前の中島らもの話を耳にすることがある。

もしも生きていたら、どこかのバーでばったり会っていたかもしれない。会ってみたかったと思うし、話してみたかったとも思う。でも知り合いになるとたいへんですな、この人は。まあ「天才」という称号がふさわしい人だと思う。
posted by にあごのすけ at 22:30| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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