2009年11月22日

MASTERキートン(勝鹿北星・浦沢直樹)



「自分の人生を変える本」なんてそう簡単にめぐり会えない。

もしめぐり会えたとしたら相当ラッキーか、あるいはすでに読み手側に潜在的に人生を変える準備ができていたかのどちらかだろう。

僕にとって、『MASTERキートン』はそんなマンガだった。特に大きな影響を受けたわけでもない。でも、僕が人生の選択に迫られていたとき、このマンガが「ポン」と背中を押してくれたような気がする。

主人公である平賀・キートン・太一は、日本の大学で非常勤の考古学教授をするかたわら、副業でイギリスの保険調査員もしている。イギリス特殊部隊に属した経歴を持つ。

一見ひ弱そうな男である。いつも「なんだかな〜」という表情をしているが、保険調査の仕事で危険な目にあったとき、その優れた頭脳と軍隊経験を活かしてピンチを切り抜ける。

でも彼が不屈のヒーローであるかというとそんなことはない。優柔不断である。自分が本当にしたいことは何か、いつも悩んでいる。

軍に入ったのも調査員の仕事も、なりゆきでそうなってしまったところがある。本当は考古学に没頭したいのに、金もなく、チャンスもない。

彼のこの優柔不断さに僕は共感した。15年前のことだ。

僕の「奇妙な」経歴を少し明かそう。

僕は高校時代はオカルトの研究に没頭していた。入信こそしなかったものの、さまざまな新興宗教団体に首をつっこんだ。

その後は左翼団体の連中と交友をもった。が、自分は科学者になるべきだと思い立ち、大学の理工学部に進んだ。

でも大学は合わなかった。理系の勉強もしっくりこなかった。僕は苦悩した。でもやがて、僕が本当に知りたいのは「科学」の領域ではなく、「哲学」なのだと気づいた。

僕は転部しようかどうか悩んだ。科学にはパワーがある。世界を物質的に変える力がある。それに比べて哲学は無力な学問だ。

そんなときに『MASTERキートン』を読んだのである。

物語の結末は書かないが、キートンはさまざまな人と出会い、経験をしていくうちに、人生の「マスター」へと成長していく。

物語の後半にくりかえし出てくる言葉がある。

「人間いつでもどこでも学ぶことができる」

そしてキートンはついに決意し、自分の本当に進みたい道を歩み始める。

そして僕は科学者になる夢を捨て、哲学を学ぶ道を選んだ。このマンガを読んで吹っ切れた部分が少なからずあるように思う。

もう15年以上前のマンガなので、設定が古い。冷戦前後のヨーロッパがよく登場する。だがその時代を知るにはよいマンガだ。

また、考古学ネタもよく登場する。アクションあり、ミステリーあり、人間ドラマあり。とてもよくできたストーリーだと思う。

いまは著作権問題か何かで「絶版」状態にあるようだ。ネットカフェかなんかで探して是非とも読んでいただきたいマンガ。復刻を切に願う次第。



posted by にあごのすけ at 12:08| Comment(9) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月18日

永遠の仔(天童荒太)



「まったく救いのない小説」というふれこみで読んだ。数年前にテレビドラマ化もされたようだが、僕は見ていない。

長い小説である。単行本の上巻を読むのに数週間かかった。でも下巻は数日で読み終えた。いちおうミステリー小説であり、読む側をグイグイ引き込んでいく。

四国の田舎町にある児童向けの精神病院。さまざまなトラウマを抱え、さまざまな症状を持った子どもたちが入院している。

そこで知り合い、心を分かち合った少年ふたりと少女ひとり。

3人が17年ぶりに再会したことによって、止まっていた時計は再び動き始め、悲劇が悲劇を生む連鎖反応に陥っていく。

幼児虐待の描写がすさまじい。目を覆いたくなるほどである。そんな子どもの頃のトラウマを、3人はひきずりながら生きている。

だが、「まったく救いのない小説」かというと僕はそうは感じなかった。3人は最後に、それぞれの方法で、過去との決別をおこなう。決してハッピーエンドなんかではない。しかし、全体において非常に暗い、真っ暗闇な小説だからこそ、そこに浮かんだ非常にかすかな希望の光も読み取ることができる。

この小説で描かれている虐待の構図はこうだ。

親は子どもに対して無償の愛は与えない。あくまでも「条件つきの愛」しか与えない。それは親のエゴのせいだったり、親自身が逆に子どもから「愛されたい」と思う気持ちの反映だったりする。

子どもが親の要求に応えないとき、親は子どもを虐待する。子どもは親を責めると同時に、親の要求に応えられない自分をも責める。これがトラウマとなって子どもの内面に焼きつけられ、性格やその後の生き方まで決定づけてしまう。そして時には、自分が大人になったとき、自分がやられてきた虐待を自らの子どもに対してぶつけてしまうこともある。

僕は「虐待」と呼べるほどの仕打ちは受けたことはないが、ある種の疎外感の中で育った。問題児でもあった。だから登場人物たちの気持ちは部分的にはわかる。

だが精神科医の斉藤環香山リカが主張しているように、自分の現状のすべてをトラウマのせいにしてしまっていいのか、という疑問を僕も感じる。

僕が子どもだったとき、親も子どもだった。いまの僕よりも若かった。そう思うと自然と許す気にもなれるし、お互いに「大人」になっていくにつれて自然に「和解」することもできた。

「無償の愛」というのも非常に難しい問題である。まず、親自身も不完全な人間である。また、「良いことをすれば褒め」「悪いことをすれば叱る」というのはある意味条件つきの愛であるが、別の言い方をすればこれはしつけである(善悪の基準が親側にゆだねられているのが問題ではあるが)。

もしも親の「無償の愛」の中で育ったならば、大人になったら自立できない・自己中心的な人間になってしまうかもしれない。「無償の愛」を与えつつもしつけができれば一番いいが、そんなことは可能だろうか。

いずれにせよ、僕たちは親の影響を受けて育った。そしてそれに縛られながらも、それに支えられたり、バネにしたり、逃れようとしたり、逆に暗い過去として背負いながら生きていく。それは誰でも同じだと思う。

ともかくも、この小説を単なるトラウマ話として読んだら、重要な部分を見落としてしまう気がする。

幼児虐待やトラウマ話を話の中軸にすえながら、「人間はいかにいきるべきか」を描き切った小説である。

読み終えたとき、なんだか僕は、自分の身代わりに登場人物の3人が「いけにえ」になってくれたような、そんな不思議な気分になった。
posted by にあごのすけ at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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