「文学」というものに対しては僕なりの定義がある。
登場人物のキャラクターやストーリーで読ませるのが大衆小説。それに対して、ストーリーよりも言葉が秘めた力やリズムを引き出し、それをカタチにしたものが「文学」。
だから文学小説は実は最初から読まなくとも惹き込まれる。よくできた文学小説は、パッと開いたページ、その瞬間から作家のあやつる言葉の魅力にとりつかれてしまう(大衆文学が文学より劣っているというつもりはまったくない)。
この定義でいくと、ポール・オースターの小説『孤独の発明』はあきらかに文学だろう。
父が死ぬ。主人公は死んだ父を理解しようと思いにふける。そして、父と自分との関係を、自分と息子との関係にだぶらせていく。
ストーリーとしてはそのくらいしかない。
あとは、親子とは何か、家族とは何か、小説を書くとはどういうことか、自問自答が延々とつづられている。
これは一応、オースターの自伝的小説ということらしい。しかし自伝の体をなしているかどうかも怪しい。そもそもオースターは、読み手のことなんか考えていない。ただひたすら、自問自答である。
しかしこの問い、問い、問いの連続、そして考察、答えに届きそうで届かない、そして再び問い。
それを言葉で、まるで音楽を奏でるように書かれると、なんだか自分の考えと著者の考えがゴッチャになってくるのである。心が溶け込んでいくような感じがするのである。それがやみつきになるほど心地よいのである。
いつか書くことになると思うが、この自問自答ぶり、写真家・森山大道の『犬の記憶
この小説、ストーリー性を求める人にはあまり面白くないと思う。しかし言葉そのものの流れ・リズムを堪能したい人はハマるのではないだろうか。
さきほどの「文学」の定義、おもしろい例えを思いついた。
大衆小説は、スケジュールが決められたツアー旅行、すべて事前に仕組まれたオバケ屋敷である。
それに対し、「文学」は端的に「麻薬」である。
結論:「文学はドラッグである」。
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