2008年09月08日

ブッダ



僕が手塚治虫の漫画を本格的に読むようになったのは、実は彼が死んでからである。理由は特にない。彼の作品に触れる機会がなかったのだ。

もっとも、幼少の頃に『リボンの騎士』『ふしぎなメルモ』は見ていた(おそらく再放送)。だから実は、僕にとっての手塚治虫体験は、僕の女性観に少なからず影響を与えているような気がする。

本格的に読み出した頃はすでに青年だったので、当然青年向きの作品を多く読んだ。『火の鳥』『アドルフに告ぐ』『 きりひと讃歌』『ブラックジャック』などなど。

そんな中に『ブッダ』もあった。

ゴータマ・シッダルタは、小さいながらも一国の王子である。身体は弱かったが、何不自由ない生活をしていた。いわゆるボンボンである。

そんな彼が、あるとき城壁の外に出る。そして人間の現実を目の当たりにしてガクゼンとする。

老いさらばえていく人々
病に苦しむ人々
死にゆく人々
それでも生きていかざるを得ないという苦しみ


いわゆる後の仏教で言うところの「四苦」である。そしてゴータマは悩む。

なぜ人間はこんなに苦しまなくちゃならないのだ!?

手塚治虫の『ブッダ』は創作した部分が多く、必ずしも史実に合っていないのであるが、だいたいこんな感じだったようである。キアヌ・リーブスが出ていた映画『リトル・ブッダ』にも似たようなシーンがある。

そして、ああ、僕と同じだな、と思うのである。

僕もいわゆるボンボン育ちである。父親は一流企業に勤め、世の中にはソニー、パナソニック、トヨタ、などなど、一流企業しか存在しないと思っていた。

当然、一流の大学に行くことを希望されていた。これも同様、世の中には早稲田や慶応や東大しか存在しないと思っていた。

ところが高校に入って学力は落ち、2浪してようやく入った三流大学。一人暮らしを始め、初めて世の中の真実を目の当たりにしてガクゼンとしたのだ。

僕がいまだに抱えている苦悩の原点も、あるいはそのへんにあるのかもしれない。

さて、『ブッダ』だが、途中までは非常に面白い。共感する。ところが僕にとっては、ある時点から急に面白くなくなるのである。

それはブッダが悟りを開いたシーン以降である。

それまでは、ブッダは苦悩するひとりの人間として描かれていた。だから共感できた。

ところが悟りを開いたとたん、顔つきも口の聞き方も変わり、全然人間っぽくないのである。まさに神様みたいに描かれているのである。

誰かが、「仏教はボンボンだからこそ作れた宗教である」と言っていたことを思い出す。

そうかもしれない。動物には煩悩がない。腹が減ったら食い、敵が来たら逃げ、そして死ぬときは未練なく死ぬ。

ブッダの時代の平民もそういうものだったのではないか。苦しみはあれど、病や死はあれど、「そういうもの」と受け入れていた。

つまり、ボンボンで煩悩だらけで育ったブッダにとっては、悟りを開く必要はあったとしても、一般庶民はすでにはじめからある程度悟りきっていたのである。

「『哲学というツボにはまってしまった人を救い出すこと』。それが哲学の唯一の目的である」

哲学者ウィトゲンシュタインがそんなことを言っていた。

悟りを開くことは、超人になることではないと僕は思う。

生老病死をあたりまえのものとして受け入れ、ありもしない幻影を求めたり妬んだりすることなく、ただ普通の人間として生きていく、それが悟りの境地なのではないだろうか。

なかなかそうはなれないけれども。
posted by にあごのすけ at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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