5年ほど前になるが、短歌を書くことに熱中していたことがある。
アメリカの留学先から帰ってきた友人、でも仕事も何もすることがなく、部屋に閉じこもって短歌らしきものを書き溜めていたのである。それに僕も便乗した。ふたりで短歌を書き散らかした。
もっとも、短歌とはどういうものか、僕らは何もしらない。5・7・5・7・7で言葉を並べる、ということくらい。
だから僕らの書いたものは正当な短歌ではない、と思っていた。あくまでも「なんちゃって短歌」にすぎないと。
そんなとき、石川啄木を手にとって驚いた。
「なんだ!?結局僕らのやっていることと同じやんか!?」
良し悪しはともかく、書いている内容、書いている視点は自分たちと同レベルでなのである。何か特殊なルールがあるようにも見えない。ただ、日々感じたことを短歌の文字数に当てはめているだけ。
そうか、短歌はこんなのでよかったのか。
文学者の中には、いや、短歌(和歌)にはもっと守るべきルールがあると主張する人もいる。しかし石川啄木は自分の書きたいように短歌を書いて、結局それが後世に残った。
たぶん、常識的に見ると「こんなのあり?」と思うようなものを「これでいいのだ!」と堂々と世に出してしまえる人が、本当の意味でのすごい人なんだろうな。
もっとも、啄木は歌人になりたいわけではなかった。本当は小説家を目指していたという。ひまつぶしに書いていた短歌が(それも死後に)注目されたということらしい。啄木は26歳で病に倒れ死んでいる。もう100年近くも前だ。
それなのに、彼の短歌はいまだに現代に生きる僕の胸を打つ。古典っぽくなく、今の文章としてスラスラと読める。
そして僕の痛いところを突くのである。グサッグサッ。アイタタタ、と。
全部は本を読んでいただきたいが、いくつか有名なもの&僕の好きなものを引用↓。
はたらけどはたらけど
猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る
猫を飼はばその猫がまた争いの
種となるらむ かなしきわが家
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと
薬のむことを忘れて
ひさしぶりに
母に叱られしをうれしと思へる
で、いきなり話は変わるが、何かモンモン、ウツウツとしている人は短歌を書くことをお勧めする。
たった31文字というルール、しかしこのルールが、自分の心の核心部分を無意識のうちに切り取り、具現化してくれるのである。
そして100も書いた頃には、どの短歌がよくてどの短歌が悪いか、なんとなくわかってくる。
そう言っている僕は最近書いていないが。5年前は自分の短歌集を個人出版するほどに熱中したのだが。
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