少年時代、『まことちゃん
しかし大人になり、『漂流教室』を読んで評価は大きく変わった。彼は天才である。天才という言葉はあまり使いたくないのだが、言うなれば変人である。独特の世界観を持った人である。
今回紹介する『わたしは真悟』だが、彼の作品の中では一番オドロオドロしくないもののひとつ。暗いタッチの画は変わらないが、感動巨編であることはまちがいない。
ある町工場に入荷された産業用ロボットが、「さとる」と「まりん」という少年少女によってプログラムされ、ついには意識を持つ。やがてふたりは離れ離れになり、「まりん」の想いを伝えるためにロボットは工場を抜け出して「さとる」を探す旅に出る。
ある意味、荒唐無稽な話なのだが、妙に説得力があるのはなぜだろう。
このロボット「真悟」は、「さとる」を探し続けるうちにどんどん壊れていき、ついにはマニピュレーター(手)だけになっても最後の力をふりしぼって「さとる」に会いに行くのである。
電子頭脳がとっくに破壊されてるのに、手だけで動くなんてそんなバカな。でも納得させられてしまうのである。納得させられてしまうだけのバックボーンを楳図かずおはちゃんと描ききっているのである。
この話を読んであることを思い出した。
以前にも書いたが、哲学界・脳医学界では意識のハード・プロブレムという問題が提起されている。
脳をいくら研究し、そのしくみがわかったところで、「じゃあ脳が認識したものを感じている『私』はどこにいるの?」という問題が残る。パソコンだけあっても、それを操作する人がいないと意味がない。それと同じことだ。
で、細かい理論はすっとばすが、この問題を提唱したデビッド・チャーマーズ氏は驚くべき結論に達する。
「サーモスタットであれ機械であれ岩石であれ、外界に対してなんらかの反応をするモノにはすべて意識があるのだ!」
びっくりする結論だが、ある意味筋が通っている。
霊魂なんか存在しない、人間の心は「脳」という機械の中にある。そう主張するなら、パソコンはもちろん自動車にだって簡単な心のようなものがあると考えてもおかしくはない。
さて、『わたしは真悟』に戻るが、この話を読んでなんともせつなくなる理由のひとつとして、すべては過去形で語られている点にある。ロボットである「真悟」が過ぎ去ったこととして語るのである。
「わたしはクマタ機械製作というところで生まれたそうです・・・・・・」
イントロからしてこうである。この口調が延々と最後まで続く。「手」だけになってしまってもである。
さらに不思議な点は「真悟」が「〜だったそうです」という風に、誰かから聞いた話として語っているところだ。
では「真悟」はどこにいて、誰から聞いた話を語っているのだろう。
「真悟」はひょっとして「天国」にいるのだろうか。
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