2008年10月23日

尾崎放哉句集



五・七・五にしばられない自由律俳句といえば種田山頭火が有名だが、僕は尾崎放哉のほうが好きである。

あまりくわしくないのにこんなことを書くのは恐縮だが、山頭火は僕にとっては明るすぎるのである。なんだか陽気に旅をし、人の世話になりながら楽しく俳句をひねっているイメージがある。それはそれで「悟り」の境地なのだろうが。

尾崎放哉から受けるイメージは正反対である。

若い頃からエリート一直線、一時は生命保険会社の重役にまで昇りつめるが、職を捨て(正確に言うとクビになったのだが)、財産も失くし、妻とも別れ、無一文、文字通り「乞食」となる。

そして彼はこう俳句を詠む。

いれものがない両手でうける


本当に、人からの施しを受ける入れ物すらなくなったのだ。

その後、あちこちの寺を転々といそうろうしながら暮らすが、わずか3年で亡くなっている。

享年41歳。自らの死を予感していたのか、彼の俳句にははかなさが感じられる。本当に「いま」しかないのだ、それがすべてなのだ、そんな覚悟のようなものを感じる。

足のうら洗えば白くなる
咳をしても一人
めしたべにおりるわが足音
爪切るはさみさへ借りねばならぬ
行きては帰る病後の道に咲くもの


以前に石川啄木のところで書いたが、一時期短歌にはまっていたことがあった。そのとき思ったことがある。

小説が「映画」だとすると、短歌や俳句は「写真」である。

小説にはストーリーがある。つまり過去と未来があって、そのあいだにはさまれている現在が存在している。

しかし短歌や俳句には時間が流れていない。過去の余韻や未来の予感のようなものは漂っているのが、そこに描かれているのは、時間上のある1点、ある瞬間の出来事であり思いである。そのあたりが写真に似ていると思ったのだ。

乞食。ホームレス。そんな生活から抜け出したいと思っている人もいるだろうが、中にはきっと、人生を悟りきっている人もいる。

彼らには未来も過去もない。失うものはなにもない。あるのはただ「いま」だけ。ならばそれは一種の至福の境地と言えないだろうか。

乞食(こつじき)とは実は仏教用語である。

自ら働くことを放棄し、人からものを乞うという修行をしている僧侶のことを呼ぶ。ならば仏教的には、乞食は実は敬うべき存在である。

そんなことを考え出すと、僕は人と自分を比べたり、誰が誰よりも偉いか比べたり、そういうことを考えるのがアホらしくなってくる。

きっと乞食の中にも「勝ち組」はいるし、六本木ヒルズの社長の中にも「負け組」がいる。

だいたい僕がいつも言っているように、

すべての人生は「死」の前では負け戦である。
すべての人間は「無」のもとに平等である。


僕はいま、いっちょまえにまっとうな生活をしているが、それでもこれまでたくさんのものを捨ててきた。

言い方を変えれば「たくさんのものを失った」のでもあるが。

でもその結果、僕の人生はちょっとずつ軽くなっているような気もするのである。

喜ぶべきなのか。哀しむべきなのかはわからないけれど。

posted by にあごのすけ at 23:56| Comment(1) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじまして
小豆島の南郷庵の近くに住むテストパイロットと申します。
わたしの曾祖母が放哉の最期を看取りました。
よかったらわたしのブログ、のぞいてみてください。
Posted by テストパイロット at 2011年09月29日 07:48
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