2009年01月12日

田園に死す



寺山修司映画の、言わずと知れた名作。知る人ぞ知る映画なので、サブカルチャー好きな人は当然知っているだろうが、そうでない人も一度見ていただきたい。ぶっとぶこと間違いなし

僕が寺山修司の映画を見出したのはけっこう遅い。彼のエッセイは18歳くらいの頃から読み親しんでいたが、映画を見たのは24歳くらいになってからである。

当時、僕は大学の哲学科の学生だった。その日たまたま知り合った女の子と、話の流れ上、いきなりいっしょに「寺山修司オールナイト」を見にいくことになったのである。

小汚い映画館、午後10時から朝の5時まで、寺山修司映画の5本立て。

映画を見てぶっとんだ。どの映画も、男の倒錯した性欲・エロティシズムが丸出しの映画ばかりなのである。こんな映画に女の子を連れてきてよかったのか。しかし彼女は案外平然としていたが。

映画の話に戻そう。この『田園に死す』という映画、寺山修司のほかの作品と同じテーマを貫いている。つまり、母親と自分との近親相姦的な関係。母親の影響から逃れたくても逃れられないジレンマ。

以前にも書いたが、人間には「心の基礎体温」と呼べるものが存在すると思う。何かの出来事に直面したとき、それを前向きに捕らえるか、後ろ向きにとらえるか。その志向性は、けっこう自分が幼少の頃に決定づけられているような気がする。

それを決定づけているのが、実は「母親」なのである。程度の差こそあれ、母親が子どもの人生観に与える影響は非常に大きい。

僕の母親は、ある意味偉大な女性だった。父親の単身赴任が決まったとき、母は子どもを前にして父に泣きすがり、「私は子どもを捨ててでもあなたについていく」と言い放った。

「私は子どもよりも自分が一番大事。自分を大事にできない人間は他人も大事にできない」、そう言い聞かされて僕は育った。母とケンカしたときは、僕よりも母のほうがむせび泣いた。そして2、3日すぎてすっかり忘れ去った頃に、母が僕に近づいてきて耳元でこうささやいた。

「これで許されたと思ったら大間違いだいからね」

とにかく偉大な母だったと思う(まだ生きているが)。そんな母の影響を僕は多大に受けている(影響が「よい」か「悪い」かは、結局のところ自分の生き方によって決まると思う。影響を与えた側に決定権はない)。

僕の母に対する感情は、「愛憎」と言う言葉が非常によく似合う。愛しながらもひどく憎んでいる。

寺山修司が映画で描く母親像も、僕の場合とよく似ている。

愛憎。母親から逃れたい。しかしどこまで逃げても、母親の影響はどこまでも追いかけてくる。お母さん、いっそ死んでくれ! 死んで僕を自由にしてくれ! そういう映画である。

映画の途中で流れる挿入歌が耳にこびりついて離れない。

「死んでくださいお母さん。死んでくださいお母さん」

これはあるいは僕だけなのかも知れないが、男が恋愛をする大きな理由のひとつは、本来の母親から逃れ、新しい母親と巡りあいたいという願望の現れなのではあるまいか。

「私はあなたのおかあさんじゃないのよ!」

ドラマとかでよく恋人が言い捨てるセリフである。でも結局のところ、男は心のどこかで、恋人に「自分の新しいお母さん」のイメージを求めているような気がする。

こういうことを書くと、たぶん女性は馬鹿にするんだろうなー。でもしょせん、男ってのはそういう馬鹿で甘えた生き物なのだ。

男はつまり「マルコ」なのである。『母お尋ねて三千里』のマルコ。

幼稚な話である。でも男は、そういう理想を追い続けなければいけない、そんな気もする。追い続けるのをやめたとき、男は男でなくなるのかもしれない。

posted by にあごのすけ at 01:17| Comment(0) | TrackBack(1) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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寺山修司「田園に死す」
Excerpt: 田園に死すジェネオン エンタテインメントこのアイテムの詳細を見る 1974日本 原作・脚本・監督・製作:寺山修司 出演:菅貫太郎、高野浩幸 、八千草薫 私は 物心付いたときには、海岸ぞいに広がる団地..
Weblog: Mani_Mani
Tracked: 2009-01-14 19:23
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