「男は母なる女性を捜し求めて永遠の旅を続けるマルコなのだ!」
僕が酔っ払うと時々口にしていた言葉である。
これはあくまでも僕の考えだが、男という生き物は女性に対して少なからず「母性」を求めているものである。それを表現するための口実として、僕は酔っ払ってマルコを例に出していたのである。
だが最近、アニメの『母をたずねて三千里』全52話を見て考えが変わった。
これは単なる母親探しの話ではない。まさに人生の縮図であると。
ここで少し政治的な背景を考察してみたいが、1970年代はなぜにこのような深くて重いアニメが作られたのか。現在だって深いアニメは放映されているのかもしれないが、見ていないのでよく知らない。
おそらく当時は、子どもにどんなアニメを見せるか、親が決定権を持っていたからではなかろうか。だから親にウケる、逆に言えば5、6歳そこらの子どもにはあまりにも重過ぎる内容のアニメが大量に作られたのである。
僕はこのアニメをリアルタイムで見ていたが、その深さ、重さは当時は理解できていなかった。大人になって見てあらためて驚かされることが大いにある。
イタリアはジェノバに暮らす、マルコとその家族。ところが父親が慈善事業にのめりこみ、家計は破綻し、母親がやむをえずアルゼンチンに出稼ぎに行くことになる。
ところが、母親からの便りはやがて途切れる。仕送りもなぜかなくなる。心配でたまらなくなったマルコ、おそらく8、9歳の少年がひとりでアルゼンチンに、母親探しの旅に出る。
しかしその旅の内容がこれまた凄惨である。イタリアの不景気の現状。アルゼンチン移民の光と影。インディオに対する差別。貧富の差。人々の親切さと冷酷さ。
ファンタジーのかけらもない。現実の残酷さというものをこれでもかと見せつけられる。
不景気の渦中にある現代日本とダブる部分もあり、この『母をたずねて三千里』を見るにはいいタイミングであるとも思う。
マルコは命からがらブエノスアイレスにたどりつくが母と巡り会えない。南の町にいると聞いて何十日も旅をするがやはり巡り会えず、北にいると聞いて再び旅に出るがやはり再会できず。
「僕はきっと呪われているんだ!」
マルコが泣きながらそう絶叫するシーンはもはや鬼気迫るものがある。子ども向けどころか、こんな絶望的なアニメ子どもに見せていいものかどうか。
最初に、このアニメは人生の縮図だと書いたが、命がけであっちの町へこっちの町へ、時には人に助けられ、時には足蹴にされ、それでも旅を続けていくという部分はまさにそうだと思う。
だが大きな違いがある。
マルコには「母に会う」という明確で大きな目標があった。だが果たして僕らの人生の目標とはなんぞや?
僕らは、目的すらもよくわからないまま果てしない荒野を旅し続ける流浪の民なのかもしれない。
高畑勲と宮崎駿コンビ、のちのスタジオジブリがつくったアニメである。でもジブリの映画よりも、『母をたずねて三千里』のほうがよっぽどデキがいいと感じる。
登場人物のちょっとした表情。手の動きが持つ意味。間(ま)。シーンひとつひとつが重要な意味を持っている。非常によくできている。ジブリの映画よりもずっと手が込んでいて奥が深い。
ひとつには時間の問題もあるのだろう。ジブリはずっと、もっぱらアニメ映画ばかりをつくっているが、映画の2時間という枠の中に入れられるものにはやはり限界がある。1回につき30分、全52話のアニメとは時間的にあまりにも差がありすぎる。
スタジオジブリは原点に戻り、いまこそ長編テレビアニメをつくるべきなのだ・・・・・・「マルコ」を見てそう思った次第である。
このアニメについては、語りたいことがまだ山ほどあるのだが、それはまた次の機会に。
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