2009年08月22日

蓮如文集



僕の夏休みは想定外に長いものとなった。

夏休みの最終日に祖父が死んだ。通夜と葬式をするため、僕はさらに3日間休みをとることになったのである。

僕にはずっと負い目があった。

生きるだの死ぬだの、日ごろから哲学者ぶって語っているけれど、実際のところ僕は「生死」とはいったいなんなのかよくわかってないのじゃないか?

これまで親類や友人など、人の死に少なからず直面してきた。でも通夜や葬式にちょろっと顔を出した程度、死の全貌を見たことがなかった。

その点、祖父については、数年前からボケはじめ、身体が弱っていくようすを目の当たりにしてきた。もう意識があるのかないのかわからない状態で入院しているところへも見舞いに行った。

死の全貌を直視し、そこから何かを学び取ることが、「哲学者」たる僕の役割なんじゃないのか。それが僕にできる最後の「祖父孝行」なんじゃないのか。ひねくれた考えかもしれないが、僕はそう気負って会場に駆けつけた。

湯灌の儀式から通夜、葬儀、火葬まで全部立ち会った。

集まった親族は和気藹々としていた。僕も含めみんな悲しんではいるのだが、なごやかなムードだった。通夜や出棺のときなど、あちこちから鼻をすする音、泣き声は聞こえるが、終わるとケロッとしている。

言ってみりゃ大往生、みんな心の準備もできていたのだろう。通夜や葬儀のあとの食事のときなんかは、みんな酒を飲んで酔っ払い談笑し、まるで正月に親戚が集まったかのようなムードだ。

(一番取り乱していたのは親族ではなく、隣近所の人たちだった。落ち着きはらった親戚をつかまえて「あたしがこんな小さいときからよくしていただいてホンマにもう……」と号泣しながらひたすらしゃべり続ける近所のおばちゃんなど)。

火葬のときはもう悲しみのムードはすっかり消えていた。

実は僕はこれを一番恐れていた。さっきまであった肉体が数時間で骨になってしまうのを目の当たりにし、取り乱してしまうんじゃないかと。

だが全然そんなことはなかった。いとこ兄弟らも同じ感想だったのだろう。台の上に細かくくだけて散らばった骨片を見ながらみんなキョトンとしている。「なにコレ?」てな感じである。

「足のほうから上へと、お骨を順番にひろって骨壷にお納めください」

係員が厳粛に言う。すると親戚一同、箸を持っていっせいに足の骨をひろい出したので、係員、急にあわてて、

「足の骨ばっかりひろわないように!」

ちょっとしたこっけいな場面だった。

さて、ここからが本題である。

骨壷を前に、僧侶が最後のお経をあげる。仏教についてはある程度知っているつもりでいたし、葬式の仏教は、まあ儀式程度の意味しかないと思っていた。

ところが坊さん、読経の途中で、こんな文章を朗読しはじめたのである。

「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
 されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、即ち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」


ギョッとした。ゾゾゾゾ、と、背中に寒いものが走った。

あとで調べるとこれは600年前の僧侶・蓮如上人が残した言葉だった。一般に『白骨の章』と呼ばれている文章らしい。

僕流に意訳するとこうだ。

「人間の生涯なんて、よく見りゃ一瞬で過ぎていく幻のようなもんだ。
一万年生きた人間なんていないし、百年生きられるやつもまずいない。
あっというまだ。今日か明日か、自分だっていつ死ぬかわかったもんじゃない。自分のあとにもさきにも、あるのは無数の「死」だ。
朝には生き生きしているやつも、夕方にはただの白骨になるのだ。
目は閉じ、息は止まり、顔が蒼白になり、親戚一同集まって嘆いたところで、もうどうにもならんのだ。
どうしようもないから火葬にして、そして残るのは白い骨だけだ。
人間はとにかく哀れで愚かな存在にすぎんのだ。子どもも年寄りも関係ない、みんな儚い存在なのだ。
ただ『南無阿弥陀仏』と唱えて祈ることくらいしかできんのだ」


正直言って、葬式で朗読するにはあまりにも酷な言葉である。

仏教とは、これほどまでにニヒルで、厳しい思想なのか。

そしてふと自分を省みる。「人生は無意味だ!」と、このブログその他で僕は声を大にして語り、歌をつくったりもしている。その行為自体はいいとして、でも僕の心のどこかに高慢さがあったのではないか。

人生の儚さ、無意味さなんて、何百年何千年も前から多くの宗教家が言ってきたことだし、今生きている人々の多くもきっと、その人なりにそう感じている。

声を大にするまでもない。人生が無意味だなんてあたりまえのことだ。

僕は自分をちょっと恥じた。

祖父の葬儀を通して僕が何を学んだかというと、実は大したことはあまり学べなかったような気がする。

でもこの「大したことじゃなかった」というのが実は重要なのかもしれない。

祖父は自然に老い、自然に衰え、自然に死に、自然に骨になった。すべてにおいてあまりにも自然だった。

僕はこれまで、生を恐れ死を恐れ、時には死に誘惑される、そのくりかえしの人生だった。

だがそれは、「死」を過大評価しすぎていたからかもしれない。

「死」が何かはいまだにわからない。おそらく最後までわからないだろう。でもそれはとても自然なものなのだ。必要以上に恐れることも持ち上げることもない。

とにかくいま僕は生きている。そして今日も一日生きる。なぜか? だって生きてるんだもの。


サンキュー、じいちゃん。
posted by にあごのすけ at 05:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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