2009年11月18日

永遠の仔(天童荒太)



「まったく救いのない小説」というふれこみで読んだ。数年前にテレビドラマ化もされたようだが、僕は見ていない。

長い小説である。単行本の上巻を読むのに数週間かかった。でも下巻は数日で読み終えた。いちおうミステリー小説であり、読む側をグイグイ引き込んでいく。

四国の田舎町にある児童向けの精神病院。さまざまなトラウマを抱え、さまざまな症状を持った子どもたちが入院している。

そこで知り合い、心を分かち合った少年ふたりと少女ひとり。

3人が17年ぶりに再会したことによって、止まっていた時計は再び動き始め、悲劇が悲劇を生む連鎖反応に陥っていく。

幼児虐待の描写がすさまじい。目を覆いたくなるほどである。そんな子どもの頃のトラウマを、3人はひきずりながら生きている。

だが、「まったく救いのない小説」かというと僕はそうは感じなかった。3人は最後に、それぞれの方法で、過去との決別をおこなう。決してハッピーエンドなんかではない。しかし、全体において非常に暗い、真っ暗闇な小説だからこそ、そこに浮かんだ非常にかすかな希望の光も読み取ることができる。

この小説で描かれている虐待の構図はこうだ。

親は子どもに対して無償の愛は与えない。あくまでも「条件つきの愛」しか与えない。それは親のエゴのせいだったり、親自身が逆に子どもから「愛されたい」と思う気持ちの反映だったりする。

子どもが親の要求に応えないとき、親は子どもを虐待する。子どもは親を責めると同時に、親の要求に応えられない自分をも責める。これがトラウマとなって子どもの内面に焼きつけられ、性格やその後の生き方まで決定づけてしまう。そして時には、自分が大人になったとき、自分がやられてきた虐待を自らの子どもに対してぶつけてしまうこともある。

僕は「虐待」と呼べるほどの仕打ちは受けたことはないが、ある種の疎外感の中で育った。問題児でもあった。だから登場人物たちの気持ちは部分的にはわかる。

だが精神科医の斉藤環香山リカが主張しているように、自分の現状のすべてをトラウマのせいにしてしまっていいのか、という疑問を僕も感じる。

僕が子どもだったとき、親も子どもだった。いまの僕よりも若かった。そう思うと自然と許す気にもなれるし、お互いに「大人」になっていくにつれて自然に「和解」することもできた。

「無償の愛」というのも非常に難しい問題である。まず、親自身も不完全な人間である。また、「良いことをすれば褒め」「悪いことをすれば叱る」というのはある意味条件つきの愛であるが、別の言い方をすればこれはしつけである(善悪の基準が親側にゆだねられているのが問題ではあるが)。

もしも親の「無償の愛」の中で育ったならば、大人になったら自立できない・自己中心的な人間になってしまうかもしれない。「無償の愛」を与えつつもしつけができれば一番いいが、そんなことは可能だろうか。

いずれにせよ、僕たちは親の影響を受けて育った。そしてそれに縛られながらも、それに支えられたり、バネにしたり、逃れようとしたり、逆に暗い過去として背負いながら生きていく。それは誰でも同じだと思う。

ともかくも、この小説を単なるトラウマ話として読んだら、重要な部分を見落としてしまう気がする。

幼児虐待やトラウマ話を話の中軸にすえながら、「人間はいかにいきるべきか」を描き切った小説である。

読み終えたとき、なんだか僕は、自分の身代わりに登場人物の3人が「いけにえ」になってくれたような、そんな不思議な気分になった。
posted by にあごのすけ at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。