2011年08月19日

自死という生き方(須原一秀)



大学1年、僕がまだ理工学部にいた頃、須原一秀というちょっと風変わりな講師がいた。

『論理学』という講義だったと思う。教材として、彼が書いた『超越錯覚―人はなぜ斜にかまえるか』という本を買わされた。ところが本の内容はおろか、講義自体も論理学とほとんど関係ないのである。

単位を取るのはたやすかった。生活の中でふと疑問に感じたことをレポートで出すか、そんな疑問を講義中に質問すればよかった。

「最近何か疑問に思ったことない?」

そんな感じで須原氏が学生に話をふる。僕も何回か質問した。彼は「うん、それはね・・・」と話し出すのだが、話は決まって途中でそれ、ちゃんと回答してもらったことがなかった。学生の質問からインスピレーションを得て自分の問題を考えているように見えた。

たとえるなら、見た目はアル・パチーノ、語り口はピーター・フォーク。ひょうひょうとしているがダンディーな先生だった。

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それから数年後、僕は文学部哲学科に移籍した。そこで僕はウィトゲンシュタインという哲学者について学ぶのであるが、出会った先生ふたり、あの須原氏と講義の進め方がどこか似ているのである。

よくよく調べてみたら案の定、須原氏もウィトゲンシュタインから続く分析哲学→日常言語学派を研究する学者だった。

この学派は、哲学の歴史の中ではちょっとした異端なのである。簡単にいうとこんなふうに。

1.哲学や科学、その他どんな手段を使っても、『人生の真理』『宇宙の真理』など語ることはできない。
2.魂や死、人類、命について議論をしても、決して核心はつかまえられず、あくまでも言葉上の問題として堂々巡りするだけである。
3.我々にできることは、日常の出来事を日常の言葉で語ることだけである。
4.よって哲学は無意味である。ただし、『哲学は無意味だ』ということを理解するためには哲学をしなければならない。
5.『答え』はむしろ『問い』の構造の中に隠されている。


道理で、いつまでたっても結論めいたことを言わず、ただえんえんと学生と質疑応答するという講義スタイルになるわけである。

さて、先ほどあげた『超越錯覚』だが、これがけっこう面白く、これまでも思い出したらひっぱり出してきてペラペラと読んでいた。ふと、この先生は今頃何をしているのか気になり、ネットで調べてみた。

驚いた。須原氏は2006年に65歳で自殺していた。それもかなり「奇妙」な動機で。その遺書(遺著)が出版されているというので、さっそく取り寄せてみた次第である。

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この本によると、須原氏は某県(おそらく滋賀県と思われる)の神社の裏山で首をつって死んだ。同時に頚動脈を自ら刃物で切っており、念の入った自殺だった。自宅には本書の原稿が残されていた。それは、『自死』の正当性を哲学的に検証する内容だった。

「平常心で死を受け入れるということは本当に可能か? ――それはどのようにして可能か?」
「本書と私の自死決行とはワンセットで一つの哲学的プロジェクトである」


なんか知らんがすさまじい意気込みだ。

さて、実際に出版されたこの本は、最初の20ページほどが無関係な評論家の文章で埋められ、ラストは須原氏の家族による手記で終わっている。須原氏オリジナルの文章はちょうどサンドイッチにされた形式になっているわけだ。『自死という生き方』というのもあとでつけられたタイトルで、須原氏自身は別の題名をつけていた。残された人たちが、かなり強引に『死を考えることによってより良い人生を送ることができる』的なムードにもっていこうとしているようにすら感じられる。

おそらく、そのまま出版するにはあまりにも過激な内容だったからだ。須原氏は『よい生き方』云々なんてことは一言も書いておらず、もろに『みんなもっと明るく気軽に死のうぜ! 気軽に死ねる社会にしようぜ!』と主張しているからである。こりゃ過激だ。文章だけならともかく、須原氏による実践もともなっているのだ。

社会通念をズバズバと痛快に切り捨て、ユーモアに富み、僕が受けた講義のように時々脱線するが、とにかく面白い本である(死を決意した人が書いたものとは思えない)。と同時に、僕は大きな盲点をひとつ見つけた。それを是非とも書きたいので、ちょっと長めに内容をふりかえってみる。

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■「人生は虚無」だとか言って苦悩している人間が長々と生きて、自殺とはまったく無関係に見える幸福そうな人生の達人がいきなり命を絶ったりするのはなぜか?

後者の例として、須原氏は、ソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三をあげる。3人とも、あらゆる幸福にめぐまれ、人生を楽しむ達人だった。そして大して悩むようすもなく、むしろあっけらかんと自決した。なぜか?

■「極み」と「高」

「高を知る」という言葉があるが、これはようするに、人生や自分の頂点がどのあたりにあるか知ることである。「極み」とは、自分が感じる幸せの頂点のこと。

「極み」をたくさん感じられる人間というのがいて、彼らはちょっとしたことで最高級の幸せ(極み)を日々感じられる人種である。(これは僕の言い方だが)「極み」は質の問題であって、量の問題ではない。

僕のたとえで言うと、たとえば仲間で焼肉を食べていたり、みんなでキャンプに行ったりするのは「極み」の瞬間である。つまり、これ以上ない幸せ。3,000円の焼肉が3万円になったり、キャンプ旅行がドバイ旅行になったりしても、僕の幸福感は大して変わらないだろう。つまりそれが僕の幸福の上限なのである。逆に、値段やテレビの評判など、観念的なものにしばられている人はいつまでたっても「極み」を感じることができない、と須原氏は言う(このへんの発想、いかにもウィトゲンシュタインっぽいなー)。

楽しすぎて「もうじゅうぶんだ!」「もう死んでもいい!」という気分になることがある。ところが老齢を過ぎると、心身の衰えから「極み」を感じられることもだんだん減ってくる。先にあげた3人は、「極み」をじゅうぶんに感じられるうちに死を選んだのではないか? そういう死に方もアリなのではないか?――というのが須原氏の主張だが、これには大きな盲点がある。あとで論ずる。

■自然死は悲惨である

「眠るような安らかな死」とよく言うが、そんな死に方はほとんど奇跡に近い。須原氏は、さまざまな資料や自分の身内の死を取り上げて説明する。

僕にとって衝撃だったのは、キューブラー・ロスの死だ。死にゆく患者のメンタルケアを初めて提唱した医者。ホスピスや終末医療の創始者であり、病院ではなく自宅での死、無益な延命治療の中止を訴えた人である。死を間近にした何千人もの患者に寄り添い、恐れることはないと励まし、周りから「聖女」と呼ばれた(ちなみに、死後の世界の存在について初めて科学的な検証を試みた人物でもある)。

ところが晩年、本人が脳卒中で倒れ、半身不随で身動きできなくなった。彼女は豹変した。

「精神分析は時間と金の無駄だった」
「愛なんて、もううんざり。よく言ったもんだわ」
「40年間、神に仕えてきて、引退したら脳卒中の発作が起きた。神はヒトラーだ」


そのようすの一部は以下で見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=Tp0eYiAOsZY

何千人もの死を看取り、死の不安を取り除いてきた彼女ですら、晩年は神を呪うようになってしまう。自然死はそれだけ悲惨なものだ、と須原氏は主張する。たしかに上記動画を見ても、本人はかなり死にたがっているし、延命処置も拒否しているのに、自殺(尊厳死)だけはかたくなに拒んでいるのが少し奇妙に思えなくもない。それは彼女がキリスト教徒だからだが、須原氏いわく、何千人もの魂を救ったのに最後に自死を選んだくらいで神様は彼女を地獄に落とすのだろうか。

■武士道のように思い立ったら死ね

須原氏は、日本の武士道における切腹を持ち出す。ガチガチの封建社会において、切腹こそが武士に許された唯一の自由意志だった。「いざとなったらさっさと死ぬさ」とか言いながらもダラダラ生きるくらいなら、思い立ったときに何も考えずにスパッと死ぬべきだ、と言う(ただしこのへん、武士も第二次大戦の日本兵もいっしょくたに論じられており、僕は正直なところ「?」な部分である)。

さらに、夢中になって何かを楽しんでいるときは死の恐怖やこの世への未練なんかまったく考えないものであり、その幸福の「極み」の状態でさらっと死んでしまうのがベストだ、と主張する。

また、「魂」だとか「かけがえのない命」とかを持ち出して生きることの大切さを説明する人間たちを、以下のように切り捨てる。ちょっと長いが、秀逸というか過激すぎて笑けるので引用しよう。

「確かに、自分の家族などに対しては「かけがえのない命」という言葉の持つ重みは誰しも感じることはあるが、外国で起こった列車事故の死者数の少なさに少しはがっかりしたり、インド洋の津波被害について、どこか面白がっているような感じで仲間と話題にしたり、介護に疲れて老親の早急の死を夢みたり、残酷焼きを喜んで味わいながら、のたうつ貝やエビにちょっとだけ同情したり、さらには畜産動物や実験動物の境涯を知って、心を痛めたりしている人間が無条件に「かけがえのない命一般」について声高に論じるのは無理であり、場合によってはそんなことを言う人は無神経としか言いようがないと思ってしまうのである。
(中略)
問題は、環境問題や現代社会の退廃を論じる文脈で、「自然」を捻じ伏せるようにして構築された人工的な環境でぬくぬくと衣食住を満たしている人間が、「大いなる自然」を持ち出すのは普通は無理ではないかと思うのである。我々は、実験動物や畜産動物の地獄の苦しみを経由した薬や食物を利用しているのである。そして臨終にあたっては、人工的に命を縮めてもモルヒネの投与を願うかもしれないのである。そんな人間が「大いなる自然」を口にしても説得力はあるのだろうか」


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結局のところ、須原氏の生きる指針は次のようなものだった。

長年、科学とか自然とか人間について研究してきても何もわからなかったが、

「ただし、「自分にとっての自分」と「自分にとっての世界」の問題だけは、なんとか体感的に克服できているような気がしている。それは、普通人の普通の立場である。つまり、中途半端と非合理を抱え込んだ人間が日常語圏という共同体で、その場その場で通じる範囲内での日常語を使用して、その場限りで主張しうる圏域内だけに自分の意識が及ぶように限定できるようになっているということである」

これなんかもろにウィトゲンシュタインくさいなー。僕は「わかりもしないことをわかったつもりになるな」を自分のモットーとしているが、言っていることは同じである(なぜなら僕も、幸か不幸かウィトゲンシュタインの影響下にあるから! 実際はそこまで達観できていないが)。

(おまけ:こんなことを書くと矛先が僕に向きそうでこわいが、前の東北の震災だって、僕は「がんばれ日本!」なんて仰々しいことを言う気分にはどうしてもなれないのである。僕がしたことと言えば、東日本にいる友人数人に連絡を入れ、困ったときには物資を送ると伝え、昔貧乏旅行をしたときの東北の町並みや気仙沼の峠から見た星がきれいだったことを思い出し寂しく思い、心ばかりの募金をした程度である。結局のところ僕が実感として感じられた範囲がそこまでだったからである。一線を越えて「日本よ立ち上がれ!」てなことを言い出すと、実感を離れた空虚なものがひとり歩きしそうでこわかったのである。もっとも、政治家や有名人、運動家、宗教家、天皇、一部の医療関係者などは、そういう「大ボラ」を言うのが仕事であり、言う使命がある)。

話を戻そう。須原氏は『自死』についてはとにかく本気なのだった。そして「後進の方々」に、自分に続けとばかりにアドバイスしている。そしてこう締めくくる。

「こだわりを捨ててちょっと工夫すれば人生はなかなか良いものである。定年後も老後も、工夫しだいでなかなかのものである。(中略)しかし、その先は誰にも保証できない。その頃の少し手前で考えれば充分間に合うが、しかしどこかでその先に行くことに不安になったら、その時まで本箱の隅にでも置いていた本書を参考にしていただきたい」

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以下、僕の批判と総評である。

この本は、病と闘って生きている人やその家族にとっては、まさに神経を逆なでするような内容である。ネットを見ても、感情的な批判は少なくない。

須原氏は、自然死という選択もひとつの死に方として認めている。しかし、対極にある自死という死に方も筋が通っているにもかかわらず、現在は少数派であまりにも迫害されているので、かなり過激に主張を書いた、と述べている。それにしても、である。

でもいちおうは「哲学的主張」をしている須原氏に、いくら感情的に反論しても無駄だろう。そこで哲学的反論を試みる。

幸せの「極み」のところで、それは量ではなく質の問題だ、と僕は書いた。これは僕の表現だが、趣旨はずれてはいないだろう。

たとえば水泳は楽しい(ふだんあまり泳がないが)。子どもの頃も現在も変わらず楽しい。普通に考えて、10代の頃よりも現在のほうが明らかに体力が落ちているはずだが、もとから気にしていない。だから楽しい。泳ぐことの「極み」を感じている。

だが、あるレベル以上まで行った水泳選手となるとこうは行かないだろう。20代半ばをすぎた頃から徐々にタイムが落ち始め、それに対して絶望的な気分になるかもしれない。須原氏の考えに基づけば、これは「タイム」という量的なものにこだわるから楽しくない、「極み」を感じられないのだ、ということになる。

ところが須原氏が、老衰すると徐々に「極み」を感じられなくなる、と言うとき、本来は質的なもののはずだった「極み」が、量的なものにすりかわっているように思えるのである。

心身が衰え、歩ける距離が短くなり、思考が鈍くなっても、量的な側面を気にしなければ「極み」が減ることはないのではないか。歩く距離が半分になっても「散歩」が「散歩」であることに変わりはないし、考えが鈍っても「将棋」は「将棋」として楽しめるはずである。

先述の動画で、キューブラー・ロスの若い友人がインタビューに答えている。ふたりはよくポップコーン片手にビデオを見て、「ジョニー・デップはかっこいい」とか、ガールズトークで盛り上がったという。身体が動かなくなっても、友人と映画を見ている瞬間に彼女はひとつの幸せの「極み」を感じていたのではあるまいか。

もちろん、年老いてなおも「極み」を感じ続けるためには、思考の切り替えが必要である。だが不可能ではない。須原氏は単純に、年老いていくのが怖かったのではないかと感じる。もっとも、だからと言って彼の『自死もひとつの選択肢として認めるべきだ』という主張をくつがえせるわけではない。

もうひとつは、ちょっとマニアックな解釈である。

須原氏は本書で、死ぬ前に読みたい本として、夢野久作の『近世快人伝』をあげている。なぜに夢野久作?と僕はちょっと首をかしげたのである。夢野久作のもっとも有名な小説といえば『ドグラ・マグラ』だろう。この怪奇小説には、正木博士というマッド・サイエンティストが登場する。

かつて中国に、自分の妻を殺してその腐っていく過程を描き残した、狂った画家がいた。正木博士はその子孫を見つけ出し、自分とのあいだに息子をもうけた。先祖の血を継いだ息子が、同じように狂って死体の絵を描くかどうか、実験するためである。まさに人生をかけた大実験!

須原氏が、本書と自死の決行とを『哲学的プロジェクト』と呼ぶとき、どうしても正木博士のイメージがだぶってしまうのである。須原氏自身、このプロジェクトの遂行にかなりワクワクしていたようすが本書からうかがえる。彼は哲学論を書き下ろし、その主張のとおりに死んでみせることで、人生をかけて「哲学者としての『極み』」を体感しようとしたのではあるまいか。

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須原氏の自死を僕は否定はしない。前にも書いたが、自ら死んでいった者について何を言っても無意味だ。

家族がかわいそう、という意見もあるが、寝たきりになって意識もない肉親を見守り続けるのがいいのか、あるいはピンピンしているうちに笑顔で去っていくほうがいいのか、それは家族が実感としてどう感じているかに尽き、それ以外にはありえない。

須原氏の息子が最後にこう書いている。

「父の自死からしばらくして、私たち家族が出した結論は、『父にもう会えないのは寂しいが、悲しむことではない』ということです」

「生きる意味」などというトリッキーな問題を考え出すととたんに哲学的ドツボにはまる。別の哲学者・中島義道が「人生は無意味なのになぜ生きなければならないのか」という学生の切実な問いかけに対し、こう答えている。

「人生は無意味だ。でもあなたがいなくなると僕は寂しい」

まあ、これが一番ミニマルで、でも一番体感できる「死なない理由」なのかもしれない。

須原氏に対して僕は特別な恩もなく(講義もかなりサボっていた)、向こうも僕のことなど記憶の片隅にも残っていなかっただろうが、僕は「もったいない」という思いがぬぐえない。これだけ面白い本を書く人だ。昔よりもさらに文章はさえわたり、切れ味も鋭くなっている。何よりユーモアのセンスが卓抜している。生きていれば、まだまだ面白い本を書いてくれただろうに、単純に「もったいない」と感じるのである。

それだけ本書は僕にとって面白かった。生と死の問題にとどまらず、さまざまな示唆に富んでいた。とにかく久々に出会う、ドーパミンがドバドバあふれ出すくらい刺激的な本であり、いまだ興奮さめやらず、だからこんなに長い文章を書いている。

で、この本をみんなに読んでほしいと思ったのである。全体的に読みやすい内容であるが、哲学がニガテな人は、最後の9章、10章あたりから読んでもらってもかまわない(須原氏による、死を決行するまでの約1年間の日記風文章がある)。そして読んだ人の反応を見たいのである。

決して「良薬」ではなく、「劇薬」と「麻薬」と「毒」と「ほとんど試験されていない新薬」をチャンポンにしたような本であるが、それなりの読み応えはあるはずだ。


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2011年08月02日

幻の光(宮本輝)



死をテーマにして書かれた、宮本輝の短編集。特に表題作は自殺がテーマとなっており、他の収録作品とは趣を異にする。

主人公である女性が、自殺した夫にえんえんと語りかける、という文体である。

主人公は、同じ長屋で育った幼馴染の男と結婚し、子どもをもうける。貧乏だが幸せな日々がいつまでも続くかと思われた矢先、夫が鉄道自殺をする。夫はいつもどおり仕事に行き、帰りに喫茶店に立ち寄り、だがその数時間後、彼は線路の上を歩いていた。後ろから電車が迫ってきても淡々と歩き続け、そのまま轢かれて死んだ。

理由は誰にもわからない。

「なんであんた死んでしもうたんやろ」

主人公は、イメージの中で線路を歩いていく夫の後姿に語りかける。いつしか、死んだ夫に向かって心の中で話しかけるのが習慣になっている。やがて主人公は子連れで能登の漁村に嫁ぐ。それでも、前の夫に話しかける癖はぬけない。

これは僕の個人的興味なのだが、小説などで、自殺の理由を文章で表現するのは不可能に近い作業だと思う。なぜなら、ほとんどの自殺には、実は理由なんて存在しないからだ。

有名人が自殺するたび、マスコミはあれこれと理由を推察し書きたてるが、どれも的外れのように感じる。

自殺に理由はない。いや、人間のすべての言動には実は理由はない。人は他人の行動に理由を後づけし、自分の行動や人生にも、スジが通っているかのように思い込む。ところが実際は、人は日々、理由もない行動をくりかえしているだけだ。哲学者クリプキの言うところの『暗闇の中での跳躍』を、瞬間瞬間くりかえしているのである。

よって人が自殺する「きっかけ」はあるかもしれないが、その真の理由は他人には決して理解できないし、おそらく本人にもわからない。批判しても哀れんでも、結局のところ真相にはまったくたどりつけない。『暗闇の中での跳躍』をくりかえしていて、何かのはずみでそうなってしまった。僕が考えうるのはそこまでである。

主人公は嫁いだ町に少しずつ馴染み、新しい幸せを育んでいく。でもそれをどこかうしろめたく感じている。ある雪の日、ひとり海辺を歩いていた彼女は、突然感情が破裂し、砂浜で初めて嗚咽する。

「ああ、あんたは死にたいだけなんや、理由なんか何もない、あんたはただひたすら死にたいだけなんや」
「ああ、あんたはなんて寂しい可哀そうな人やったやろ」

いまの夫に話すと、彼はただ一言こう答える。

「人間は、精が抜けると、死にとうなるんじゃけ」

僕はというと、先を考えると途方もない気持ちに襲われるゆえ、とにかく目の前の物事を淡々とこなすのみである。もっとも、『跳躍』をくりかえしていて足を踏みはずす可能性もあるが、死が端的に無であるならば、そこには自覚も理由もないだろう。
タグ:宮本輝 自殺
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2009年11月22日

MASTERキートン(勝鹿北星・浦沢直樹)



「自分の人生を変える本」なんてそう簡単にめぐり会えない。

もしめぐり会えたとしたら相当ラッキーか、あるいはすでに読み手側に潜在的に人生を変える準備ができていたかのどちらかだろう。

僕にとって、『MASTERキートン』はそんなマンガだった。特に大きな影響を受けたわけでもない。でも、僕が人生の選択に迫られていたとき、このマンガが「ポン」と背中を押してくれたような気がする。

主人公である平賀・キートン・太一は、日本の大学で非常勤の考古学教授をするかたわら、副業でイギリスの保険調査員もしている。イギリス特殊部隊に属した経歴を持つ。

一見ひ弱そうな男である。いつも「なんだかな〜」という表情をしているが、保険調査の仕事で危険な目にあったとき、その優れた頭脳と軍隊経験を活かしてピンチを切り抜ける。

でも彼が不屈のヒーローであるかというとそんなことはない。優柔不断である。自分が本当にしたいことは何か、いつも悩んでいる。

軍に入ったのも調査員の仕事も、なりゆきでそうなってしまったところがある。本当は考古学に没頭したいのに、金もなく、チャンスもない。

彼のこの優柔不断さに僕は共感した。15年前のことだ。

僕の「奇妙な」経歴を少し明かそう。

僕は高校時代はオカルトの研究に没頭していた。入信こそしなかったものの、さまざまな新興宗教団体に首をつっこんだ。

その後は左翼団体の連中と交友をもった。が、自分は科学者になるべきだと思い立ち、大学の理工学部に進んだ。

でも大学は合わなかった。理系の勉強もしっくりこなかった。僕は苦悩した。でもやがて、僕が本当に知りたいのは「科学」の領域ではなく、「哲学」なのだと気づいた。

僕は転部しようかどうか悩んだ。科学にはパワーがある。世界を物質的に変える力がある。それに比べて哲学は無力な学問だ。

そんなときに『MASTERキートン』を読んだのである。

物語の結末は書かないが、キートンはさまざまな人と出会い、経験をしていくうちに、人生の「マスター」へと成長していく。

物語の後半にくりかえし出てくる言葉がある。

「人間いつでもどこでも学ぶことができる」

そしてキートンはついに決意し、自分の本当に進みたい道を歩み始める。

そして僕は科学者になる夢を捨て、哲学を学ぶ道を選んだ。このマンガを読んで吹っ切れた部分が少なからずあるように思う。

もう15年以上前のマンガなので、設定が古い。冷戦前後のヨーロッパがよく登場する。だがその時代を知るにはよいマンガだ。

また、考古学ネタもよく登場する。アクションあり、ミステリーあり、人間ドラマあり。とてもよくできたストーリーだと思う。

いまは著作権問題か何かで「絶版」状態にあるようだ。ネットカフェかなんかで探して是非とも読んでいただきたいマンガ。復刻を切に願う次第。



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2009年11月18日

永遠の仔(天童荒太)



「まったく救いのない小説」というふれこみで読んだ。数年前にテレビドラマ化もされたようだが、僕は見ていない。

長い小説である。単行本の上巻を読むのに数週間かかった。でも下巻は数日で読み終えた。いちおうミステリー小説であり、読む側をグイグイ引き込んでいく。

四国の田舎町にある児童向けの精神病院。さまざまなトラウマを抱え、さまざまな症状を持った子どもたちが入院している。

そこで知り合い、心を分かち合った少年ふたりと少女ひとり。

3人が17年ぶりに再会したことによって、止まっていた時計は再び動き始め、悲劇が悲劇を生む連鎖反応に陥っていく。

幼児虐待の描写がすさまじい。目を覆いたくなるほどである。そんな子どもの頃のトラウマを、3人はひきずりながら生きている。

だが、「まったく救いのない小説」かというと僕はそうは感じなかった。3人は最後に、それぞれの方法で、過去との決別をおこなう。決してハッピーエンドなんかではない。しかし、全体において非常に暗い、真っ暗闇な小説だからこそ、そこに浮かんだ非常にかすかな希望の光も読み取ることができる。

この小説で描かれている虐待の構図はこうだ。

親は子どもに対して無償の愛は与えない。あくまでも「条件つきの愛」しか与えない。それは親のエゴのせいだったり、親自身が逆に子どもから「愛されたい」と思う気持ちの反映だったりする。

子どもが親の要求に応えないとき、親は子どもを虐待する。子どもは親を責めると同時に、親の要求に応えられない自分をも責める。これがトラウマとなって子どもの内面に焼きつけられ、性格やその後の生き方まで決定づけてしまう。そして時には、自分が大人になったとき、自分がやられてきた虐待を自らの子どもに対してぶつけてしまうこともある。

僕は「虐待」と呼べるほどの仕打ちは受けたことはないが、ある種の疎外感の中で育った。問題児でもあった。だから登場人物たちの気持ちは部分的にはわかる。

だが精神科医の斉藤環香山リカが主張しているように、自分の現状のすべてをトラウマのせいにしてしまっていいのか、という疑問を僕も感じる。

僕が子どもだったとき、親も子どもだった。いまの僕よりも若かった。そう思うと自然と許す気にもなれるし、お互いに「大人」になっていくにつれて自然に「和解」することもできた。

「無償の愛」というのも非常に難しい問題である。まず、親自身も不完全な人間である。また、「良いことをすれば褒め」「悪いことをすれば叱る」というのはある意味条件つきの愛であるが、別の言い方をすればこれはしつけである(善悪の基準が親側にゆだねられているのが問題ではあるが)。

もしも親の「無償の愛」の中で育ったならば、大人になったら自立できない・自己中心的な人間になってしまうかもしれない。「無償の愛」を与えつつもしつけができれば一番いいが、そんなことは可能だろうか。

いずれにせよ、僕たちは親の影響を受けて育った。そしてそれに縛られながらも、それに支えられたり、バネにしたり、逃れようとしたり、逆に暗い過去として背負いながら生きていく。それは誰でも同じだと思う。

ともかくも、この小説を単なるトラウマ話として読んだら、重要な部分を見落としてしまう気がする。

幼児虐待やトラウマ話を話の中軸にすえながら、「人間はいかにいきるべきか」を描き切った小説である。

読み終えたとき、なんだか僕は、自分の身代わりに登場人物の3人が「いけにえ」になってくれたような、そんな不思議な気分になった。
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2009年10月19日

幸福論(アラン)



これは大槻ケンヂもネタにしていた話だが、かつてホットドッグプレスなる男性雑誌があり、ハードボイルド作家の北方謙三が読者の人生相談コーナーを持っていた。

しかしその回答がすごかった。

女性にモテないと悩んでいる童貞青年に対しては、

「まずソープに行け!」

小説が書けないと悩んでいる読者に対しては、

「とにかく何百枚も何千枚も書き散らせ!」

どんな相談に対してもこんな具合なのである。考えるよりまず行動ありき。とにかく行動すれば悩みは消える、という論理。

アランの『幸福論』についても同じにおいを感じた。

彼曰く、悩みや不安なんてものは自分で作り出したものだ。「苦しい」「悲しい」と思うからますます苦しく悲しくなり、無意識のうちにその考えに固執し、悪循環に陥る。そんなことよりも笑いなさい。運動しなさい。そうすれば憂鬱なんてふっとぶから……云々。

死や未来に対する不安も同様。いつ来るともしれない死についてあれこれ思い悩むのは愚かなことだ。死なんて大した問題じゃない。自分が考えているひまもなく、それは一瞬でやってきて駆け抜けていくものにすぎない。

また彼は躁うつ病患者についても書いている。ある躁うつ病患者がいて、人生に絶望してみたり、逆に躁になって世界は美しいと思ってみたりする。だがこの患者の血液を調べてみると、躁うつのパターンと赤血球の増減とには関係があることがわかった。

それ見ろ、とアランは得意げに言う。躁うつ病は心じゃなくて身体が作り出したものだ、身体のサイクルに自分でいろいろ理由をつけて悩んだりするのは無意味なことなのだ、と。

アランにしろ北方謙三にしろ、「悩むひまがあったら行動しろ!」という論理に対して、僕はふたつの意見を持っている。

まずひとつは、「そんな無茶な」ということだ。

つらいときは何をしたってつらい。ウツな人間をピクニックにつれていったところでなんの解決にもならない。むしろ悪化するかもしれない。ひきこもりを強引に外に連れ出したところで、すぐにまたひきこもり生活に戻るだけである。

うつ病者に対して一般にやってはいけないとされていることを、アランも北方謙三も無神経におこなっている。

つまり、「無理にはげます」「強引に連れ出す」などなど。

アランのノーテンキさには、僕は一種のいきどおりすら感じる。

だがしかし、とも思う。

「考えるより行動」。これは状況によっては、たしかに一理あるのである。

先日僕は「心の静止摩擦係数」について書いたが、ダメだ、今日は何もやる気がしない、外にも行けない。そう思っていても、やってみると意外とすんなりできたりすることはある。

これも以前に書いたかもしれないが、「哲学的に悩むことは不可能だ」というのが僕の考えである。哲学はあくまでも物事を考察する手法なのであって、哲学自体がユーウツさを持っているわけではない。ただ、自分のモヤモヤした気持ちを解明するために哲学というツールを使っているうち、いつしか手段と目的は逆転。哲学的問題について自分は悩んでいると思い込むにいたる(もっとも、哲学的問題自体は重要な意味があるものではあるが)。

自分の苦悩を他人と比べることはできないが、うつ病だとしてもたぶん症状的には(この「症状的には」というのが実はやっかいだったりするのだが)僕は「軽度」のうつ病なのだろう。

もちろん、体中に不具合が生じて本当に寝たきりになってしまうような「重度」のうつ病も存在する。

しかし僕は思うことがある。うつ病は実は現代社会が作り出した病なんじゃなかろうかと。

ちゃんと調べたわけじゃないが、昔はうつ病はもっと少なかったんじゃないか。何かショッキングな出来事があって「寝込む」ことはあっても、そんなに長引くことはなかったような気がする。

あくまでも僕の考えだが、うつ病が増えた原因は、まず医者が簡単に「うつ」の診断を下すようになったこと。もうひとつは、社会生活が昔と比べて「ひま」になったにもかかわらず、依然としてなんらかの行動に対する制約があること

「悩むより行動しろ!」とまでは言わないが、行動したいのに行動できない、かと言って、ひまで他に何もすることがない。それゆえにユーウツになったりして悩みの淵に落ちていくのかもしれない。
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2009年10月13日

心が雨漏りする日には(中島らも)



連休というのはどうも苦手である。休み自体はうれしいのだが、調子が悪くなる。うつになるのである。睡眠パターンが崩れるからかもしれない。

しかし果たして自分は本当に躁うつ病なんだろうか、いまだに確信が持てないところがある。うつ病じゃなくて単なる悩み症(神経症)なんじゃないだろうか、とか。憂鬱だから悩むのか、悩んでいるから憂鬱なのか、区別がつかない。それに自分のユーウツをネタ話みたいにして面白おかしく人に話すこともあるので、「うつを楽しんでる」と揶揄されることもある。まあこれは僕の芸人気質がそうさせるのであって、つらい体験であっても「おいしい」と思ってしまうことがある。調子がいいときに限るが。

しかし、ひどいときは憂鬱以外にもうつ病的な症状(離人症、聴覚過敏症、会話性幻聴)があり、過去に躁エピソードもあるので、医者の言うとおり「典型的な躁うつ病」なんだろう。まあ病名はなんだっていい。

うつ状態のときは、たとえるならば心の静止摩擦係数が増大している「もうダメだ、家から一歩も外に行けない」と思っていても、思い切って出てしまえばどうってことなかったりする(外に出てもやっぱりダメなときもあるが)。そんなわけで近所でやっていた古本市へでかけた。そこで買ったのが、中島らものこの本である。

本を開くと「ありがとう」と書かれた手づくりのしおりがはさんであった。また、ユナイテッド航空のハワイのパンフレットの切れ端もはさんである。

想像するに、この本の持ち主はうつ病になった友人に本を貸し、「ありがとう」のしおり付きで返してもらい、そのままハワイに旅立ったのではないか。これだから古本は面白い。

さて、この『心が雨漏りする日には』、中島らもの躁うつ病体験記である。

ちょっとした自伝としても読めるが、とにかくハチャメチャな生活ぶりである。彼の場合、アルコール依存症とドラッグ中毒もからんでいる。うつ病になったときの精神状態や自殺未遂の話など、具体的に書かれているが、悲壮感はない。意図的に触れていないのかもしれないが。いたって前向きに自分の病気を捉えている。

彼のうつ対処法は、とにかく仕事をすることだった。考えたり立ち止まったりする余裕がないように仕事をすきまなく入れ、うつが入りこむ余地をなくすのである。

僕も似たようなところがある(僕の主治医いわく、こういう患者は70年代頃に多かった、けっこう古いタイプのうつ病者らしい)。しかし中島らもの場合、酒が入らないと仕事ができない。よってアル中になる。悪循環もはなはだしい。

よくこんな状態で、あれだけの量の本や脚本を書いたりできたもんだ。驚くばかりだ。あとは、こんならもさんに連れ添った奥さんの気丈さ(というか、のん気さ)にも驚く。

2002年の本である。つまりこれを書いた2年後の2004年、彼は酔って階段から落ち、帰らぬ人となった。

同じく大阪という土地で飲み歩いている身、いまだに飲み屋で生前の中島らもの話を耳にすることがある。

もしも生きていたら、どこかのバーでばったり会っていたかもしれない。会ってみたかったと思うし、話してみたかったとも思う。でも知り合いになるとたいへんですな、この人は。まあ「天才」という称号がふさわしい人だと思う。
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2009年09月12日

ウィトゲンシュタイン入門(永井均)



ついに登場! 哲学の巨匠ウィトゲンシュタイン!

……と息巻いているのは僕くらいかもしれないが、そんなことはさておき。

常々思うのだが、果たして日本人に哲学(具体的にいうと西洋哲学)は必要か? そもそも日本人は哲学できるのか?

僕なりに定義しておくと、哲学とは、論理的に(つまり理屈で)考えて、「この世とは何か?」を探求する方法である。

だから、哲学が「万学の祖」と言われるとおり、あらゆる学問の中で哲学的探求がおこなわれている。数学も物理学も、哲学から派生した学問である。

だが、そういう特殊なジャンルで研究しているわけではない一般庶民に哲学が必要か、というと疑問がある。

欧米の場合は事情が異なる。西洋哲学は文字通り、西洋で生まれたものであるわけで、欧米の言語や文法に深く根ざしている。

欧米の言語は、主語と述語がはっきりしていて、時制も明確である。だから論理的な思考が組みやすい。極端な話、何気ない日常会話がそのまま哲学的議論になっていることもありうる。

でも日本語はちがう。

主語も述語も時制もあいまい。論理的思考をするのに向いていない。

だから日本人同士で議論をするとすぐに話が脱線する。

「それは屁理屈だ!」

僕がよく言われる言葉であるが、日本人は「非常識な考え=屁理屈」と思っているフシがある。実は非常識な考えでもスジが通っている場合はあるし、逆に常識的な考えでもスジが通っていないこともある。そのへんを判別するのが日本人は苦手である。

で結局、議論しても最後はうやむやになるか、「まあまあ考え方は人それぞれだから」で終わる。和をもって尊しとなす。そのくせ、自分が正しいと感じたことは根拠が破綻しているのにも気づかず正しいと言い張るからタチが悪い。

だから、ちょっと哲学書でも読んでみようかな、と思っている人、悪いことは言わないからやめときなさい。

哲学的素養がない人が哲学をやっても、自分をちょっと賢く見せるためのツールくらいにしかならんから。哲学的素養のある人間なら、そもそも哲学書を読む前からひとりで哲学を始めている。

さて。我らが日本人のことをケチョンケチョンに言っているように見えるかもしれないが、実はそうではない。実は持ち上げているのである。それはいまから話する。

ウィトゲンシュタインを読むにあたっても哲学の素養が必要である。

たとえばこんなことを真剣に考えたことのある人。

「自分はどこから来たのか?死んだらどうなるのか?」
「神様はいるのかいないのか?」
「自分にはなぜ意識がある?なぜここにいる?」
「この世界は本当に存在するのか?自分がつくった幻なんじゃないのか?」


ただ考えただけではだめで、自分自身で試行錯誤して答えを求めようとしている人でなければならない。

そんな人にとってウィトゲンシュタインは、目からウロコの哲学者になるだろう。

なぜなら彼は、ありとあらゆる哲学的問題の答えをひとりで出してしまった哲学者だから。

具体的に言うと、「哲学なんて無意味だ!」ということを哲学的に証明してしまった哲学者。ウィトゲンシュタインの登場で、2500年の歴史を持つ西洋哲学は終わりを迎えてしまったのである(もちろんそう思っていない学者もたくさんいるが)。

そして彼がたどりついた境地は、日本人の感覚(あるいは中国や日本の禅思想)に非常に近いものだった。

だから哲学の素養がない、まして日本人とくれば、ウィトゲンシュタインはまったくもって理解不能であることもある。他の哲学者なら、入門書を読んで最低「わかったようなわからんような…」くらいに理解することはできても、ウィトゲンシュタインともなるとわかったような気になることすらできない。

「何あたりまえなこと言ってんの?」

ウィトゲンシュタインを学んでも、そう言ってポカンとする人が多いのではなかろうか。実際僕はそういう人間にたくさん会った。

これまで「哲学の素養」と偉そうに言ってきたが、これも表現を変える必要がある。

ウィトゲンシュタインは、哲学する人間を、壷にはまって出られないハエにたとえている。

言ってみりゃ哲学とは、脳という回路の、無限ループに陥るバグなのである。哲学とは「病」なのである。

意味がないとわかっていながらえんえんと哲学的に考えずにはいられないという点でまさにその通り。

僕もまたそのひとりである。
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2009年08月22日

蓮如文集



僕の夏休みは想定外に長いものとなった。

夏休みの最終日に祖父が死んだ。通夜と葬式をするため、僕はさらに3日間休みをとることになったのである。

僕にはずっと負い目があった。

生きるだの死ぬだの、日ごろから哲学者ぶって語っているけれど、実際のところ僕は「生死」とはいったいなんなのかよくわかってないのじゃないか?

これまで親類や友人など、人の死に少なからず直面してきた。でも通夜や葬式にちょろっと顔を出した程度、死の全貌を見たことがなかった。

その点、祖父については、数年前からボケはじめ、身体が弱っていくようすを目の当たりにしてきた。もう意識があるのかないのかわからない状態で入院しているところへも見舞いに行った。

死の全貌を直視し、そこから何かを学び取ることが、「哲学者」たる僕の役割なんじゃないのか。それが僕にできる最後の「祖父孝行」なんじゃないのか。ひねくれた考えかもしれないが、僕はそう気負って会場に駆けつけた。

湯灌の儀式から通夜、葬儀、火葬まで全部立ち会った。

集まった親族は和気藹々としていた。僕も含めみんな悲しんではいるのだが、なごやかなムードだった。通夜や出棺のときなど、あちこちから鼻をすする音、泣き声は聞こえるが、終わるとケロッとしている。

言ってみりゃ大往生、みんな心の準備もできていたのだろう。通夜や葬儀のあとの食事のときなんかは、みんな酒を飲んで酔っ払い談笑し、まるで正月に親戚が集まったかのようなムードだ。

(一番取り乱していたのは親族ではなく、隣近所の人たちだった。落ち着きはらった親戚をつかまえて「あたしがこんな小さいときからよくしていただいてホンマにもう……」と号泣しながらひたすらしゃべり続ける近所のおばちゃんなど)。

火葬のときはもう悲しみのムードはすっかり消えていた。

実は僕はこれを一番恐れていた。さっきまであった肉体が数時間で骨になってしまうのを目の当たりにし、取り乱してしまうんじゃないかと。

だが全然そんなことはなかった。いとこ兄弟らも同じ感想だったのだろう。台の上に細かくくだけて散らばった骨片を見ながらみんなキョトンとしている。「なにコレ?」てな感じである。

「足のほうから上へと、お骨を順番にひろって骨壷にお納めください」

係員が厳粛に言う。すると親戚一同、箸を持っていっせいに足の骨をひろい出したので、係員、急にあわてて、

「足の骨ばっかりひろわないように!」

ちょっとしたこっけいな場面だった。

さて、ここからが本題である。

骨壷を前に、僧侶が最後のお経をあげる。仏教についてはある程度知っているつもりでいたし、葬式の仏教は、まあ儀式程度の意味しかないと思っていた。

ところが坊さん、読経の途中で、こんな文章を朗読しはじめたのである。

「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
 されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、即ち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」


ギョッとした。ゾゾゾゾ、と、背中に寒いものが走った。

あとで調べるとこれは600年前の僧侶・蓮如上人が残した言葉だった。一般に『白骨の章』と呼ばれている文章らしい。

僕流に意訳するとこうだ。

「人間の生涯なんて、よく見りゃ一瞬で過ぎていく幻のようなもんだ。
一万年生きた人間なんていないし、百年生きられるやつもまずいない。
あっというまだ。今日か明日か、自分だっていつ死ぬかわかったもんじゃない。自分のあとにもさきにも、あるのは無数の「死」だ。
朝には生き生きしているやつも、夕方にはただの白骨になるのだ。
目は閉じ、息は止まり、顔が蒼白になり、親戚一同集まって嘆いたところで、もうどうにもならんのだ。
どうしようもないから火葬にして、そして残るのは白い骨だけだ。
人間はとにかく哀れで愚かな存在にすぎんのだ。子どもも年寄りも関係ない、みんな儚い存在なのだ。
ただ『南無阿弥陀仏』と唱えて祈ることくらいしかできんのだ」


正直言って、葬式で朗読するにはあまりにも酷な言葉である。

仏教とは、これほどまでにニヒルで、厳しい思想なのか。

そしてふと自分を省みる。「人生は無意味だ!」と、このブログその他で僕は声を大にして語り、歌をつくったりもしている。その行為自体はいいとして、でも僕の心のどこかに高慢さがあったのではないか。

人生の儚さ、無意味さなんて、何百年何千年も前から多くの宗教家が言ってきたことだし、今生きている人々の多くもきっと、その人なりにそう感じている。

声を大にするまでもない。人生が無意味だなんてあたりまえのことだ。

僕は自分をちょっと恥じた。

祖父の葬儀を通して僕が何を学んだかというと、実は大したことはあまり学べなかったような気がする。

でもこの「大したことじゃなかった」というのが実は重要なのかもしれない。

祖父は自然に老い、自然に衰え、自然に死に、自然に骨になった。すべてにおいてあまりにも自然だった。

僕はこれまで、生を恐れ死を恐れ、時には死に誘惑される、そのくりかえしの人生だった。

だがそれは、「死」を過大評価しすぎていたからかもしれない。

「死」が何かはいまだにわからない。おそらく最後までわからないだろう。でもそれはとても自然なものなのだ。必要以上に恐れることも持ち上げることもない。

とにかくいま僕は生きている。そして今日も一日生きる。なぜか? だって生きてるんだもの。


サンキュー、じいちゃん。
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2009年05月04日

GOTTA!忌野清志郎



1989年出版? 忌野清志郎の、出生から80年代末までをたどった、インタビューに基づくドキュメンタリー。Amazonを見るとユーズドが数冊出回っているだけで、いまは絶版のようだ。

僕とこの本との出会いは本当に偶然で、10年以上前、普通電車で日本全国をまわる旅をしていたとき、たまたま寄った東京神保町の古本屋で見つけた。ひまつぶしにと軽い気持ちで買ったのである。

だが内容はかなり赤裸々である。

自分や養子だったこと、RC結成のいきさつ、デビューから売れるまでの苦しみや葛藤、バンド仲間の死、奥さんとの出会いまで、かなりあけっぴろげに語っている。

テレビで見る、ライブを離れてインタビューに答えているときの清志郎は無口で照れ屋で人見知りが激しそうなイメージである。そんな彼から、よくもここまで話を引き出せたと思う。

他の文献をあたったわけではないが、おそらくはここまで具体的に彼のナマの姿がわかる本はないのではなかろうか。

嘘くさいサクセスストーリーにはなってない。自分の過去の体験に対して、その場その場で感じたことを淡々と語っている。彼の発言からは、反骨精神は感じられるが、必要以上にカッコつけたりしない。ひょうひょうとしている。

これは彼の楽曲からも感じることだが、彼は自分の感じたことや体験を物語化しない。インプットに意図的なフィルターをかけずに、すなおにそのままアウトプットとして出している感じだ。

自分を物語にはめ込まないから、その時々によって歌う内容の方向性もメッセージもちがう。

「忌野清志郎は常に新しいことに挑戦し続けた」

そうコメントしていたテレビ番組があったが、それはちょっとちがうと思う。ただ「今」の自分の感情や気持ちをすなおに吐き出していただけだ。

だから過去の自分とつじつまを合わせるようなこともしないし、言い訳もしない。それがハタから見れば「常に過去の自分を破壊し挑戦し続ける」ように映ったのかもしれないが、彼自身はそんなことまったく考えていなかったのではと思う。

先日の記事で『世間知らず』という曲を紹介したが、以上を踏まえると別の解釈もできる。

世間知らず

詞曲 忌野清志郎


苦労なんか知らない 恐いものもない
あんまり大事なものもない そんなぼくなのさ

世間知らずと笑われ 君は若いよとあしらわれ
だけど今も夢を見てる そんなぼくなのさ

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

世間知らずと笑われ 礼儀知らずとつまはじき
今さら外には出たくない 誰かが迎えにきても

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

苦労なんか知らない 恐いものもない
世間知らず何も知らず 夢をまだ見てる
そんなぼくなのさ そんなぼくなのさ


これはひきこもり体験を歌った曲なんじゃなく、彼の創作のスタンスを歌ったものなんじゃないか。

世の中のことなんかよくしらないし、何を言われても気にしない。ただ僕は「ぼく」の中にひきこもって夢をみている。ずっと「ぼく」の立場から歌を歌っている。

そんな彼の思いが聞こえてきそうだ。たしかに、創作者というものは常に孤独である

彼は実際は音楽シーンを走り続けていたし、家族や仲間にも恵まれていた。だが人間は根源的にはひとりきりであり、どこまで行っても「孤独」な存在である。彼はそれをよくわかっていた。そんな気がしてならない。

【おまけ】

ほんとに個人的な追記です(汗)。

僕はさだまさし好きでもあるのだが。今回紹介した本の中で、忌野清志郎がさだまさしについて言及している箇所がある。

「さだまさしはすごい才能がある。あんな歌オレにはつくれない。そもそもつくろうとも思わないけど」

正確ではないが、たしかそんなことを語っていた。僕が聴いている音楽というのはとにかくジャンルがバラバラなのだが、実はどっかでつながっている。そう思って妙に納得した次第。
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2009年04月12日

精神科医にすすめられた本「言葉と沈黙」



「あなたの症状は複雑である」

ここ最近、かかりつけの精神科医からよく言われる言葉である。どう複雑なのかは僕にはわからないが、こうも言われた。

「あなたは自己内省しすぎである」

精神を病んでいる人間は普通、自己内省をするものなのかどうなのか。健全な自己内省とはいかなるものか。そのへんの標準が僕にはわからないからなんとも言えない。

しかし自己内省につまずいている人がいるから、そのサポートとしてカウンセリングという療法も存在するのだろう。

自己内省は自分のイメージをより明確にさせるためには必要だが、それをやりすぎると見てはいけない自分の真の姿まで見てしまう、ドツボにはまる。そういうことなのだろうか。実際、僕の通院している病院にもカウンセラーはいるが、カウンセリングをすすめられたことはない。

最近、医者に言われたことで強く心に残った言葉があった。

彼は遠い目をして、独り言でも言うようにこう話し出した。

「私が医者になりたての頃だからもう30年も前・・・・・・。インターンとして大学病院に勤務していたときに、あなたのような患者はたくさんいたような気がしますねえ・・・・・・」

彼の言葉の意味がすぐには理解できなかった。つまりは僕は、古いタイプの患者ということか。

高校時代、担任にこう言われたことを思い出す。

「君と私とは年齢こそちがうが・・・・・・実は同じ世代の人間なんだよ」

いまでも飲み屋に行くと時々言われる。60歳前後の男性に、話ほとんどしないうちから、

「君のようなタイプの人間はいまどき珍しいなあ。僕が若い頃にはたくさんいたけれど・・・・・・なつかしいなあ」

どのへんが「古い」のかはよくわからない。おそらくは哲学的に悩んでいるところが昔の学生運動の頃の若者と共通しているのだろう(もっとも、「哲学的に悩む」なんてことは実際には不可能に近いと思っている。自分の苦悩に哲学的解釈を与えようとしているだけだ)。

とにかく、医者のこの言葉ですべてが僕の頭の中でつながった感がある。そうか、僕は古いタイプの人間なのだと。妙に腑に落ちたのである。

さらに医者は、精神医学の専門書を読んだことはあるかと前置きしたあと、メモ帳に走り書きをして僕に手渡した。

「気が向いたら読んでみてください。何かの手がかりになるかもしれませんよ」

こうして薦められたのが、今回紹介する本『言葉と沈黙』である。

精神科医が書いた論文集。論文集だからテーマはバラバラだが、スタンスは一貫している。

精神病の患者は医者にさまざまなことを訴え、伝えようとする。言葉にできない感覚をなんとかして表現しようとする。統合失調の患者となると、その訴えはさらに理解不能になる。

そのような患者たちが本当はいったい何を訴えようとしているのか。著者はそれを考察する。科学的スタンスと臨床の立場は固持しつつも、患者の心の内部に踏み込んでいこうとする試みである。

精神医学用語のほかに、哲学用語もたくさん出てくる(著者は「人間学的なアプローチ」と言っているが)。専門書だから難解ではあるのだが、この手の本の中ではかなり読みやすい部類に入ると思う。

しかしどうしてこんな本を医者は僕に薦めたのだろう。学者向けの本なのである。いうなれば精神科医のための参考書、虎の巻である。それを患者に読ませるとは、自分の手の内を見せることに等しい。

もはや「自分で考え抜いて自力でそこから脱出しろ」ということなのだろうか。

きっとそうなんだろう。

医者に通って躁うつ病だと診断されたときは、正直言ってうれしかった。

自分の苦悩に名前がついたこともうれしかったが、それよりも何よりも、自分が「普通じゃない」「何か特別な」人間だと証明されたような気がしたのである。

でももはやそんなことを言っていられる状況ではなくなっている。

僕の心も、僕を通して見ているこの世界も、徐々に解体を始めているような気がする。もはや猶予はない。早くここから抜け出さなければならない。
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2009年03月17日

超訳『資本論』



『この世はすべて銭ズラ!』

というのは、前回紹介した『銭ゲバ』のセリフだが、そもそもお金とはなんなのだろう。

高校から浪人時代にかけて、僕は新興宗教がらみの人間か、学生運動をやっている奴らとばかりつるんでいた。結局僕はそのどちらにも染まらなかったのだが。「この世の真理を知りたい」「人間の生きる意味を知りたい」という点では波長が合ったのだろう。

共産主義団体に属していた友人から、資本主義とは何かという講釈を何度か受けた。

彼らが言うには、人間の大多数、普通に働いている庶民は、ごく一部のお金持ちに奴隷のようにこき使われているということらしい。

しかしお金持ちよりも庶民のほうが圧倒的に数が多いわけで。労働者が一致団結すれば必ず勝てる。労働者よ立ち上がれ!いまこそ革命だ、働く人々が主人公の社会を作り出すのだ!というわけである。

僕は彼らの主張があまりよく理解できなかった、というか魅力を感じなかった。しかしいまになって思えば、そう主張している彼らだって、共産主義や資本主義をちゃんと理解していたかどうかはあやしい。

今回この『超訳「資本論」』を読んで、長年もやもやとしていた疑問がちょっとはスッキリしたような気がする。

『資本論』は、19世紀の後半にマルクス(とエンゲルス)が書いた本だ。別に共産主義の啓蒙書ではない。お金中心のこの世の中(資本主義)が、どのようなしくみで動いているのか、論理的に暴いた本である。

『超訳』はこの『資本論』の言わば虎の巻、要約として書かれたもので、これを読めば『資本論』の大筋がわかるようになっている。

目からウロコである。『資本論』は決して過去の遺物ではない。いまの社会にも充分あてはまる内容だ。

『資本論』の主張を一言で言うならば、労働者は資本(家)からお金を搾り取られている、ということに尽きる。

たとえば資産が1億円の会社があるとする。翌年、その会社は黒字になって資産が1億2千万円になった。増えた2千万円はどこからきたのか? それは会社に勤める社員から搾り取ったお金なのである。

たとえば僕が月収20万円で、ある商品をつくったとする。会社はそれを50万円で売る。差額の30万円はどこへ行くかと言うと、会社に入るのである。本来は商品をつくった僕が50万円をもらうべきなのに!

じゃあ会社が悪いのかというと、そう簡単な話ではない。株式会社ならば、実権を握っているのは株式を持っている投資家である。

投資家こそ「資本家」なのか? でも彼らだって株式を売買するにあたって証券会社を使っているわけで、ある意味、証券会社のエジキにされて金を搾り取られているわけだ。

『資本論』は資本家を批判する本ではない。本当の意味での資本家なんて実は存在しないのかもしれない。資本主義の主人公はあくまでも「資本」つまりお金である。お金を巡って、人間がお互いに搾り取りあるいは搾り取られ、えんえんとバトルをくりひろげているのがこの社会なのである

『この世はすべて銭ズラ!』

再び銭ゲバのセリフが聞こえてきそうだ。僕は『資本論』の主張を必ずしも鵜呑みにしない。別の解釈だっていろいろ成り立ちそうだ。

しかし少なくとも、僕たちが「金」に縛られて生きていることは間違いない。本来は道具にすぎなかったはずの金にいつしか主導権を奪われ、僕らは金の奴隷になっている。

僕は搾り取られる側になるのはまっぴらゴメンだし、逆に搾り取る側に立つのも罪悪感を感じる。どちらの側にも立たずに生きていく方法はないものか。

すべての人生は「死」の前では負け戦である。

僕はブログのサブタイトルにこう書いた。でもせめて生きている間は勝ち組の側にいたいというのも人情である。僕の欲である。

ホームレスになっても幸せに笑って生きていられるほど、僕は達観できていない。


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2009年03月15日

銭ゲバ(上・下)



『銭ゲバ』、テレビドラマ化されていたらしいが僕は見ていない。僕は毎週決まった時間に決まったことをするのが苦手なのだ。ようするにズボラなのである。

ただ、ドラマ開始に合わせてジョージ秋山が書いた原作が書店に並ぶようになったので、買って読んでみた。

これは忠実にはテレビドラマ化できないだろうな・・・・・・。

というのが、読み終えた最初の感想。内容があまりにも凄惨なのである。放送禁止になること間違いなし。いや、差別表現をなくそうというヘンな風潮(あえて「ヘンな」と書くが)が浸透した現代日本においては、マンガとして描くことすら不可能なのではないか。

主人公・蒲郡風太郎は極貧な家庭に育つ。生まれつき片目に障害(または奇形)を持った風太郎を、父親は「この、生まれぞこないが!」と罵倒し、やがて愛人と家を出て行ってしまう。

母と子のふたりきり、でも母も病に伏せる。どこの病院に行っても、お金がないので誰も助けてくれない。

母は死に、風太郎は人生のある「真理」に気づく。

この世は金がすべて。

「銭のためならなんでもするズラ!」

この言葉のとおり、風太郎はどんな汚い手でも使い、時には人を殺し、大会社の社長に成り上がっていく。サクセスストーリーというにはあまりにも血なまぐさい話である。

金のためには恩人も殺す。

自分の妻も、女も、自分の子どもでさえ殺す。

でも本当は愛に飢えている。

あるとき、風太郎は偶然知り合った女学生に恋をする。お金のことなど気にしない、純真無垢な彼女の中に真実の愛を見ようとする。

だがある日、お金のために彼に身体を売ろうとする彼女を前に風太郎は愕然とする。

「君はわたしにとってたったひとつの真実だったのに!」

そして彼女も殺してしまうのである。

彼の右目は金に狂った悪魔のようだが、つぶれた左目は何も語らず、静かに泣いているように見える。

しかしともかく、彼の行動は「金がすべて」という点において首尾一貫している。悪の権化

だが時々思うのだが。純粋な「悪」と純粋な「善」とは実は相似形である。正反対であるにもかかわらず、いや正反対であるからこそ、非常に似た部分もある。

アジアの神々の多くが、神の顔と同時に悪魔としての顔も合わせ持っているように。

聖書の中で人々が、悪魔と同じかそれ以上に神を畏怖するように。

貧乏な生活、母親の死という経験を経て彼は「銭ゲバ」になったのだが、同じ経験をバネに、苦しむ人々を救う慈善家や宗教家になることもできたはずである。何が彼の人生を分けてしまったのか。彼に言わせると「そうするしかなかった」のだろうが。

最後のページに、おそらく著者のセリフとしてこう書かれている。

「そうだ。てめえたちゃみんな銭ゲバと同じだ。もっとくさってるかもしれねえな。それを証拠にゃ、いけしゃあしゃあと生きてられるじゃねえか」

時々、実際に、「金がすべて」と主張する人に会う。逆に「愛がすべて」という言う人に会うこともある。

だがどちらも嘘だ。どちらも実行に移して生きていくことなんかできない。

純粋な「悪」をおこなえるのは悪魔だけ。

純粋な「善」をおこなえるのは神だけ。

人間は神でも悪魔でもなく、その間をフラフラしている不完全な存在にすぎない。

だから人間、何を言っても何をやってもしょせん嘘になる。人間は何も徹底できない。人間はしょせん偽善者か偽悪者にしかなれないのだ

人間は誰もが不純である。そのことに目を伏せるから人は生きていける。


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2009年02月11日

現代思想の遭難者たち



哲学の入門書とは正反対に位置する本。具体的に言うと、いしいひさいちが、哲学者をパロディにしたマンガ集なのである。

10年ほどまえ、現代思想の冒険者たちという全31巻からなるシリーズが刊行された。重厚だがわかりやすく、なおかつけっこう深いところまで突っ込んだ、哲学の入門書としてはおすすめのシリーズである。

その本1冊ごとに小冊子が付録でついていた。その小冊子の片隅に、いしいひさいちが哲学をギャグにした4コママンガを連載していた。それを集め、さらに新作を追加して1冊のマンガ本にしたのがこの本である。

だからこの本は、正統な入門書である『現代思想の冒険者たち』シリーズの番外編に位置する(出版社も装丁も同じである)。

しかし、よくもまあこんなモノ(と言うと失礼だが)出版したものである。言うなれば哲学マニアの内輪ネタ・楽屋ネタなのである。哲学を知っている人にとっては笑いどころ、ツッコミどころ満載。爆笑もの。でも哲学を知らない人にとっては何が面白いのかさっぱりわからないのではないか。

だがしかし。さきほど、「入門書とは正反対に位置する本」と書いたが、言わば哲学の裏入門書として、ここから入っていくのもアリなのかな、とも思う。

時々テレビでお笑い芸人たちが、一般にはわからない楽屋ネタや内輪ネタで盛り上がってたりする。さっぱり意味はわからなくても、なぜかおもしろかったりする。

ああいうのを面白がれる人ならば、この本も面白いのかもしれない。そして哲学に興味を持つきっかけになるのもしれない?とも思う。



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2009年02月09日

子どものための哲学対話



以前の記事でも永井均の似たような本を取り上げた(「 翔太と猫のインサイトの夏休み」)。

この人は、子ども向けの哲学入門書を何冊か書いている。これもその一冊なのだが、「 翔太と猫のインサイトの夏休み」と同様、この本もかなりやっかいである。

章立てを見るとその奇妙さが少し伝わるかと思う。

第1章 人間は遊ぶために生きている!
第2章 友だちはいらない!
第3章 地球は丸くない!


さて、あなたはこの本を自分の子どもに読ませたいと思うだろうか?

内容は、小学生(あるいは中学生)の「僕」と、言葉をしゃべる「ペネトレ」という猫との哲学対話である。

あるテーマについて、「僕」と「ペネトレ」が語り合う。簡単な言葉が使われているし、文章も短い。挿絵もたくさん入っている。

しかし書いてある内容が非常に深いのである。あまりにも深すぎる。

たとえば「僕」が問う。

「どうして約束をやぶってはいけないの?」

こうして「僕」と「ペネトレ」の対話が始まる。でも結局、「ペネトレ」の哲学的な解答に「僕」は翻弄される。そして「僕」の最後の一言がコレ。

「???」

読者の反応もおそらくこれに近いと思う。子どもが読み解くにはあまりにも深すぎる内容。百歩ゆずって、考え方の固まっていない子どものほうがひょっとしたら理解できるのかもしれないが。

僕が思うに、おそらく著者は、僕ら大人の中にまだ眠っている「子ども」の部分に対して語りかけているのだろう。

別の本で書いていたが、永井均は、わかったつもりになるだけで実は何もわからない入門書は書きたくないそうである。

それはこの本にも当てはまる。哲学の入門書的な簡単なテーマを挙げるが、でもヒントしか書かない。「あとは自分で考えてください」というスタンスである。

そしてこの態度こそ真に哲学的であると僕は思う。

思えば僕らは、いかに多くの固定観念に毒されていることか。

「地球は丸い」「人を殺してはいけない」「うそをついてはいけない」などなど。さまざまな知識や道徳を身につけている。でも「なぜ?」と聞かれてすぐに答えられる人は少ない。

結局僕らは、自分で考えることを放棄して、ありものの教養を疑問もなく受け入れて大人になってしまったのである。

ふと考える、そんな何も考えていない大人が、果たして子どもを育てる資格はあるのか。「どうして?」とくりかえし聞いてくる子どものほうが、よっぽどいろいろ考えていて哲学的姿勢を持っているというのに。

そう考えれば、この本は僕らが真の大人になるための入門書とも言える。

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2009年02月06日

書斎曼荼羅--本と闘う人々



僕もいちおう「物書き」気取りなので、書斎には興味があるし、あこがれもある。

書斎は、文章を書く人間にとっての聖域なのである。

本棚を見ればその人の性格や趣味がよくわかると言うが、書斎には、誰にも立ち入ることのできない自分の世界がある。過去から現在にかけてのさまざまな人たちが書き残した書物に囲まれていると、それだけで妙な安心感がある。

今回紹介する本は、小説家、学者、評論家などの書斎部屋をたずねて描いたスケッチを集めたものである。

自分の書斎づくりの参考に、と思って買ったのだが、実際あまり参考にならない。

なぜなら、かなり散らかり放題の書斎が多いから(そうでない人もいるけど)。

この本で紹介されている人々(つまり本に関係する仕事をしている人々)には、ある種の共通点がある。

1.本の収集癖がある。
2.本以外のものにも好奇心旺盛で収集してしまう。
3.モノが捨てられない。


結果として書斎部屋はいつしか、インテリ版ゴミ屋敷と化してしまうのである。

しかし気持ちはわかる。僕は実はそれほどの読書家ではないが、そのくせ本は山のようにある。全部運びきれずに実家に半分以上おいてきたが、それでも本だらけである。買ったはいいものの、パラパラと飛ばし読みしただけで気が済んでしまったもの、そもそも買ったこと自体忘れて放置している本も多い。

結果として、本は本棚に納まり切らない。いつも不思議に思うのだが、どうしていつも本は本棚のスペースより多いのか。本棚に空きがある状況を僕は経験したことがない。

よって書籍は、本棚以外のところに山積みされることになる。この本でもそんな書斎がたくさん紹介されていた。中でも一番驚いたのは、床一面に本を並べて、その上を歩いて生活している作家の書斎だ。言わば床一面が、横に寝かせた本棚になっているのである。

結局誰でもそうなんだな。僕は妙に安心してしまったわけで。

でも著名な作家や学者の書斎だからこそ、散らかってても「さすが!」と思われるわけで。僕の部屋なんか本当にただのゴミ屋敷だからな。

これはとにかく小説でもなんでもいいからとにかく著名人の仲間入りをして、人から「すごい!」と思われるような人間になるしかない。半分冗談だが。

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2009年02月03日

思い出トランプ



なんの予備知識もなくこの本を読んだ。

向田邦子と言えば脚本家。飛行機事故で亡くなった。・・・・・・それくらいの知識しかなかった。

だがあるとき、

「向田邦子はいいぞー」

薦められるまま買ったのがこの本だ。

読んで戦慄した。そして思った。

この人は、女の心理について知り尽くしているか、男の心理について知り尽くしているか。ふたつにひとつだ。向田邦子の経歴は知らないが、そうとしか思えないのである。

短編集である。主に中年から初老期にかけての、恋愛と夫婦関係がテーマになっている。でもそこに描かれているのは、決して幸福なラブストーリーではない。

人生は小さな幸せで満ちあふれている、のかもしれない。しかし同時に人生は、小さな不幸が満ち満ちているのである。

いや、「不幸」という言葉では足りない。人生に一瞬「地獄」を見る瞬間。「魔」が忍び寄る瞬間。

向田邦子はそれを直視する。いやというほど克明に描写する。

うつ気味のときに読むにはあまりにも重たすぎる本である。

向田邦子の洞察力、というか、人生の「地獄」を直視する勇気と忍耐力に僕は感服する。

そう、ある意味、この世はまさに生き地獄。

だがそこに、かすかな光が射すこともある。向田邦子は一部の短編ではそれも描いている。

人間は結局、その暗雲のすきまから射しこむ細い光をたよりに生きていくしかないのかもしれない。

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2009年01月16日

時間はどこで生まれるのか



僕が「人生は無意味だ」と言うときの論拠はふたつある。

1.この宇宙も地球も人間も、特に意味はなく偶然誕生したにすぎない(過去)。
2.自分はいつかは死に、人類も地球も宇宙もいつかは消えてなくなり、すべてしょせん、最初からなかったのと同じになってしまう(未来)。


このふたつ、過去未来の観点から考えて、人生は無意味だと言っているのである。

しかしこれを考察するにあたっては、「そもそも時間とはなんぞや?」についてもっと深く考えねばなるまい。

これまで時間に関する本をいくつか読んでみたが、特に感銘を受けたものはなかった。

それでも懲りずに手にしたのが、今回取り上げる本である。

著者は物理学者である。そのくせ経歴をみると人文学部教授。読んでみて納得。本書の趣旨は以下のようなものである。

哲学者は日常的感覚から時間について議論するが、最新物理学の発見を取り入れようとしない。逆に物理学者はと言うと、最先端の研究から時間というものを考察しているが、日常の感覚からはほど遠い。

そこで、最新物理学の時間論を、我々がふだん感じている「時間」を理解する手助けとなるレベルまで噛み砕いてみよう、物理と哲学の考える時間論を融合しよう。そういう試みである。

著者は、哲学者マクダカートが分類した時間の3系列を多用する。

A系列:我々が主観的に体感している「いま」という時間
B系列:歴史や、自分の半生など、年表的な時間
C系列:順番は関係なく、単なるさまざまな出来事の寄せ集め


C系列については感覚がつかみにくいが、話を先に進めよう。

まず、最先端の物理学で考えると、「時間は存在しない」ということになってしまうらしい。量子力学の考えでは、モノを細かく細かくしていくと、ある段階からさきは「時間」を測定できなくなってしまう。測定技術がないからではなく、もはや「時間」と呼べるものが消えてなくなってしまう。

じゃあ、僕たちがふだん感じている「時間」っていったいなんなの?

著者の結論を言うと、

時間なんて実は存在しない。あるのは「出来事」だけ(先述のC系列)。

ただ、人間の「意思」がそんな宇宙に「時間」を見出した(作り出した)のだ!!

この結論に僕は大して驚かない。「やっぱりそう来るか」という感じである。量子力学の観点からいくと、どうしても「この世界を見ている『自分』」という存在を重視せざるを得なくなってしまう。

また、著者も匂わせているが、最先端科学の立場から時間を考察しているうち、結局は哲学者や仏教が唱えているのと同じ結論に達してしまった、というところが面白い。

僕にとっては、そんなにすごい感銘を受けたわけではなかったが、よくできた本だと思う。注釈が2重3重になっている。読み物としても軽く読めるし、もっと詳しく知りたい人はこっちへ、さらに突っ込みたい人はこっちへ、と深く読み解いていくこともできる。

また、参考文献の紹介も豊富。「時間とは何か」いろいろ考えてみたい人にとっては恰好の入門書といえるかもしれない。

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2009年01月13日

パパは楽しい躁うつ病



本屋で偶然見かけて、即購入した本。

というのも、僕が双極性障害、つまり躁うつ病と診断されてから、『あの北杜夫もそうだ』という話を何人かから聞かされたからである。

僕の知識で北杜夫と言えば、精神科医にして作家。『どくとるマンボウ航海記』くらいしか読んだことがない。あの北杜夫も躁うつ病なのか。

うつ病に関する本は巷にいやというほどあふれているが、躁の闘病記(?)というのは本当に少ない。だから購入したのだ。

この本、北杜夫とその娘である斎藤由香との対談という形式で書かれている。むしろ、娘の斎藤由香のほうが先導して、父親から躁体験を聞き出している感じ。「あの時はたいへんだったねえ」という風に、親子で昔話をしている、そんな本である。

しかし書かれている内容はすさまじい。うつ状態の時はおとなしいものである。無言、無関心になり、ひたすら眠り続ける。これは僕の場合も同じ。

しかしいったん躁転するととんでもない日々が始まる。

「映画を撮るぞ!」

北杜夫はそう思い立ち、資金をつくるために全財産を株につぎ込む。しかし複数の証券会社で思いつきで株を売買するものだから、もうメチャクチャ、破産寸前までいく。

さらには妻に暴言を吐き、妻を非難するメモ書きを何枚も書いてテーブルにおく。

睡眠時間は短くなり、朝から晩まで株式情報の無線を大音量でかけ、さらには英語を勉強すると言って英会話ラジオも大音量でかけ、一日中大騒音が家中に響き渡る

ついに北杜夫は日本から独立すると言い出し、「マンボウマブゼ共和国」を自宅に建国、大金をつぎ込んで自国の紙幣や煙草をつくり、毎年「功労者」を呼んで表彰式をおこない、知人らに軍人のかっこうをさせて家中を行進する。

また、デパートの満員のエレベーターの中で「愛してる!」「好きでちゅ!」と絶叫する・・・・・・。

僕はここまでひどくはないかな。僕は躁のときはどちらかと知識欲・創造欲にエネルギーが向くので。

「反重力発生装置」や超能力の研究に没頭したり、特許を出願したり、深夜に突然友人宅に押しかけたり、古代遺跡を探しに近所の山に分け入って遭難しかけたことならあるが。

いや、しかし「ひどくない」と思っているのは実は僕だけで、周囲はけっこう大変なのかもしれない。自分ではわからない。

北杜夫の場合もそうで、娘が父の昔の話をしても、当の本人は「そんなことあったかな」と飄々としている。まるで他人事である。

彼の場合ラッキーだったのは、奥さんがあえて深入りしようとしなかった点だ。奥さんは北杜夫を患者扱いし、自分は看護婦に徹したようだ(本書によるとそれでも一度は「オレは自由に生きるから出て行け!」奥さんも娘も追い出され、数年間別居生活を送っているが)。

この接し方は正しいと思う。躁うつ病を経験したことがない人間が躁うつ病患者の気持ちを理解しようとしたって、根本的に無理である。理解しようと無駄な努力をされるのはかえってうっとうしい。ほっておいてほしい。あえて面倒を診るとすれば、躁うつ病患者が自殺しないよう、見張っておくことくらいか。

娘はと言うと、本のタイトルにあるとおり、躁状態になった父が楽しかったらしい。父がうつ状態になるとつまらなくて、「はやく躁にならないかな」と待ち遠しかったと言う。無邪気と言うかなんと言うか。

ともかく僕の体験から言うと、躁うつ病というのは、はた目から見て楽そうでも実は本人は地獄の苦しみを味わっていたり、逆にものすごく大変そうでも実は恍惚とした至福感を味わっていたりと、わかりにくい病気だとは思う。

だからフツーの人からは理解されなくてもいい。ただ自分の居場所を確保してくれるだけで救われるところがある。

しかしやっぱり躁うつ病って、本人が精神科医でも治しにくい病気なんですかね。

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2009年01月06日

アフターダーク


アフターダーク」と聞いてパソコンのスクリーンセーバーを思い浮かべる人は、かなり古参のマックユーザーであること間違いなし

今回紹介する「アフターダーク」はスクリーンセーバーではなくて、村上春樹の小説である。

各章の冒頭にアナログ時計の絵が書いてある。時計の針は深夜12時からはじまり、午前7時前で終わる。つまり、一晩のあいだに起こる出来事を、いわばリアルタイムにたどったのがこの小説である。

登場人物は少ない。ファミレスで本を読む少女、青年、少女の姉、ラブホテルの従業員、会社員、など。これらの人々の夜が微妙にからまりながらストーリーは進んでいく。

しかし驚くことに。この小説にはオチがない。ネタバレも何も、オチがないのだからバラしようがない。

ところどころに、不可思議なシーン、深読みできそうなエピソードがちりばめられているが、それらが最後のクライマックスへとつながっていくかと思いきや、結局大したことも起こらないまま話は終わってしまう。

このことについて、年上の友達に話をしたことがあった。すると意外な答えがかえってきた。

「何言ってんだ、オチもないのに読者に最後まで読ませてしまうところが村上春樹のすごいところなんだよ」

なるほど。たしかに村上春樹は、「ストーリー」ではなくて「表現」で読ませる作家であると言える。

だから彼の小説は、極端な話、最初から読む必要がない。パッと開いた途中のページ、そこから読み始めても、たちまち村上ワールドに惹き込まれてしまう。

目的と手段。小説のストーリー(とオチ)が目的ならば、それをどのように表現するかが手段だ。村上春樹は「手段」にとことんこだわった作家であると言える。

思えば人生も似たようなモンか。

もしも人生が無意味ならば。人生をどう生きるかという「手段」にこだわって、そこに意義を見出すしかない。

ひとつ格言を思いついた。

人生の目的は哲学から学べ。
人生の生き方は文学から学べ。


どんなモンでしょう。

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2008年10月24日

オイラーの贈物



数学書である。

「中学生レベルの数学からスタートして、大学理工学部1回生レベルの数学までをこの1冊でマスターする!」

壮大な目的を持った本である。

しかし実際、僕は浪人時代は数学はこの本しか読まなかった。予備校にしろ何にしろ、みんなと同じ時間に同じ場所に集まって勉強するのが大の苦手なのである。

高校では文系クラスだったので、数学の知識ゼロである(高校では数学は赤点ばかりとっていた)。

そんな僕が、この本だけで大学の理工学部に合格したのだから、やっぱり名著なのだろう(単に僕の大学がアホだったのかもしれないが)。

本書の最終目標として、著者は次のことを挙げている。

公式「e~iπ=-1」を理解する!!

簡単に説明すると、

「e」はオイラー数と呼ばれるものである(ややこしいので説明省略)。
「i」は複素数である(2乗したら-1になる仮想の数字)。
「π」はご存知円周率である。


別々の数学者が別々に発見したこの3つの定数。

そのはずなのに、

eを(i×π)乗したらなぜかマイナス1になる!!

これをスゴイと感じるかどうかは人それぞれのセンスなのだろうが。

たとえるならば、3人が別々のパズルを解いていたはずなのに、答えをつき合わせたらなぜか同じ結果だった。そいういう不思議さである。

もっと一般的に言うならば、「言葉」「理屈」「論理」の不思議さである。

たとえば友達と約束をする。

「じゃあ明日5時に駅前で。前貸してたCD持ってきてー」

すると翌日、友達はちゃんと5時にCDを持って駅前にやってくる。

あたりまえな話である。でもよくよく考えたら不思議ではないか?

考え方、感じ方は人それぞれ。
さらに言うと、他人の考えてることなんてわからない。
そのくせ、なぜか言葉は互いにちゃんと通じるのである。


この「言葉」や「理屈」という存在。あまりにもよくできすぎているのである。

そんな不思議さを体験できるのがこの本である。

数学があまりにもよくできすぎていることに驚嘆し、

「ひょっとしたら神様っているんじゃないのか?」

読み進んでいくうち、そんな宗教めいた思いさえ抱いてしまう。

そんな哲学的な話はおいといて。

もう一度数学を勉強しなおしたい、数学嫌いをなおしたい、そういう人には是非とも読んでほしい本である。

数式がいっぱい出てきて面食らうが、じっくり読めば誰にでもわかるように書かれている。

「3ヶ月ほど時間があるので旅に出るが、ひまでひまでしかたがない」

そんな人はこの1冊を持っていくといいかもしれない。

そんな人なかなかいないだろうけれど。

posted by にあごのすけ at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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