2008年10月23日

尾崎放哉句集



五・七・五にしばられない自由律俳句といえば種田山頭火が有名だが、僕は尾崎放哉のほうが好きである。

あまりくわしくないのにこんなことを書くのは恐縮だが、山頭火は僕にとっては明るすぎるのである。なんだか陽気に旅をし、人の世話になりながら楽しく俳句をひねっているイメージがある。それはそれで「悟り」の境地なのだろうが。

尾崎放哉から受けるイメージは正反対である。

若い頃からエリート一直線、一時は生命保険会社の重役にまで昇りつめるが、職を捨て(正確に言うとクビになったのだが)、財産も失くし、妻とも別れ、無一文、文字通り「乞食」となる。

そして彼はこう俳句を詠む。

いれものがない両手でうける


本当に、人からの施しを受ける入れ物すらなくなったのだ。

その後、あちこちの寺を転々といそうろうしながら暮らすが、わずか3年で亡くなっている。

享年41歳。自らの死を予感していたのか、彼の俳句にははかなさが感じられる。本当に「いま」しかないのだ、それがすべてなのだ、そんな覚悟のようなものを感じる。

足のうら洗えば白くなる
咳をしても一人
めしたべにおりるわが足音
爪切るはさみさへ借りねばならぬ
行きては帰る病後の道に咲くもの


以前に石川啄木のところで書いたが、一時期短歌にはまっていたことがあった。そのとき思ったことがある。

小説が「映画」だとすると、短歌や俳句は「写真」である。

小説にはストーリーがある。つまり過去と未来があって、そのあいだにはさまれている現在が存在している。

しかし短歌や俳句には時間が流れていない。過去の余韻や未来の予感のようなものは漂っているのが、そこに描かれているのは、時間上のある1点、ある瞬間の出来事であり思いである。そのあたりが写真に似ていると思ったのだ。

乞食。ホームレス。そんな生活から抜け出したいと思っている人もいるだろうが、中にはきっと、人生を悟りきっている人もいる。

彼らには未来も過去もない。失うものはなにもない。あるのはただ「いま」だけ。ならばそれは一種の至福の境地と言えないだろうか。

乞食(こつじき)とは実は仏教用語である。

自ら働くことを放棄し、人からものを乞うという修行をしている僧侶のことを呼ぶ。ならば仏教的には、乞食は実は敬うべき存在である。

そんなことを考え出すと、僕は人と自分を比べたり、誰が誰よりも偉いか比べたり、そういうことを考えるのがアホらしくなってくる。

きっと乞食の中にも「勝ち組」はいるし、六本木ヒルズの社長の中にも「負け組」がいる。

だいたい僕がいつも言っているように、

すべての人生は「死」の前では負け戦である。
すべての人間は「無」のもとに平等である。


僕はいま、いっちょまえにまっとうな生活をしているが、それでもこれまでたくさんのものを捨ててきた。

言い方を変えれば「たくさんのものを失った」のでもあるが。

でもその結果、僕の人生はちょっとずつ軽くなっているような気もするのである。

喜ぶべきなのか。哀しむべきなのかはわからないけれど。

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2008年10月22日

ひとめあなたに・・・



これを読んだのはもうかなり前、僕が高校生のときだったが、一気にひきこまれた。こんなに熱中してしまう小説はあまり巡り合ったことがなかった。作者が(当時)まだ20歳そこそこの女性だと知ってさらに驚いた。

あとあと知ったのだが、新井素子と言えば、ライトノベルの元祖的存在とされる作家である。

例によってWikipediaによれば、高2で作家デビュー。口語体を取り入れた斬新な文体で、星新一の絶賛を受ける。「あたし」「おたく」と言った呼び方を多用し、のちの「おたく」という言葉を広める火付け役ともなった。「新口語体」との評価を受ける一方、日本語の貧弱化のきっかけともなったとの批判もある・・・・・・云々。

実際、彼女の他の小説もいくつか読んでみたのだが、「80年代おたく」のにおいがあまりにもプンプンしていて、ついていけなかった。

でもこの小説『ひとめあなたに・・・』だけは別である。

一週間後に隕石が地球に衝突して人類滅亡!

そのニュースを聞いて、主人公「圭子」は、骨肉腫におかされた恋人「朗」に会いに行くのだった。江古田から鎌倉まで。

ニュースが流れてから都市機能はマヒし、無法地帯。歩いていくしかない。その途中で、「圭子」はさまざまな人たちと出会う。

「明日地球が終わるとしたら何をする?」

無駄話で時々そんな話をしたりするが、そのケースパターンを並べたような小説である。人それぞれの「終わり」の迎え方。それが短編風に並んでいる。

これは別の小説にあった言葉だが、

「テレビで時代劇を見たら、そこにはさまざまな喜怒哀楽、悲劇、恨み、復讐などが描かれているが、よくよく考えたらそれは江戸時代の話。登場人物みんなすでに死んでいるのだ」

地球が滅びれば、すべては無に帰る。喜びも苦しみもすべて消える。あとに残される人もなく、悲しむ人もいない。オールリセット。終了。

しかし僕はなぜか「地球滅亡」という言葉に得体の知れない魅力を感じてしまうのだ。これは僕だけだろうか。

キリスト教には終末思想がある。中には、あからさまに世界の終わりを待ち望んでいる宗派もある。なぜならそのとき諸悪は滅び、信じる者は救われるから。

でも日本にはそういう思想はない。ただ、漠然とした「無」への誘惑はある。それも「自殺」よりも「地球滅亡」のほうに魅力を感じる、僕は。

これは一種の心中願望みたいなものなのだろうか。

たしかに、人生で一番幸せな瞬間に、すべての終わりが訪れたら、と感じることはある。

昔聞かされたおとぎ話、でも僕はいつも不安にかられた。

「そして王子様とお姫様は、一生しあわせに暮らしました・・・・・・」

でも実際にはそんなことはありえない。

人生最高の瞬間に、本当に幕が降りてきてくれたら・・・・・・。
ビデオが終わるみたいに、ブツッと切れて砂嵐の画面に切り替わってくれたら・・・・・・。


いやいや。
こんな破滅志向な話はこのへんで終わりにしておこう。

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2008年10月21日

犬の記憶



5年ほど前、バーで酔っ払いからニコンFM2を2万5千円で購入し、それから僕はモノクロ写真を撮り始めた。

なぜカラーじゃないのかと問われても答えにくい。ふだんはデザイン関係の仕事が多く、色には敏感なはずなのだが。

たぶん僕は世界をもっとわかりやすくとらえたかったのかもしれない。

「問題が複雑でわかりにくいときは変数を減らせ」

僕の友人の言葉だ。だから僕は、写真を撮るときは色彩を捨てることにした。明と暗。2元論で世界をとらえることで、なんとかそれを理解しようと思ったのかもしれない。

写真を撮りはじめてしばらくたった頃、この本を手にした。

森山大道。僕は写真は撮るが、プロの写真というものを知らない。森山大道だって、世界的に名の知れた写真家、ということくらい。

だが彼の写真は衝撃的だった。

ボケまくり。ブレまくり。おまけに粒子が粗い。粗すぎる。写真というよりはまるで表現主義の絵画のようだ。

僕にはずっと迷いがあった。

「写真は芸術じゃないんじゃなかろうか?」

写真はただ物事を写し取るだけである。単なる記録。何かを創造しているわけではないのに、芸術と呼んでいいのか。

しかし森山大道の写真を見てそんな思いはふっとんだ。彼の写真はもはや「記録」じゃなくてまるで「記憶」のようだ。

夢の記憶。なんだか思い出せないが、頭にこびりついて離れない記憶。彼の写真はそんなものを髣髴させる。

この本は写真とエッセイから成るのだが、このエッセイがまたすごい。

「写真とは何か?」「時間とは?」「記憶とは?」「自分って何だ?」

自問自答のくりかえしである。読み手のことなどまったく念頭にない。とにかく自問自答(このあたり、以前に紹介したポール・オースターの『孤独の発明』とスタンスが似ている)。

彼の写真も実は同じスタンスなのかもしれない。人に見せるために撮っているわけではない。自分の目や脳によってゆがめられたこの現実を、いかにして忠実に写真で再現するか。

「芸術とは自己表現である」

よく聞く言葉だが、これは明らかに間違っていると思う。芸術は自己表現ではない。

だいたい「オレは〜なんだぜ♪」なんて自己主張しているシンガーの歌なんて、彼のファンか、あるいは歌自体がよっぽど独自性を持っていない限り聞きたくもないだろう。

芸術家が向き合うべきなのは人ではない。あくまでも自分であり、作品である。なんらかの(神がかり的・狂信的な)ルールにのっとり、完全をめざす作業。

しかし、創作者が意図せずして、自分の本性が作品の中にさらけ出されてしまうのだ。

つまり芸術とは自己表現ではなく、「自己露呈」である。

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2008年10月16日

悩む力



タイトルだけ見て、また例によってビジネスマン向けの成功ハウツー本かと思っていた。

しかし読んでみてまったくちがった。姜尚中というこの人が自ら悩んだ経験を軸にして書かれた、自伝的エッセイだった。

よい意味で裏切られた。好感を持てた。姜尚中といえば「朝まで生テレビ」のパネリストというイメージしかなかったが、いつも物静かで、そのくせ話し出すとなぜかみんな黙って聞いてしまう、彼の人柄がどこから来ているか少しわかった気がした。

好感を持って読めた個人的な理由のひとつとして、彼が在日韓国人だというのがある。

韓国と日本というふたつの祖国を持ったことが、彼の「悩む」という行為のスタート地点だったと書いている。

僕自身もそうだった。僕は日本人だけれどもアメリカ生まれ、小学校が終わる頃まで、日本とアメリカとを何度か移り住んだ。

そして結局、日本人にもアメリカ人にも染まり切れなかった自分が残った。

僕はいつも傍観者だった。日本人が日本的固定観念に翻弄され、アメリカ人がアメリカ的固定観念に翻弄されているのを、いつもハタから眺めていた。

そして小学生ながらこう思ったものである。

「何も信じてはならない。何が正しいかは自分で考え、選択しなければならない」

これが僕の「悩み」の原点のひとつである。

僕はこれまでずっとひとりで悩み考えてきたから、自分の書いたものやつくったものにオリジナリティがあるかどうかなんて気にしたことがない。オリジナリティがあって当然。それは僕の自信にもつながっているし、同時に孤独を感じる部分でもある。

彼は夏目漱石と経済学者マックス・ウェーバーを取り上げ、ふたりとも、近代化・資本主義化する時代に巻き込まれて苦悩していたこと、そして彼らの思想が現代にも当てはまると主張している。

たしかに納得できる説明ではあるが、姜尚中は政治学者であり、自分の経験に触れながらも、あくまでも学者としての立場を捨てずにこの本を書いている。

彼の悩んだ経験についてもっと赤裸々に書いてほしいと思った。ひょっとしたら別の著作に書いてあるのかもしれないけれど。

僕は悩んでばっかりの人生である。

小学生の頃からそうだったし、大学時代は2年間ひきこもって悩み、自分を極限までいじめ抜いた。いまでもことあることに何かしら悩んでいる。

悩むとは、答えを先延ばしにすることである。放置するという意味ではなく、いろいろある選択肢の中から何がベストで何が正しいのかを、精神が疲弊するまで考え続けることである。

だから悩んだあとは、たしかに少しだけ視界が広くなったような気はする。そして少しだけ中立的に物事を考えられるようになった気はする。

本書の中で、現代の若者はあまり悩んでいない、という趣旨のことが書いてあったが、必ずしもそうではないと思う。みんな人それぞれ、それぞれの方法で悩んでいるのだろう。

だいたい人に向かって「悩め!」なんてとてもじゃないが言えない(姜尚中もそこまでは主張していない)。

だって悩むのはつらいもの。悩めと言われて悩めるものでもないし。悩まずにすむならそのほうがずっと楽だし。

でも僕は、日々悩みぬいて、ひとつの悩みを乗り越えたらまた次の悩みに飲み込まれる、そんなマヌケな人のほうが好きだし尊敬できるなあ。

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2008年10月11日

のんのんばあとオレ



水木しげるの自伝的マンガ。少年時代、彼の家にお手伝いとして来ていた老婆「のんのんばあ」を中心に物語は進んでいく。

「のんのんばあ」は、日常生活で起こったできごとを何でも妖怪で説明する。「のんのんばあ」は実在した人物らしく、妖怪マンガ家・水木しげるに多大な影響を与えたようである。

昔は科学も文明も進歩していなかったから、人々は迷信にたよって生きてきた――と多くの読者は思うだろうが、僕には別の意見がある。

たぶん昔は、本当に妖怪が存在していたのだろう。

たとえば科学者は、「宇宙はビッグバンではじまった」「死後の世界は存在しない」と言う。

でも科学者が実際に宇宙のはじまりに行って見てきたわけではない。科学者が死んでみたわけでもない。

世の中にはわからないこと、確かめられないことが多すぎる。状況証拠はあっても物的証拠はない。

「いや、それでもたしかに宇宙はビッグバンで始まったのだ」、そう主張する科学者は、「科学的方法」を使ってそれを証明しようとする。

でもこれって、「聖書に書いてあることは正しい」ということを、聖書を使って説明しようとするキリスト教牧師に似てないか?

僕が思うに、確かめようのないことは、どんな説明でも筋が通るのである。「宇宙はビッグバンではじまった」「宇宙は神がつくった」、アプローチこそ異なれど、どっちの説明も正しいのである。

だから、世の中の出来事を「妖怪」で説明するのもまた正しいと僕は思う。そしてこれは正しいことだと当時の人々の間では認められていた。

これは別に僕だけの解釈ではない。科学哲学者であるクワインも似たようなことを主張している。

何かを説明するにあたって、正解がひとつしかないなんてことはあり得ない。筋の通る説明は何種類も存在する。

だとすれば「『火の妖怪』が存在していて、そのおかげでモノが燃えるのだ」という理論に基づいたとしても、自動車のような乗り物は発明できるのではないか。いまの自動車とは少しは形状のちがったものになるかもしれないが。

大切なのは、ひとつの説明に執着しないこと。

科学だけに執着しない。ひとつの宗教だけに執着しない。スピリチュアルだけに執着しない。

いろいろな考えを並列的に受け入れることが大事だと思うのである。

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さて、このへんでそろそろ釈明しておく必要があるかもしれない。

「人生は無意味だ」

僕はこのブログで何度もそう主張してきた。

そのくせ最近は「神」だの「死後の世界」だの「妖怪」だのについて触れることが多い。

「ホントにおまえは人生が無意味だと思っているのか?」

そんなツッコミを入れられそうだ。

正直なところを言うと、僕は、人生に意味があるとかないとか言うこと自体、無意味だと思っているのである。

それでも僕は自分の存在意義を考えざるを得ない。人生について宇宙について、どうしても考えてしまう。何かが僕を突き動かして止まないのである。そして、そんな無意味なことを考え続けている自分を嘲笑している自分がまたいたりするのである。

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2008年10月05日

生きづらい<私>たち



香山リカといえば、時々テレビに出てくるタレントまがいの精神科医、というイメージしかなかった。

でもこの本を読んで印象は変わった。

冷静だけれどもできる限り患者の視点に近づいて心の病をとらえようとしている。なおかつ現代という時代を非常によくとらえている。好感が持てた。医者としての暖かい視線を感じられる本である。

(この本は4年前に書かれた本なので、現在は心の病をとりまく状況が若干変わっているかもしれない。逆に言うと、4年程度で古くなってしまいかねないほどの「旬」なネタを扱っている)。

彼女は現代社会を生きる「生きづらい」と思っている人々を取り上げ考察する。

リストカットなどの自傷行為をくりかえすボーダーライン(境界性パーソナリティ障害)な人々の考察。

個人的な話になるが、僕も20歳ごろは煙草で根性焼きをくりかえしたり、髪の毛を抜いたり(抜毛症)していたので、多少なりともそのケはあるのだろう。

僕の注意を惹いたのは、香山リカが「現在はボーダーラインよりも解離性障害が増えつつある」と主張している点だ。奇しくもやはり精神科医の斎藤環が同じことを言っていたからだ。

解離性障害とは、言うなれば「自分」がバラバラになる精神症状の総称である。

僕は精神科医ではないので責任は持てないが、症状をまとめると以下のようなものになる。

記憶が飛ぶ。気がつくとまったく別の場所にいたり、自傷などをやらかしていたりする。
多重人格。複数の人格がひとりの中に同居する。
離人症。周りの出来事がリアルでなくなり、まるで映画でも見ているようにしか感じられなくなる。また、モノが実際より巨大に見えたり小さく見えたりといった知覚障害も含む。
■その他、トランス状態、憑依状態、失神、混迷、運動障害など。

一般に解離性障害というとき、「自分が自分でなくなる」諸症状をさすことが多い。

香山リカは解離性障害が増えた原因についていくつか原因を考えているが、そのひとつとして、ネットが普及したことによって、いつでも『自分じゃない自分』になることが容易になったからではないか、と主張している。

いまいち説得力に欠けるが、僕自身もろにネット世界の人間なのであまり反論できない。

・・・・・・で、いきなり結論だが。

僕は精神病や心の病の本を読んで「よかった」と思うことはあまりない。なんだかいきなり土足で心の中に踏み込まれて、それも全然的外れなところをいじられているような気がして、気持ち悪いのである。

しかしこの本は読んで「よかった」と思った。

本書の最後のほうに、「じゃあこうすればちょっとは生きやすくなるのでは」ということを書いている。

「こうすればいい!」などと断言はしていない。あくまでも彼女の意見として、言葉を慎重に選びながらアドバイスを書いている。そのあたりも、香山リカはちゃんとした精神科医なんだな、と好感が持てる本である。
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2008年09月30日

解夏



さだまさしの短編小説集。小説『精霊流し』に続く2作目である。

前作『精霊流し』は自伝的小説なので書きやすかっただろうと思うが、今回はどうだろう。少し心配していたのだがけっこう心に残る良い作品ばかりだった。短編なので、若干物足りない感じはあったけれど。

表題になっている『解夏』は映画化もされた。

学校の教師をしている主人公は、奇異な症状に悩まされる。口内や下半身の炎症、そして視力の異常。

それはベーチェット病という不治の病だった。この病気は(あくまでも小説によると)、さまざまな症状と共に、だんだん目が見えなくなっていく。

この病気が完治するとき、それは完全に盲目になったとき。完全に見えなくなると同時に他の症状はピタリと治まり、苦痛から開放されるのだ。

なんともやるせない病だ。

主人公は教師をやめ恋人と別れ、故郷の長崎に戻る。

目が見えなくなるまでに、ふるさとの風景をできるかぎりたくさん記憶に焼きつけておこう。主人公を追ってきた恋人とともに、長崎の町を散策する日々が続く。

そんなとき、主人公はあるお寺の僧侶と知り合う。

僧侶は言う。「あなたの病気は修行なのだ」と。目が完全に見えなくなった瞬間に、あなたは失明する恐怖から開放されるのだと。

タイトルの「解夏」とは、仏教の修行が完了するときのことを指す。

主人公の視力は徐々に衰えていくが、日々はおだやかに流れていく。

あるとき、いつもの散策と同じような雰囲気で、お寺に竜舌蘭を見に行くことなる。しかしそのとき、主人公の視力はほぼ完全になくなっていた。

恋人が異常を察する。

「見えない?」
「うん」
「いつから?」
「さっきからだ」


声をふるわせる彼女に向かって、主人公は言う。

「泣くな。僕が開放される瞬間なんだ」

淡々としたストーリーである。しかしなんと壮絶な物語だろう。

だが人生は続いていく。

ひとつの修行を終え、ひとつ自由になるたびごとに、次の修行が、苦しみが、待ちかまえている。

僕はいつまでそれに耐えられるだろう?
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2008年09月18日

わたしは真悟



少年時代、まことちゃん』を読んで悪夢にうなされた経験のある僕は、ずっと楳図かずおが好きになれなかった。エログロなだけの漫画家としか思っていなかったのである。

しかし大人になり、『漂流教室』を読んで評価は大きく変わった。彼は天才である。天才という言葉はあまり使いたくないのだが、言うなれば変人である。独特の世界観を持った人である。

今回紹介する『わたしは真悟』だが、彼の作品の中では一番オドロオドロしくないもののひとつ。暗いタッチの画は変わらないが、感動巨編であることはまちがいない。

ある町工場に入荷された産業用ロボットが、「さとる」と「まりん」という少年少女によってプログラムされ、ついには意識を持つ。やがてふたりは離れ離れになり、「まりん」の想いを伝えるためにロボットは工場を抜け出して「さとる」を探す旅に出る。

ある意味、荒唐無稽な話なのだが、妙に説得力があるのはなぜだろう。

このロボット「真悟」は、「さとる」を探し続けるうちにどんどん壊れていき、ついにはマニピュレーター(手)だけになっても最後の力をふりしぼって「さとる」に会いに行くのである。

電子頭脳がとっくに破壊されてるのに、手だけで動くなんてそんなバカな。でも納得させられてしまうのである。納得させられてしまうだけのバックボーンを楳図かずおはちゃんと描ききっているのである。

この話を読んであることを思い出した。

以前にも書いたが、哲学界・脳医学界では意識のハード・プロブレムという問題が提起されている。

脳をいくら研究し、そのしくみがわかったところで、「じゃあ脳が認識したものを感じている『私』はどこにいるの?」という問題が残る。パソコンだけあっても、それを操作する人がいないと意味がない。それと同じことだ。

で、細かい理論はすっとばすが、この問題を提唱したデビッド・チャーマーズ氏は驚くべき結論に達する。

「サーモスタットであれ機械であれ岩石であれ、外界に対してなんらかの反応をするモノにはすべて意識があるのだ!」

びっくりする結論だが、ある意味筋が通っている。

霊魂なんか存在しない、人間の心は「脳」という機械の中にある。そう主張するなら、パソコンはもちろん自動車にだって簡単な心のようなものがあると考えてもおかしくはない。

さて、『わたしは真悟』に戻るが、この話を読んでなんともせつなくなる理由のひとつとして、すべては過去形で語られている点にある。ロボットである「真悟」が過ぎ去ったこととして語るのである。

「わたしはクマタ機械製作というところで生まれたそうです・・・・・・」

イントロからしてこうである。この口調が延々と最後まで続く。「手」だけになってしまってもである。

さらに不思議な点は「真悟」が「〜だったそうです」という風に、誰かから聞いた話として語っているところだ。

では「真悟」はどこにいて、誰から聞いた話を語っているのだろう。

「真悟」はひょっとして「天国」にいるのだろうか。

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2008年09月16日

啄木歌集



5年ほど前になるが、短歌を書くことに熱中していたことがある。

アメリカの留学先から帰ってきた友人、でも仕事も何もすることがなく、部屋に閉じこもって短歌らしきものを書き溜めていたのである。それに僕も便乗した。ふたりで短歌を書き散らかした。

もっとも、短歌とはどういうものか、僕らは何もしらない。5・7・5・7・7で言葉を並べる、ということくらい。

だから僕らの書いたものは正当な短歌ではない、と思っていた。あくまでも「なんちゃって短歌」にすぎないと。

そんなとき、石川啄木を手にとって驚いた。

「なんだ!?結局僕らのやっていることと同じやんか!?」

良し悪しはともかく、書いている内容、書いている視点は自分たちと同レベルでなのである。何か特殊なルールがあるようにも見えない。ただ、日々感じたことを短歌の文字数に当てはめているだけ。

そうか、短歌はこんなのでよかったのか。

文学者の中には、いや、短歌(和歌)にはもっと守るべきルールがあると主張する人もいる。しかし石川啄木は自分の書きたいように短歌を書いて、結局それが後世に残った。

たぶん、常識的に見ると「こんなのあり?」と思うようなものを「これでいいのだ!」と堂々と世に出してしまえる人が、本当の意味でのすごい人なんだろうな。

もっとも、啄木は歌人になりたいわけではなかった。本当は小説家を目指していたという。ひまつぶしに書いていた短歌が(それも死後に)注目されたということらしい。啄木は26歳で病に倒れ死んでいる。もう100年近くも前だ。

それなのに、彼の短歌はいまだに現代に生きる僕の胸を打つ。古典っぽくなく、今の文章としてスラスラと読める。

そして僕の痛いところを突くのである。グサッグサッ。アイタタタ、と。

全部は本を読んでいただきたいが、いくつか有名なもの&僕の好きなものを引用↓。

はたらけどはたらけど 
猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る


猫を飼はばその猫がまた争いの 
種となるらむ かなしきわが家

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

薬のむことを忘れて
ひさしぶりに
母に叱られしをうれしと思へる


で、いきなり話は変わるが、何かモンモン、ウツウツとしている人は短歌を書くことをお勧めする

たった31文字というルール、しかしこのルールが、自分の心の核心部分を無意識のうちに切り取り、具現化してくれるのである。

そして100も書いた頃には、どの短歌がよくてどの短歌が悪いか、なんとなくわかってくる。

そう言っている僕は最近書いていないが。5年前は自分の短歌集を個人出版するほどに熱中したのだが。
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2008年09月12日

勝手に生きろ!



チャールズ・ブコウスキーの小説、『勝手に生きろ!』だが、僕はこのタイトルに違和感を感じる。誤解を生む邦題だと思う。

原題は『Factotum(ファクトタム)』だ。「なんでもやれ」という意味で、雑役夫のことを指すらしい。

だから『勝手に生きろ!』は必ずしも誤訳ではないが、実は我々読者に向けたカッコいいメッセージでもなんでもない。

これは小説の中で、世間だか社会だかよくわからない大きなものが主人公に対して強制した命令なのである。「どうにでも好きにやってくれ、でもワシゃしらんよ」という、突き放した言葉なのである。

主人公「チナスキー」は二十歳そこそこの青年である。でもどんな仕事をしてもしっくりこない。納得できない。だからすぐにやめてしまう。

親にも見離され、チナスキーは全米の旅に出る。「旅に出る」と言えば聞こえはいいが、実際は居場所を求めて転々とせざるを得ない。

新しい街に行き、仕事をさがす。でもやっぱりすぐやめてしまう。酒を飲む。女が誘ってくる。女と寝る。街を出る。

それを何度もくりかえす。チナスキーは常に受身である。社会に対する漠然とした不満はある。漠然とした夢も持っている。でもどうやってカタチにすればいいのかわからない。結局世の中に翻弄され続け、自分がどんどん転がり落ちていくとわかっていながらどうすることもできない。

この救いようのない寄る辺なさ。この感覚は僕にも覚えがある、でもおそらく現代日本のフリーターやネット難民の人たちのほうがもっと痛感しているだろうと思う。

僕は時々思う、僕はひょっとして何かの「影」なんじゃないかと。階段をのぼり、上昇しているつもりでいるけれども、実は階段も「影」で、僕は単に地べたを這いずり回っているだけなんじゃないかと。その感覚に似ている。

かつて哲学者サルトルは、「自由の刑」という言葉を使った。人間は「自由」という名の刑罰に処されていると言うのである。

人間は自分の行動をなんでも自由に選択できる、でも「何をすべきか」というマニュアルは存在しない。そして、こんなにつらいことはない。

なぜならこれは「何をやっても自由だけども、結局何をやってもいっしょ」ということだからだ。

また、別の哲学者スピノザは、「人間は『神』に拘束されているからこそ幸せなのである」とかそんなことを言った。

「信じることは大切だ」、よく聞く言葉だ。ヒット曲なんかにもよく出てくるフレーズ。

だが逆から見ると、人間は何かを信じていないと生きていけない。だとすると、信じることは逃げである

でも他にどんな道がある?

だから僕は、宗教を信じている人を笑うことはできない。どんなにヘンテコな宗教であろうと。逆に、宗教を笑う人々にこう言いたい。

おまえらも結局何かを信じていないと心細いくせに。
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2008年09月09日

無名



沢木耕太郎といえばノンフィクション作家である。さまざまな物事を、事実としてとらえ、忠実に文章にする。その沢木耕太郎が、自らの父の死の過程を描いたのがこの本。

沢木耕太郎の本はいくつか読んだはずなのだが、『深夜特急』くらいしか記憶に残っていない。

あれは夢中になって読んだ。若い頃の著者が日本からロンドンまで大陸横断の旅をした記録である。僕も影響された。僕は結局、北海道までヒッチハイクしただけだったけれど。

さて、この本『無名』なのだが、まったくと言っていいほど装飾がない。山場もない。

ただ、父が入院し、父を見舞い、世話をし、死んでいく経過を淡々とつづっている。まるで日記のように。

著者は、父の青年時代の話をもっと聞きたかった、と書いている。父が若い頃何をしていたのか著者はしらない。しかし父が病気になってしまったせいで聴くチャンスを逃す。

そして父は、父の記憶と共に土に還っていく。

まさに無名の人だった父。だから著者も、大げさな文章にはしたくなかったのだろう。一般庶民が普通に死んでいく風景を描きたかったのだろう。

本の中では死は何か特別なことではない。日常の景色の一部に過ぎない。たとえ肉親の死であっても。

著者は最後に、父が残した俳句を集めて自費出版する。父の存在が人々の記憶から消えてしまうことに対する、最後のあがきなのだろうか。

ちなみに仏教的には、人は死んで50年たつと「先祖」の仲間入りをするそうである。

過去帳に名前は残れども、故人を記憶している人もほとんどいなくなり、文字通り、「無名」の人となる。
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2008年09月08日

ブッダ



僕が手塚治虫の漫画を本格的に読むようになったのは、実は彼が死んでからである。理由は特にない。彼の作品に触れる機会がなかったのだ。

もっとも、幼少の頃に『リボンの騎士』『ふしぎなメルモ』は見ていた(おそらく再放送)。だから実は、僕にとっての手塚治虫体験は、僕の女性観に少なからず影響を与えているような気がする。

本格的に読み出した頃はすでに青年だったので、当然青年向きの作品を多く読んだ。『火の鳥』『アドルフに告ぐ』『 きりひと讃歌』『ブラックジャック』などなど。

そんな中に『ブッダ』もあった。

ゴータマ・シッダルタは、小さいながらも一国の王子である。身体は弱かったが、何不自由ない生活をしていた。いわゆるボンボンである。

そんな彼が、あるとき城壁の外に出る。そして人間の現実を目の当たりにしてガクゼンとする。

老いさらばえていく人々
病に苦しむ人々
死にゆく人々
それでも生きていかざるを得ないという苦しみ


いわゆる後の仏教で言うところの「四苦」である。そしてゴータマは悩む。

なぜ人間はこんなに苦しまなくちゃならないのだ!?

手塚治虫の『ブッダ』は創作した部分が多く、必ずしも史実に合っていないのであるが、だいたいこんな感じだったようである。キアヌ・リーブスが出ていた映画『リトル・ブッダ』にも似たようなシーンがある。

そして、ああ、僕と同じだな、と思うのである。

僕もいわゆるボンボン育ちである。父親は一流企業に勤め、世の中にはソニー、パナソニック、トヨタ、などなど、一流企業しか存在しないと思っていた。

当然、一流の大学に行くことを希望されていた。これも同様、世の中には早稲田や慶応や東大しか存在しないと思っていた。

ところが高校に入って学力は落ち、2浪してようやく入った三流大学。一人暮らしを始め、初めて世の中の真実を目の当たりにしてガクゼンとしたのだ。

僕がいまだに抱えている苦悩の原点も、あるいはそのへんにあるのかもしれない。

さて、『ブッダ』だが、途中までは非常に面白い。共感する。ところが僕にとっては、ある時点から急に面白くなくなるのである。

それはブッダが悟りを開いたシーン以降である。

それまでは、ブッダは苦悩するひとりの人間として描かれていた。だから共感できた。

ところが悟りを開いたとたん、顔つきも口の聞き方も変わり、全然人間っぽくないのである。まさに神様みたいに描かれているのである。

誰かが、「仏教はボンボンだからこそ作れた宗教である」と言っていたことを思い出す。

そうかもしれない。動物には煩悩がない。腹が減ったら食い、敵が来たら逃げ、そして死ぬときは未練なく死ぬ。

ブッダの時代の平民もそういうものだったのではないか。苦しみはあれど、病や死はあれど、「そういうもの」と受け入れていた。

つまり、ボンボンで煩悩だらけで育ったブッダにとっては、悟りを開く必要はあったとしても、一般庶民はすでにはじめからある程度悟りきっていたのである。

「『哲学というツボにはまってしまった人を救い出すこと』。それが哲学の唯一の目的である」

哲学者ウィトゲンシュタインがそんなことを言っていた。

悟りを開くことは、超人になることではないと僕は思う。

生老病死をあたりまえのものとして受け入れ、ありもしない幻影を求めたり妬んだりすることなく、ただ普通の人間として生きていく、それが悟りの境地なのではないだろうか。

なかなかそうはなれないけれども。
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2008年09月07日

変身



もう説明する必要もないほど、カフカの有名な小説。

青年・グレーゴル・ザムザが、ある朝目をさますと、巨大な甲虫に変身していた、という話。

仕事に行こうにも自分の部屋から出るに出られない。やがて家族が心配してやってくる、会社の人まで様子を見にやってくる。

やっとのことでドアを開ける。甲虫になったグレーゴルを見てみんな大騒ぎ、グレーゴルは部屋に軟禁状態にされ、食事を与えられるだけの日々を送る。

僕が興味があるのは、他の人がこの小説を読んだときにどんな感想を持つのだろう、ということだ。

この小説に対しては、僕は肉迫的な共感をおぼえるのである。

なぜなら僕は、家族の中で実際に常々こんな存在だったからだ。

少年時代は暴力的で家族からのけものにされ、中学高校に入ると僕はオカルトやら左翼思想に走って変人あつかいされ、大学時代は僕はひきこもりになり、まさに軟禁状態であった。

僕はまさに家族の中の毒虫だったわけである。

僕を見つめる家族らのまなざしも、まるで汚らわしい虫でも見るようなまなざしだった。

カフカもあるいは同じような経験をしたんだろうか。

物語の最後で甲虫であるグレーゴルは死に、家族らはほっとした表情で、過ぎたことは忘れよう、生活を取り戻そうと誓う。

あまりにもヒドイ終わり方である。

もっと別な解決策はなかったのか。

虫になったグレーゴルは、あるいは家族の側の潜在的な偏見が生み出した幻想だったようにも思えるのである。
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2008年09月05日

「死んでもいいや」症候群



この本を紹介すべきかどうかちょっと悩んだ。あまりにも生々しいからである。ま、あの『別冊宝島』を文庫化したものだからしかたないか・・・・・・。

思うに自殺とは、人間にとっての最後のロマンなのである。

この世に夢も希望もないと感じた者が、最後に求めるユートピア、それが死である(もっとも、もっと現実的な問題で自殺する人もいるけれど)。

「もうどうしようもなくなったら死んでしまえばええねん」

こういうことを平然と言う人間が時々いる。彼らは死を心のよりどころにして生きている。こんな生き方もアリだろう。でも僕は嫌悪感をおぼえる。

この本では、「自殺するってことはホントはこういうことなのだ」という自殺の現実をまざまざと見せつけられる。

富士の樹海の実態、自殺体のようす、自殺を試みた患者が運び込まれる救急医療センターの徹底取材、リストカットの取材、自殺の実例集、自殺サイトの裏側、薬物中毒の実態、などなど(ただし、2000年に出た本なので内容がやや古い。リタリン中毒の話があったりとか)。

いやな気分になる本である。自殺に対するロマン・幻想なんてふっとぶ。

でもこれでいいのだと思う。

僕は躁うつ病である(もっともこの病名には若干疑問を感じるが。僕はむしろ「哲学病」だろう)。

ダメな時期が続くと、死にたいという欲求が出てくる。まるで空腹のときに「何でもいいから食いたい!」という衝動が生じるように、死への衝動が襲ってくる。

でも僕は自殺しないだろう。自殺しないと心に決めている。

人生はむなしい。信頼できるよりどころなどない。すべては最後に消えるだけの無意味な存在だ。

それでも人生にYESと言えるかどうか。

それが僕のテーマであり、このブログのテーマでもある。

根アカな前向き思考、プラス思考なんて嫌いだ。

僕は人生の最底辺、絶望感のどん底に立って空を見上げていたい。

僕にとってのうつ状態、自殺願望は、一種の「苦行」だと思っている。まるで高野山で千日苦行をおこなう行者のように。

思えば僕はこれまで何回「苦行」を重ねてきただろう。

でもあとから思えば、うつ状態のときの自分のほうが輝いているようにすら見えるのである。少なくとも、必死に生きようとしている。


(追記)

上記で僕が書いたことが、すべての自殺志願者に届くとは思っていない。

僕にとってこれは苦行である。うつ状態のときの僕のおこないは、すべて苦行の一環である。


僕は死なないために歌をかく。
僕は死なないために小説を書く。
僕は死なないためにこのブログを更新し続ける。
僕は死なないために人と出会う。


でもこういうことができるのは、僕が軽度のうつ状態だからだと思う。薬が効いているからかもしれない。

重度のうつ状態になると、文章を書くどころか起き上がることすらできなくなるときくから。

そしてたぶん、どんな思想も言葉も届かないような、衝動的な自殺というのも存在する。

すでに死んでしまった人を責めるつもりは、僕はまったくない。
彼らはすでにあっちの世界に行ってしまった。生きている僕らがどんな批判をしたところで、その言葉はあっちの世界には通用しない。

ただ、彼らがなぜ死を選んだのか。それを考え、理解しようと努力することが、残された僕たちに課された義務だと思う。
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2008年09月03日

ゴーダ哲学堂



最近映画化された『自虐の詩』のマンガ家・業田良家の短編集。

ここでひとつ、「哲学」の定義について簡単に触れておこう。

哲学とは、言葉を使って論理的に物事を考察することである。

論理的であるというところがポイント。「〜だから〜である」「〜である、なぜだから〜だからだ」。論理的であるためには、他人の反論に耐え得るものでなければならない。他人の反論を論駁し、あるいは自分の間違いを認め、さらに議論を発展させていく。これが哲学である。

だから厳密には「私の哲学」は存在しない。「僕は人生は〜だと思うんだよなー」では哲学にはならない。これは哲学というよりはむしろ文学・思想と言った方が近い。

僕は哲学科出身なので、こういう細かいことが気になる。まあ、どうでもいいといえばどうでもいいことだ。

さて、本書『ゴーダ哲学堂』、さきほどの定義でいけば哲学ではない。むしろ文学である。しかし気にすることはない、人生の意味を探求するのに哲学的である必要はないのだ。

本書では、いくつかの短編を通して、人間の奥底に眠る苦悩や絶望感、そして救い、あるいは破滅を描く。

短編によっては感動するものもあるし、逆に目を覆いたくなるようなものもある。どのみち、なんらかの示唆を得られるマンガである。

「あとがき」で著者はこんなことを書いている。

『「人生に意味はあるか」という問がずっと私の心に引っ掛かっていた』

そして、このテーマに関する考察をけっこうな長文で論じている。ちなみに、論じていることは、以前に紹介した本『逆説のニヒリズム』に通ずるところがあるので、合わせて読むと面白いかもしれない。

著者の結論はこうだ。

『人生には真・善・美という意味(価値)がある』

これについて僕は同意する。

前提として、「人生は無意味だ」と考えてみる。

それに対する積極的な結論は分かれる。

1.人生は無意味だからさっさと自殺しよう。
2.人生が無意味だとしても生きていこう。


人生が無意味、すべてが無意味ならば、自殺することも生きることも無意味である。

それでも人生にYESと言えるかどうか。論理的には破綻している、でも、どれだけ強烈な証拠を見せられても、どんなに苦しい目に合っても、それでもYESと言い続けられるかどうか。

これはたぶん、一人ひとりのDNAなどの中に眠っている「美意識」の問題だと思うのである。
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2008年09月01日

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない



この本を最初に読んだとき、僕の頭の中は「?」でいっぱいだった。

「翔太」という名の中学生、買っていた「インサイト」という名の猫がしゃべり出した。そして一人対一匹の問答がえんえんと始まるのだが・・・・・・。

一見、童話のように書かれている。そして一見、子ども向きである。哲学用語もまったく出てこず、一見読みやすい。

ところが、そこでくりひろげられる問答たるや、最先端哲学のエッセンスを含んでいるのである。

たとえばこんなテーマが出てくる。

「いまいるこの世界が夢じゃないってどうしてわかるの?」

非常に子どもっぽい疑問である(実際、哲学的問題は、人間が成長するにつれて忘れてしまったような子どもっぽい疑問が多い)。

これに対して、猫のインサイトが物知り顔で語りだす。

「それはね、」

ところがこの答えがものすごく難解なのである。翔太は「うーん、でも」と首をひねるばかり。インサイトは翔太のことなんかほっといて、哲学的解答を語り続ける。

僕が読んで「?」と思ったのは、どのような読者層をターゲットにしたのかさっぱり理解できない点。

一見子ども向け、でも子どもが読んで理解できるようなものではない。

かと言って、大人が手に取るような装丁にもなってない。

考えられるとするならば、おそらく子どもの心を持ったまま大人になってしまった(それはある意味悲劇である)人間を対象としているんだろうな。

著者の永井均は、50年前に死んだ哲学者ウィトゲンシュタインの研究でそれなりに有名な人物である。だから本書にもウィトゲンシュタインの思想の断片があちこちにちりばめられている。

哲学とは、理屈で考えることである。理屈で「どういうこと?」と考え始めた時点で、その人はれっきとした哲学者であると言える

だからこの本を読んで「なんで?」と疑問に感じた瞬間から、あなたは立派な哲学者である。そういう意味では良い本。

前にも言ったが、ちまたにあふれる「哲学入門」を読んでわかった気になるよりもずっといい。
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2008年08月30日

4コマ哲学教室



非常によくできた本、と感心。

全編4コママンガからなる。人生の意味を求めて旅に出た青年「浩」と、途中で出会った豚「ブタ公」との問答を描く。

テーマはただひとつ。

「生きる意味とは何か!?」

「浩」はついに生きる意味を理解したと思い、「ブタ公」に得意げに説明するのだが、ことごとく否定されてしまうのである。

たとえばこんな具合に(以下同書より引用)。


なぁ、ブタ公、俺さ、ついに分かったんだ!自分の生きる意味が
ブタ公:なに?
:俺はさ、本当の自分を見つけるために生きてるんだよ!
ブタ公:本当の自分なんてものはないよ。自分がイケてないことの理由を、今の自分が本当の自分じゃないからなんてところに求めること自体がすでにイケてないんだよ。そんなイケてない今の自分こそが本当の自分なんだよ
:ぐおおおお〜っ!!(悶絶して倒れる)
ブタ公:パンもらうよ


世間でよく言われている、人々が信じがちな「生きる意味」をほぼ網羅している。そしてすべて容赦なく否定していく。

この本には哲学者の名前も哲学用語も、ひとつも出てこない。基本はギャグマンガとして読める。でもちまたにあふれる、哲学史をなぞっただけの「哲学入門」を読むよりはよっぽど自分の血肉になるし、考えさせられる。

では、すべてを否定しつくしたあとに何が残るのか? 結局のところ人生は無意味なのか?

それは読んでからのお楽しみ。
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2008年08月29日

どうせ死んでしまう・・・・・・私は哲学病



こんなにも熱くて真剣な哲学者というのはなかなかいない。

いわゆる「熱い」のではない、まるで氷のように熱いのである。ものすごく冷たいものに触れたときに思わず「熱い!」と感じてしまうあの感覚。それに近いものをこの中島義道という人は持っている。

この本のテーマは、文字通り「どうせ死んでしまうのになぜ生きなければならないのか?」ということだ。

人間は、僕は、早かれ遅かれ死んでしまう。死というゴールは決まっていて、決して逃れることはできない。いつかは消え、自分が存在していた痕跡さえもいつかは消えるならば、この人生はむなしい。喜びも悲しみもすべてむなしい。無意味だ。

なぜ生きなければならない? 結局生きていく必要なんかないのだ。

こうした問題について、いわば仕事として研究している哲学者はおおぜいいる。しかしこの著者のすごいところ(そして信用できるところ)は、彼自身本気でそう考えている点だ。

著者は何度も自殺を考えた。妻とも離婚した。いちおう教授職は持っているが、生活は半ばひきこもり、半ばフーテンの状態である。彼はそれを恥じることなく赤裸々に告白する。

そして、本当に憎むべき存在は、社会の中でのほほんと生きているフツーの善人どもだと主張する。

自殺を考えてしまう僕らは決して弱いわけでもなく、間違っているわけでもない。僕らは論理的にまっとうなのである。

シェイクスピアいわく、「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」。まさにそのとおり、この問題と向き合っている人間こそが正気なのである。そしてそんな正気である僕らを追い詰めているのは、「命はたいせつだ」「生きてたらいいことがあるから」、善人面してそんな借り物のセリフをあびせかけてくる常識人どもに他ならない。

これは僕自身、非常に痛感する。

20歳の頃、僕はひきこもった。毎日自殺することばかりを考えていた。

「どうして学校にこない?」「ちゃんと勉強しなさい」。親や「友人」たちは、そんな心無い言葉を容赦なく僕に浴びせかけた。そして僕は、ぐうたらでやる気のない、弱い人間だとレッテルを貼られた。

だが、ボロアパートに閉じこもりながら、ある夜「待てよ」と思った。

連中は「自分は生きるに値するか」なんて真剣に考えたこともないのだろう。それどころか、学校に行くことに意味があるかどうかすら考えたことがないに違いない。まるで生ける屍だ。

それに比べて僕はどうだ。毎日生きる意味と向き合いながら、自殺の誘惑と戦いながら、それでも何とか一日一日を乗り切っている。

ルサンチマンと言いたければ言うがいい、でも本当に弱いのは、何も考えず流されて生きている彼らのほうではないのか? そうだ、生死のふちをつなわたりしながらも、それでも生きている僕こそが、真に「強い人間」なのだ。

「生きることは無意味だ」、そう吐き捨てつつも、著者はひとつの結論を出している。

著者のもとに悩める学生がときおりやってくる。

「どうせ死ぬのに、なぜいま死んではいけないか?」

著者はすぐに返事ができない。なぜならそれは非常にもっともな疑問だからだ。

だが著者は、本書の中でこうつぶやく。もうあの世へ旅立ってしまったかもしれない彼らに向かって。

「きみがいま死んでしまうと、僕は悲しい。だから、君は死んではいけないのだ・・・・・・」
posted by にあごのすけ at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月27日

カラマーゾフの兄弟(全3巻)



言わずと知れた「名作」。僕が読んだ新潮文庫版の帯にはこう書いてあった。

「東大教師が新入生にすすめる100冊1位」

東大の先生が薦めたからと言って読むものではない。自分が読みたかったら読めばいいのだ。そんなことを意固地に思いながら、結局買ってしまった。

ドストエフスキーは何度かチャレンジしたが、ほとんど途中で放棄している。

ひとつ目の理由は、名前の呼び方が多すぎる。「アレクセイ」という人物が次の瞬間「アリョーシャ」になったり、「ドミートリー」が「ミーチャ」になったりする。混乱してイライラして終了。

ふたつ目の理由は、なかなか本題に入らない。たとえばこんな具合に。

A:「おおA君!」
B:「どうしたんですかBさん」
A:「どうしたもこうしたもないよA君!僕はずっと君を待っていたんだ、この場所に立ってね。するとどうだろう、君が向こうから歩いてくるではないか!これぞ神のおぼしめしというものだ、そうだ、これは運命なんだよ!この場所で、ああ、僕はいま君にこの話をしたくてうずうずしているんだ、この場所でこうして君と話をする、これが神の意思でなくてなんだろう!」


と、こんな具合でえんえんと続く・・・・・・。

しかし今回はなぜか苦もなく読み通せた。僕も「大人」になったのか。

しかし読み終えた感想は、「文学の最高傑作」という前評判とはほど遠いものだった。「うーん」と首を傾げてしまった。たしかに面白かったのだが。

僕はこういうことがよくある。以前に書いた「人間失格」もそうだったし、世間で「名作」と言われているものを読んでもピンとこないことが多い。

僕の感受性が鈍いからか? これでも物書きだと言うのに。

いや、おそらく僕自身がすでにドストエフスキー的であり、太宰治的だからかもしれない(これは「自慢」ではなく「蔑み」のつもりで書いている)。

あらすじを簡単に説明するとこうだ。

強欲で女好きな父親フョードル。そのもとに、3人の息子たちがひさしぶりに集まることで物語はスタートする。

粗野で熱血漢の長男ドミートリー。ニヒルな無心論者である次男イワン。修道僧の見習いである三男アレクセイ。カラマーゾフの兄弟である(正確にはもうひとり兄弟の疑惑がある人物がいるが)。

性格も思想もちがう三兄弟がさまざまな哲学的・宗教的テーマについて語り合い議論し、その間にさまざまな出来事がおこり、父親と長男ドーミトリーは女の取り合いで大ゲンカになる。

そしてついには、父親が何者かに殺されるという事件が起こる。このあたりから物語は急にサスペンスタッチになってくる。

くりひろげられる哲学的議論の中に、こんなものがある。

「この世にもし神がいないのであれば、何をやっても自由であり、許されるのではないか?」

この問いは僕にとってはなんの目新しさもない。なぜならこれは、僕自身が長年かかえてきたテーマだからだ。

僕はアメリカで生まれ、11歳までアメリカで育った。おまけに母はクリスチャンだった。

だから神様は存在するものと、物心ついたときから自然と思っていた。

「ひょっとしたら神はいないんじゃないか?」

そう初めて頭をよぎったときの衝撃はいまでも忘れられない。中学生の頃だ。

創造主としての神が存在するのなら、人間が何をすべきで何をすべきでないかというルール(モラル)も存在する。でももしも神がいないのなら? 我々は飼い主なき捨て犬である。見捨てられた水槽に生きる魚である。そこで何が起ころうが誰が死のうが、絶対的には誰も知ったこっちゃない。

この衝撃が、僕が以前に書いた「人生が無意味かもしれないのに、どうして人々は平然と生きていけるのだ?」という疑問につながっていくわけである。

「カラマーゾフの兄弟」を読んだときの僕の感想もこのへんと関係があると思う。日本人にとってこの本は、未知の問題提起がたくさんつまった本であり、衝撃を受けるか理解できないかのふたつにひとつだ。しかし僕にとってのこの本は、僕自身にあまりにも近すぎるのである。

ドストエフスキーは、実はこの本を「前編」としてとらえていた。「後編」も書くつもりだったらしいが、「前編」を書いた直後になくなっている。

ドストエフスキーは前編を、言わば「問題提起編」として書いたのではなかろうか。ならば後編は当然、「解答編」になるはずだった。

僕は、さまざまな宗教的・哲学的問題に対して、ドストエフスキーがどのような解答を出したかを読みたかった。

ひとつ気になっていることがある。小説の中の、父親殺しの犯人についてだが。

犯人は、父と女の取り合いをしていた長男ドーミトリーか。

あるいは、家の使用人スメルジャコフか(スメルジャコフは、「神がいないなら何をやってもいい」と主張する次男イワンを尊敬していた)。

だが僕は第3の犯人を想定する。

父を殺したのは三男アレクセイではなかろうか?

彼の(狂信と化した)信仰心が父を殺させたのである。アレクセイは、物静かで信仰心の厚い青年として描かれている。ところが、彼が敬愛するゾシマ長老が亡くなったある夜、彼が錯乱して(ある意味で、目が覚めて)咆哮するシーンがある。

その3日後、アレクセイは僧院を後にした。

犯人=アレクセイであることを示唆しているように読めるのだが、また例によって深読みのしすぎか?
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2008年08月23日

神科薬物治療を語ろう―精神科医からみた官能的評価



以前に紹介した精神科のくすりを語ろう―患者からみた官能的評価ハンドブックの姉妹本。

前の本は、患者の立場から見たくすりの利き方を語っているのに対し、この本では数人の精神科医がくすりを語る。対話形式で「あーでもないこーでもない」と、治療経験から得た感想を語っている。

おそらくあまり科学的ではない。精神科医個人の主観的感想も含まれているように思う。しかし、向精神薬に対する医者の本音を読んでいるようで、おもしろくもあり、参考になる。

たとえば具体的に、ある薬に対してはこんなことが書かれていた。要約。

---------------------------

【ランドセン(抗てんかん薬だが、抗不安薬としても活用)】

普通の抗不安薬が効かない人にこれを処方すると効く場合がある。感受性がデリケートで、たとえば文章を書く仕事をしている人に効く場合がある。

【パキシル(抗うつ剤)】

なかなかやめられない人が多い。減らすことはできても、最後の一粒がやめられない。患者のものの考え方自体に問題がある場合が多い。考え方が変わるにつれ、パキシルを飲まずにすむようになった例がある。

【リーマス(抗躁剤・気分安定薬)】

リーマス(リチウム)は一種の毒であり、飲んだ患者はちょっと感性的に鈍くなったように見えることがある。芸術家にこれを飲ませると、その芸術性が損なわれる場合がある。たとえば画家がこれを飲むと、絵は書けるけれど自分でそれが満足できなくなる。その画家はリーマスをやめたとたん、再び自分の満足のゆく作品が書けるようになった。

---------------------------

上記3つの薬は、実は僕が現在飲んでいる薬である。

まず、ランドセンでいくと、僕の場合抗不安薬がなかなか効かなかったのは確かである。いくつかの薬を転々としたあと、ようやくこの薬に落ち着いた(現在は同じ成分のリボトリール)。

「文章を書く仕事」というのも、まあ僕は作家志望なので一応あたっている。

パキシルは僕自身、なかなかやめられない。当初1日50mg飲んでいたのを、数ヶ月かけて10mgにまで減らした。医者のすすめで、パキシルからトレドミンに切り替えようということになったのである。

しかしパキシル、10mgから減らすことがなかなかできない。15mgから10mgに減らすときもたいへんだった。たった5mgの差で、全身のしびれやふらつき、不安などの断薬症状が出てくるのである。

本にあるとおり、考え方を根本的に変えないといけないのかもしれない。これは「脳の病気」だと思おうとしても、やはりどこか「思考回路の病気」なのだろう。それは自分でもわかっている。でも僕は果たして変われるのだろうか。いまの思考を捨てられるのだろうか。

リーマスについては、他の本やサイトにも似たようなことが書いていた。

つまり感性が鈍るというのである。これは僕にとっては大ゴトである。

作家志望、音楽活動もやるし、本業はWEBデザイナー。芸術的センスがなくなると非常に困るのである。

例によって先生に相談した。

「先生、リーマスを飲むと才能が損なわれるって聞いたので、飲むのが不安です」
「だいじょうぶ、そんなことはありませんよ」
「本当ですか」
「躁状態の人は、自分に才能があると思い込んでいるだけです。リーマスを飲むと躁状態が改善されて思い込みが消えるわけです」


・・・・・・そう言われてしまうと元も子もない。もっとも、「思い込み」も重要な才能のひとつのようにも思うのだが。

とりあえず、現在のところ、自分の感性が鈍ったという自覚はないので、このまま飲み続けることにしよう。
posted by にあごのすけ at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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