2008年08月21日

仮釈放



はっきり言って非常につまらん小説である。

ある男が、殺人と放火の罪で無期懲役の罪を言い渡される。

数十年たって男は仮釈放される。月2回、保護司と面談をする以外は、毎日淡々と養鶏場で働く日々。

時々ふと思い出す。

どうしてオレはあんな罪を犯してしまったんだ?

ただそれだけの話。

つまらないけれども苦にもならないので、ダラダラと読んでいた。しかし油断していた僕が甘かった。

つまらないくせに、読んでいてこんなに動悸が激しくなった小説は初めてだ。

吉村昭と言えば、どちらかといえば歴史小説で有名な作家である。そちらのほうは実はあまり読んだことはない。ただ僕が読んだかぎりで言えることは、吉村昭は「静」と「動」を使い分ける名手だということだ。

たとえるならば、まるで合気道の達人のようである。

ノロノロしててひ弱そうなやつだな。そう思ってふと気がつけば、すでに急所を突かれている。完敗。そんな作家である。

『仮釈放』がまさにそうだった。

ひまつぶしにいい小説だと思って、映画館の待合室で僕はそれを読んでいた。そして不意に急所を突かれた。

僕は動けなくなった。文章から目を離せなくなった。

結局、待合室で一気に読んでしまった。映画も見ずにである。

これ以上よけいな説明はやめておこう。

とにかく読んで、この「静」と「動」の躍動感を体感してほしい。

でも一言、小説の中身の感想を言っておくと、

犯罪の動機ってのはたいがい言葉で説明できるようなものではないのである。だからコワイのである。誰もが犯罪者になる可能性を秘めている。
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2008年08月17日

グミ・チョコレート・パイン



最近活動を再開した筋肉少女帯・大槻ケンヂの半自伝的小説。

全3巻なのだが、最初の巻を読んだときの感想は、なんというか、「ここまで書いていいの!?」という印象だった。

大槻ケンヂの高校時代がもとになった話なのだが、青臭い性欲がドロドロあふれ出している。劣等感もドロドロである。

大いに共感はするのだが。いくらなんでも僕にはここまでさらけ出せない。いくら「半」自伝的と呼ぼうとも。

彼は羞恥心のない人間なのだろうか。じゃなければ露出狂か(失礼)。

もうひとつ感じたのは、文章力ってあまり関係ないんだな、ということ。

これは第1巻について言えることだが、文章が稚拙である(失礼)。しかし大槻ケンヂの「負」のエネルギーが文字ひとつひとつに満ちあふれていて、それが文章力を充分にカバーしている。

1巻目の「グミ編」が出たのが1993年。最終巻の「パイン編」が出たのが2003年。足かけ10年間にわたって書き続けられた小説である。僕はリアルタイムで読んできた。

3巻目を読んだとき、「あれれ??」と思った。

「負」のエネルギーが消えているのである。文章が格段にうまくなっている代わりに。強引にハッピーエンディングに持っていっている感がある。それも「若者よ、好きなことをしてがんばれよ」という単純なメッセージ性ばかりが目立つ。

ああ。大槻ケンヂも大人になったんだな。少しさびしい気もする。

もっと早くに完結させていれば、おそらく違ったエンディングになっていただろうと思う。いいか悪いかはともかく。

最後に僕自身の10代との比較だが、この本を読んで、「ああ、オレも単純に好きなことやってつきつめればそれでよかったんだな」としみじみと思う。

僕は途中から目先が外界ではなく、完全に内面に向かってしまった。だから2年間ひきこもった。決して後悔はしていないけれど。


最近になって映画化もされた。

http://gumichoco.com/


映画はまだ見ていない。
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2008年08月13日

脳内現象



最近、NHKの科学番組などでよく見かける茂木健一郎の本である。あの髪の毛モジャモジャのマッドサイエンティスト風の男である(テレビに出すぎていて本業の研究がおろそかになっていないかちょっと不安であるが)。

僕が最初にこの本を読んだときは驚いた。自分の知らないことが書いてあったからではない。

「科学者でもこんなことを考える人がいるのか」

こういう問題はてっきり哲学の領域のもの、科学者なんて見向きもしないものと思っていたからだ。

「こういう問題」とは説明するとこうだ。

意識のハード・プロブレムと呼ばれるものがある。1994年に哲学者デイヴィド・チャーマーズが提唱した。

科学者は、脳の構造や血流量やらを実験的・解剖学的に調べ、「心とは何か」をわかったつもりになっている。研究が進めば、そのうち人間をゼロから作り出せるようになるかもしれない。あるいは、人間と同じように考え行動するロボットができるかもしれない。

だがしかし。そうやってできた生き物に「心」や「意識」があるかはどうやって証明する? 見た目や言動が人間でも、心は持ってないかもしれないではないか(これを「哲学的ゾンビ」と言う)。

つまり、これまでの科学のやりかたでいくら脳を調べてみたところで、そこからどうして「僕」が生じているのかは解明できない。同様に、たとえば触感と脳の関係をいくら研究したところで、岩肌を触ったときのあのザラザラとした感じ(「クオリア」と言う)がどうして生じるのか説明できない。

この大問題に取り組んだのが本書である。彼はこの問題について色々本を書いているが、一番わかりやすくて問題の核心を理解しやすい本のひとつである。

しかしこれは僕の考えであるが。

科学によって「僕」とは、「心」とは何か、永久に解明されないと思う。

理由は簡単だ。科学は客観的方法であるから科学なのである。それに対し、「心」は主観でしか感じることができない。

主観を客観でとらえることはできない。主観的な「心」を科学のまな板の上に乗せたとたん、それは客観的な「ココロ」に姿を変えてしまう。

なにはともあれ、茂木健一郎というこの人、個人的には非常に共感をおぼえる。

彼は表面上は科学者であるが、内面は詩人であり、哲学者である(それは彼のブログなどを見ればわかる)。

科学とは非常に冷たく、味気ない学問である(これは理工学部を中退して哲学科に編入学した僕の経験からも言える)。茂木氏は、この殺伐とした科学の世界に、少しでもいいから温かみを持たせたいのではないか

現代科学はとっくの昔に人間の手をはなれ、あまりにも一人歩きしすぎた。少なくとも僕は思う。
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2008年08月11日

孤独の発明



「文学」というものに対しては僕なりの定義がある。

登場人物のキャラクターやストーリーで読ませるのが大衆小説。それに対して、ストーリーよりも言葉が秘めた力やリズムを引き出し、それをカタチにしたものが「文学」。

だから文学小説は実は最初から読まなくとも惹き込まれる。よくできた文学小説は、パッと開いたページ、その瞬間から作家のあやつる言葉の魅力にとりつかれてしまう(大衆文学が文学より劣っているというつもりはまったくない)。

この定義でいくと、ポール・オースターの小説『孤独の発明』はあきらかに文学だろう。

父が死ぬ。主人公は死んだ父を理解しようと思いにふける。そして、父と自分との関係を、自分と息子との関係にだぶらせていく。

ストーリーとしてはそのくらいしかない。

あとは、親子とは何か、家族とは何か、小説を書くとはどういうことか、自問自答が延々とつづられている。

これは一応、オースターの自伝的小説ということらしい。しかし自伝の体をなしているかどうかも怪しい。そもそもオースターは、読み手のことなんか考えていない。ただひたすら、自問自答である

しかしこの問い、問い、問いの連続、そして考察、答えに届きそうで届かない、そして再び問い。

それを言葉で、まるで音楽を奏でるように書かれると、なんだか自分の考えと著者の考えがゴッチャになってくるのである。心が溶け込んでいくような感じがするのである。それがやみつきになるほど心地よいのである。

いつか書くことになると思うが、この自問自答ぶり、写真家・森山大道の『犬の記憶』に近い。また、この小説のもつ言葉のリズム感、それも非常に心地の良い波動は、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』に近い。

この小説、ストーリー性を求める人にはあまり面白くないと思う。しかし言葉そのものの流れ・リズムを堪能したい人はハマるのではないだろうか。

さきほどの「文学」の定義、おもしろい例えを思いついた。

大衆小説は、スケジュールが決められたツアー旅行、すべて事前に仕組まれたオバケ屋敷である。

それに対し、「文学」は端的に「麻薬」である。

結論:「文学はドラッグである」。
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2008年08月10日

多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス



タイトルからしていかにも怪しげなオカルト本のようだが、れっきとした哲学書である。

ここ数年、僕の心にとりついて離れない、奇妙な予感があった。

「ひょっとしたら僕は死なないんじゃないか??」

酔狂と思うなかれ。「世界」と「僕」とは必ずセットになっている。「世界」はどこまでいっても「僕」が見ている世界に過ぎない。

じゃあ「僕」が死んだらどうなるのだろう。世界は消えるのだろうか。

いや、逆のことも考えられる。

世界が存在するためには「僕」が存在しなければならない。ならば「僕」は永遠に存在し続けるのではなかろうか・・・・・・。

論法は若干ちがうが、これと同じようなことを説いているのがこの本だ。

話はまず、「宇宙のファインチューニング」というところから始まる。

この宇宙はあまりにもよくできすぎている。何かがちょっとでも違ったら人間は(そして僕も)誕生しなかった。まるで神様が意図的につくったみたいだ。

そこで著者は考える。「ひょっとしたら宇宙は無数に存在しているんじゃないか?」。この宇宙しか存在しないならまさに奇跡としか言いようがないが、宇宙が無数に存在していて、そのうちのひとつがたまたま人間が住める環境にあったと考えれば筋が通る。

こんな論法で話はどんどん進み、最後はついに「『僕』は永遠に存在し続ける」という結論に至る。

なぜそんな結論に至ったのかは、読んでもらうしかない。なぜなら僕もまだ完全に理解しきれていないからだ。

簡単な言葉で書かれていて読みやすいが、論法が非常に複雑なのでなかなか頭に入ってこない。しかし僕の心をとらえて離さない本である。

この本で唱えられている説は彼の完全オリジナルではない。しかし哲学界で以前から議論されてきた問題をもとに、オリジナルな結論を導き出している。非常にスリリングな本である。

物理学者は数式だけを使って宇宙の始まりを論じたりできる。

それと同じように、実は言葉で考えるだけで宇宙とは、自我とは何かの核心にせまることもできるのだ。
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2008年08月05日

二十歳の原点



僕の世代でさえすでに知っている人が少なかったこの本、現在の二十歳の人のいったいどれだけが知っているのだろう。

1969年、立命館大学の学生だった高野悦子が、鉄道自殺するまで書き続けていた日記。それを後になって父親が一冊にまとめたのがこの本である。

時代はいまとはちがう。当時は学生運動真っ只中、いまとはちがう時代の空気が文章の背景には流れている。

しかし、彼女の感じている疎外感、絶望感、挫折感、無能感。それはいつの時代でも人間が共通に感じうるものだと思う。

一番救いがないと思うのは、絶望している自分、それを彼女自身がときとして傍観者的に見ているところだ。

絶望しているうちは救いはある。悩んでいるうちはまだ救いはある。

しかしそんな自分を傍観するようになったとき。気分は一時楽になる。それも人間の防御反応のひとつだ。しかし傍観者となってしまったその果てにあるのは、救いのない絶対的な「絶望」である。

近年はメンタルケアなるものが盛んになった。昔と比べると精神科や心療内科に抵抗なく通えるようになった。

医者にかかると人は診断名を与えられる。

「うつ病」

かく言う僕もうつ病だ(正確には双極性障害)。「自殺する人の大半はうつ病にかかっている」なんてことも言われる。

でも、僕が言うのもなんだが、果たしてそれでいいのだろうか。

悩むことは病気なのか?
絶望することは病気なのか?


一概には言えないだろうが、こうした人間のマイナス面もまた、人間の「まっとう」な一面なのではないか。

自殺の原因を「うつ病」の一言で片付けてしまうことで、死んだ人がかかえていた深い心理(真理)をないがしろにしてしまうのではないか、そんな危惧も感じる。

自殺を肯定こそしない。

しかし、悩みぬいた末に死を選ぶことも、また人間のまっとうなありようのひとつだと言うと言いすぎだろうか。
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2008年08月03日

青少年のための自殺学入門



寺山修司はへんな人である。十代の頃は彼の本をよく読んだ。

しかし寺山修司の言うことは本気にしてはいけない。あさっての方向、まったく見当違いの観点から物事を「真剣に」論じようとする。

20歳をすぎてようやく寺山修司の映画を見る機会があった。オールナイト5本立て×2日間という非常に濃いスケジュールだったが、それを見て納得した。

彼はやはり演劇家なのである。ある「装置」を作り出し、その装置を通して世の中を見ればどう見えるか。それを動かして世界をかき回したらどうなるか。彼は文章においてもそれをやっている。

おそらく彼には主張したいことがないのだろう。いや、正確には、言葉で主張したいことがない。寺山修司の作品群には、母親から逃げたくても逃げられないマザコン思想、東北人の劣等感など、共通のテーマは存在する。しかしそれで何かを主張したいわけではない。

そんなトラウマですらも「舞台装置」として世界をグチャグチャにする道具として使用してしまう。彼が伝えたいのは「主張」ではなく「言葉にしがたい何らかのムード」だ。文章を書いてもそれをやってしまうあたり、彼は文筆家ではなくて芸術家なのだろう。

今回紹介する『青少年のための自殺学入門』、僕は17歳の頃に読んだ。それも自殺したいと思っているときに読んだ

そして僕の自殺感をすっかり台無しにされた。実際に自殺する人間はともかく、「自殺したい」と考えている人間(特に若い人)は、自殺に対してある種ロマンチック・センチメンタルな幻想を抱いている・・・・・・と言えば言いすぎだろうが、そのときの僕は少なからずそうだった。

しかし寺山修司は例によって突飛な視点から自殺を論じ、自殺を非常にこっけいなものとして表現した。

僕の自殺への幻想はぶちこわされ、すっかりわけがわからなくなった末に、自殺への熱が冷めてしまったほどである。

しかし僕がいまだ死なずに生きているということは、ある意味僕はこの本によって救われた?ということか。
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2008年07月31日

太宰治・滑稽小説集



二十歳の頃、ニヒルを気取ろうとして太宰治を何冊か読んでみたが、良さがちっともわからなかった。理解できなかった。

でもいまならわかる。太宰治の小説はおもしろい。「良い」というのではなく、文字通り「面白い」。可笑しいのである。

太宰というと一般には、表情に憂いをたたえ、苦悩して自殺した作家、という暗いイメージがあるようである。

でも僕にはしっくりこない。僕にとって太宰は、自虐ネタを売りにしているお笑い芸人のように映る。

このイメージはあながち的外れではないように思う。太宰は短編を中心に数多くの小説を残したが、意外と笑えるものが多い。あの『人間失格』だって、僕は「自虐ギャグ小説」として読んだ。そういう視点で読むことによって、初めて「おもしろい」と感じることができた。

太宰のユーモアのセンスは秀逸である。まさに天才的である。実際、お茶目な人だったのだろう。

では、なぜそんなユーモアあふれる人間が何度も自殺未遂をしたあげくに本当に死を選んでしまったのか。

なんとなくわかる気もする。でもうまく説明できない。

「可笑しさ」の影にはどことなく「悲しさ」の影がつきまとう、と言ってみたところで説明にはなっていない。

『人間失格』の中で主人公は、他人の心が理解できず、その恐怖を隠すために道化を演じ続けてきた、と書いている。でもこれがそのまま太宰にあてはまるかというと、そうでもないような気がする。

人生や世界の前では、人間は明確な答えを出すことができない。真理に手を伸ばしたとたん、言葉は空回りし始める。この「空回り」こそがユーモアの源泉なのか・・・・・・などと哲学的言語学的に考えてみたりもするが、ともかくいまの僕はまだ結論を出し切れずにいる。

さて、今回ご紹介する本は、太宰治の短編小説のうち、特にユーモアあふれるものを選び出して編纂したものである。

この本に収録されている「畜犬談」「男女同権」が特におすすめである。
何度読んでも飽きない。何度読んでも笑いがこみ上げてくる。

でも。これは僕の個人的意見ですが。

「あの太宰にもこんなお茶目な一面があったんだ」という風に読んではいけない。

実はお茶目な人間ほど、案外あっさり自殺してしまったりするモンなんです。
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2008年07月30日

逆説のニヒリズム



人間に存在意義なんかない。

この宇宙や地球はなんらかの偶然でたまたま生まれ、人類も進化の過程で偶然に誕生したにすぎない。

そしてこの自分はいつかは死に、人類もいつかは滅び、地球も宇宙もいつかは無へと還ってゆく。

意味もなく生まれ、意味もなく生き、意味もなく死ぬ。

それが人生のすべてだ。ならば僕はいったいなんのためにこれから生きていけばいいのだ?

――20歳の頃に僕が苦しめられていた問題だ。

この問題の重要さを、誰に話しても理解してくれなかった。

ある人はキョトンとして僕を見つめるだけで問題の趣旨すら理解してくれなかった。またある人は「そうだよ、だから何?」と平然と返してきた。

彼とて、この問題の重大さをよくわかっていないように僕には思われた。

人生が無意味ってことはつまり、ごはんを食べることも、好きな娘とデートすることも、カラオケに行くことも、テストのためにがんばって勉強することも、喜ぶことも悲しむことも、何もかもが無意味ってことなのだ。

「人生は無意味」。この意味を心底痛感しているのなら、なぜ平然と生きていけるのだ?

僕はひょっとしたら気が狂っているのかもしれない。妄想じみた思い込みにとらわれてしまっているのかもしれない。でもしかし・・・・・・。

と、もがき苦しんでいたときに手にしたのがこの本だ。

そして安心した。納得した。僕がおかしいわけじゃなくて、この問題が哲学では真剣に議論されている「ニヒリズム(虚無主義)」というものであることがわかったからだ。

僕が初めて読んだ哲学の本も実はこれが最初である。哲学なんて人生訓を語り合うだけの無駄な学問だと思っていた自分を恥じた。

いちおう「哲学」の本だが、非常に読みやすい。人生はなぜ無意味なのかを、筋道だてて説明してくれる。

そして、「人生が無意味ならどうすればいい?」という、生き方のパターンを、過去の人物や文学作品の例をとって説明してくれている。

「人生は無意味」。口には出さずとも、この問題にとり憑かれている人は実はけっこういると思っている。そんな人に読んでもらいたい一冊。

最後に。

人生は無意味か?という問題にする僕自身の答えだが

かなり長くなるので、おいおい書いていきたいと思っている。

だが、自分の人間観にもそれはかなり影響を及ぼしているように思う。

このブログのサブタイトルにも書いてあるとおり。


「すべての人間は「無」のもとに平等である。」
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2008年07月28日

人間臨終図巻(1)(2)(3)



僕はこの本の豪華版を、古本屋でけっこうな金を出して買ったのだが、いまは文庫本で手に入るらしい。

古今東西の著名人の死に様を、死去年齢順に記録した本。

哲学者ハイデガーは、人間は自らの死を思うことによって初めて人間になるのだとかなんとか、そんなことを言った。

たしかに、人間にとって共通のゴールがあるとすればそれは「死」以外にない。「誕生」という共通のスタートもあるのだが、それはすでにすぎてしまったことだしおぼえてもいない。

結局人々は自分の根本にある「死」を見つめながら生きる宿命にある。

「すべての人生は「死」の前では負け戦である」

これはブログのサブタイトルにも書いている僕の信条である。

人生の勝者と敗者、「勝ち組」「負け組」、それはこの短い人生の間に一時だけ成立する分類であって、死んでしまえばみな同じである。

死後の世界があるかは僕は知らない。しかし死ぬことによってすべては少なくともいったんはゼロ、チャラになる。良いことも悪いこともすべて。

結局人生は「死」の直前の悪あがき、負けるとわかってたたかう戦にすぎない。

この本を紐解くとき、僕は決まって自分のいまの年齢の項をひらく。僕と同じ歳の人間がいったいどのように生き、死んでいったかを見る。

そして、もし仮にいま僕が死んだらどのような死に様をさらすのかを想像し、比較してみる。

不思議といやな気分にはならない。

さきほど、「死後の世界があるかは知らない」と僕は書いた。

でもこの本を読むとき、自分と「タメ」の友人たちがあっちの世界で大勢待っていてくれるのではないか。そんな妙な安堵感が沸いてくる。
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2008年07月27日

精神科のくすりを語ろう―患者からみた官能的評価ハンドブック

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精神科のくすりを語ろう―患者からみた官能的評価ハンドブック
熊木哲夫/日本評論社


子どもの頃からさまざまな精神症状にふりまわされ生きてきた。でも精神科というものに通いだしたのは2年前からである。へんな言い方だが、長年、精神症状と共に生きてきたので、ある意味慣れっこになっていた自分がいる。

しかし精神科というところがどういう場所か、ずっと興味はあったし、第一うつがひどくてどうしようもなかったので精神科のドアをたたいた。それが2年前。

それからいくつかのクリニックを移った。そして驚いた。

向精神薬に対する共通見解というものが、精神科医の間でまったく存在しないに等しいのである。

あるクリニックが処方した薬を別の医者に見せて、「こんな危険な薬飲むなんて!」と、けんもほろろに怒られたこともあった(僕に怒るなんてお門違いもいいところだが)。

僕は現在、抗うつ剤「パキシル」をやめようとしていて、その断薬症状に苦しんでいるのだが、いま通っている医者は、「パキシルがやめられない? 断薬症状? 私が知るかぎりでは聞いたことありませんねえ・・・・・・」と首をかしげるばかりである。

精神科医という存在は、「科学者」というよりも、むしろ自らの経験と勘に頼ってくすりを処方する「漢方医」に近い。

さて、本題に移ろう。

「先生の言うとおりにおくすり飲んで〜」と最初は思っていたのだが、先述のとおり、医者によって言うことはバラバラ。薬の添付文書を読んでも、「効能:うつ病・うつ状態」と判で押したようなことしか書いていない。

非常に歯がゆい。
そこでこの本の登場である。

著者である熊木徹夫氏は精神科医で、自らのウェブサイトで、服用体験者から薬を飲んだ感想を募っている。それを1冊にまとめたのがこの本である。

たとえば同じ抗不安薬でも、効果も利き方も微妙にちがう。そして「どう利いているか」を感じているのはあくまでも患者の主観である。

科学というのはやっかいなところがあって、さまざまな実験結果や統計結果から「客観的に」薬の有効性を判断しようとする。しかし「客観的」であるがゆえに、飲む側の「主観」がどこまでも抜け落ちていってしまう。その点で、患者の主観的な感じ方を収集したというこの本は意義があると思う。

向精神薬を飲んでいる人、この本を読んで初めて「そうそう」と腑に落ちる人も多いと思う。

ひとつ気になる点は、個々の患者の感想に、著者である熊木氏がいちいち反応しているところ。

たとえばある患者が「向精神薬××を飲んだら下痢がなおった」と発言する。それを受けて熊木氏は「××が下痢を治す効用があったとは新しい発見だ」といちいち真に受けすぎているのである。

下痢が治ったというのは思い込みかもしれない。あるいは薬を飲むことによって生活が改善されたことによる二次的な結果かもしれない。あるいは同時に飲んでいる別の薬のせいかもしれない。

そこを突き詰めていくのが科学なのであるが、熊木氏はそういう姿勢を放棄してしまっている。あるいは彼は確信犯的にそうやっているのか? この本のテーマからして、そうかもしれないとも思う。

とにかく、現在向精神薬を飲んでいる人にはおすすめの本。なんの参考にもならないかもしれない。でも、「ああ、みんなたいへんなんだな」と、妙に孤独感が癒される本である
posted by にあごのすけ at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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