2011年03月26日

サマーウォーズ



こんな寒い季節にこの映画の紹介。ただ以前にアニメ映画「時をかける少女」を紹介していたので、ふと思い出した。同じ貞本義行と細田守コンビの映画だ。

「時をかける少女」と、この「サマーウォーズ」、この2作はあとあと残る映画だろうと思う。僕はそれほどアニメをみる方ではないが、「エヴァンゲリオン」以来の衝撃を受けた。僕の中のアニメランキング、いや映画ランキングを塗り替えた。

夏休み、主人公の高校生は、ひょんなことで憧れの女子先輩のいなかについていくことになる。そこには古き良き日本の大家族のきずなが待っていた。

かたや世界は、「OZ」と呼ばれる巨大なサイバー世界とつながっている。全人類が「OZ」のIDを持っていて、ネットゲームはもちろん、電気料金の支払いから住民票登録まで、すべて「OZ」にログインしておこなう。

「OZ」に強大な敵が忍び寄る。「OZ」はのっとられそうになる。主人公と先輩の大家族は、おのおのパソコンやケータイなどで「OZ」にログインし、団結して敵と戦う……という話。

現代社会は人と人とのつながりコミュニケーションが希薄になった。よく言われる話だ。

でも僕は実はその逆だと思う。現代はむしろ、コミュニケーション過多の時代なのだ

ケータイで毎日何十通ものメールのやりとりをする。ブログを頻繁に更新する。昼ごはんを食べているときも「吉野家なう」とつぶやく。

おそらく人はもともとさびしがりやなのだろう。別にネットでコミュニケーションすることが悪いとは思わない(僕もブログ書いてるし)。

ただ、コミュニケーションが多すぎて、ひとつひとつが粗雑でテキトーになっているような気がする。結果として、意味のない情報に埋もれることになる。時には心無い情報に惑わされ、傷つく。

この映画の面白いところは、近未来のネットによるコミュニケーションと、昔ながらの家族的コミュニケーションとを合体させたところにある。これぞ理想的なネットの未来の姿だと感じる。

思えばインターネットが普及する以前のパソコン通信の時代がこれに近かったように思う。あのころはパソコンでコミュニケーションをとりながらも、画面の向こうに人がいることを実感しながら、みな礼節をもってチャットをしていた。

コミュニケーションの手段としては、ネットはいまは過渡期なんだろう。この映画にみるような、リアルとバーチャルがバランスよく融合し、人と人とがつながる時代が来ると願いたい。

そんなわけで、ストーリーのよさと同時に、長年WEBの仕事をしている立場もあって、結局みながら号泣してしまったわけである僕は。

細田守はかつての宮崎アニメと似たものを感じる。いまの宮崎アニメは行き着くところまで行ってしまって、妙にゲージツ的すぎてついていけないことがある。

「宮崎駿の後継者」とまでは言わないが(そもそも別の人が同じ視点を持っているわけがない)、次回策にも期待したい。
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2011年03月22日

ミスト



2007年作品。原作スティーブン・キング。監督は名作『ショーシャンクの空に』などを手がけたフランク・ダラボン。こうくれば、いったいどんな映画だろう、観てみたいという人が多いだろうと思う。

舞台は現代。アメリカの田舎町が突如として霧に包まれる。1メートル先も見えないような、真っ白な濃霧。

スーパーマーケットに取り残された人々に魔の手が忍び寄る。なんとか生き抜こうと道を模索する人々や、狂信的になって宗教にすがり、暴徒化する人々。そんな人間模様が描かれる。

すさまじいのは、なんと言ってもエンディングだろう。ハッピーエンド大好きなアメリカ映画、まさかこんなドンデン返しが待っていようとは夢にも思わなかった。

ネット上での評価も、賛否両論にはっきり分かれている。一部の人々は絶賛し、一部の人々は最低な映画だと酷評している。

僕が思うに、この映画の背景には、いまだアメリカがひきずっているアフガンやイラクの戦争がある。映画には、戦地(おそらく中東)に赴こうとしている若い兵士が登場する。隠しヒントとして監督があえて登場させたのではなかろうか。

アメリカの戦争を裏のテーマとして、「意味のある死」っていったいどうなのよ? と監督は訴えたかったのかもしれない。

しかしとにかく後味の悪い映画ではある。観る側の予想を見事に裏切ったという点では成功というべきか。
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2010年09月09日

アセンション 終焉の黙示録



アセンションとは本来は、「キリストの昇天(はりつけにされて死んだキリストが復活して天に昇っていったこと)」を指す。

最近はやりの「2012年人類滅亡説」によると、2012年に人類の意識が高次元へと進化するらしく、それもアセンションと呼ばれている。まあ僕は否定も肯定もしない。結局のところ未来はわからない。科学だろうと占いだろうと宗教だろうとそれは同じだ。

さて、この映画「アセンション」。舞台は近未来か。「神」が何者かによって殺された。神が持っていた万能の力は飛散し、人類の誰もが奇跡を起こせるようになった。だが精神はしょせん人間のまま、力を身につけた人間同士のみにくい大殺戮がはじまる。こんな世界を終わらせるため、夢によってみちびかれた3人の女が、廃工場にやってくる。そして最上階にいるという「何か」と会うために、さびついた階段をのぼり始める。

……と書くと、いったいどんな映像だろうと思うかもしれない。でも驚くなかれ、これだけの設定を、冒頭の5分ほどのナレーションですませてしまうのである! あとは3人の女が、ひらすら階段をのぼるシーンがどこまでも続く。まさに低予算カルト映画と呼ぶにふさわしい作品だ。

この映画、レンタル屋で借りたのだが、SFのコーナーにあった。店の人も分類に困ったのだろうが、明らかにSFではない。死体の映像がいくつもあるが、ホラーと言うほどでもない。

宗教映画でもない。しいて言うと「哲学映画」か。そんなジャンルはもちろんない。

クライマックスもオチもない。ただ階段をのぼりながら、見知らぬ同士の3人がブツクサと話し続ける。

テーマはいろいろ解釈できるが、僕が思うに、神がいない世界とはどんなものかを極端な手法で描きたかったのだろう。

いまのこの世界がまさにそうだからだ。神も道徳も愛も信じられない。階段をひたすらのぼっていくだけの、無意味な人生。ただ科学だけが発達し、人間は万能の力を手にいれつつある。人間はまったく不完全な精神のまま、「神」になろうとしている

映画の中の会話で、僕が好きなものがある。

「万能であるはずの神がなぜ殺されたのか?」

3人がいきついた答えはこうだ。

神は実はこれまで誰にも愛されたことがなかったのではないか? 愛されたがゆえに殺されたのではないか? なぜなら愛は誰もを無防備にするから。おそらく神でさえも。

「答え」はないが、「考える」ためのヒントにはなる映画である。あと付け加えると、いわゆる廃墟萌えな人にもおすすめの映画だ。

さて、いささか脱線するが、神も道徳も人も、信じるに値する根拠があるから信じるものではない。根拠がないのに正しいと思うことを「信じる」と言うのだ

ならば「信じられない」という表現自体が矛盾をはらんでいる。「信じられない」は「信じようとしない」と同義語だ。

よって、神を殺せる存在がいるとすれば、それは人間以外に他ならないと思うがどうか。

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2009年07月27日

時をかける少女(アニメ映画)



ひさしぶりに「良い!」と感動した映画。

まず主人公である女子高生・紺野真琴が良い。うつな僕としては、やっぱりこれくらい単純明快で明るくてボーイッシュな女の子にあこがれるのである(うつな男とうつな女が出会ってもろくなことがない……)。

それに登場人物全般に言えることだが、いわゆるアニメ声な声優ではなく、どこか素人クサイところがまたよい。貞本義行の絵も非常に良い。表情の微妙な変化の描き方がうまい。

昔の実写映画版は原田知世くらいしか印象に残っていないが、こっちのアニメ版のほうがずっと良い。

ストーリーは原作とも実写版とも大きく異なっているが、ストーリーのあちこちに散りばめられた何気ないシーン。それがあとあと意味を持ってくる。話として良くできていると思う。

何より、僕がまったく飽きることなく一気に最後まで見続けられたのは、この映画が持っている「疾走感」にあると思う。

実際、主人公の真琴はよく走る。自転車に乗って、あるいは自分の足で、とにかく走るシーンが多い。

ストーリー展開もテンポが良いのだが、合間合間に「静」のシーンがはさまっていて、見る側を惹きこんでいく。

……とまあ、僕としては大絶賛するアニメなわけだが。

この映画はSFであると同時に、青春モノ、恋愛モノである。

恋はせつない。

なぜこんな話をするかと言うと、この「せつない」という感覚と、この映画のテーマのひとつである「時間」とは、非常に深く関係しているからである。

「せつない」の語源である「刹那(せつな)」は実は仏教用語である。

心が感じられる時間の最小単位を仏教では「刹那」と呼ぶ(一説では75分の1秒)。

つまり「せつない」とは、この一瞬を愛惜しむ感覚のことである。「今」という一瞬を愛し、二度と戻らない「過去」という一瞬を惜しむ感覚。「今」という瞬間をつかんだと思った一瞬後には、すでに取り戻せない過去に飛び去ってしまう、あの感覚。

考えれば「愛」は不変的・安定的であることが求められるが、「恋」は非常に流動的である。

相手を意識し始めると同時に「恋」ははじまっている。距離を縮めていく過程も「恋」。つきあい出してときめくのも「恋」。そして別れも、また「恋」の一部である。

常に流れている。流れを失った時点で「恋」は終わる。恋している限り、せつなさは続く。いくらむさぼっても決して満たされきれず、矢のように飛び去っていく一瞬を取り戻そうにも取り戻せない、あの感覚。そして結果的に、この「せつない」という感覚が恋の終わりを加速する。

人の生き方もこのふたつに分けられるかな。

「不変性」を求める生き方と、「流動性」を求める生き方。

前者は変化を望まず、平和な夫婦関係や家族関係が一生続くものと信じ、判で押したような規則正しい生活、仕事は単調だが収入が途絶えることはない。

後者は常に新しいものを求め続け、異性にしても仕事にしても生活にしても常に「恋」をしている。そして出会いと別れとをくりかえす。

人はこのどちらかのタイプに必ずしも分けられるわけではなくて、ずっと安定志向だったのが急に新しい変化を求めたりする。

人生とは非常にタチが悪いものであるのだな。

恋愛ドラマとしても、青春ドラマとしても、非常にせつなさの残る映画でした。不覚にも泣けた。
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2009年04月10日

母をたずねて三千里



「男は母なる女性を捜し求めて永遠の旅を続けるマルコなのだ!」

僕が酔っ払うと時々口にしていた言葉である。

これはあくまでも僕の考えだが、男という生き物は女性に対して少なからず「母性」を求めているものである。それを表現するための口実として、僕は酔っ払ってマルコを例に出していたのである。

だが最近、アニメの『母をたずねて三千里』全52話を見て考えが変わった。

これは単なる母親探しの話ではない。まさに人生の縮図であると。

ここで少し政治的な背景を考察してみたいが、1970年代はなぜにこのような深くて重いアニメが作られたのか。現在だって深いアニメは放映されているのかもしれないが、見ていないのでよく知らない。

おそらく当時は、子どもにどんなアニメを見せるか、親が決定権を持っていたからではなかろうか。だから親にウケる、逆に言えば5、6歳そこらの子どもにはあまりにも重過ぎる内容のアニメが大量に作られたのである。

僕はこのアニメをリアルタイムで見ていたが、その深さ、重さは当時は理解できていなかった。大人になって見てあらためて驚かされることが大いにある。

イタリアはジェノバに暮らす、マルコとその家族。ところが父親が慈善事業にのめりこみ、家計は破綻し、母親がやむをえずアルゼンチンに出稼ぎに行くことになる。

ところが、母親からの便りはやがて途切れる。仕送りもなぜかなくなる。心配でたまらなくなったマルコ、おそらく8、9歳の少年がひとりでアルゼンチンに、母親探しの旅に出る。

しかしその旅の内容がこれまた凄惨である。イタリアの不景気の現状。アルゼンチン移民の光と影。インディオに対する差別。貧富の差。人々の親切さと冷酷さ。

ファンタジーのかけらもない。現実の残酷さというものをこれでもかと見せつけられる。

不景気の渦中にある現代日本とダブる部分もあり、この『母をたずねて三千里』を見るにはいいタイミングであるとも思う。

マルコは命からがらブエノスアイレスにたどりつくが母と巡り会えない。南の町にいると聞いて何十日も旅をするがやはり巡り会えず、北にいると聞いて再び旅に出るがやはり再会できず。

「僕はきっと呪われているんだ!」

マルコが泣きながらそう絶叫するシーンはもはや鬼気迫るものがある。子ども向けどころか、こんな絶望的なアニメ子どもに見せていいものかどうか。

最初に、このアニメは人生の縮図だと書いたが、命がけであっちの町へこっちの町へ、時には人に助けられ、時には足蹴にされ、それでも旅を続けていくという部分はまさにそうだと思う。

だが大きな違いがある。

マルコには「母に会う」という明確で大きな目標があった。だが果たして僕らの人生の目標とはなんぞや?

僕らは、目的すらもよくわからないまま果てしない荒野を旅し続ける流浪の民なのかもしれない。

高畑勲と宮崎駿コンビ、のちのスタジオジブリがつくったアニメである。でもジブリの映画よりも、『母をたずねて三千里』のほうがよっぽどデキがいいと感じる。

登場人物のちょっとした表情。手の動きが持つ意味。間(ま)。シーンひとつひとつが重要な意味を持っている。非常によくできている。ジブリの映画よりもずっと手が込んでいて奥が深い。

ひとつには時間の問題もあるのだろう。ジブリはずっと、もっぱらアニメ映画ばかりをつくっているが、映画の2時間という枠の中に入れられるものにはやはり限界がある。1回につき30分、全52話のアニメとは時間的にあまりにも差がありすぎる。

スタジオジブリは原点に戻り、いまこそ長編テレビアニメをつくるべきなのだ・・・・・・「マルコ」を見てそう思った次第である。

このアニメについては、語りたいことがまだ山ほどあるのだが、それはまた次の機会に。
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2009年03月23日

2300年未来への旅



たしか「近未来映画パック」とかいう名前で、「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」と抱き合わせで売られていたのを購入した。

見てみて、抱き合わせになっていた理由がよくわかった。「2001年」「ブレードランナー」ともに、いまでもじゅうぶんに見るに耐える特撮技術、そして内容。それに対して、「2300年未来への旅」はあまりにもショボいのである。

ミニチュアだとバレバレの近未来都市、空を飛ぶ人間には吊らされている糸がもろに映っている。ウルトラマンとかのほうがよっぽど特撮技術レベルは高いのではなかろうか。

そしていかにも、「2001年」の2匹目のドジョウをねらったような邦題・・・・・・。原題は「ローガンズラン(ローガンの逃走)」である。

しかしそれなりに見ごたえはある。

西暦2274年、人類は巨大ドームの中で暮らしていた。ドームの中は、チューブの中を乗り物が走り回っているような(いま見るとかなりレトロフューチャーな)未来都市。人間は人工授精によって生まれ、30歳になると「火の儀式」によって消える。「火の儀式」によって人間は生まれ変わると信じられていた。管理社会。

世界はドームの中だけで、ドームの外には「何もない」と信じ込まされていた。それにも関わらず逃亡しようとする者が耐えない。そうした逃亡者たちを始末するのが、主人公ローガンはじめとする「サンドマン」と呼ばれる人々である。

ローガンはある日、メインコンピュータから極秘任務を受ける。

「逃亡者らが目指している、ドームの外にある『ユートピア』を見つけ出して破壊せよ」

ドームの外に出てローガンが目にしたものは・・・・・・。

という内容。

ちなみに余談だが、2005年作、ユアン・マクレガー主演の映画アイランド
と話の設定が非常に似ている。盗作か、あるいはリメイクか? そのへん比較しながら見るのも面白い。

しかしこういう映画を見て思うことがある。

果たして真実を知ることは人間にとって幸せか?

たしかに、人間には真実を知りたいという欲望があるし、知る権利もあるのだろう。

しかし真実を知らずにドームの中でなんの苦労もなく生きていたほうが、ある意味幸せだったとも言える。

僕たちが生きているこの社会だって嘘だらけだ。

意図的に隠蔽された嘘もある。でも、みんな無意識のうちに寄ってたかって「嘘」を別のもので封印していることもある。

人々はそれを「常識」と呼ぶ。自分たちを守るために封印するのだ。


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2009年01月27日

バッファロー'66



どのジャンルにも当てはめられない映画である。もろ喜劇なのだが、悲劇ともとれるし、ラブストーリーでもある。視点を変えればミュージカルとも言える。

監督・脚本・音楽・主演と、ヴィンセント・ギャロが4役をこなしている。つまりは彼のやりたい放題な映画なのである。好き勝手やっているから一言でいうとグチャグチャな映画なのであるが、そのくせきれいにまとまっている。ヴィンセント・ギャロの世界観を反映しているという点でひとつにまとまっているのだろう。

ストーリーは、ギャロ演じる「ビリー」が刑務所を出たところから始まる。ビリーはもよおし、トイレを探すがなかなか見つからない。どこへ行っても「清掃中」、駐車場のすみっこで隠れてしようとするも運悪く車が入ってきて中断。

出だしからしてコレである。トイレ探しの旅がえんえん15分くらい続く。ビリーはもろに「ヘタレ」なキャラで、ギャロはそれを見事に演じている。

ビリーは、自分が刑務所にいたことを親には内緒にしている。「政府のために遠くで働いている」と嘘をついている。親に本当のことを打ち明けられないのだ。このあたり、僕も共感する心理である。親が怖いわけではないが、心のどこかで親を畏怖している。ビビッている。

映画のテーマはというと、「親に望まれずに生まれ、トラウマを背負って生きてきた男が、ある女性との出会いによって癒されていく」ということになろうか。

文章に書くと堅苦しいテーマだが、ギャロはそれを見事に、面白く料理している。その手があったか、と言いたくなるくらい。

ビリーは、途中で出会った(拉致した)女・レイラ(クリスティーナ・リッチ)をつれて実家に帰る。

「オレは結婚したことになっているから、妻の役を演じろ」

そして実家に帰ると両親、アメフト狂いの母親と、無神経そうな父親が出迎える。ビリーは戦々恐々、妻を紹介するが、両親は意外と無関心。

親ってのはそんなものである。子どもを愛しているのだろうけれども、どこまで行っても自分の視点からしか子どもを理解しようとしない。

母親はテレビのアメフト中継、ファンであるバッファローの試合に夢中になっている。結局バッファローが負け、母はビリーに怒鳴りつける。

「66年のあのとき産気づいて私は病院に行ったから、バッファローの優勝の瞬間を見逃したのよ! あんたなんか生まれなきゃよかったのに!」

非常にうまい設定。深刻になりがちなテーマをここまで面白くする。

途中、なりゆきでビリーとレイラが同じホテルに泊まるシーンがある。

しかしビリーは何もしない。レイラが同じベッドで寝ようと言っても、ビリーはベッドの端っこで落ちそうになりながら固まっているだけ。

いっしょに風呂に入るが、やはり何もしない。風呂の中で固まっている。レイラは、そんなビリーを興味津々、不思議そうに見つめる。

設定ではビリーは66年生まれ、98年公開映画だから32歳か? 童貞なんだろうか。少なくとも、あまりいい恋愛はしてなさそうだ。女の愛を欲しているが、どことなくビビッてしまうあたり、これも男の僕は共感できる。

この映画、女性の観点で見たらどう感じるのかわからないが、男の視点から見ると非常に痛いところを突かれる映画である。自分にも身におぼえがある、カッコ悪くて目を覆いたくなるようなシーン満載。男のへんなプライドと見栄と、ちょっとしたことでもオオゴトにとらえてしまう弱さと、心の中でこねくり回している変な理屈を、すべてオープンにしてしまった、哀愁漂う映画。

しかしクリスティーナ・リッチのムチムチした身体、たまりません。

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2009年01月14日

ジャーハダ──イラク 民衆の闘い

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先日、とある新年会で「イラクの子どもを救う会」主催の西谷文和さんという方とお会いした。僕は酔ったいきおいもあって、失礼ながら、なんか知らんけど有名人だ、と近づいていき、このDVDを買ってサインをいただいた。

DVDの内容は悲惨だった。米軍の攻撃、イスラム同士の内戦、自爆テロ、敵も味方もよくわからなくなった状態で、さまざまな理由で身体も心も傷ついた人たち。劣化ウラン弾による奇形、また、米軍が使用したと推測される神経ガス兵器で体がマヒしてしまった人たち、などなど。

こういう映像を見ていつも意識させられるのは、当たり前なのだが、彼らも僕ら日本人と大して変わらない人々だ、ということである。どこか遠くの国で異人種が戦争しているらしい、てな感じで他人事のように考えてしまいがちだが、映っているのは普通の人間、大阪でそのへんを歩いているおっちゃんやおばちゃん、子どもたちとなんら変わりはない。

しかし、戦争のニュースや映像を見て、いつも考えてしまうことがある。

どうして人間は(僕も含めて)そんなにまでして生きたがるのだ?

自分がなぜ生まれてきたのかわからないし、なんのために生きているのかもわからない。考えれば考えるほどわからなくなる。

そんな「無意味」な人生をいかにして生きていくべきか。それがこのブログのテーマであり、僕の人生のテーマでもある。

決して人生を否定しているわけではない。僕はなんとかして自分の(人間の)生を肯定する理由を見つけようとしている。

僕は死にたいと思ったことが何度もある。それが僕の「躁うつ病」という持病のせいかどうかはわからない。特にひどかったのは大学時代、ひきこもっていたときだ。死にたい衝動と2年間戦い続けた。

それでも死ななかったのは、たぶん僕は本当は生きたかったからなのだろう。

ひきこもっていたとき、僕は真っ暗なひとりの部屋でテレビの動物番組を見ながらいつも泣いていた。必死に生きようとする動物たちに心を突き動かされたからである。動物たちはひょっとしたら、僕が知らない「生きる意味」を知っているんじゃないか? 知っているなら教えてほしい。すがるような思いだった。

本能? 一言で言ってしまえばそうなのだろう。生き物も人間も、とにかく生きたがっている。

そのくせ人間は殺し合う。生きるためのみならず、名声や思想を守るために、あるいは復讐するために。そしてある者は自らの命を絶つ。

では殺すこと(自殺含め)も本能か? 人間の中には、「生きる」と「殺す」という相反する本能が拮抗している?

よくわからない。というか僕の勉強不足。

自殺やうつ病に関していえば、こんな話がある。

前に書いた記事の「パパは楽しい躁うつ病」によると、戦時下の日本ではうつ病がなかったそうだ。

またある学者がこんなことを言っていた。

「世の中が物質的に豊かになっても、人間が幸福にならないのはなぜか?」

その学者いわく、「選択肢が多すぎるから」だそうである。

たとえば目の前にケーキが10種類並んでいるとする。その中からひとつだけを選ばなければならない。

人は悩んだ挙句にひとつだけケーキを選んで食べ始める。しかしケーキをひとつ選んだことによって、残り9個ものケーキを食べ損なったような錯覚に陥る。もしも最初にケーキが2個しかなかったら、そんな錯覚に陥ることなく、おいしくケーキを食べられたはずなのに。

なるほど。ならばうつ病は贅沢病なのだろうか?

ある意味でそうだろう。だが、僕は心の病を煩っている人間を何人も知っているが、彼らは決して甘えてなんかいない。日本という、イラクとはまた違った意味でゆがめられた環境の中で、彼らは必死で戦っている。健常な日本人以上に戦っている。それだけははっきり言っておきたい(僕も躁うつ病なので結果的に自己弁護になってしまうが)。

何はともあれ、西谷さんからサインをいただいたとき、お名前の横にこう書き添えてくれた。

「命どぅ宝」

ぬちどぅたから。命は宝。世界中のいろいろな悲惨な風景を見てきた方だけに、重みがある。

でも本当は、そんな当たり前なことをあえて言葉にして言わなくても済むような世界が、ホントの平和、ホントの幸福な世界なんだろうな。

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2009年01月12日

田園に死す



寺山修司映画の、言わずと知れた名作。知る人ぞ知る映画なので、サブカルチャー好きな人は当然知っているだろうが、そうでない人も一度見ていただきたい。ぶっとぶこと間違いなし

僕が寺山修司の映画を見出したのはけっこう遅い。彼のエッセイは18歳くらいの頃から読み親しんでいたが、映画を見たのは24歳くらいになってからである。

当時、僕は大学の哲学科の学生だった。その日たまたま知り合った女の子と、話の流れ上、いきなりいっしょに「寺山修司オールナイト」を見にいくことになったのである。

小汚い映画館、午後10時から朝の5時まで、寺山修司映画の5本立て。

映画を見てぶっとんだ。どの映画も、男の倒錯した性欲・エロティシズムが丸出しの映画ばかりなのである。こんな映画に女の子を連れてきてよかったのか。しかし彼女は案外平然としていたが。

映画の話に戻そう。この『田園に死す』という映画、寺山修司のほかの作品と同じテーマを貫いている。つまり、母親と自分との近親相姦的な関係。母親の影響から逃れたくても逃れられないジレンマ。

以前にも書いたが、人間には「心の基礎体温」と呼べるものが存在すると思う。何かの出来事に直面したとき、それを前向きに捕らえるか、後ろ向きにとらえるか。その志向性は、けっこう自分が幼少の頃に決定づけられているような気がする。

それを決定づけているのが、実は「母親」なのである。程度の差こそあれ、母親が子どもの人生観に与える影響は非常に大きい。

僕の母親は、ある意味偉大な女性だった。父親の単身赴任が決まったとき、母は子どもを前にして父に泣きすがり、「私は子どもを捨ててでもあなたについていく」と言い放った。

「私は子どもよりも自分が一番大事。自分を大事にできない人間は他人も大事にできない」、そう言い聞かされて僕は育った。母とケンカしたときは、僕よりも母のほうがむせび泣いた。そして2、3日すぎてすっかり忘れ去った頃に、母が僕に近づいてきて耳元でこうささやいた。

「これで許されたと思ったら大間違いだいからね」

とにかく偉大な母だったと思う(まだ生きているが)。そんな母の影響を僕は多大に受けている(影響が「よい」か「悪い」かは、結局のところ自分の生き方によって決まると思う。影響を与えた側に決定権はない)。

僕の母に対する感情は、「愛憎」と言う言葉が非常によく似合う。愛しながらもひどく憎んでいる。

寺山修司が映画で描く母親像も、僕の場合とよく似ている。

愛憎。母親から逃れたい。しかしどこまで逃げても、母親の影響はどこまでも追いかけてくる。お母さん、いっそ死んでくれ! 死んで僕を自由にしてくれ! そういう映画である。

映画の途中で流れる挿入歌が耳にこびりついて離れない。

「死んでくださいお母さん。死んでくださいお母さん」

これはあるいは僕だけなのかも知れないが、男が恋愛をする大きな理由のひとつは、本来の母親から逃れ、新しい母親と巡りあいたいという願望の現れなのではあるまいか。

「私はあなたのおかあさんじゃないのよ!」

ドラマとかでよく恋人が言い捨てるセリフである。でも結局のところ、男は心のどこかで、恋人に「自分の新しいお母さん」のイメージを求めているような気がする。

こういうことを書くと、たぶん女性は馬鹿にするんだろうなー。でもしょせん、男ってのはそういう馬鹿で甘えた生き物なのだ。

男はつまり「マルコ」なのである。『母お尋ねて三千里』のマルコ。

幼稚な話である。でも男は、そういう理想を追い続けなければいけない、そんな気もする。追い続けるのをやめたとき、男は男でなくなるのかもしれない。

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2008年10月14日

私は「うつ依存症」の女



主演クリスティーナ・リッチのなんと華奢なことよ。個人的には『バッファロー'66』の頃のムチムチした体型が好きなのだが。

しかしこの邦題にはどうしても納得できない。まるで、うつ状態に依存する病気があるみたいではないか(最近は「擬態うつ病」なんてのもあるが、あれもれっきとした精神疾患のひとつである)。

うつ病に対する誤解を世間に広める恐れもある。悪訳はなはだしい

原題は「プロザック・ネイション」である。プロザックと言えば、アメリカでもっとも多く飲まれている抗うつ剤だ。日本では未認可。

だから直訳すれば「プロザック国家」、ちょっと意訳して「抗うつ剤大国」となる。

この映画では、アメリカであまりにも多くの人がプロザックに依存している現状も描かれている。たぶん「抗うつ剤依存症」と言いたいところを、長すぎるので「うつ依存症」に短縮したのだろう。しかしとにかくいいかげんな訳だ。

実話(自伝)に基づく映画。

クリスティーナ・リッチ演じる「リジー」が、名門ハーバード大学に入学し、ミュージシャンの批評記事で賞も取る。

だが彼女はだんだん書けなくなっていく。生活は荒れ、自分を追い込み、彼氏ともうまくいかず、幼少の頃の両親の離婚の経験もあいまって、負のスパイラルをどんどん転げ落ちていく。

いわゆる僕の知っている「うつ病」とはだいぶんちがう。正確には「非定型うつ病」らしいが、僕にはボーダーラインのようにも見える。

病名はさておき、彼女が陥っていく、思考の悪循環というのは多かれ少なかれ誰もが経験したことだと思う。

たぶん世界は、何も描かれていない真っ白なキャンパスみたいなものだ。

人はそこに勝手に幸福を見ることもあるし、悪い部分ばかりを見つけて不幸になることもある。

「ものは考えよう」

よく言われる言葉だし、たしかにそうだとは思う。しかし悪循環に陥って自分の意志ではどうしようもなくなってしまうことも、事実としてある。

僕はいつも不思議に思う。

どうして悪循環に陥ってしまうのだろう?

人間の脳に、あるいは論理構造自体になんらかのバグでもあるんだろうか。心というコンピュータがフリーズしてしまうまで続く無限ループ。

結局彼女は、抗うつ剤プロザックを服用することであっけなく治癒する。性格は安定し、また前のように文章が書けるようになる。本当にあっけないエンディング。

彼女は精神科医に問いかける。

「気分はよくなったけれど・・・・・・なんだか自分が自分じゃなくなったような気がするんです」
「それでいいのよ、あなたが治りかけている証拠よ」


僕自身、似た経験はある。

同じ抗うつ剤であるパキシルを1日50mgも飲んでいたとき。気分はよくなった。でも、足もとに「うつ」の波がドロドロと流れているのは感じるのである。でもそれを見ることができなくなった。まるで浮き輪を体中に縛りつけられて、うつの渦に潜ろうとしても潜れない、強制的に浮かばされているような感じだった。

この映画が何を主張したいのかはよくわからない。

抗うつ剤の効果を支持しているようにもとれるし、逆に疑問を投げかけているようにもとれる。

そりゃ僕だって「うつ」はなるだけ経験したくはない。

しかし思考の悪循環の末にかいま見える「この世の地獄」だって、ひとつの真実だとも思う。

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2008年10月08日

コンタクト



僕は文学部哲学科を出たのだが、哲学者ウィトゲンシュタインについての卒論を書くにあたって、この映画から大きなヒントを得た。

僕の思想に少なからず影響を与えた映画のひとつである。

地球外生命体からの電波をキャッチする!

この映画のテーマである。ジョディ・フォスター演じるアロウェイ博士が人生をかけて研究に取り組んでいる。24時間、何年もかけて、巨大電波望遠鏡で宇宙からの電波を観測し続けるのである。

その日はついにやってきた。電波望遠鏡が謎の信号を受信する

その信号を分析すると、それは宇宙空間移動装置の設計図だった。

ここでひとつ重要なキーワードが出てくる。

「オッカムの剃刀」。

14世紀の哲学者オッカムが残した言葉をこう呼ぶ。それは僕なりの言葉で言うとこうだ。

「何かを説明するために余計なものはいらない。単純な説明が一番正しい」

アロウェイ博士と、その恋人である牧師が議論するシーンがある。

「神はいるかいないか?」

アロウェイ博士はコテコテの科学者、神様なんて信じていない。その根拠として「オッカムの剃刀」を出してくる。

この世界の物事はすべて科学で説明できる。わざわざ神様なんかひっぱり出してくる必要はない。つまり、神は存在しないのだ、と。

空間移動装置にはアロウェイ博士が乗り込むことになる。そして彼女はこの世のものとは思えない景色を見る。

宇宙にちらばる星々。銀河。その美しさ。

彼女は泣きながらつぶやく。

「私なんかが乗るんじゃなかった。詩人が乗るべきだったんだわ」

そして彼女はどこか遠い星に行き、死んだはずの父親に姿を変えた知的生命体とコンタクトするのだ。

この壮絶な旅を終えたあと、問題が起こる。

アロウェイ博士は果てしない距離を長い時間をかけて旅をした。

しかし地球の基地では、そのデータがまったく記録されていなかったのだ。空間移動装置も、外から見る限り何もおこらず、ただ壊れて動かないように見えただけだった。

たしかに自分は宇宙を旅したのだとアロウェイ博士は主張する。でも誰も信じてくれない。

「夢でも見たんじゃないの?」

彼女は審議にかけられる。そして審問官が、よりによって「オッカムの剃刀」を例に出してくるのである。

誰も見ていない、記録にも残っていない。ただあなただけが見たと主張している。あなたが実際にあの装置で宇宙を旅したと考えるよりも、単にあなたが幻覚を見たと考えたほうが、単純明快で全うな説明なんじゃないか? と。

信じるとはいったいどういうことなのだろう。

「信じることは逃げだ」。

僕はこのブログの中で何度かそう書いてきた。それも一理ある。だがしかし、と思うのだ。

根拠があるから信じるのではない。
根拠がないのに信じるからこそ、「信じる」という言葉を使うのだ。


僕はニヒリストである。無意味主義者である。でも「だがしかし」と心にいつもひっかかっている。正直にいうと実は、何かよくわからないけれどたしかに「何か」が存在すると心の中では信じているのだ。子どもの頃からずっと。

「神」と呼びたければ呼んでもいい。逃げだ、妄想だ、なんとでも呼んでくれたらいい。

それでもやはり何かを信じている自分がいる

その点で僕は、「宗教人」である。それは認めざるをえないのだ。

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2008年10月07日

serial experiments lain



1998年作のテレビアニメ。しかしいまさらのようにその先見性に目をむいてしまうアニメである。

新世紀エヴァンゲリオンが70年代〜90年代日本文化の集大成だとすれば、lainは2000年代以降を予感させるアニメだと思う。

ひとつにはその精神病理学的な描写とストーリーにある。

以前の記事で、「現代はボーダーライン(境界性パーソナリティ障害)よりも解離性障害が増えつつある」と書いた。そのことがこのふたつのアニメ作品にもあてはまる。

エヴァンゲリオンはボーダーライン的である。情緒不安定、見捨てられ感、空虚感、などなど、登場人物のほとんどがボーダーライン的病相を示している。

lainはそれとはまったく異なる。中学生の玲音は、ふだんはおとなしい少女である。ところがワイヤード(ネットの世界)に入ると、とたんに性格も能力も豹変するのである。普段の玲音はそのことをまったく記憶しておらず、まるで多重人格のようである。

絵のカット割りにしてもそう。場面がコロコロ変わる。というか飛ぶ。自分が一種の解離性健忘になったような錯覚をおぼえる。とにかく何かにつけてlainは解離性障害的なのである。

このアニメのもうひとつのすごいところは、インターネットや仮想現実のとらえ方にある。

仮想現実というと、現実の対極にあるものとしてとらえるのが普通だ。映画『マトリックス』でもそうだった。

しかしこのアニメでは、現実世界とネットの世界は地続きなのである。さらにネットの世界は、死後の世界ともつながっている。

いや、むしろネット界のほうが現実界よりも上層にある。情報があふれるネット界が具現化したもの、それが現実であるとする。

このあたり、僕個人にとっては非常にリアリティがある。「ネットは死後の世界ともつながっているんじゃないか?」。本気でそう思うことがある。

人間の心が、脳に記録されたデータやプログラムの産物にすぎないとすれば、宇宙そのものがひとつの巨大なデータベースであると考えることができる。

ならば人間には「死後」は存在する

サーチエンジンやパソコンにキャッシュ機能があるように。ハードディスクが断片化していてもプログラムが起動するように。

・・・・・・話がかなりそれてしまったが、とにかく僕は予言的にとらえているアニメである。
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2008年09月24日

理由なき反抗



若くして死んだジェームス・ディーンの映画のひとつ。

タイトルどおり、とにかく理由もなく反抗しまくるのである。

ジェームス・ディーン演じるジムは、飲酒、ケンカ、無謀運転などに明け暮れる不良少年である。理由はない。実は反抗する相手も定まっていない。これは反抗というよりも「あがき」に近い。

ではどんな理由であがいているのかというと、これもはっきりしない。もっとも実際に、十代の頃のやけっぱちな行動など、本人も他人も理由なんてあまり考えないだろう。

「若気の至り」

あとになってそう思い出すだけだ。

しかし、制作者の意図としてこの「理由なき反抗」の理由を示唆するシーンがある。

学校の社会見学でプラネタリウムに行くシーン。スクリーンには宇宙の一生について映し出される。そしてこんなナレーションがつく。

宇宙は誕生し、やがて終わりが来る。宇宙の終わりが来る日には、もちろん人類も滅亡する。いや、とっくに滅亡しているだろう。人間の一生、人類の歴史なんてとてもはかないものだ・・・・・・云々。

主人公ジムの友人プレイトウが最後に、このプラネタリウムに銃を持って立てこもる。

結局プレイトウは警官に撃ち殺され、泣きすがるジム。彼を慰める両親。

映画のイントロとラストにプラネタリウムを持ってくるあたり、プラネタリウムでのナレーションがこの映画のメッセージのようにも思えてくる。

つまり、人生なんてしょせんはかないものだ、何をやっても結局のところ「人生の無意味さ」に対する悪あがきにすぎないのだ、と。

ただひとつ気になることは、警官に撃ち殺されたプレイトウだ。英語書くとPlato、つまりプラトンのことである。

プラトンと言えばギリシアの哲学者だ。プラトンはこう唱えた。

「この世は不完全なものだらけである。完全な世界は、死んだあとの「あの世」にあるのだ」


制作者は彼の名前の中に、人生への一縷の望みを含ませたかったのだろうか。
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2008年09月22日

アバウト・シュミット



ジャック・ニコルソン演じる「シュミット」という男がこの映画の主人公である。

66歳で定年退職し、社員みんなから祝福される。

「まだまだいろいろ教わりたいことがあります、いつでも会社にきてくださいよ!」

ところが後日、実際に会社に足を運ぶと「何しに来たの?」という目で見られ、体よく帰される。

家にいるのはがひとり。長年連れ添ってきたと言えば聞こえはいいが、ただの口うるさいオバハンだ。はどこの馬の骨ともわからないバカ男ともうすぐ結婚しようとしている。

シュミットはひまつぶしに、ボランティア団体を通してアフリカの貧しい少年の里親になる。

少年に手紙を書いているうち、シュミットは相手が子どもだということを忘れ、会社や妻や娘に対する不満を文章に綴るようになる。

そんなとき、妻が突然死する。さびしさはない。少なくとも本人は意識していない。でも話し相手がいない。家は荒れ放題。

シュミットはついに家を出てキャンピングカーに乗り、娘の結婚を止めるべく旅に出る。

最後のシーンで、アフリカの少年から返事が来る。その返事に書いてあったものは・・・・・・。

この映画を見て(いや、いつも考えているのだが)、人生とはつくづく得体の知れないものだと思う。否定的な意味で言っているんじゃない、本当に純粋に、人生は不思議だと思うのだ。

「人生の意味」という大きな問題は置いておいて。

僕たちはいったい何を求めているのだろう。

僕なりの答えを一言で言うならば、やっぱり何かとの「つながり」を求めて生きているんだろうと思う。

「モノ」とのつながりである場合もあるだろうが、やはりほとんどの場合、他人とのつながりを求めているんだろう。

尾崎豊の『誕生』という歌の中に、こんなセリフがあった。

「誰も一人にはなりたくないんだ、それが人生だ」

クサいセリフであるが、非常に的を得ていると思う。

難しい哲学や言葉をいくら並べようと、結局僕らはさびしいだけなのかもしれない。

「理解」すらもいらない。単純な「ふれあい」がほしい。

人生の意味なんて、最終的にはそんな単純なところにたどりつくのだろうか。
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2008年09月21日

カノン



これは『カルネ』という映画の続編なのだが、映像のキレと言い、救いようのなさといい、僕はこっちのほうが好きである。これ単独でも充分作品として鑑賞できるようにつくられている。

主人公は馬肉屋のおっさんである。無口で愛想笑いひとつできない、不器用なおっさん。

前作では、彼は馬肉屋を営みながら一人娘(この娘も無口である)と暮らしている。妻はとうの昔に家を出たきり行方もしれない。そして主人公は、毎日娘を風呂に入れているうち、屈折した愛情に目覚める・・・・・・。

最後は、娘が乱暴されたと思いこんだ主人公が怒り狂って家を飛び出し、まったく関係ない男を刺し、刑務所入りになってしまって終わり。

ここまでが前作『カルネ』。

『カノン』では、刑務所を出た主人公はある女&その母親と暮らしている。飲み屋で知り合った、やたらとむかつく感じの女。ゆきずりでこうなってしまったのだが、いそうろう状態。非常に肩身が狭い。娘は施設に預けられていて、会うこともできない。

女は妊娠する。しかし主人公は特にうれしくもなく、うっとうしいと思うだけ。女に馬肉屋を開いてもらう約束も立ち消えになり、働けとうるさくと言われてバイトをするもなじめず、だんだんうっぷんがたまってくる。

そしてついにはキレて、女とその母親をボコボコに殴りたおし、一人で家を飛び出す。

金もない。家もない。50過ぎなので未来もない。

ただ、主人公のこの男、ひたすら悪態をつき続ける。声には出さない、ただ心の中でブツブツ言い続けるのである。

彼にとってもはやすべてが憎い。社会が憎い、女が憎い、仕事の上司が憎い、隣に座っているやつが憎い、もはや人間というこの欺瞞だらけの存在自体が憎い。

ストリーの8割が彼の悪態、独り言で占められている。もはや何もできない彼にとっては、悪口を心の中で言うことしかできないのだ。

そういえば実際に街中でときどきこういうおっさんを見かける。酔ってるんだか精神的に病んでるんだか、大声で文句を吐き散らしているおっさん。

主人公のように、声には出さずに心の中で悪態をつき続けているおっさんならもっとたくさんいそうだ(自分もその一人にならないよう祈りたい)。

主人公はピストルを手に入れる。うらんでいる連中をひとりずつ殺してやろうと空想する。何度も何度も空想する。

男は施設から娘を連れ出す。自分が泊まっている安ホテルに連れて行く。

いまこそ自分の禁断の欲望を実行に移そう。つまり娘とセックスをしよう。そして娘を殺して自分も死のう・・・・・・。

とにかく、空想と独り言がどこまでも続く映画である。

それでも退屈しないのは、主人公の男の悪態が非常に的を得ていて説得力のあるものであり、同時にズバンズバンと切れのいい効果音とカメラワークのおかげだと思う。

ときどきふと思う。僕は調子の悪いときなんかは、人生はむなしいむなしいと心の中で独り言をつぶやき続けている。でも、それなりに仕事をしてそれなりに食っていけてるからこそ、そんなことを言っていられるんであって。哲学とは贅沢病なんじゃないかと。

宝くじで3億円当たったりなんかしたら、「人生はむなしい」なんて僕のつぶやきはふっとんでしまうんじゃないか。

逆に自分がホームレスになったとき、夜の公園の片隅、ダンボールの中にうずくまりながら、僕はいったいどんな「哲学」をつぶやくのだろうか。
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2008年09月13日

2001年宇宙の旅



この映画についてはもういたるところで語られ、語りつくされていて、いまさら何を書いても2番煎じにしかならないだろう。1968年制作とは思えないリアルな特撮、進化を扱った壮大なテーマ、などなど。

でもここでは、宇宙船ディスカバリー号に搭載された人工知能「HAL9000」に焦点をしぼってみたい。僕がいつも考えている「心って結局なんなの?」という疑問について考えるにあたって、よい題材だと思うからだ。

人類史上のポイントポイントで突然姿を現す謎の物体「モノリス」。それが木星近辺で見つかったということで、ボウマン船長はじめとする探査隊が宇宙船ディスカバリー号で木星に送り込まれる。その宇宙船を完全に制御しているのが、コンピュータ「HAL9000」である。

HALに心や自我といったものがあるかはあまり問題にされない。映画内でそれについて触れるシーンがあるが、乗組員は「さあどうだろうね」てな程度で流してしまう。

しかしHALは宇宙船内のあらゆる物事をチェックし、乗組員たちにも気を使い、無表情で淡々と事務をこなしたりひまをつぶしたりしている人間たちよりもよっぽど人間っぽく見える。

ところがここで問題発生。「モノリス探査」という任務はトップシークレットで、乗務員らには知らされていなかったのである。木星に到着して初めて任務が告げられることになっていた。

この真の任務を事前に知らされていたのは、HALだけである。

そしてHALの「苦悩」がはじまる。

HALは乗務員に任務を知らせるわけには行かない。だから乗務員らに何か聞かれても「ごまかし」をしたり「ウソ」を言ったりしなければならなくなる。

乗務員らは、HALが壊れたんじゃないかと思い始める。そしてHALの主電源を落とそうと試みる。しかしそれを察知したHAL、そんなことをされたら任務遂行ができなくなる。困る。

そしてHALは「迷った」あげく、乗務員らを殺そうと「決意」する(このへんの謎解きは続編『2010年』が詳しい)。

表面上は「コンピュータが狂った!」という話だが、僕から見ると、単なるコンピュータだったHALが「苦悩」することでどんどん人間的な心・自我を獲得していく過程がおもしろい。

僕の友人にこんなことを主張しているやつがいる。矛盾した命令を与えられたり、究極の選択を迫られたりしたそのときにこそ、コンピュータは自我や意識を持ちうるのではないか?

だとすれば人間も同じことが言えるのか。「こころ」があるから「苦悩」するのではない。「苦悩」が生まれたから「こころ」が生じたのか?

最近の人類学の研究によると、精神分裂病(統合失調症)が生まれた時期と、人間が壁画などの芸術を生み出した時期とは一致するそうである。

人間はその存在自体が「精神病にかかった霊長類」なのかもしれない。苦しみも悲しみも喜びも芸術も、ひょっとしたら全人類が発症しているある種の精神病の産物なのかもしれない。

コンピュータの話に戻ろう。

コンピュータが「意識」「心」を持つ(少なくとも持っているように見える)日は近い将来必ずやってくる。僕はそう思う。でもそうして生まれてきた「連中」は、きっと冷静沈着で、公正で、おだやかで、静かなやさしさをたたえている、そんな連中にちがいない、僕にはそう思えるのだ。

もう15年も前だが、テレビの特番で『2001年』の原作者アーサーCクラークが出ていた。

「将来、コンピュータと人類が敵同士になって戦争をすることはあり得るか?」

こんな質問に対し、彼はこう答えた。

「ありえないことではないと思います。でもその戦争を始めるのは・・・・・・人間とコンピュータのいったいどっちからなんでしょうね?」

彼は意味深に笑った。彼はみなまで言わなかったが、僕は妙に納得してしまう。
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2008年09月11日

スモーク



唐突だが、ハーヴェイ・カイテルはいい役者である。レザボア・ドッグス』でもそうだったが、渋さとカッコよさと同時に、なんともいえない哀愁を漂わせている。個人的には、ロバート・デニーロもいいが、やっぱりハーヴェイ・カイテルなのである。

そのハーヴェイ・カイテルが、ニューヨークはブルックリンの煙草屋の主人を演じる。

そこへ毎日煙草を買いにくる、スランプの小説家。

その小説家の家にひょんなことで居候することになるひとりの少年。

この3人をメインにストーリーは展開していく。

この映画は、言うなれば人生のすみっこに追いやられた人々を描いた作品である。

煙草屋という商売自体、禁煙ブームのいまとなっては後ろ指をさされるような商売だ。小説家は数年前に強盗に妻を殺され、いまだに立ち直れずにいる。少年は生き別れた父親を探している。

でも彼らは生きている。淡々と生きている。本当はいまにも人生から振り落とされそうな状況におかれているのに、知ってか知らずか静かに生きている。

煙草屋のハーヴェイは、もう10年以上も、毎日同じ時刻に店の向かいから写真を撮る。撮った写真をファイリングしている。

店は変わらない、しかし写真に写っている行きすぎる人々は毎日ちがう。そのうちの何人かはもうこの世にしないかもしれない。

ハーヴェイはなぜそんなことを続けているのか。それは最後まで明かされない(いや、最後の種明かしも完全に納得できるものではない)。

ふと、彼は生きるために写真を撮り続けているのではないかと僕は思う。どんなくだらないことでも、これと決めた日課があれば続けていこうと思う。明日が来るまで生きようと思う。

人間にとっての「生きる支え」、それは実は非常にか細いものなのかもしれない。立体でも平面でもない、言わば一本の線。意識していようとなかろうと、まるで蜘蛛の糸みたいな細い糸、実はそれだけが人間を活かし続けているのかもしれない。逆に言うと、どんなに小さなことでも、何かがひとつあれば人間は人生を耐えていける。この映画を見てそんなことを考えた。

この映画の特徴として、ストーリーは淡々としているが、登場人物の言葉が非常に重い。小話みたいなのもいくつか出てくるが、普通の何気ないセリフが非常に重く、味わい深いのだ。そしてユーモアに富んでいる。

あとでポール・オースターが脚本を手がけていると知り、納得した。そうかあのポール・オースターか(以前に彼の『孤独の発明』を紹介した)。

言われてみればたしかに、ポール・オースターのにおいがプンプンする映画である。

ラストシーンは必見。
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2008年09月10日

惑星ソラリス



旧ソ連が1972年につくったSF映画。「旧ソ連」というイメージのとおり、暗く、冷たく、そしてカルトな映画である。

ドロリとした海と雲に包まれた惑星ソラリス。そこに停留している宇宙船との連絡が途絶え、主人公は原因究明のためにソラリスに派遣される。

そしてソラリスの宇宙船内で出くわしたのは、なんと自殺したはずの妻だった。この星では、人間の潜在意識にあるものが現実となって姿を現すのである・・・・・・。

この映画は2002年にアメリカでリメイクされた。アメリカ版のほうがわかりやすいが、カルトな雰囲気を味わいたいなら旧ソ連版が断然よい。

結末はここでは書かない。

が、僕はこの映画のエンディングと似たような感覚を持つことが時折ある。

たとえば、どうしても避けられない重大事が目の前にせまっている時。

「これはもう過ぎ去ったことなんだ、僕は実はもう死んでいて、過去のことを走馬灯で思い起こしているだけなんだ」

そう思ってみることがある。するとなんとなく気が楽になる。

実際の体験としては、医者からロヒプノール(ビビットエース)という睡眠薬をもらっていたときはヒドかった。この薬、僕には合わないのである。効きすぎるのである。

朝起きる。薬の影響が残っていて、身体はふらふら、意識は朦朧である。と思ったら、僕はまだ布団の中にいる。おきたと思ったのは夢だったのだ。

今度こそ、と思って起き上がり、ワイシャツに着替える。顔を洗う。と思ったら、僕はまだ下着姿のまま洋服ハンガーの前で立ち尽くしている。

なんとか支度を済ませ、僕はバスを待つ。バスが来て僕は乗り込み、ようやく一息つく。やれやれ。・・・・・・と思ったら、僕はまだバスに乗っておらず、バス停で呆然と立ち尽くしている。

またしても幻覚か。こんな状態が昼まで続くのである。

だんだん不安になってくる、本当の僕は「いつ」にいる? 今は本当に「今」なのか? 今日は本当は明日なんじゃないのか、いやひょっとすると昨日か?

いやいや。

実はすべては過去。すべては思い出。本当の自分は実ははるか数億年先の未来にいて、はるか昔の夢を見ているんじゃないか?

まあこれは僕の空想、ひとり遊びである。
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2008年09月02日

クレイマー、クレイマー



1979年、ダスティン・ホフマン主演の映画。これはたぶん後世に残る名作だろう。

ダスティン・ホフマン演じる、バリバリの仕事人間テッド。ところが妻が突然キレて、一人息子をおいて家を出て行ってしまう。

ここからテッドの地獄のような日々が始まる。

これまで家事なんてしたこともなかった仕事人間、料理をするのも一苦労。息子ビリーの学校の送り迎えもしなければならない。

会社の仕事が次第におろそかになってくる。一時は重役候補とまで言われていたのが、クビ。

そこへ妻がテッドの前に姿を現す。息子のビリーを引き取りたいという。そして親権をめぐって夫婦間の裁判がはじまる・・・・・・。

あらすじをなぞればそういう話なのだが、僕がこの映画を好きなのはもっと別の点にある。

主人公テッドと、ご近所さんマーガレットとの関係である。

マーガレットはもともとはテッドの妻の友人である。妻が家を出たとき、マーガレットはテッドを責める。

だが時間がたつにつれ、マーガレットはだんだんテッドの子育てを手伝うようになる。そしてテッドのよき理解者になっていく。

息子ビリーがケガをして病院に運ばれた晩、テッドはマーガレットにこうつぶやく。

「万が一僕の身に何かあったら・・・・・・ビリーのことを面倒みてやってくれないか」

テッドとマーガレットはそれ以上の関係にはならない。肉体関係なし。恋人でもないし、かと言って友人というのとも少しちがう。単なる仲のいい、互いに頼みごとのできるご近所さん。微妙といえば微妙な関係、でも互いに固い信頼関係で結ばれていく。

こういう男女関係っていいな、と常々思う。なんの約束もないが信頼し合える関係

だいたい、付き合って愛の言葉をささやきあって、命かけるみたいなことまで言っていっしょになった男女が、別れる段になって手のひらをかえしたようになじり合い傷つけあい、互いにボロボロになってさよならをする。

これってなんかおかしくないか?と僕は思うのである。
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2008年08月18日

コーヒー&シガレッツ



コーヒーを飲み、煙草をふかしながら淡々と流れていく人々の会話を撮っただけの映画。

トム・ウェイツビル・マーレイロベルト・ベニーニなど、ジャームッシュの映画ではおなじみの面々が出てくる。

いくつかの短編からなる。いや、短編集というか「コント集」というべきか。笑えるエピソードもあればそうでないものもある。

あるいは脚本と呼べるものがなかったのか、みなアドリブと思えるような普通の会話をくりひろげる。

まるで実際の喫茶店やバーの一場面を見ているようでもある。

思ったのは、人間って結局、あんまし意味のあることを話してないんだな。

僕の経験だが、原稿に起こすつもりで酒場での会話を録音したことがある。

その会話には僕も加わっていたのだが、あとで聞いて困り果てた。みんな全然意味のないことばかり話している。だいたい会話がかみ合っていない。酒が入っていたせいもあるが、とにかく人間の会話の無意味さを痛感した。

会話が無駄だ、と言っているのではない。会話には意味を伝えるという目的以外に、もっと重要な意義がきっとあるのだろう

映画の話に戻る。やはりみんな、どうでもいいようなことばかり話している。はかない存在である。ただ、テーブルとその上に置かれたコーヒーカップと煙草だけが、不変な存在としてそこにあり続ける

たぶんこれが真実なのかもしれない。

ひとはみんな自分が主人公だと信じて疑わない。

でもそれは実は思い込みで。本当の主役はコーヒーであったり煙草であったり、酒であったり、街であったりする。僕たちはその周囲をただよう影のような存在にすぎないのかもしれない。

そんなことを考えた映画。
posted by にあごのすけ at 03:43| Comment(3) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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