2009年08月30日

美しい朝(さだまさし)



先週、さだまさしのコンサートに行った。

祖父の死の直後にコンサートに行くなんて、まるで『異邦人』のムルソーのようだと言うなかれ。新アルバム『美しい朝』発売に合わせたコンサートツアーだったのだが、アルバムとコンサートの内容と、祖父の死、これが僕の中で奇妙にもリンクしたのである。

観客はあいかわらず年上ばかり、僕の歳でも最年少クラスに属するのはいつもと同じだったが。

今回のアルバムはちょっと異色である。仏教くさいのである。これまでだって、寺や仏教思想について歌った曲はたくさんある。しかし今回は、なんだがアルバム全体が仏教的なのである。線香のにおいがしてくるのである。

アルバムのライナーノーツとライブのパンフレットにはこうある。

「2008年6月に起きた、東京・秋葉原での無差別殺人事件以来、僕の心は少し凍りついてしまい、生命の重さについて考え続けた一年が過ぎた」

そして、

「殺したいほど憎い奴というのは現れるものなんですよ。でも、本当に殺しちゃダメなんです。死にたいほど苦しいことってあります。でも死んじゃダメなんですよね。そんなに早く殺さなくてもいずれ死ぬから。そんなに早く死ななくてもいずれ死ぬから

そんなメッセージを伝えたくてこのアルバムを作ったという。

さらりと、でもとんでもないことを言う。「いずれ死ぬから」今を生きろと。なんというか、マイナス思考をとことん突き詰めていくうちに、いつのまにか裏返ってプラス思考になった感じ。こういう逆転の発想、動機からして非常に仏教思想的なのである。

さだまさしは暗い歌を歌いながらも、全体としては生きることを肯定してきたアーティストだが、ここまでさらりと本音を語ったことはこれまでなかった。ひとつには還暦に近づき、自分の「死」というものがリアルに感じられるようになったからかもしれない。

決して仏教的な歌ばかりではない、長崎弁ラップ『がんばらんば』の続編や、ソフトバンクのCMで使われた『私は犬になりたい¥490』も収録されている。

でも『私は犬になりたい』の歌だって、よくよく聴けば仏教の輪廻転生の歌のように思えてくる。

僕が感慨深かった曲のひとつがこれ↓。

LIFE

詩・曲 さだまさし
たとえばふらりとお茶でも呼ばれるみたいに
この世に生まれ
四方山話に花を咲かせてまたふらりと
帰って行く
そんな風に生きられたらいい
喜びや悲しみや生きる痛み
切なさも苦しさもそれはそれとして OH MY LIFE
あなたがそばにいる それだけで
他にはなにもいらないと思う

たとえばこの世と別れるその日が来たとき
笑えたら良いね
名残は尽きないけどまたいつか会おうねと
じゃあまたねって
晴れた日も雨の日も嵐の日も
愛も怨みも悩みも時が経てば
懐かしい微笑みの向こうに繋がるもの OH MY LIFE
あなたがそばにいるそれだけで
他にはなにもいらないと思う

たとえばふらりとお茶でも呼ばれるみたいに
この世に生まれ
四方山話に花を咲かせてまたふらりと
じゃあまたね


この肩の力が抜けた感じ、この自由さ。

前の記事に書いたが、祖父の死を目の当たりにして僕が学んだことは、死は恐れるものでもましてや崇高なものでもない、ただただ自然なことだ、ということだった。そんな僕の考えとこの歌の内容とが、奇しくも一致したのである。

なんというか、個人的な感想になるが、現状の僕をそっと背後から支えてくれるような、これはそんなアルバムである。

パンフレットに面白いことが書いてあった。

彼曰く、自分はこれまで「さだまさし的な物」にこだわりすぎていた。

「このまま普通のおじさんのように歳をとっていっていいのか」

これからは自分の枠を壊してどんどんヘンなじいさんを目指すようである。

「『ええ、こんな所まで!!』という所まで行ってみせるからね。そういう意味ではこれからのさだまさしは買いですよ」

さて、いったい何をやらかすのだろう。ホントにとんでもないことをやりそうな気がする。
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2009年08月09日

蝉 semi(長渕剛)



僕はそれほど長渕ファンではない。それどころかもう10年以上まともに聴いていない。でも高校時代〜20歳過ぎまではよく聴いていた。

ひとつには、その頃僕がフォークギターを弾き始めたというのがある。

まわりの友達がみんなエレキに走るのとは逆に、アコースティックギターを買った僕は、さて何を歌おうと迷った。70年代フォークは好きだが、人前で弾くにはあまりにも旬をすぎていた。その点長渕は、リアルタイムで活躍していて、なおかつアコギで弾き語りできる数少ないアーティストのひとりだったのである。

街にはストリートミュージシャンがあふれていた。みんな長渕を弾いていた。僕もそのひとりとなった。大学時代、金に困ってヤケクソで、弾き語りで得た収入で食費をまかなっていたこともあった。

ところがあるとき、取り巻きのひとりからこう言われたのである。

「歌い方が長渕っぽくない」

僕はガクゼンとした。僕は決してモノマネしているわけではないのだ。自分で弾いて自分で歌う。だから自分流でいいんじゃないのか?

これを機に僕はだんだん長渕から離れていった。

長渕はマスコミから『教祖』と呼ばれるようになり、彼自身の歌もどんどんメッセージ性が強くなった。

93年のアルバム『Captain of the Ship』が決定的だった。長渕剛の個人的メッセージが満ち満ちている。もうこれは僕は歌えないな、と思った。僕は長渕の布教家でも宣伝マンでもない。いや、逆説的だが、長渕の歌に少なからず敬意を表するのであれば、彼の歌ではなく、自分自身の言葉と歌い方で歌うべきだろう。

その半年後に彼は大麻所持で逮捕された。長渕も疲れていたのか。

復帰後に出たアルバム『家族』はなかなかよかったが、これを最後に僕は長渕を聴かなくなった。

そして本当に久しぶりに聴いたのが、この7月に発売された『蝉 semi』である。

蝉 semi

作詞作曲 長渕剛


蝶よ花よで かつぎあげられ
背中にスミを 入れようと
己の弱さを呪った 一人の夜

腐って腐って 腐り果て
ラーメン横丁の たて看板
ごろまきひっかく チンピラの
哀れ いきがる 悲しさよ 
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・


刺してみせましょ 己の腹を
刺されてみましょか ボロ雑巾
ため息まじりの ラッパの兵隊
 
幾人束ねて カチ込んでも
命からがら 負けちまい
正気のさたじゃ ねぇなどと
狂った馬鹿が カタギを気取る
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・


はったりばかりを かますから
裏と表を すかしましょ 
酒におぼれて毒づいた 一人の夜
 
臭ぇ 人情芝居が
俺にゃ ゆがんで見える
サイコロ転がし 「チョウ」か「ハン」かで
昇ってみましょか この世の果てまで
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・

群れをなさない 都会の蝉よ
お前そんなに 悲しいか 
切ったはったではじかれ 死んだふり
 
心揺さぶり ときめかし
肝に命じて はいあがりゃ
裏切り血の雨 ふっかけやがる
カタギのくせして 極道の真似事
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・

蝉が泣く・・・ チキショウと・・・
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・
蝉が泣く・・・ チキショウと・・・


けっこう聴いている。いまの僕の気分に合っているのか。PVもなかなかよい↓。
http://www.youtube.com/watch?v=9tdEnbEdgIA

長渕らしい歌だ。僕が言うのもなんだが、昔に比べて言葉が格段によくなった。『詞』が『詩』になった。

「チンピラの哀れいきがる悲しさよ」「狂った馬鹿がカタギを気取る」「カタギのくせして極道の真似事」。

正反対の人間様ばかり描いている。人は自然体では生きられず、いきがったり正義ぶったり悪ぶったりせざるをえない。偽善と偽悪。それに対して蝉が「チクショウ」と泣く。

なぜ蝉か? まあ夏だからってのもあるだろうが。

「蝉」の語源を調べてみると、「単」にはもともと「震える」という意味があるらしい(「戦慄」など)。「震える虫」ってことで「蝉」。

だが僕はこの漢字から別の印象を受ける。

「単」である「虫」。単独である虫。転じて、元来ひとりぼっちで孤独な人間という生き物を「蝉」にたとえたのではあるまいか。

人間は孤独な生き物である。そのくせ社会から離れて生きられない。

「自分さがし」なんて言葉はもう聞き飽きたが、自然体で生きることなんてできない。気の合う仲間でつるんでみてもいつか不和が起こる。結果として、人に合わせたり、いい子ぶったり、いきがったりせざるをえない。

自然体で生きたいくせに、孤独で、社会なしでは生きられない。ここに生きることの不条理がある。

(ちなみに、人間が社会的生物であることと、人間が言葉で考え言葉を使う生物であるということはかなり密接に関連している。でもややこしい話はまたの機会に)。

長渕はこの不条理に対して答えを出していない。ただ「蝉が泣く。チクショウと」。

でもそれでいいと思う。これは人間として生まれてきた宿命だから。答えなど、ない。
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2009年07月18日

孤独の太陽(桑田佳祐)



僕にとっての「名盤」とそうでないものの区別はどこにあるのかを考えると、ひとつには「長く聴き続けられるかどうか」にあると思う。

その意味では桑田佳祐『孤独の太陽』は僕にとっての名盤中の名盤である。

1994年の発売以来ずっと聴いている。数年間聴いていなかったかと思えばまたひっぱりだして聴いている。そんなアルバムである。

サザンと異なり、アコースティックサウンドを前面に出している。桑田のブルースハープがいい味を出している。ゴテゴテしたロックもあるがとにかく荒削りである。そこがまた良い。

歌詞は社会風刺ネタが多い。いや、「ちゃかし」と言うべきか。どこまで本気で批判しているのかよくわからないのが桑田らしいところ(忌野清志郎にしろ、「天才」と呼ばれるミュージシャンは、往々にしてどこまで本気か、あるいはちゃかしているだけなのかよくわからないことがある)。


その中の1曲。
すべての歌に懺悔しな!!

詞・曲:桑田佳祐


ゆうべもゆうべ脳ミソ垂らして 女に媚びを売る
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
歌が得意な猿なのに 高級外車がお出迎え
スーパースターになれたのは
世渡り上手と金任せ

冗談美談でふんぞり返って ケジメも無しとする
言い寄る女と愚かな客とが それでも良しとする
大学出たって馬鹿だから 常識なんかは通じねえ
濡れた花弁にサオ立てて 口説き文句はお手のモノ

今は君のために飲もう 僕と風と共に行こう
すべての人に 恋をしな!!

道化も道化ウンザリするような 生き様シャウトすりゃ
小粋な仮面でどこかでパクった 小言を連呼する
子供の頃から貧乏で そのうえ気さくな努力家で
実はすべてが嘘なのに
芝居のセンスにゃたけている

天才奇才とおだてりゃエテ公は いつでも木に登る
儲かる話とクスリにゃ目がない バカヤロ様がいる
チンチン電車は走るけど 青春時代は帰らない
TVにゃ出ないと言ったのに
ドラマの主役にゃ燃えている

今は君のために飲もう 僕と風と共に行こう
すべての歌に懺悔しな!!
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
哀れ君の為に泣こう 僕も同じ夢を見よう
すべての人に 恋をしな!!



コード進行も歌詞の組み立て方もさすがですな……と感心している場合じゃなくて、この歌をめぐって当時おおさわぎが起きた。

まず、これはいったい誰のことを歌っているのか?と週刊誌が騒ぎ出した。候補は矢沢永吉と長渕剛にしぼられた。桑田は謝罪文を出すはめになった。

矢沢は「まあいいってことよ」と大人な反応だったが、長渕はカンカンだった。

「許さない!!」

怒ったのにはいろいろ理由があって、まず長渕はじめ聴く人が聴けばあきらかに長渕のことを歌っていることが明白な歌だった。

人は往々にして、本当のことを言われると腹が立つものである……長渕の場合どうかは知らないが。

結局、このしばらくあとに長渕は歌にあるとおり「クスリ(大麻)」で逮捕され、さわぎは収束した(詳細はWikipediaを参照)。

アルバムの話に戻るが、とにかく桑田が好き勝手につくったアルバムだな、という印象。

社会風刺が多いが、一貫したメッセージは感じられない。でもそれが「音楽」の本来の姿なのかもしれない。

言葉で説明できるようなメッセージならば、わざわざ歌をつくる必要もない。



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2009年07月08日

ぼちぼちいこか(上田正樹と有山淳司)



ブルースは、いまから100年以上も前にアメリカの黒人たちの間で歌われていた鎮魂歌労働歌を起源とする音楽ジャンルである。

「Blues」というくらいだから、ブルーな心境・ブルーな状況を歌にする。しかしブルースには憂いは感じられるのだが、聴けばなぜか明るい気分になる。

今回紹介するアルバム『ぼちぼちいこか』はブルースを歌っている。

1975年発売。まだ若かりし頃の上田正樹と有山じゅんじ。日本ブルースの金字塔ともいえるアルバムである。

一方では同時期にデビューした憂歌団がいるが、このふたつのユニットには大きなちがいがある。

憂歌団は当時は京都を中心に活動していたのだが、京都について歌った曲はあまりない。しかし上田正樹と有山淳司の『ぼちぼちいこか』は、大阪という街を前面に押し出し、大阪弁で歌っている。

理由は明白だろう。大阪はブルースがぴったり来る街だからだ。

芸人気質というか、大阪の人はなんでもネタにしようとする。自分の身にふりかかった不幸ですらネタにして笑いにする。そういう部分が、「つらいことを明るく歌う」ブルースとマッチしたのだろう。

大阪の道頓堀からくいだおれが消えた去年2008年、ふたりは『ぼちぼちいこか』収録曲のうちの何曲かを録りなおした。こちらも聴いてみる価値あり。



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2009年05月15日

HANABI



実は単なる個人的な悩みであったとしても、それを世界規模にまで拡張して、深く悩んでしまう男というのは存在する。

古くはビートルズのHey Judeの歌詞にもあるように。

「Dont carry the world upon your shoulders」

世界中の悩みをひとりで背負っているような気分になるなよ。でもそういう悩み方をするのは決まって男のような気がする。僕もまたそういう男のひとりである。

そういう男が求める女性は、決して自分を理解してくれる人ではなく、自分の悩みを笑い飛ばし破壊し、それでも笑ってそばにいてくれる人なのかもしれない。

以前に書いた記事で紹介したウルフルズの「暴れだす」で描かれていた女性も、まさにそんな感じだった。

ミスチルの最近の楽曲「HANABI」も、スタンスは同じである。



HANABI

作詞作曲 桜井和寿


どれくらいの値打ちがあるだろう?
僕が今生きてるこの世界に
すべてが無意味だって思える
ちょっと疲れてるのかなあ

手に入れたもんと引き換えにして
切り捨てたいくつもの輝き
いちいち憂いていれるほど
平和な世の中じゃないし

一体どんな理想を描いたらいい?
どんな希望を抱き進んだらいい?
答えようのないその問いかけは
日常に葬られてく

君がいたらなんて言うかなあ
「暗い」と茶化して笑うのかなあ
その柔らかな笑顔に触れて
僕の憂鬱が吹き飛んだらいいのに

決して捕まえることの出来ない
花火のような光だとしたって
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
僕はこの手を伸ばしたい

誰も皆 悲しみを抱いてる
だけど素敵な明日を願っている
臆病風に吹かれて 波風がたった世界を
どれだけ愛することができるだろう?

考えすぎで言葉に詰まる
自分の不器用さが嫌い
でも妙に器用に立ち振舞う
自分はそれ以上に嫌い

笑っていても泣いて過ごしても
平等に時は流れ未来が僕らを呼んでる
その声は今 君にも聞こえていますか?

さよならが迎えに来ることを
最初からわかっていたとしたって
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
何度でも君に逢いたい

めぐり逢えたことでこんなに
世界が美しく見えるなんて
想像さえもしていない
単純だって笑うかい?
君に心からありがとうを言うよ

滞らないように 揺れて流れて
透き通ってく水のような心であれたら

逢いたくなったときの分まで
寂しくなったときの分まで
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
君を強く焼き付けたい

誰も皆 問題を抱えている
だけど素敵な明日を願っている
臆病風に吹かれて 波風がたった世界を
どれだけ愛することができるだろう?
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回


ちなみにこの歌で語られている、世界が無意味だとしても一瞬一瞬の出来事には意味があるかもしれない、という思想は、さだまさしの「防人の詩」にも共通する。すべてはやがて死んでしまう、と歌ったあとで、さだまさしは「わずかな生命のきらめきを信じていいですか」と問いかける。

ともかくも、男の苦悩の構造というのは案外単純なのかもしれない。

女は、そんな頭デッカチな男の苦悩を一笑し消し去るだけのパワーを持っているように思う。いや、古代ギリシア以来、男たちが二千数百年かけて築き上げてきた哲学の歴史ですら、女の前では無力化する。

とにかくいくらいばっていても強がっていても、結局のところ男は女には頭が上がらない。言い過ぎか。

ちなみにミスチルだが、彼らは「未来」に目が行きすぎているように感じることがある。

自分が救われるヒントは「未来」だけにあるわけではない。「過去」にだってあるかもしれない。

過去は決して変えられない。
だが自分の見方ひとつで、自分の過去の持つ意味合いが大きく変わることだってある。


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2009年05月12日

楽しい夕に



忌野清志郎ネタをもうひとつ。

僕がよく聴いていたのは、RCのデビューアルバムである『初期のRCサクセション』から90年代の忌野清志郎&2・3'sあたりの曲だが、個人的に一番衝撃的だったのは実は今回紹介するアルバム『楽しい夕に』である。

RCサクセションのセカンドアルバムである。名盤と言われた『シングル・マン』のひとつ前のアルバムになる。

1枚目と2枚目はアコースティック編成、3枚目『シングル・マン』からはエレキ編成となる。しかし先日紹介したドキュメンタリー本『GOTTA!忌野清志郎』の中で、1枚目のアルバムはあとから勝手にいろいろな音を重ねられて全然RCのサウンドじゃなくなってしまった、と清志郎は語っている。

よってこの『楽しい夕に』こそ、初期のRCのサウンドを忠実に記録しているのではなかろうか。

そして僕は衝撃を受けたわけである。

こんなフォークサウンドがあったのか!!

僕はアコギ弾きであってエレキは弾かない。どうしてもフォークなサウンドに反応してしまうわけである。

基本はたぶん3人編成、フォークギター2本とウッドベース。あとドラムとハモンドくらいか。

でもこれはもはやフォークソングなんかではない。ロックか、R&Bか、なんと呼んでいいのかわからないがとにかくすごいのである。どっちへ転がっていくのかわからないメロディとコード、ヘタなようなうまいような、でも斬新なベースラインとリードギター。そして清志郎がかき鳴らすアコギは本当に「ガッタガッタ」と鳴る。

当時このアルバムがどうして売れなかったのか不思議だ。時代がついてこれなかったのか。いや、そもそもこのサウンドを受け継いでいるミュージシャンが現在いるのかどうか。このアルバムのRCは、それ以降のエレキ化したRCとも大きく異なっているのである。

でもとにかく僕はこのアルバムを聴いて、アコースティックサウンドの新たな境地を見た。

ちなみに、収録されている『日隅くんの自転車のうしろに乗りなよ』という曲。「日隅くん」はRCのサポートメンバーだった。

だが『GOTTA!忌野清志郎』によると、バンドが売れないことに彼は悩み、追い詰められ、ついには自殺してしまった。

アルバム『シングル・マン』の中の名曲『ヒッピーに捧ぐ』は、彼の死について歌ったものである。

でもいまとなっては清志郎自身を追悼する歌のように聴こえる。
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2009年05月03日

忌野清志郎逝く



忌野清志郎が死んだ。

昨夜それをテレビのニュースで知ったとき、僕は酒場で酔っ払っていた。酔ったいきおいで店のギターを手にとり、追悼のつもりでRCサクセションの歌を何曲か唄って帰った。

しかし今朝目が醒めて、あらためてニュースを見たりYoutubeを見たりしても、どうしても実感がわいてこないのである。簡単な言葉で言うと、信じられない。

尾崎豊が死んだときもショックだったが、彼はいかにも死にそうな、死と隣りあわせで歌っているようなオーラを出していたし、ショックをうけながらも「やっぱりな・・・」と受け入れられる部分はあった。

だが忌野清志郎となると僕はそうはいかない。すんなり事実として受け入れられない。ガンとの闘病、そして再発は知っていたが、それでもさすがに彼は死なないだろう。そんな気にさせるミュージシャンだった。

このブログではいろいろなミュージシャンを取り上げている。尾崎豊、さだまさし、ミスチル、大槻ケンヂ、などなど。

ジャンルが一見バラバラだが、僕の中では共通項がある。それは「人生とはなんだ!?」を深く考えて歌にしているところだ。僕は基本的に、「音」よりも「言葉」で聴く音楽を選んでいるふしがある。

しかしRCサクセション、そして忌野清志郎に関してはちがう。僕にしてはめずらしく「音」に惚れ込んで聴き始めたミュージシャンだ。

僕はRCサクセションの世代とは微妙にズレているが、年上の友達にすすめられて聴き始めた。そして目からウロコが落ちた。

当時(いまもだが)僕は作詞作曲をやっていた。ギターはへたくそ、音楽理論も何も知らなかった僕は、『やさしい作曲のABC』なる本を買ってきた。そこにこんな趣旨のことが書いてあったのである。

『C調の曲では、C、Dm、Em、F、G、Am、Bdim以外のコードは使ってはいけない!』

クラシックやフォークではたしかにそうなのかもしれないが、僕はこれを真に受けてしまった。そして苦しんだ。僕の心に浮かぶメロディーに合うコードが見つからないのである。

だからRCサクセションを最初に聴いたときは「これこれ、探していたのはこれだ!」という喜びがあった。変な話だが、RCを聴いて初めてビートルズの良さもわかった。

音楽理論なんて気にしなくていいのだ。無視していいのだ。もちろん彼らの音楽も、別の音楽理論にあてはめることは可能だが、そんなことはおいといてとにかく気持ちのいいコードを自分で見つけて歌えばいいのだ。

RCのおかげで、そんなあたりまえのことがようやくわかったのである。

忌野清志郎の歌詞に対しても驚きはあった。とまどいというべきか。

悪く言うと、全然詩的じゃない。でもストレートである。感じたことを心の中であまり加工せず、感情をすなおに、時には皮肉って歌う。

紹介しているソロアルバム『メンフィス』は、ちょうど僕が鬱でひきこもっていたときに聴いていて、その中の「世間知らず」という曲が自分にマッチした。

http://www.youtube.com/watch?v=uGW4eU-A4ao

世間知らず

詞曲 忌野清志郎

苦労なんか知らない 恐いものもない
あんまり大事なものもない そんなぼくなのさ

世間知らずと笑われ 君は若いよとあしらわれ
だけど今も夢を見てる そんなぼくなのさ

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

世間知らずと笑われ 礼儀知らずとつまはじき
今さら外には出たくない 誰かが迎えにきても

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

苦労なんか知らない 恐いものもない
世間知らず何も知らず 夢をまだ見てる
そんなぼくなのさ そんなぼくなのさ


1992年の曲だから、まだ「ひきこもり」という言葉がない時代である。彼はひきこもりの経験があるのか、RCのファーストアルバム『初期のRCサクセション』の中にもこんな曲がある。

寝床の中で

詞曲 忌野清志郎

腹が減っても金も無い
あの娘にふられても涙も出ない
情けない情けない

たずねてくれる人もない
出かけていくにも服がない
情けない情けない
何も何もしないで寝床の中で

やりたい事はあるけれど
どうにも出来ずにくちびるかむだけ

しけもくさがして空しくふかす
心はまるで老いぼれサ
心はまるで老いぼれサ

情けない情けない情けない情けない
何も何も出来ずに寝床の中で


彼の歌にはなんの示唆もない。根拠も方向性も示さない。何も答えない。でもそれがいいのだ。

何も言わずに微笑んでとなりに腰かけてくれる友人のような。ひきこもっていた僕にとって、このふたつの曲はそんな存在だった。救われた。

天国や地獄があるのかどうか知らんし、だから「冥福を祈る」なんて言葉も使いたくない。

ただ「ありがとう」と伝えたい。
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2009年02月02日

世界でいちばん好きな人



ひとつのジャンルとしてくくってしまっていいのかはわからないけれども、昔から、おそらく世界中に、「戦争に反対し平和を願う歌」というのがある。

日本で言えば60年代、学生運動の頃にそういった歌が多く作られた。

さて、911の世界同時多発テロという、おそらくは何千年も歴史に刻まれ続けるだろうあの大事件のあと。日本でも一部のアーティストが、この出来事や、それにつづく戦争をテーマに歌を書いた。

僕の聴いた中で一番メッセージが明確なのは長淵剛だろう。静かなるアフガン


とにかく熱い。力強い。ビンラディンやブッシュを名指しで非難し、戦争反対を攻撃的なまでに主張する。

もうひとつ僕の印象に残っている歌と言えば、以前の記事でも紹介した、さだまさし遙かなるクリスマス


こっちも熱いが、長渕に比べれば戦争反対のメッセージはずっとひかえめである。

「自分は戦場に行ったことがないので、自分の目線からでしか戦争を歌うことができない」

以前に行ったライブで、こういう趣旨の発言をしていた。世界情勢を憂いながら、途中から自分の身の周りの「不幸」に目が行き、最後は「永遠に君が幸せであれと叫ぶ」と、愛する人への想いへと収束していく。さだまさしは反戦歌をけっこう書いているが、こういうパターンのものが多い。

一言で反戦歌、平和を願う歌といってもさまざまである。

さて、次の歌はどうだろう。



世界でいちばん好きな人

詞曲 KAN

確かなことはわからないけど すごく不安がつのる
明らかなように伝わるあやふやに囲まれて

この国に生まれ 君と出会い この街にふたり暮らす
舞い降りた偶然を受け入れた真実

世界でいちばん好きな人
それはあなただと言い切れる
この想いがまっすぐに伝わるようにと手をつなぐ

日本がずっと平和なまま 続いて行くとは限らない
だから今この普通の日々を大切に生きる

時にぼくらは少しくい違い 意志をぶつけ合う
そんな時はただ雨降るように透明に丁寧に

確かなものは残ってないけど 少し自信が持てる
いつか静かに君の存在に裏付けられて

世界でいちばん好きな人
それはあなたと言ってくれるなら
その想いがいつまでも変わらぬようにと抱きしめる

遠くで起きてる戦争は いつ終わるのかもわからない
せめてぼくらはずっと互いを 許し合い生きよう

ぼくは誰とも争わないし 誰を憎む根拠もない
ただ落ち着きを取り戻すため ちらつくテレビを消そう

世界でいちばん好きな人
それはあなただと言い切れる
この想いがいつまでもずっと変わらすように
今この普通の日々を大切に生きる

KAN世界でいちばん好きな人という2006年の作品。

最初聴いたときは、「ああ、フツーのラブソングか」という印象しかなかった。でも何かがひっかかった。そして何回か聴いてようやく気づいた。

これはただのラブソングではない。実はKANなりの反戦歌なのである

「日本がずっと平和なまま続いて行くとは限らない」
「遠くで起きてる戦争はいつ終わるのかもわからない」


こう彼は歌う。しかし戦争反対とは一言も言わないし、戦争が悲しいとも言わない。ただ、「だから僕らは普通の日々を、許し合いながら生きよう」と結ぶ。

消極的である。「反戦歌」というジャンルに入れていいものかさえ迷う。でも実際のところ、一般の日本人の戦争に対する気持ちなんてこの程度なんじゃないのか。

戦争に対する等身大の思いをKANは正直に歌っている。

申し訳ないながら、僕はなんの平和運動もボランティアもしていない。でも戦争を嫌い平和を望む気持ちは持っている。酒場に行っては時々、世界平和について熱く語り合ったりする。

でも酔って帰り、翌朝起きればすっかり忘れて仕事へと向かう。悲しいけれどもそんなもんだ。

けれども、KANの秀逸なところは、歌詞の以下の部分だ。

ぼくは誰とも争わないし誰を憎む根拠もない
ただ落ち着きを取り戻すためちらつくテレビを消そう


僕はこの言葉に、大げさだがマハトマ・ガンディーの非暴力・不服従主義に似た決意を感じるのである。

戦争のことはわからない、でも世界がどうであれ、僕は誰とも争わないし誰も憎まない。

毅然とした態度を感じる。

また、「ちらつくテレビを消そう」という部分、情報のシャットアウトのようにも見えるが、ここもガンディーと共通している部分である。ガンディーは、新聞を読んで騒がしい世界情勢の情報が入ってくると心が乱れるとして、新聞を読まなかった。

結論。

「KANは、マハトマ・ガンディーに通ずる非暴力主義を貫こうとしている」

Wikipedia程度の知識でこんな仰々しい説を唱えるのはおこがましいにちがいない。

でも最近、この歌が僕の身の丈に妙にフィットしているように感じるのである。

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2009年01月29日

めずらしい人生


KANのベストアルバム。1992年リリースだから、もう17年も前になるのか。僕も年をとるわけだ。

思うにKANは、「愛は勝つ」で売れてしまったのが最大の不運だと思う。当時200万枚も売れてしまったから、当然この曲のイメージがついてしまった。結果として、手放しで「愛は勝つ」なんて言ってしまえるようなノーテンキなやつと思われてしまった。

しかし実際のKANはちがう。

他の曲やテレビラジオ等での発言を聞けばわかるが、この男、相当のヒネクレモノである。かなりのクセモノである。同時にお調子者である。

アルバムの中から一曲紹介。

めずらしい人生

詞・曲 KAN


レレレレドシラシドシラ
この音階に根拠なんかなくて
目的もあやふやで秘密もない

はじめて舞台に立った5才のぼくは
さるかにの猿で
木のぼりの演技で父兄にうける

すばらしい人生 18までのぼくは
何も考えずにだいたいうまくいった

めずらしい人生 今うたをうたってる
あれほど逃げまわっていたピアノを弾きながら

「あのね、うんとね」とうたってたわりに
ぼくは考えすぎてた
この頃から 言葉づかいがかわる

すばらしい人生 ぼくは君と出会った
何を犠牲にしても欲しいと思った
めずらしい人生 ぼくは父を亡くした
愛しい君の誕生日を祝ってた夜に

君のために死ぬつもりはない
君なしでうたう勇気もないうちは
ただのピアノ弾きなのか

こうしてぼくは20代を
悩みすぎて ややこしく生きた
だけど答えなんかはまだでない

すばらしい人生 今うたをうたってる
そして多くの人々が泣き笑う
めずらしい人生 そんな多くの人を
裏切らないとぼくの明日はないのも知っている

すばらしい人生 ぼくは君と出会った
決して徴や結果は求めない
おわりある人生 一番大切なことは
愛する人に愛されてるかどうかということだ




自伝的な歌だが、自分のファンに対して『そんな多くの人を裏切らないとぼくの明日はないのも知っている』と言い捨ててしまうところがすごい。

また彼は、『一番大切なことは愛する人に愛されてるかどうかということだ』と断言する。ラブソングにあるまじき歌詞。だが真実を含んでいる。

結局彼の歌はどうしてもこうなってしまう。どんなラブソングをつくったって、彼の地の性格、ひねくれた部分がにじみ出てしまう。それが彼独特の個性となって聴く側にせまってくる。

彼のつくるメロディも独特である。僕はずっと、洋楽に日本語詞をつけてカバーしているのだと思っていた。それまで日本に存在しないメロディだったのである。ようはビリー・ジョエルスティービー・ワンダーの強い影響を受けている、さらにいえば「パクリ(パロディ?)」なのだが、日本のポップスなんてほとんどすべて洋楽のパクリだからそのへんは突っ込まない。

歌詞のとおり、「多くの人を裏切った」せいか知らないが、KANはやがてヒットチャートから消えていった。でも彼は表舞台にしがみつこうとはしなかったように見えるし、あえて自ら身をひいたようにも見える。

その後の彼と言えば語学留学したり、気が向いたらアルバムを出してみたり、風変わりなライブをしてみたり、かと思えばフランスに移住してみたり、商業主義に振り回されることもなく自由気ままである。悠々自適である。

やりたいことしかやらない、作りたい歌しか作らない。決して自分のペースを崩さない。実際のところどうかわからないが、はたから見ててうらやましく思う。

プロのミュージシャンの中には、KANのコアなファンがけっこう多い。Mr.Childrenの桜井和寿、aikoなど。特に桜井和寿は、昔いっしょにラジオをやっていたせいもあるのか、歌詞・メロディ共にKANの影響がかなり濃い。聴くとわかる。

KANは90年代・00年代の日本ポップスに変革をもたらした影の立役者だと僕は思っている。

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2009年01月07日

金字塔



中村一義というミュージシャンはデビュー当時から名前は聞いていて、興味はあったがずっと聴いていなかった。だが最近、ある事実を知って興味が再燃した。買ってみる気になった。

彼はひきこもりだったらしい。高校を卒業して所属事務所が決まるまで2年間、そこからデビューまでさらに2年間のブランクがある。

その期間、大学進学用に貯めていたお金で機材を買って宅録をしていたらしいので、完全なひきこもりとは言えないのかもしれないが。幼い頃より家庭不和、両親と離れて祖父母の家に暮らし、ひとり部屋にこもってひたすら宅録していたようだ。

そしてようやく世に出たデビューアルバムがこの『金字塔』。その中の『犬と猫』がデビューシングル。

犬と猫
作詞作曲:中村一義


どう?
街を背に僕は行く。今じゃワイワイ出来ないんだ。
奴落とす、もう。さぁ行こう! 探そぜ、奴等・・・ねぇ。
もうだって、狭いもんなぁ。

同情で群れ成して、否で通す(ありゃ、マズイよなぁ)。
難解な、その語意に、奴等宿る。・・・んで、どう?

どう?
僕として僕は行く。僕等、問題ないんだろうな。
奴は言う、こう・・・「あぁ、ていのう」。もう、けっこう!
奴等、住む場所へ行く。全て解決させたいんだ。
僕は僕。もう、最高潮! 落とせ、あんなもんは・・・ねぇ。
インチキばっかのさぁ。

単に、皆、損で、あっさり、振り回されたんで・・・。我欲成したんだ。
歴然に、いざ、吐いて死ぬと、どう? 妙な冗談で撒いて・・・。
笑えやしないんだ。大変、もう・・・。ねぇ、どう?
こんなんで、ええんか?

調教で得た知恵で、世を焼く(僕、マズイかなぁ)。
状況が裂いた部屋に、僕は眠る・・・。みんな、どう?

どう?
のんびりと僕は行く。傷みの雨ん中で。
“痛み”なんて どう? 最近どう? あぁ・・・そう・・・。
皆、嫌う、荒野を行く。ブルースに殺されちゃうんだ。
流行りもねぇ、もう・・・。伝統、ノー。
んで、行こう! ほらボス落とせ!
そう・・・。皆、そう。同じようなもんかねぇ。
犬や猫のようにね。


そして批評家らから「10年に一人の天才」「桑田佳祐を継ぐ日本語詞の使い手」と絶賛されたらしい(以上、Wikipediaを参考)。

僕が聴いた感想を述べると、正直なところこの『金字塔』というアルバム、そこまですごいか?という疑問は感じる。

でもこの『犬と猫』は別格である。何度も聴いてしまう。でも「好きだから聴く」というのとはちょっとちがう。なんだか気味悪いのである。何度聴いても「??」という気持ち悪さが残る。だから何度も聴いてしまう。質の悪い麻薬とでも言おうか。

歌詞からして不気味である。意味がわからない。唯一判明しているのは、『状況が裂いた部屋』という言葉が自分の宅録の部屋を指しているということだけ。彼はほとんどひとりきりでこの曲とアルバムをつくった。

だがものすごい気迫は感じる。いや、殺気、狂気とでも言うべきか。歌詞中の『奴等』『僕等』が誰を指すのかはわからないが、なんだかひとり部屋にこもって、架空の仲間と共に妄想上の敵と戦っているようなイメージを受ける。

この歌詞、例えるなら、捕まった猟奇殺人犯が持っていたノートとかに書いてありそうな文章だ。

「容疑者のノートにはこのようなわけのわからない文章が綴られていました」

それでこの歌詞が出てきたら、僕はきっと妙に納得してしまうだろう。

中村一義は、デビューできなかったら自殺しようと心に決めていたらしい。

それだけ怨念が込められた曲ということか。

posted by にあごのすけ at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月17日

ほのぼの



僕の紹介する音楽ってかたよってるよな。まあ僕には僕の趣味があるのだからしかたがない。

あの頃僕は京都のはずれにいた。アパートを借りてひとり住んでいた。親の仕送りで生きていた。

ようやく入った大学にはなじめなかった。講義や他の学生らになじめず、僕は少しずつひとりになった。大学にもあまり行かなくなった。

気がついたらアパートから外に出ることすら恐怖するようになっていた。週1回、なんとか深夜のコンビニのバイトに行く以外は、アパートに閉じこもって暮らした。ひどいうつ状態だった。

その頃に、すがるように買ったのがこのCDである。CDプレーヤーがなかったので、一番安いやつ、フナイ製のやたらと図体のでかいプレーヤーもいっしょに買ってきた。

警戒水位

詩・曲 さだまさし

故郷の言葉さえもう忘れたふりをして
都会で息ひそめ 私はここで何をしたかったんだろう
知らず知らずのうちに私の心は
既に警戒水位 ギシギシ音をたてて揺れてる

せつなか せつなか
もう一人の自分が呼んでる
せつなか せつなか
故郷の海がみたいよ

無表情を装って傷つかぬふりをして
深夜のストアの中 棚をみつめて何を捜してるんだろう
あなたを待ち続けるのに疲れた訳じゃなく
ふと警戒水位 涙が音をたてて揺れてる

恋しか 恋しか
本当の自分が叫ぶよ
恋しか 恋しか
あなたの笑顔がみたいよ

せつなか せつなか
もう一人の自分が呼んでる
せつなか せつなか
故郷の山がみたいよ


さだまさしの歌は暗いというのが一般のイメージだが。ここまで絶望感を絞り出した歌もめずらしい。

アパートの一室でひとりこの歌を聴いて、僕はどうしたんだろう。激しく泣いたような気もするがおぼえていない。泣く気力もなかったような気もする。

とにかく、共感なんて生ぬるいものじゃない、残酷なほどの鋭さで歌詞の言葉が心に突き刺さってきた記憶がある。

でも、僕にとって「故郷」ってなんだろう。
僕が会いたい「あなた」とは誰だろう。


当時の僕にはそれすらもなかった。

このアルバムは名曲ぞろいである。70年代フォークを支えた大御所ギタリスト・石川鷹彦とほとんどふたりだけで制作したアルバム。アコースティックなサウンドが心地よい。

さだまさしの声質は時期によってかなりちがっていて、この頃(1992年)はかなりガラガラ声である(飲みすぎで喉をつぶしたらしい)。でもこのかすれた声が余計に切なさをかきたてる。

聖域(サンクチュアリ) 〜こすぎじゅんいちに捧ぐ〜

作詩・作曲 : さだまさし

テレビやラジオが毎日告げるのは
悲しい事件ばかり 生命は軽くなるばかり
みんな気付いてる 何かおかしいってこと
なのに明日になれば 忘れたふりをするのかな

それを尋ねたら みんな笑いながら僕に言うんだ
お前ひとり悩んでも無駄なことさ切ないだけだよ

君もそんな風に僕を嘲うのかな
君もそんな風に僕を嘲うのかな

愛は音もなく現れては消える
君と僕とをつなぐ 確かなものは何もない
何が真実か 何を信じるのか
それを考えることは 古くさいことらしい

愛について生命について時の流れについて
父や母や友達や 君のやさしい笑顔について

君はいつまで僕を愛せるだろう
僕はいつまで君を守れるだろう
君はいつまで僕を愛せるだろう
僕はいつまで君を守れるだろう


このまえの秋葉原通り魔事件はやるせなかった。

事件の非道さはもちろんのことだが、容疑者が犯行前に残したネットの書き込みを見てますますやるせなくなった。

(リンク)秋葉原通り魔事件殺人犯の書き込み

これは。
これはまるで、うつでひきこもってた頃の僕と同じではないか。

そう思うと、僕だって追い詰められた挙句に自暴自棄になって、何らかの犯罪に手を染めなかったとも限らないのである。

さだまさしが、テレビやライブでこの事件について触れ、こんなことを言っていた。

「亡くなった方々や遺族の方々の無念さを思うと言葉もありません。
でももし、あの事件を起こした青年が前日にたまたま川のほとりを歩いていて、溺れている子どもを見つけていたとしたら。
彼は手を差し伸べなかっただろうか。
自然と手が伸びて、子どもを助けようとしたんじゃないだろうか。
世の中、善人と悪人がはっきり別れているわけじゃなくて、人間の心はそれだけ揺れやすいものだと思います。誰だって犯罪者になる可能性はある。
だからあの事件は防げたと思う。
もし事件の前日、友達が彼に声をかけていたら。
「おいおまえ、だいじょうぶか?」そう一言ねぎらってくれる人がいたら。
事件は起こらなかったかもしれない。
不幸なことに、彼にはそんな友達もいなかった」


人生は不条理。
人生は不公平。

人間はみなどうしてこんなにも苦しい思いをしなきゃならないんだろう。
そのくせ、人間はどうして他人を傷つけてしまうんだろう。

僕はなんの力もない人間である。
でもインターネットというのは世界中の人々とつながっているらしいから、一言言っておきたい。

いま追い詰められているひとへ。
あなただけじゃないんだよ。


posted by にあごのすけ at 01:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月15日

空想ルンバ



このブログを読んでいただいているのがどんな人たちなのか、そもそもちゃんと読んでくれている人がいるのか、僕は知らない。

しかし読んでいただいている方がいるとするならば、この歌は「ドンピシャリ」なんじゃなかろうか。あまりにもハマりすぎていて取り上げるのをためらっていたのだが、これは紹介するしかないでしょう。

「空想ルンバ」。大槻ケンヂと絶望少女達。アニメ『さよなら絶望先生』続編のテーマ。

空想ルンバ

作詞:大槻ケンヂ 作曲:NARASAKI


ルンバルンバルンバルンバ・・・

徨う姿はさながらルンバ
よろめく姿も目茶苦茶ルンバ
ふらつきながらも生きていルンバ
はたから見りゃダンスに見えルンバ

良ければ一緒に踊りませんか
いえいえ貴方じゃ踊れませんわ
ひとりじゃ虚しい踊ろうよルンバ
おとといきやがれ一人でルンバ

俺の値段を誰が決めた?
虎や豹が僕等の心にも
獣達が潜む事 知らないから奴等
安い値をつけやがって 解き放つぜ  

さあ 逃げ惑えその隙に
踊ろよ僕達はルンバ
微笑み軽やかに君と
その日は来るのか分からなくて

ルンバルンバルンバルンバ・・・

深夜の通販 レクチャールンバ
見るだけ踊れる貴方もルンバ
お高いでしょうねお幾らルンバ
セットで売るならお値引きルンバ

それなら僕などセットでどうじゃ
いえいえ貴方とセットは嫌じゃ
負けたら 人生悔しいルンバ
地団駄踏め踏め人生ルンバ

ルンバルンバルンバルンバ・・・

俺の値段を誰が決めた?
星や花が僕等の心にも
輝いてる事を知らないから奴等
安い値をつけやがって・・・高を括ったな?
牙や爪を研ぐことを知らないから奴等
破格値をつけやがって!食らいつけ!

さあ 逃げ惑えその隙に
踊ろよ 本当のルンバ
微笑み軽やかに君と
その日が来るのを 信じてるわ

人に値段があるのなら
それは誰が決めるのか?
僕もプライス決めようか?
君の価値さえも 決めかねて
分からなくて




大槻ケンヂがどのようにして作詞しているのか知らないが、よくもまあ人間の現代的問題と普遍的問題の両方ともひっくるめて詰め込めたものである。


現代的問題とは、一時流行った「勝ち組」「負け組」という言葉で象徴されるこの風潮。格差社会。

かたやネットカフェ難民となり、日雇いや請負労働者として搾取され、かたや億万長者になって六本木ヒルズでふんぞりかえっている。「がんばれば必ず夢はかなう」なんて言葉が空虚化した、何が勝ち負けを決めているのかすら混沌としているこの社会

普遍的問題とは、結局のところ人は他人との関わりの中でしか生きていけなくて、そのくせ他人を値踏みし、他人に値踏みされながら生きているという事実

仕事仲間を、友達を、無意識のうちにランク付けしている自分。そしておそらく、実は周囲からもランク付けされている自分。

モノを買うにはお金がいるけれど、体験や経験はプライスレス、どこかのカード会社のCM、でもとんでもない、現金ではないけれど僕たちは体験や経験にすら無意識に価値のランクをつけてしまっている。

無償の愛は? ・・・・・・いやいやそれすらも、やたらと値段が吊り上げられた「かけひき」にすぎない。

無償の愛が本当にあるとすればそれは・・・・・・人間どころか万物すべてに平等に向けられた、慈しむ心か?

自分でもわからなくなってきた。何も言えなくなってきた。第一何も言う資格がない。

ただ言えることは、この歌詞の言葉を借りるならばコレしかない。

とにかく逃げ惑え!!

僕らを傷つけるすべてのものから逃げ惑え!!

逃げることは弱いことではない。人間誰だって逃げているのだ。

オリンピックで金メダルをとったあの選手だって結局、「金メダルをとれない自分」が怖くてそこから逃げのびてきた結果にすぎないのだ。

僕の格言がひとつ増えた。

すべての人間は、ただただ逃げているにすぎない。

だがしかし、

逃げ切れない相手とは戦うしかない。

これもまた事実なのだ。

posted by にあごのすけ at 01:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月02日

暴れだす



トータス松本はじめとするウルフルズの曲。アルバム『9』に収録。

暴れだす

詞曲 トータス松本


あぁ 神様オレは 何様ですか
どうしていつもまちがえるのか
悩みはたえず オトナになれず
眠れぬ夜を 今夜もまた
笑ってごまかす 声もむなしく
飛び出すことも できないままに

あぁ 胸が
暴れだす 暴れだす
誰かそばにいて

あぁ あのコはなぜ 笑っているのか
あきれるほどの オレのダメさに
イヤな顔もせず 知らん顔もせず
少ない言葉で はげましてくれる
「泣いたりしたら 苦しくなるよ」
わかっているけど 止まらないのさ

あぁ 胸が
暴れだす 暴れだす
どうかそばにいて

もしも あの時 もっと心に余裕があればなぁ
今まで こんなに人を悲しませずにすんだなぁ
人のために出来ることはあっても
人のために生きることができない

あぁ 神様オレは これでいいですか
本当に何も わからないままで
オトナになって やることやって
ケガの数だけ 小さくなって

あぁ 胸が
暴れだす 暴れだす
誰かそばにいて

あぁ 胸が
暴れだす 暴れだす
どうかそばにいて

あぁ 胸が
暴れだす


いきなり歌詞の引用からはじまったが、僕はウルフルズのウンチクを語れるほどくわしくないのだった。

だがこの詩はもうダメである。歌詞を見ただけで泣けてくるのである(最近どうも情緒不安定である)。最初に、たしかラーメン屋かどこかで飯を食っている最中に有線からこれが流れてきて、僕は箸をとめてただただ言葉を失った。

結局人間孤独なのである。ひとりなのである。

「あぁ神様」

僕は無宗派だけれども信仰心はあるほうだ。子どもの頃はよくこうやって神様に語りかけていたような気がするが、いつのまにかやめてしまった。

もしも あの時 もっと心に余裕があればなぁ
今まで こんなに人を悲しませずにすんだなぁ
人のために出来ることはあっても
人のために生きることができない


僕はいまだに心に余裕がない。僕から「どうかそばにいて」とすがった人々を、最終的には悲しませることになる。それも徹底的に裏切ってしまうことになる。ずっとそうだ。

人間はひとりきりであり、だから誰かそばにいてほしいのであり、けれどもその誰かを傷つけてしまう。人間は、というか僕は罪深い人間である。

子どもの頃は、大人になることが目標だった。

いまはできないことも、悔しいことも、無力なところも、大人になればすべて解決すると思っていた。

けれども大人になった僕はいまだに不完全であり、無力である。

過去は思い出となり、夢はあるけれども、時々階段の影をのぼっているだけで実は地面を這いずり回っているだけのような気分になる。

それでも人生は続く。
そして僕は、もっともっとたくさんの人々をきっと傷つけていく。

posted by にあごのすけ at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月01日

深海



ミスチルことMr.Childrenの5枚目のアルバム。

だがそれまで出していたアルバムとはまったく別の空気と方向性をもつものとなった。

美しいラブソングを歌うさわやかでポップなユニット。これがそれまでのミスチルのイメージだった。ところがこのアルバムから急に、メロディも歌詞もへヴィになり、ドロリとしてくるのである。

僕が本格的にミスチルを聴き出したきっかけは、次の曲をテレビで見たからだった。

マシンガンをぶっ放せ

詞曲:桜井和寿


あのニュースキャスターが人類を代弁して喋る
「また核実験をするなんて一体どういうつもり?」
愛にしゃぶりついたんさい
愛にすがりついたんさい

やがて来る”死の存在”に目を背け過ごすけど
残念ですが僕が生きている事に意味はない
愛せよ目の前の不条理を
憎めよ都合のいい道徳を
そして僕に才能をくれ

見えない敵にマシンガンをぶっ放せ Sister and Brother
正義も悪もないこの時代を行進していく兵士です
殺人鬼も聖者も凡人も共存してくしかないんですね
触らなくたって神は祟っちゃう
救いの唄は聞こえちゃこないさ

参考書を持って挑んだんじゃ一生謎は解けぬ
良識を重んじてる善人がもはや罪だよ
愛せよ目の前の疫病を
憎めよ無能なる組織を
そして僕にコンドームをくれ

僕は昇りまた落ちてゆく 愛に似た金を握って
どうせ逆らえぬ人を殴った 天使の様な素振りで
毒蜘蛛も犬も乳飲み子も共存すべきだよと言って
偽らざる人がいるはずないじゃん
この現実に目を向けなさい

愛せよ単調な生活を
鏡に映っている人物を
憎めよ生まれてきた悲劇を
飼い慣らされちまった本能を
そして事の真相をえぐれ

見えない敵にマシンガンをぶっ放せ Sister and Brother
天に唾を吐きかけるような行き場のない怒りです
宗教も化学もUFOも信じれるから悲惨で
絡まりあって本心偽って
めくるめくの every day
僕は昇りまた落ちてゆく
何だってまかり通る世界へ




まず一番に驚いたのは「僕にコンドームをくれ」という歌詞。コンドームが出てくる歌ということで単純に驚いたのである。

あとは、
「残念ですが僕が生きている事に意味はない」
まあ、このブログのテーマと同じことを歌っている点。それまでのさわやかなミスチルでは考えられない歌詞だった。

「良識を重んじてる善人がもはや罪だよ」
そう、僕(ら)はいったいどれだけ「良識ある善人」に苦しめられていることか。

家にひきこもっていたときもそう、うつ病になったときもそう、僕を苦しめるのは常に「良識ある善人」どもだった。

さらに
「宗教も化学もUFOも信じれるから悲惨で」

まさにそのとおり。信じられるマガイモノがこの世には多い。そして人は何かにすがりたくて、何かを信じることで逃げ込もうとする。

かくして、この曲は当時の僕のフィーリングにドンピシャリだったのであり、僕はミスチルを聴くようになったのだった。

中には当時のシングル曲も含まれており、すべての曲がそうというわけではないのだが、このアルバムには「不条理」「死」のにおいが満ち満ちている。

こんなアルバムつくってしまったら、これからフツーのラブソングが歌えなくなるんじゃないか?

僕は人ごとながら心配したが、そのとおりになった。

このあともいくつものアルバムを出し、ラブソングも人生の応援歌もつくっているのだが、以前とは少しちがうのである。どこかひねくれている。ひんまがっているのである。それを言っちゃおしまいよ、というようなセリフが、フツーの歌詞の中にまぎれるようにして出てきたりする。

普通なら「愛している」の一言で終わってしまうところが、その言葉の背後にあるしがらみ、疑い、偽善、計算、そんなものまですべてひろいあげて詩につめこもうとしているように見える。

ミスチルのこのひねくれ具合が僕は好きなのである。
posted by にあごのすけ at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月29日

Blue Selection



井上陽水のセルフカバーアルバム。自分の曲をジャズアレンジしたもの。

音楽のジャンルとして『メッセージソング』というものがあるが、それは純粋な意味では芸術ではないと思う。

別にすべての音楽が芸術的である必要はない。だが「言葉にできない何か」を表現するのが芸術なのかもしれない。

井上揚水はその点、芸術家だ。「つまりこういう歌なんだよ」と言葉で要約できてしまう歌は芸術ではない。芸術的な歌は「説明できん! とにかく聞いてもらうしかない」。彼の歌は芸術的である。

昔の友人が詩を書いていて、よくこんなことを言っていた。

「人生に意味はないかもしれない。しかし詩は意味を創造するのだ」

何わけのわからんことを言っているのだ。昔はそう思ったが、いまはなんとなく理解できる。

芸術は、哲学とか理屈とはまったくちがうシステムで動いている。

「生きるべきか死ぬべきか!」

そんな僕のガチガチな問いかけに対して、芸術はYESでもNOでもなく、まったく別の方向へと僕をいざなってくれる。

と言いつつ、今回紹介するアルバムは、まだメッセージ性のある曲が多いほうだ。恒例で1曲ご紹介。

ワカンナイ

作詞・作曲 井上陽水


雨にも風にも負けないでね
暑さや寒さに勝ちつづけて
一日、すこしのパンとミルクだけで
カヤブキ屋根まで届く
電波を受けながら暮らせるかい?

南に貧しい子供が居る
東に病気の大人が泣く
今すぐそこまで行って夢を与え
未来の事ならなにも
心配するなと言えそうかい?

君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ

日照りの都会を哀れんでも
流れる涙でうるおしても
誰にもほめられもせず、苦にもされず
まわりの人からいつも
デクノボウと呼ばれても笑えるかい?

君の言葉は誰にもワカンナイ
慎み深い願いもワカンナイ
明日の答えがわかればつまんない
君の時代のことまでワカンナイ

君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ


ごらんのとおり、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のパロディである。昔、哲学者の竹田青嗣がこの曲を絶賛していた。

それはおいておいて、たとえばこの曲の次の歌詞、

「カヤブキ屋根まで届く電波を受けながら暮らせるかい?」

こういうところに僕は井上陽水の芸術性を感じるのである。

一見何を言っているのかわからない言葉。支離滅裂。でも雰囲気は非常に伝わってくる。井上陽水のにおいがプンプンする。こういうのを僕は芸術性と言っているのである。

別の歌で『Tokyo』という歌があり、こんな歌詞ではじまる。

「銀座へ はとバスが走る」

この曲を作った理由として、井上陽水はテレビでこう言っていた。

自分の声と口は「ギ」の音が響く、だから「ギ」で始まる歌を作りたかったのだ、と。

メッセージも思想も哲学もそっちのけ、まずは「音」ありき。

まさに芸術的、井上陽水的だなあと思うのである。
posted by にあごのすけ at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月28日

最後の聖戦



いまは活動再開した筋肉少女帯の、活動休止直前のアルバム。

タイトル『最後の聖戦』からして、制作段階ですでに活動休止が決まっていたのだろうか。

以前にも書いたが、大槻ケンヂの作った歌というのは泣けるのである。まるでコミックソングのようであっても泣けるのである。

この感覚、わかってくれる人がどれだけいるか、不安ではあるのだが。

特に泣けるのはこの曲。以下引用↓。

トキハナツ
作詞:大槻ケンヂ
作曲:本城聡章&King-Show


OK!『孤独ですか』
OK!『くやしいですか』
OK!『ありでしょうそれも』
OK!『人生はね』
OK!『バスカービル家の犬だ』
OK!『恐ろしいのが』
OK!『あたりまえなんですよ』
OK!『OKとしましょう』
OK!『犬になれ!』
OK! OK! OK!

犬を飼っています ヨロヨロの犬です
名前は「憂鬱」で 死だけを見つめ

OK! OK! OK! OK!

怒りとか孤独を いやしく喰らっては
闇の夜にお散歩 やっかいものだなー

だがな犬よ お前がいるから僕は生きてく
さあ ガブリとやってくれよ
アイ・アム・ア・トップ・オブ・ブリーダー
トキハナツ この獣
OK! OK! OK! OK!

何度も捨てようと 自転車にのせたが
さみしげな遠ぼえ はたせなかった

だがな犬よ お前がいるから僕も死なない
さあ ガブリとやってくれよ
アイ・アム・ア・トップ・オブ・ブリーダー
トキハナツ この獣

だがなOK! お前は僕の最愛の友さ
「憂鬱」よ お前がいるから負けはしない
さあ 噛みつきに行こうぜ
アイ・アム・ア・トップ・オブ・ブリーダー
トキハナツ トキハナテ
OK! OK! OK! OK!

OK!『孤独ですか』
OK!『くやしいですか』
OK!『ありでしょうそれも』
OK!『人生はね』
OK!『バスカービル家の犬だ』
OK!『恐ろしいのが』
OK!『あたりまえなんですよ』
OK!『OKとしましょう』
OK!『犬になれ!』


この曲はHyperJOYのカラオケにも入っていて、歌ってはみるのだが、なんだか途中涙声になってしまうのである(やっぱり僕はおかしいのだろうか)。

歌詞を読むとわかるが、ここでいう「犬」とは「憂鬱」の象徴だ。ウツであれうつ病であれ。

元ネタは、第二次大戦中のイギリス首相・チャーチルの言葉だろう。

チャーチルはうつ病(一説では躁うつ病)で、自分のウツを「黒い犬」と呼んでいた。

そう言いたい気分は僕にもわかる。僕自身は「寄生虫」と呼んでいるが。

ウツの気分は、「ハッピーな気分」と「つらい気分」のどちらでもない。表向きは元気に見えても、心の底で黒い犬がうなり声をあげているときもある。逆につらいときでも、黒い犬さえ現れなければ案外気楽だったりする。

ウツは第3の感情。表向きの感情とは関係なく暴れ出したりするからタチが悪い。

ちなみに補足しておくと、歌詞中の「バスカービル家の犬」とは、シャーロックホームズの小説に登場する魔の犬のことだ。

このアルバムは他にも名曲ぞろいである。

『221B戦記』もいいねえ。水木一郎・神谷明・宮村優子という豪華キャストとのデュエット&セリフ入り。


『タチムカウ』もいい。これも泣ける曲。

とにかく「ウツ」な人は癒されること間違いなしである。
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2008年09月25日

放熱への証



高校の頃、尾崎豊がきらいだった。

「盗んだバイクで走り出す」「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」。正義漢だった僕はそんな歌詞を断片的に聴いて「なんというふとどきな奴だ!」とひとり憤慨していた。

でも曲をフルで聴いて認識が変わった。

前者の『15の夜』には「自由になれた気がした15の夜」という歌詞が続くし、後者の『卒業』はラストで「仕組まれた自由に誰も気づかずにあがいた日々も終わる」という歌詞が出てくる。

つまり尾崎豊は、そうした反抗がいかに無意味であるか充分に認識していた。そして表面上の反抗のその向こうを見据えていたのである。

彼の作品を、無理やり前期・中期・後期に分けるとするならば、前期は「学校」という場を通して人生を語り、中期では「社会」を通して人生を語っている。

そして後期ではどうなるかというと、むき出しの「人生」そのものに目が向いてくる。

つまり「人生とはなんぞや!?」

禅問答めいてくるのである。

尾崎が新しいアルバムを作っているらしい。そんなうわさが流れてきたまさにその直後、彼の訃報がニュースから流れた。

享年26才。ずっと年上だと思っていたのに、気がつけば彼の年齢をとっくに過ぎてしまった。

死の1ヵ月後に発売された、彼の新しい、そして最後のアルバムを聴いた。

呆然とした。

これはまるで遺書ではないか。

を連想させる歌があまりにも多いのである。

あるいは彼の死は自殺だったんじゃないか。いや、そうでなくとも、自らの死を予感していたんじゃないか。いろいろな想像がわいてくるが、いまとなっては確かめようもない。

そのアルバムの中から1曲引用したい。

闇の告白

作詞作曲:尾崎豊


何ひとつ語れずに うずくまる人々の
命が今日またひとつ 街に奪われた
憎しみの中の愛に 育まれながら
目覚めると やがて人は大人と呼ばれる
微笑みも 戸惑いも意味を失くしてゆく
心の中の言葉など 光さえ奪われる
ただ一人 握りしめた引き金を引く
明日へと 全てを撃ち抜く
ただ一人 答えを撃ち抜く

何ひとつ理由も知らず 悲しむ心への
その哀れみは たやすく消し去られてゆく
暖かなぬくもりに 手を伸ばしてみても
誰一人 心の中知る者などない
ごらんこの涙が滴るのを その意味と訳を
人が一人で 生きられぬための悲しみなのに
疲れの中弾丸をこめ 引きがねを弾く
誰に向け 今日を撃ち抜く
ただ一人 答えを撃ち抜く

血にまみれて 汚れてしまう心
償う術もなく生きる
この世に生をうけた時から 人は誰もが
罪を背負い何時しか やがて銃の引きがねを弾く
いつの日か 自分を撃ち抜く
ただ一人 答えを撃ち抜く
明日へと 全てを撃ち抜く
ただ一人 答えを撃ち抜く


尾崎の死の直後、テレビでコメンテーターのおばちゃんが(彼女の息子が言ったことの引用として)こんなことを言っていたのを思い出す。

「尾崎豊をずっと聴いているような人間はいつまでたっても大人になれない」

これは批判として発言された言葉だが、ある意味的を得ている。

「生きる意味」「人生の答え」、そんな問題を捨て去って、会社のルール、社会のルール、家族のルール、道徳、そんなものたちを盲信することによって人は初めて「大人」として機能しうる。

憎しみの中の愛に 育まれながら
目覚めると やがて人は大人と呼ばれる


親の愛は、見方を変えれば憎しみの裏返しである。

自分がピアノを弾けなかったから子どもをピアノ教室に通わせよう。
学校で苦労しないように塾に通わせよう。
将来食っていけるように良い大学に行かせよう。

自分が世の中に対して感じている恨みつらみを、ひっくりかえして子どもにぶつけているにすぎない。

この世に生をうけた時から 人は誰もが
罪を背負い何時しか やがて銃の引きがねを弾く


こうして人間は生まれた瞬間からゆがめられていく。親の影響、社会の影響、教育、そんなものをたたきこまれているうち、気がつくと人はもはや色眼鏡を通してでしか世の中を見れなくなっていく。

それを尾崎豊は「罪」だと断言する。

なぜか。僕が思うに、なんらかの観念を身につけてしまった人間は、同時に、何が良くて何が悪いかを判断する能力を身につけたことになる。

その身につけた観念がゆがんでいる以上、自分の価値観に適わない他人は「ダメだ」と思いこむ。人は必ず誰かを傷つけざるをえない。そういう宿命を背負っている。

歌詞の中に良く出てくるフレーズ、「答えを撃ち抜く」、これはいったいどういう意味なのか。

文字通り、死ぬしかない、という意味なのか。あるいは「人生の答えを問う」という行為そのものを押し殺して屍のように生きるしかないと言っているのか。僕はいまだに考えている。

尾崎豊の商業的なピークはおそらく10代すでに終わっていただろうと思う。

30代、40代になった尾崎はきっと表舞台からは姿を消し、一部のマニアに受けるだけのB級ミュージシャンになっていたかもしれない。

それでも僕は、自分より年上の尾崎豊を見続けたかった。そして彼がいったいどんな答えを出すのかを見たかった。

それが残念でならない。
posted by にあごのすけ at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月15日

I STAND HERE FOR YOU



大槻ケンヂのソロアルバム。半分カバーで半分オリジナル。

彼自らの解説本『大槻ケンヂ20年間わりと全作品』にも書いてあったが、この頃の大槻ケンヂは精神科にも通っていて、相当ウツな状態だったらしい。

その空気がもうモクモクと立ち込めてきて僕を煙に巻き、1曲目からしてもうダメである。泣けてくるのである。はたから見たら『こんなコミックソングまがいのアルバムでどうして!?』と怪訝に思われるかも知れないけれども、どうしようもないのである。

暗い歌ばかりではない、明るい曲もあるのだが、これまた「ウツ」の人特有の明るさなのである(そういうものがあるのである)。これまた僕の琴線に触れるのである。

最初にこれを聞いた人は、まるで自己啓発か何かの怪しげなCDと思うだろう。

要所要所に朗読が入っている。それも「明在系」「暗在系」だの、「死後の世界」だの、「クォーク」だの、ニューエイジサイエンスっぽい講釈なのである(その一部は、なんと菅野美穂が朗読している)。

朗読の中にはさらに「生きていこう」という言葉がそれこそ何十回と出てくる。連呼。普通ならビビッて途中でCDを止めてしまいかねない。しかし何度も言うが僕の琴線に触れるのである。

大槻ケンヂはどうやらこのCDで、人生には生きていく価値があるんだというメッセージを伝え、苦悩している人々を救いたかったようだ。

アルバムのタイトル『I STAND HERE FOR YOU』は「オレはおまえらの味方だぜ!」という、大槻ケンヂからリスナーへのメッセージなのである。

「ウツの人間に救ってもらいたかないわっ!」と言いたいところだが、気持ちは非常によくわかる。

自分がウツの時、なぜか、同じ(と思われる)苦しみを抱えている別の人に目が言ってしまう。そして自分じゃなくてそっちの人を救いたくなってくることがある。

理由は自分でもよくわからない。

ひとつには、世界が絶望に満ち満ちているように思えてくる、そして自分が「ウツ」なのは、自分にそれを見る力があるからだ、という風に錯覚する場合がある。ならば同じ「ウツ」の人間は、共通の敵と対峙している同志に思えてくる。

あるいは、自分の苦しみを何かに役立てることによって、「自分は無駄に苦しんでるんじゃない」と思いたいのか。他人を救うことによって自分の救い方を模索したいのか。

とにかく「ウツ」な大槻ケンヂと「ウツ」な自分との不思議な共鳴を体感できるアルバムである。
posted by にあごのすけ at 16:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月14日

shade〜saw the light and shade〜



ヴィジュアル系? ロック? メタル? ジャンルはよくわからないが、元『黒夢』の清春が出したカバーアルバム。

なぜこれを聴いたかというと、さだまさしの『防人の詩』がカバーされていたからである。

もっとも、別に僕は特にフォーク好きというわけではないのである(フォークの話ばかり書くのでおっさんかと思われてるかもしれんが、僕はフォーク世代よりずっと若い)。

曲は、歌詞、メロディ、アレンジなどに分解できると思うが、僕はなぜかまっさきに歌詞に注目してしまうのである。だから歌詞にピンとくるものであればどんなジャンルの音楽でも聴く。

清春が『防人の詩』をカバーしたと聞いても、実はあまり期待していなかった。

当然ながら、カバーよりもやっぱり原曲のほうが良い場合が多い。また、これは特に古い歌に多いが、カバーするとなんだか現代風にいろんなわけのわからない凝ったアレンジが施されて、原曲の素朴さはふっとび、台無しになってしまうことが多いのである。

だが清春の『防人の詩』はちがった。

【youtubeの動画↓】
http://jp.youtube.com/watch?v=IbIZRPtoAW0

まず、アレンジがシンプルでよい。なおかつ、原曲にはないドロリとした病的なムードが加わっていて、いい味を出している。

清春とさだまさしは歌い方は異なるが、なんというか、切迫してキレそうな高音で歌うあたり、相通ずるものを感じる。心にグサグサと突き刺さってくるのである。

さて、この『防人の詩』だが、さだまさしが元にした短歌がある。

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ

wikipeddeiaによれば訳するとこういう意味になる。

「海は死にますか 山は死にますか。死にます。死ぬからこそ潮は引き、山は枯れるのです」

万葉集の中の歌である。いまから1200年以上も前である。そのことに僕は驚く。

自分もいつかは死に、地球も宇宙もいつかすべて消えてしまうなら、生きることは無意味ではないのか?

これは僕がこのブログの中で何度も書いてきたことだ。でも1200年前にすでに似たようなことを考えていた人がいたのか。

少し孤独感が癒される気がする一方、この問題は人間にとっての普遍的な宿命であり、永遠に逃れることのできない苦しみなのかもしれないと思うと、途方もない気分になる。
posted by にあごのすけ at 04:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月04日

友川かずき初期傑作集



太宰治寺山修司。そしてこの友川かずき。いつも不思議に思うのだが、東北人が作る作品には共通の暗さがある。

僕は自分の造語で、よく「心の基礎体温」という言葉を使うのだが、それが総じて低いような気がする。単なる「マイナス思考」「暗い」といった言葉で表現できない、得体の知れない悲しみとおどろおどろしさが作品の中に混じっている。

先日病院で、「あなたは『基底感情』が低い」と言われた。僕の言う「心の基礎体温」と同じようなものか。ニュートラルな状態でも感情の針がマイナスのほうにズレているということらしい。

ちなみに僕も緯度40度あたりで生まれているので、いうなれば「東北人」である。出生地の緯度と性格に関連性がある? だんだん疑似科学めいてきたのでこのへんでやめておこう。

友川かずきの話にもどるが、一度だけ彼のミニライブを見たことがある。

ミニシアターで『17歳の風景』というこれまたひどくマニアックな映画の舞台あいさつにひとりで出ていた。友川かずきがテーマ曲をてがけていた。

いつまでたっても抜けない東北訛りで、なぜこの映画の音楽を担当するハメになったのか、ボソボソと言い訳めいたことを話したあと、「酒を飲まないで歌うことはあんまりないんですけど」と、彼は椅子にすわってギターを持った。

歌い始めた瞬間、空気が変わった。空気が凍りついた。

鬼気迫る、という言葉は彼のためにあると思った。東北弁でまるで魂をしぼり出すように叫ぶ。明らかに殺意を感じる言葉が刃物みたいにビュンビュン飛んでで来る。

弦が切れそうなほどギターをかき鳴らす。すわっている椅子がガタガタと動き(ギターのリズムにあわせて、椅子がガタ、ガタ、と左に移動していくのだ)、椅子が壊れるんじゃないか、椅子ごとひっくりかえるんじゃないかと気が気でなかった。



※上記動画の曲は今回紹介したアルバムには含まれておりません。

この動画、ドラムとかピアノとかのバックバンドといっしょにやっているのだが、友川かずきがバックバンドの存在をまったく無視しているところがおもしろい。

ドラムを無視して自分のリズムで叫び歌い、ドラムのほうが友川かずきに合わせないといけない始末。

これぞ友川かずき。
posted by にあごのすけ at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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