2009年05月04日

GOTTA!忌野清志郎



1989年出版? 忌野清志郎の、出生から80年代末までをたどった、インタビューに基づくドキュメンタリー。Amazonを見るとユーズドが数冊出回っているだけで、いまは絶版のようだ。

僕とこの本との出会いは本当に偶然で、10年以上前、普通電車で日本全国をまわる旅をしていたとき、たまたま寄った東京神保町の古本屋で見つけた。ひまつぶしにと軽い気持ちで買ったのである。

だが内容はかなり赤裸々である。

自分や養子だったこと、RC結成のいきさつ、デビューから売れるまでの苦しみや葛藤、バンド仲間の死、奥さんとの出会いまで、かなりあけっぴろげに語っている。

テレビで見る、ライブを離れてインタビューに答えているときの清志郎は無口で照れ屋で人見知りが激しそうなイメージである。そんな彼から、よくもここまで話を引き出せたと思う。

他の文献をあたったわけではないが、おそらくはここまで具体的に彼のナマの姿がわかる本はないのではなかろうか。

嘘くさいサクセスストーリーにはなってない。自分の過去の体験に対して、その場その場で感じたことを淡々と語っている。彼の発言からは、反骨精神は感じられるが、必要以上にカッコつけたりしない。ひょうひょうとしている。

これは彼の楽曲からも感じることだが、彼は自分の感じたことや体験を物語化しない。インプットに意図的なフィルターをかけずに、すなおにそのままアウトプットとして出している感じだ。

自分を物語にはめ込まないから、その時々によって歌う内容の方向性もメッセージもちがう。

「忌野清志郎は常に新しいことに挑戦し続けた」

そうコメントしていたテレビ番組があったが、それはちょっとちがうと思う。ただ「今」の自分の感情や気持ちをすなおに吐き出していただけだ。

だから過去の自分とつじつまを合わせるようなこともしないし、言い訳もしない。それがハタから見れば「常に過去の自分を破壊し挑戦し続ける」ように映ったのかもしれないが、彼自身はそんなことまったく考えていなかったのではと思う。

先日の記事で『世間知らず』という曲を紹介したが、以上を踏まえると別の解釈もできる。

世間知らず

詞曲 忌野清志郎


苦労なんか知らない 恐いものもない
あんまり大事なものもない そんなぼくなのさ

世間知らずと笑われ 君は若いよとあしらわれ
だけど今も夢を見てる そんなぼくなのさ

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

世間知らずと笑われ 礼儀知らずとつまはじき
今さら外には出たくない 誰かが迎えにきても

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

苦労なんか知らない 恐いものもない
世間知らず何も知らず 夢をまだ見てる
そんなぼくなのさ そんなぼくなのさ


これはひきこもり体験を歌った曲なんじゃなく、彼の創作のスタンスを歌ったものなんじゃないか。

世の中のことなんかよくしらないし、何を言われても気にしない。ただ僕は「ぼく」の中にひきこもって夢をみている。ずっと「ぼく」の立場から歌を歌っている。

そんな彼の思いが聞こえてきそうだ。たしかに、創作者というものは常に孤独である

彼は実際は音楽シーンを走り続けていたし、家族や仲間にも恵まれていた。だが人間は根源的にはひとりきりであり、どこまで行っても「孤独」な存在である。彼はそれをよくわかっていた。そんな気がしてならない。

【おまけ】

ほんとに個人的な追記です(汗)。

僕はさだまさし好きでもあるのだが。今回紹介した本の中で、忌野清志郎がさだまさしについて言及している箇所がある。

「さだまさしはすごい才能がある。あんな歌オレにはつくれない。そもそもつくろうとも思わないけど」

正確ではないが、たしかそんなことを語っていた。僕が聴いている音楽というのはとにかくジャンルがバラバラなのだが、実はどっかでつながっている。そう思って妙に納得した次第。
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2009年05月03日

忌野清志郎逝く



忌野清志郎が死んだ。

昨夜それをテレビのニュースで知ったとき、僕は酒場で酔っ払っていた。酔ったいきおいで店のギターを手にとり、追悼のつもりでRCサクセションの歌を何曲か唄って帰った。

しかし今朝目が醒めて、あらためてニュースを見たりYoutubeを見たりしても、どうしても実感がわいてこないのである。簡単な言葉で言うと、信じられない。

尾崎豊が死んだときもショックだったが、彼はいかにも死にそうな、死と隣りあわせで歌っているようなオーラを出していたし、ショックをうけながらも「やっぱりな・・・」と受け入れられる部分はあった。

だが忌野清志郎となると僕はそうはいかない。すんなり事実として受け入れられない。ガンとの闘病、そして再発は知っていたが、それでもさすがに彼は死なないだろう。そんな気にさせるミュージシャンだった。

このブログではいろいろなミュージシャンを取り上げている。尾崎豊、さだまさし、ミスチル、大槻ケンヂ、などなど。

ジャンルが一見バラバラだが、僕の中では共通項がある。それは「人生とはなんだ!?」を深く考えて歌にしているところだ。僕は基本的に、「音」よりも「言葉」で聴く音楽を選んでいるふしがある。

しかしRCサクセション、そして忌野清志郎に関してはちがう。僕にしてはめずらしく「音」に惚れ込んで聴き始めたミュージシャンだ。

僕はRCサクセションの世代とは微妙にズレているが、年上の友達にすすめられて聴き始めた。そして目からウロコが落ちた。

当時(いまもだが)僕は作詞作曲をやっていた。ギターはへたくそ、音楽理論も何も知らなかった僕は、『やさしい作曲のABC』なる本を買ってきた。そこにこんな趣旨のことが書いてあったのである。

『C調の曲では、C、Dm、Em、F、G、Am、Bdim以外のコードは使ってはいけない!』

クラシックやフォークではたしかにそうなのかもしれないが、僕はこれを真に受けてしまった。そして苦しんだ。僕の心に浮かぶメロディーに合うコードが見つからないのである。

だからRCサクセションを最初に聴いたときは「これこれ、探していたのはこれだ!」という喜びがあった。変な話だが、RCを聴いて初めてビートルズの良さもわかった。

音楽理論なんて気にしなくていいのだ。無視していいのだ。もちろん彼らの音楽も、別の音楽理論にあてはめることは可能だが、そんなことはおいといてとにかく気持ちのいいコードを自分で見つけて歌えばいいのだ。

RCのおかげで、そんなあたりまえのことがようやくわかったのである。

忌野清志郎の歌詞に対しても驚きはあった。とまどいというべきか。

悪く言うと、全然詩的じゃない。でもストレートである。感じたことを心の中であまり加工せず、感情をすなおに、時には皮肉って歌う。

紹介しているソロアルバム『メンフィス』は、ちょうど僕が鬱でひきこもっていたときに聴いていて、その中の「世間知らず」という曲が自分にマッチした。

http://www.youtube.com/watch?v=uGW4eU-A4ao

世間知らず

詞曲 忌野清志郎

苦労なんか知らない 恐いものもない
あんまり大事なものもない そんなぼくなのさ

世間知らずと笑われ 君は若いよとあしらわれ
だけど今も夢を見てる そんなぼくなのさ

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

世間知らずと笑われ 礼儀知らずとつまはじき
今さら外には出たくない 誰かが迎えにきても

部屋の中で 今はもう慣れた
一人きりで ボンヤリ外をながめてるだけ

苦労なんか知らない 恐いものもない
世間知らず何も知らず 夢をまだ見てる
そんなぼくなのさ そんなぼくなのさ


1992年の曲だから、まだ「ひきこもり」という言葉がない時代である。彼はひきこもりの経験があるのか、RCのファーストアルバム『初期のRCサクセション』の中にもこんな曲がある。

寝床の中で

詞曲 忌野清志郎

腹が減っても金も無い
あの娘にふられても涙も出ない
情けない情けない

たずねてくれる人もない
出かけていくにも服がない
情けない情けない
何も何もしないで寝床の中で

やりたい事はあるけれど
どうにも出来ずにくちびるかむだけ

しけもくさがして空しくふかす
心はまるで老いぼれサ
心はまるで老いぼれサ

情けない情けない情けない情けない
何も何も出来ずに寝床の中で


彼の歌にはなんの示唆もない。根拠も方向性も示さない。何も答えない。でもそれがいいのだ。

何も言わずに微笑んでとなりに腰かけてくれる友人のような。ひきこもっていた僕にとって、このふたつの曲はそんな存在だった。救われた。

天国や地獄があるのかどうか知らんし、だから「冥福を祈る」なんて言葉も使いたくない。

ただ「ありがとう」と伝えたい。
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2009年04月12日

精神科医にすすめられた本「言葉と沈黙」



「あなたの症状は複雑である」

ここ最近、かかりつけの精神科医からよく言われる言葉である。どう複雑なのかは僕にはわからないが、こうも言われた。

「あなたは自己内省しすぎである」

精神を病んでいる人間は普通、自己内省をするものなのかどうなのか。健全な自己内省とはいかなるものか。そのへんの標準が僕にはわからないからなんとも言えない。

しかし自己内省につまずいている人がいるから、そのサポートとしてカウンセリングという療法も存在するのだろう。

自己内省は自分のイメージをより明確にさせるためには必要だが、それをやりすぎると見てはいけない自分の真の姿まで見てしまう、ドツボにはまる。そういうことなのだろうか。実際、僕の通院している病院にもカウンセラーはいるが、カウンセリングをすすめられたことはない。

最近、医者に言われたことで強く心に残った言葉があった。

彼は遠い目をして、独り言でも言うようにこう話し出した。

「私が医者になりたての頃だからもう30年も前・・・・・・。インターンとして大学病院に勤務していたときに、あなたのような患者はたくさんいたような気がしますねえ・・・・・・」

彼の言葉の意味がすぐには理解できなかった。つまりは僕は、古いタイプの患者ということか。

高校時代、担任にこう言われたことを思い出す。

「君と私とは年齢こそちがうが・・・・・・実は同じ世代の人間なんだよ」

いまでも飲み屋に行くと時々言われる。60歳前後の男性に、話ほとんどしないうちから、

「君のようなタイプの人間はいまどき珍しいなあ。僕が若い頃にはたくさんいたけれど・・・・・・なつかしいなあ」

どのへんが「古い」のかはよくわからない。おそらくは哲学的に悩んでいるところが昔の学生運動の頃の若者と共通しているのだろう(もっとも、「哲学的に悩む」なんてことは実際には不可能に近いと思っている。自分の苦悩に哲学的解釈を与えようとしているだけだ)。

とにかく、医者のこの言葉ですべてが僕の頭の中でつながった感がある。そうか、僕は古いタイプの人間なのだと。妙に腑に落ちたのである。

さらに医者は、精神医学の専門書を読んだことはあるかと前置きしたあと、メモ帳に走り書きをして僕に手渡した。

「気が向いたら読んでみてください。何かの手がかりになるかもしれませんよ」

こうして薦められたのが、今回紹介する本『言葉と沈黙』である。

精神科医が書いた論文集。論文集だからテーマはバラバラだが、スタンスは一貫している。

精神病の患者は医者にさまざまなことを訴え、伝えようとする。言葉にできない感覚をなんとかして表現しようとする。統合失調の患者となると、その訴えはさらに理解不能になる。

そのような患者たちが本当はいったい何を訴えようとしているのか。著者はそれを考察する。科学的スタンスと臨床の立場は固持しつつも、患者の心の内部に踏み込んでいこうとする試みである。

精神医学用語のほかに、哲学用語もたくさん出てくる(著者は「人間学的なアプローチ」と言っているが)。専門書だから難解ではあるのだが、この手の本の中ではかなり読みやすい部類に入ると思う。

しかしどうしてこんな本を医者は僕に薦めたのだろう。学者向けの本なのである。いうなれば精神科医のための参考書、虎の巻である。それを患者に読ませるとは、自分の手の内を見せることに等しい。

もはや「自分で考え抜いて自力でそこから脱出しろ」ということなのだろうか。

きっとそうなんだろう。

医者に通って躁うつ病だと診断されたときは、正直言ってうれしかった。

自分の苦悩に名前がついたこともうれしかったが、それよりも何よりも、自分が「普通じゃない」「何か特別な」人間だと証明されたような気がしたのである。

でももはやそんなことを言っていられる状況ではなくなっている。

僕の心も、僕を通して見ているこの世界も、徐々に解体を始めているような気がする。もはや猶予はない。早くここから抜け出さなければならない。
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2009年04月10日

母をたずねて三千里



「男は母なる女性を捜し求めて永遠の旅を続けるマルコなのだ!」

僕が酔っ払うと時々口にしていた言葉である。

これはあくまでも僕の考えだが、男という生き物は女性に対して少なからず「母性」を求めているものである。それを表現するための口実として、僕は酔っ払ってマルコを例に出していたのである。

だが最近、アニメの『母をたずねて三千里』全52話を見て考えが変わった。

これは単なる母親探しの話ではない。まさに人生の縮図であると。

ここで少し政治的な背景を考察してみたいが、1970年代はなぜにこのような深くて重いアニメが作られたのか。現在だって深いアニメは放映されているのかもしれないが、見ていないのでよく知らない。

おそらく当時は、子どもにどんなアニメを見せるか、親が決定権を持っていたからではなかろうか。だから親にウケる、逆に言えば5、6歳そこらの子どもにはあまりにも重過ぎる内容のアニメが大量に作られたのである。

僕はこのアニメをリアルタイムで見ていたが、その深さ、重さは当時は理解できていなかった。大人になって見てあらためて驚かされることが大いにある。

イタリアはジェノバに暮らす、マルコとその家族。ところが父親が慈善事業にのめりこみ、家計は破綻し、母親がやむをえずアルゼンチンに出稼ぎに行くことになる。

ところが、母親からの便りはやがて途切れる。仕送りもなぜかなくなる。心配でたまらなくなったマルコ、おそらく8、9歳の少年がひとりでアルゼンチンに、母親探しの旅に出る。

しかしその旅の内容がこれまた凄惨である。イタリアの不景気の現状。アルゼンチン移民の光と影。インディオに対する差別。貧富の差。人々の親切さと冷酷さ。

ファンタジーのかけらもない。現実の残酷さというものをこれでもかと見せつけられる。

不景気の渦中にある現代日本とダブる部分もあり、この『母をたずねて三千里』を見るにはいいタイミングであるとも思う。

マルコは命からがらブエノスアイレスにたどりつくが母と巡り会えない。南の町にいると聞いて何十日も旅をするがやはり巡り会えず、北にいると聞いて再び旅に出るがやはり再会できず。

「僕はきっと呪われているんだ!」

マルコが泣きながらそう絶叫するシーンはもはや鬼気迫るものがある。子ども向けどころか、こんな絶望的なアニメ子どもに見せていいものかどうか。

最初に、このアニメは人生の縮図だと書いたが、命がけであっちの町へこっちの町へ、時には人に助けられ、時には足蹴にされ、それでも旅を続けていくという部分はまさにそうだと思う。

だが大きな違いがある。

マルコには「母に会う」という明確で大きな目標があった。だが果たして僕らの人生の目標とはなんぞや?

僕らは、目的すらもよくわからないまま果てしない荒野を旅し続ける流浪の民なのかもしれない。

高畑勲と宮崎駿コンビ、のちのスタジオジブリがつくったアニメである。でもジブリの映画よりも、『母をたずねて三千里』のほうがよっぽどデキがいいと感じる。

登場人物のちょっとした表情。手の動きが持つ意味。間(ま)。シーンひとつひとつが重要な意味を持っている。非常によくできている。ジブリの映画よりもずっと手が込んでいて奥が深い。

ひとつには時間の問題もあるのだろう。ジブリはずっと、もっぱらアニメ映画ばかりをつくっているが、映画の2時間という枠の中に入れられるものにはやはり限界がある。1回につき30分、全52話のアニメとは時間的にあまりにも差がありすぎる。

スタジオジブリは原点に戻り、いまこそ長編テレビアニメをつくるべきなのだ・・・・・・「マルコ」を見てそう思った次第である。

このアニメについては、語りたいことがまだ山ほどあるのだが、それはまた次の機会に。
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2009年03月25日

離人症と言われる

朝、起きられなくなった。

医者に相談して睡眠薬を減らしてもらった。

今度は夜眠れなくなった。

目覚めているわけでもなく、夢うつつの状態が朝まで続く。

朦朧とした意識の中、無数の思考がグルグルとうずを巻く。

思うのは過去のことばかり。

ふと身体を起こして部屋を眺める。

母を呼んでみる。「おかあさん」声に出して呼んでみる。

返事はない。僕は気づく。

そうだった。僕はもう子どもではなかった。大人になってひとり暮らししているのだった。

そんなことが何度も続く。

次第にここがどこだかわからなくなる。大阪か滋賀かアメリカか。

「いま」がいつなのかわからなくなる。僕は小学生か、大学生か、会社員か、老人か。

これまでに出会った友人や彼女がランダムに目の前に現れては消えるが、どれが「いま」つきあいのある人間かわからない。

そして朝が来る。

僕は大阪にひとり住んでいる。会社勤めをしている。

それはわかる。

でも街の風景が奇妙に見える。

これは「過去」の風景なのか。あるいは「いま」なのか。

いまは1999年か、2009年か、はたまた2019年か。

頭ではわかっている。

でも過去の記憶や未来の想像と同じくらい、「現実」にリアリティがない。

すべてが架空の世界に見える。

「離人症」

医者に言われた。

こういう感覚を離人症と言うのだそうだ。

言うなれば、パソコンが僕の心身だとすると、それを操作している自分が「魂」であって。

パソコンと自分がどんどん離れていく感覚か。

世界は見えるし音は聞こえる。でもとても遠くに感じる。

離人症は薬ではなおらない。

様子をみるしかない。

心と身体を離れて、魂だけで飛んでみる。

それもありかもしれない。

そしてふと思う。

どこか遠くに「本当の世界」があって。

そこには苦しみも悲しみも争いもなく。

すべての人たちが、ただ幸せに暮らしている。

その世界のほうが、この「現実」よりもずっとリアルに感じられてくるのだ。
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2009年03月23日

2300年未来への旅



たしか「近未来映画パック」とかいう名前で、「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」と抱き合わせで売られていたのを購入した。

見てみて、抱き合わせになっていた理由がよくわかった。「2001年」「ブレードランナー」ともに、いまでもじゅうぶんに見るに耐える特撮技術、そして内容。それに対して、「2300年未来への旅」はあまりにもショボいのである。

ミニチュアだとバレバレの近未来都市、空を飛ぶ人間には吊らされている糸がもろに映っている。ウルトラマンとかのほうがよっぽど特撮技術レベルは高いのではなかろうか。

そしていかにも、「2001年」の2匹目のドジョウをねらったような邦題・・・・・・。原題は「ローガンズラン(ローガンの逃走)」である。

しかしそれなりに見ごたえはある。

西暦2274年、人類は巨大ドームの中で暮らしていた。ドームの中は、チューブの中を乗り物が走り回っているような(いま見るとかなりレトロフューチャーな)未来都市。人間は人工授精によって生まれ、30歳になると「火の儀式」によって消える。「火の儀式」によって人間は生まれ変わると信じられていた。管理社会。

世界はドームの中だけで、ドームの外には「何もない」と信じ込まされていた。それにも関わらず逃亡しようとする者が耐えない。そうした逃亡者たちを始末するのが、主人公ローガンはじめとする「サンドマン」と呼ばれる人々である。

ローガンはある日、メインコンピュータから極秘任務を受ける。

「逃亡者らが目指している、ドームの外にある『ユートピア』を見つけ出して破壊せよ」

ドームの外に出てローガンが目にしたものは・・・・・・。

という内容。

ちなみに余談だが、2005年作、ユアン・マクレガー主演の映画アイランド
と話の設定が非常に似ている。盗作か、あるいはリメイクか? そのへん比較しながら見るのも面白い。

しかしこういう映画を見て思うことがある。

果たして真実を知ることは人間にとって幸せか?

たしかに、人間には真実を知りたいという欲望があるし、知る権利もあるのだろう。

しかし真実を知らずにドームの中でなんの苦労もなく生きていたほうが、ある意味幸せだったとも言える。

僕たちが生きているこの社会だって嘘だらけだ。

意図的に隠蔽された嘘もある。でも、みんな無意識のうちに寄ってたかって「嘘」を別のもので封印していることもある。

人々はそれを「常識」と呼ぶ。自分たちを守るために封印するのだ。


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2009年03月20日

向精神薬の致死量

「睡眠薬で自殺」

なんてのはよく聞く話だけれど、実際はそんなに簡単ではないらしい。

なんでこんな話をするのかというと、アクセス解析を見ると案の定、「致死量」で検索してくる人が多いから。

このブログは自殺をすすめるブログではなく、「この無意味な人生をいかに生きるか」をテーマとしている。いかにネガティブな生き様を貫くか。方向性が自殺とは正反対である。

でも検索してくる人が多いから書いておこう。僕の調べた限り、向精神薬で自殺するのはけっこうむずかしい

だいたい、処方箋がいるとはいえ、普通の薬局でそんな危険なクスリを売っているはずがない。

クスリの指標には大きくわけて「作用量」と「致死量」がある。「作用量」は効き目が出てくる量、「致死量」は死に至る量である(もっとも、致死量を飲んだからと言って必ずしも死ねるわけではない)。

向精神薬は通常、「作用量」と「致死量」との間に、何百倍あるいはそれ以上もの差がある。つまり極端な場合、医者に処方された量の何百倍何千倍もの量を飲まないと死ねない。つまり向精神薬はそれだけ安全なクスリなのである。それくらい安全でないと、医者もクスリとして処方できない。

仮に致死量の向精神薬を飲んだとしても、酒と同じく猛烈な吐き気が襲ってくるから、まずそれに耐えなければならない。たとえ飲み切れたとしても、必ずしも死ねるとは限らない。「致死量」という場合、通常「半数致死量」のことを指す(らしい)。つまり50%の確率で死ぬ量。だから致死量の10倍飲んだとしても死なない場合もあるわけだ。

バルビツール系向精神薬リチウム(リーマス)は、作用量と致死量との間が比較的せまい部類に入る。それでも失敗する率は高い。代償として、重い後遺症を背負いながら生きていくはめになる。

僕が調べたかぎり、自殺に向いている向精神物質はもっと身近にある。

それはアルコール、つまりである。

なぜなら、作用量と致死量の間が極端にせまいからである。

アルコールは、血中濃度0.1%で酔っ払い状態。致死量は血中濃度0.3〜0.4%。

つまり、「けっこう酔っ払ったよ」という状態からさらにわずか3、4倍の量を飲めば死ぬわけである。

酒には知ってのとおり、抑うつを改善する作用がある。だから抗不安薬として使おうと思えば使えないことはないわけだ。しかし作用量と致死量との差が3、4倍とあまりにも近すぎて危険すぎるため、クスリとしては使いものにならないわけである。

だから向精神薬で死のうなんて思わないように。そんなに楽な死に方じゃありません。

もっとも、酒での自殺をすすめているわけでもありませんが。


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2009年03月17日

超訳『資本論』



『この世はすべて銭ズラ!』

というのは、前回紹介した『銭ゲバ』のセリフだが、そもそもお金とはなんなのだろう。

高校から浪人時代にかけて、僕は新興宗教がらみの人間か、学生運動をやっている奴らとばかりつるんでいた。結局僕はそのどちらにも染まらなかったのだが。「この世の真理を知りたい」「人間の生きる意味を知りたい」という点では波長が合ったのだろう。

共産主義団体に属していた友人から、資本主義とは何かという講釈を何度か受けた。

彼らが言うには、人間の大多数、普通に働いている庶民は、ごく一部のお金持ちに奴隷のようにこき使われているということらしい。

しかしお金持ちよりも庶民のほうが圧倒的に数が多いわけで。労働者が一致団結すれば必ず勝てる。労働者よ立ち上がれ!いまこそ革命だ、働く人々が主人公の社会を作り出すのだ!というわけである。

僕は彼らの主張があまりよく理解できなかった、というか魅力を感じなかった。しかしいまになって思えば、そう主張している彼らだって、共産主義や資本主義をちゃんと理解していたかどうかはあやしい。

今回この『超訳「資本論」』を読んで、長年もやもやとしていた疑問がちょっとはスッキリしたような気がする。

『資本論』は、19世紀の後半にマルクス(とエンゲルス)が書いた本だ。別に共産主義の啓蒙書ではない。お金中心のこの世の中(資本主義)が、どのようなしくみで動いているのか、論理的に暴いた本である。

『超訳』はこの『資本論』の言わば虎の巻、要約として書かれたもので、これを読めば『資本論』の大筋がわかるようになっている。

目からウロコである。『資本論』は決して過去の遺物ではない。いまの社会にも充分あてはまる内容だ。

『資本論』の主張を一言で言うならば、労働者は資本(家)からお金を搾り取られている、ということに尽きる。

たとえば資産が1億円の会社があるとする。翌年、その会社は黒字になって資産が1億2千万円になった。増えた2千万円はどこからきたのか? それは会社に勤める社員から搾り取ったお金なのである。

たとえば僕が月収20万円で、ある商品をつくったとする。会社はそれを50万円で売る。差額の30万円はどこへ行くかと言うと、会社に入るのである。本来は商品をつくった僕が50万円をもらうべきなのに!

じゃあ会社が悪いのかというと、そう簡単な話ではない。株式会社ならば、実権を握っているのは株式を持っている投資家である。

投資家こそ「資本家」なのか? でも彼らだって株式を売買するにあたって証券会社を使っているわけで、ある意味、証券会社のエジキにされて金を搾り取られているわけだ。

『資本論』は資本家を批判する本ではない。本当の意味での資本家なんて実は存在しないのかもしれない。資本主義の主人公はあくまでも「資本」つまりお金である。お金を巡って、人間がお互いに搾り取りあるいは搾り取られ、えんえんとバトルをくりひろげているのがこの社会なのである

『この世はすべて銭ズラ!』

再び銭ゲバのセリフが聞こえてきそうだ。僕は『資本論』の主張を必ずしも鵜呑みにしない。別の解釈だっていろいろ成り立ちそうだ。

しかし少なくとも、僕たちが「金」に縛られて生きていることは間違いない。本来は道具にすぎなかったはずの金にいつしか主導権を奪われ、僕らは金の奴隷になっている。

僕は搾り取られる側になるのはまっぴらゴメンだし、逆に搾り取る側に立つのも罪悪感を感じる。どちらの側にも立たずに生きていく方法はないものか。

すべての人生は「死」の前では負け戦である。

僕はブログのサブタイトルにこう書いた。でもせめて生きている間は勝ち組の側にいたいというのも人情である。僕の欲である。

ホームレスになっても幸せに笑って生きていられるほど、僕は達観できていない。


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2009年03月15日

銭ゲバ(上・下)



『銭ゲバ』、テレビドラマ化されていたらしいが僕は見ていない。僕は毎週決まった時間に決まったことをするのが苦手なのだ。ようするにズボラなのである。

ただ、ドラマ開始に合わせてジョージ秋山が書いた原作が書店に並ぶようになったので、買って読んでみた。

これは忠実にはテレビドラマ化できないだろうな・・・・・・。

というのが、読み終えた最初の感想。内容があまりにも凄惨なのである。放送禁止になること間違いなし。いや、差別表現をなくそうというヘンな風潮(あえて「ヘンな」と書くが)が浸透した現代日本においては、マンガとして描くことすら不可能なのではないか。

主人公・蒲郡風太郎は極貧な家庭に育つ。生まれつき片目に障害(または奇形)を持った風太郎を、父親は「この、生まれぞこないが!」と罵倒し、やがて愛人と家を出て行ってしまう。

母と子のふたりきり、でも母も病に伏せる。どこの病院に行っても、お金がないので誰も助けてくれない。

母は死に、風太郎は人生のある「真理」に気づく。

この世は金がすべて。

「銭のためならなんでもするズラ!」

この言葉のとおり、風太郎はどんな汚い手でも使い、時には人を殺し、大会社の社長に成り上がっていく。サクセスストーリーというにはあまりにも血なまぐさい話である。

金のためには恩人も殺す。

自分の妻も、女も、自分の子どもでさえ殺す。

でも本当は愛に飢えている。

あるとき、風太郎は偶然知り合った女学生に恋をする。お金のことなど気にしない、純真無垢な彼女の中に真実の愛を見ようとする。

だがある日、お金のために彼に身体を売ろうとする彼女を前に風太郎は愕然とする。

「君はわたしにとってたったひとつの真実だったのに!」

そして彼女も殺してしまうのである。

彼の右目は金に狂った悪魔のようだが、つぶれた左目は何も語らず、静かに泣いているように見える。

しかしともかく、彼の行動は「金がすべて」という点において首尾一貫している。悪の権化

だが時々思うのだが。純粋な「悪」と純粋な「善」とは実は相似形である。正反対であるにもかかわらず、いや正反対であるからこそ、非常に似た部分もある。

アジアの神々の多くが、神の顔と同時に悪魔としての顔も合わせ持っているように。

聖書の中で人々が、悪魔と同じかそれ以上に神を畏怖するように。

貧乏な生活、母親の死という経験を経て彼は「銭ゲバ」になったのだが、同じ経験をバネに、苦しむ人々を救う慈善家や宗教家になることもできたはずである。何が彼の人生を分けてしまったのか。彼に言わせると「そうするしかなかった」のだろうが。

最後のページに、おそらく著者のセリフとしてこう書かれている。

「そうだ。てめえたちゃみんな銭ゲバと同じだ。もっとくさってるかもしれねえな。それを証拠にゃ、いけしゃあしゃあと生きてられるじゃねえか」

時々、実際に、「金がすべて」と主張する人に会う。逆に「愛がすべて」という言う人に会うこともある。

だがどちらも嘘だ。どちらも実行に移して生きていくことなんかできない。

純粋な「悪」をおこなえるのは悪魔だけ。

純粋な「善」をおこなえるのは神だけ。

人間は神でも悪魔でもなく、その間をフラフラしている不完全な存在にすぎない。

だから人間、何を言っても何をやってもしょせん嘘になる。人間は何も徹底できない。人間はしょせん偽善者か偽悪者にしかなれないのだ

人間は誰もが不純である。そのことに目を伏せるから人は生きていける。


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2009年02月11日

現代思想の遭難者たち



哲学の入門書とは正反対に位置する本。具体的に言うと、いしいひさいちが、哲学者をパロディにしたマンガ集なのである。

10年ほどまえ、現代思想の冒険者たちという全31巻からなるシリーズが刊行された。重厚だがわかりやすく、なおかつけっこう深いところまで突っ込んだ、哲学の入門書としてはおすすめのシリーズである。

その本1冊ごとに小冊子が付録でついていた。その小冊子の片隅に、いしいひさいちが哲学をギャグにした4コママンガを連載していた。それを集め、さらに新作を追加して1冊のマンガ本にしたのがこの本である。

だからこの本は、正統な入門書である『現代思想の冒険者たち』シリーズの番外編に位置する(出版社も装丁も同じである)。

しかし、よくもまあこんなモノ(と言うと失礼だが)出版したものである。言うなれば哲学マニアの内輪ネタ・楽屋ネタなのである。哲学を知っている人にとっては笑いどころ、ツッコミどころ満載。爆笑もの。でも哲学を知らない人にとっては何が面白いのかさっぱりわからないのではないか。

だがしかし。さきほど、「入門書とは正反対に位置する本」と書いたが、言わば哲学の裏入門書として、ここから入っていくのもアリなのかな、とも思う。

時々テレビでお笑い芸人たちが、一般にはわからない楽屋ネタや内輪ネタで盛り上がってたりする。さっぱり意味はわからなくても、なぜかおもしろかったりする。

ああいうのを面白がれる人ならば、この本も面白いのかもしれない。そして哲学に興味を持つきっかけになるのもしれない?とも思う。



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