2009年01月16日

時間はどこで生まれるのか



僕が「人生は無意味だ」と言うときの論拠はふたつある。

1.この宇宙も地球も人間も、特に意味はなく偶然誕生したにすぎない(過去)。
2.自分はいつかは死に、人類も地球も宇宙もいつかは消えてなくなり、すべてしょせん、最初からなかったのと同じになってしまう(未来)。


このふたつ、過去未来の観点から考えて、人生は無意味だと言っているのである。

しかしこれを考察するにあたっては、「そもそも時間とはなんぞや?」についてもっと深く考えねばなるまい。

これまで時間に関する本をいくつか読んでみたが、特に感銘を受けたものはなかった。

それでも懲りずに手にしたのが、今回取り上げる本である。

著者は物理学者である。そのくせ経歴をみると人文学部教授。読んでみて納得。本書の趣旨は以下のようなものである。

哲学者は日常的感覚から時間について議論するが、最新物理学の発見を取り入れようとしない。逆に物理学者はと言うと、最先端の研究から時間というものを考察しているが、日常の感覚からはほど遠い。

そこで、最新物理学の時間論を、我々がふだん感じている「時間」を理解する手助けとなるレベルまで噛み砕いてみよう、物理と哲学の考える時間論を融合しよう。そういう試みである。

著者は、哲学者マクダカートが分類した時間の3系列を多用する。

A系列:我々が主観的に体感している「いま」という時間
B系列:歴史や、自分の半生など、年表的な時間
C系列:順番は関係なく、単なるさまざまな出来事の寄せ集め


C系列については感覚がつかみにくいが、話を先に進めよう。

まず、最先端の物理学で考えると、「時間は存在しない」ということになってしまうらしい。量子力学の考えでは、モノを細かく細かくしていくと、ある段階からさきは「時間」を測定できなくなってしまう。測定技術がないからではなく、もはや「時間」と呼べるものが消えてなくなってしまう。

じゃあ、僕たちがふだん感じている「時間」っていったいなんなの?

著者の結論を言うと、

時間なんて実は存在しない。あるのは「出来事」だけ(先述のC系列)。

ただ、人間の「意思」がそんな宇宙に「時間」を見出した(作り出した)のだ!!

この結論に僕は大して驚かない。「やっぱりそう来るか」という感じである。量子力学の観点からいくと、どうしても「この世界を見ている『自分』」という存在を重視せざるを得なくなってしまう。

また、著者も匂わせているが、最先端科学の立場から時間を考察しているうち、結局は哲学者や仏教が唱えているのと同じ結論に達してしまった、というところが面白い。

僕にとっては、そんなにすごい感銘を受けたわけではなかったが、よくできた本だと思う。注釈が2重3重になっている。読み物としても軽く読めるし、もっと詳しく知りたい人はこっちへ、さらに突っ込みたい人はこっちへ、と深く読み解いていくこともできる。

また、参考文献の紹介も豊富。「時間とは何か」いろいろ考えてみたい人にとっては恰好の入門書といえるかもしれない。

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2009年01月14日

ジャーハダ──イラク 民衆の闘い

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先日、とある新年会で「イラクの子どもを救う会」主催の西谷文和さんという方とお会いした。僕は酔ったいきおいもあって、失礼ながら、なんか知らんけど有名人だ、と近づいていき、このDVDを買ってサインをいただいた。

DVDの内容は悲惨だった。米軍の攻撃、イスラム同士の内戦、自爆テロ、敵も味方もよくわからなくなった状態で、さまざまな理由で身体も心も傷ついた人たち。劣化ウラン弾による奇形、また、米軍が使用したと推測される神経ガス兵器で体がマヒしてしまった人たち、などなど。

こういう映像を見ていつも意識させられるのは、当たり前なのだが、彼らも僕ら日本人と大して変わらない人々だ、ということである。どこか遠くの国で異人種が戦争しているらしい、てな感じで他人事のように考えてしまいがちだが、映っているのは普通の人間、大阪でそのへんを歩いているおっちゃんやおばちゃん、子どもたちとなんら変わりはない。

しかし、戦争のニュースや映像を見て、いつも考えてしまうことがある。

どうして人間は(僕も含めて)そんなにまでして生きたがるのだ?

自分がなぜ生まれてきたのかわからないし、なんのために生きているのかもわからない。考えれば考えるほどわからなくなる。

そんな「無意味」な人生をいかにして生きていくべきか。それがこのブログのテーマであり、僕の人生のテーマでもある。

決して人生を否定しているわけではない。僕はなんとかして自分の(人間の)生を肯定する理由を見つけようとしている。

僕は死にたいと思ったことが何度もある。それが僕の「躁うつ病」という持病のせいかどうかはわからない。特にひどかったのは大学時代、ひきこもっていたときだ。死にたい衝動と2年間戦い続けた。

それでも死ななかったのは、たぶん僕は本当は生きたかったからなのだろう。

ひきこもっていたとき、僕は真っ暗なひとりの部屋でテレビの動物番組を見ながらいつも泣いていた。必死に生きようとする動物たちに心を突き動かされたからである。動物たちはひょっとしたら、僕が知らない「生きる意味」を知っているんじゃないか? 知っているなら教えてほしい。すがるような思いだった。

本能? 一言で言ってしまえばそうなのだろう。生き物も人間も、とにかく生きたがっている。

そのくせ人間は殺し合う。生きるためのみならず、名声や思想を守るために、あるいは復讐するために。そしてある者は自らの命を絶つ。

では殺すこと(自殺含め)も本能か? 人間の中には、「生きる」と「殺す」という相反する本能が拮抗している?

よくわからない。というか僕の勉強不足。

自殺やうつ病に関していえば、こんな話がある。

前に書いた記事の「パパは楽しい躁うつ病」によると、戦時下の日本ではうつ病がなかったそうだ。

またある学者がこんなことを言っていた。

「世の中が物質的に豊かになっても、人間が幸福にならないのはなぜか?」

その学者いわく、「選択肢が多すぎるから」だそうである。

たとえば目の前にケーキが10種類並んでいるとする。その中からひとつだけを選ばなければならない。

人は悩んだ挙句にひとつだけケーキを選んで食べ始める。しかしケーキをひとつ選んだことによって、残り9個ものケーキを食べ損なったような錯覚に陥る。もしも最初にケーキが2個しかなかったら、そんな錯覚に陥ることなく、おいしくケーキを食べられたはずなのに。

なるほど。ならばうつ病は贅沢病なのだろうか?

ある意味でそうだろう。だが、僕は心の病を煩っている人間を何人も知っているが、彼らは決して甘えてなんかいない。日本という、イラクとはまた違った意味でゆがめられた環境の中で、彼らは必死で戦っている。健常な日本人以上に戦っている。それだけははっきり言っておきたい(僕も躁うつ病なので結果的に自己弁護になってしまうが)。

何はともあれ、西谷さんからサインをいただいたとき、お名前の横にこう書き添えてくれた。

「命どぅ宝」

ぬちどぅたから。命は宝。世界中のいろいろな悲惨な風景を見てきた方だけに、重みがある。

でも本当は、そんな当たり前なことをあえて言葉にして言わなくても済むような世界が、ホントの平和、ホントの幸福な世界なんだろうな。

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2009年01月13日

パパは楽しい躁うつ病



本屋で偶然見かけて、即購入した本。

というのも、僕が双極性障害、つまり躁うつ病と診断されてから、『あの北杜夫もそうだ』という話を何人かから聞かされたからである。

僕の知識で北杜夫と言えば、精神科医にして作家。『どくとるマンボウ航海記』くらいしか読んだことがない。あの北杜夫も躁うつ病なのか。

うつ病に関する本は巷にいやというほどあふれているが、躁の闘病記(?)というのは本当に少ない。だから購入したのだ。

この本、北杜夫とその娘である斎藤由香との対談という形式で書かれている。むしろ、娘の斎藤由香のほうが先導して、父親から躁体験を聞き出している感じ。「あの時はたいへんだったねえ」という風に、親子で昔話をしている、そんな本である。

しかし書かれている内容はすさまじい。うつ状態の時はおとなしいものである。無言、無関心になり、ひたすら眠り続ける。これは僕の場合も同じ。

しかしいったん躁転するととんでもない日々が始まる。

「映画を撮るぞ!」

北杜夫はそう思い立ち、資金をつくるために全財産を株につぎ込む。しかし複数の証券会社で思いつきで株を売買するものだから、もうメチャクチャ、破産寸前までいく。

さらには妻に暴言を吐き、妻を非難するメモ書きを何枚も書いてテーブルにおく。

睡眠時間は短くなり、朝から晩まで株式情報の無線を大音量でかけ、さらには英語を勉強すると言って英会話ラジオも大音量でかけ、一日中大騒音が家中に響き渡る

ついに北杜夫は日本から独立すると言い出し、「マンボウマブゼ共和国」を自宅に建国、大金をつぎ込んで自国の紙幣や煙草をつくり、毎年「功労者」を呼んで表彰式をおこない、知人らに軍人のかっこうをさせて家中を行進する。

また、デパートの満員のエレベーターの中で「愛してる!」「好きでちゅ!」と絶叫する・・・・・・。

僕はここまでひどくはないかな。僕は躁のときはどちらかと知識欲・創造欲にエネルギーが向くので。

「反重力発生装置」や超能力の研究に没頭したり、特許を出願したり、深夜に突然友人宅に押しかけたり、古代遺跡を探しに近所の山に分け入って遭難しかけたことならあるが。

いや、しかし「ひどくない」と思っているのは実は僕だけで、周囲はけっこう大変なのかもしれない。自分ではわからない。

北杜夫の場合もそうで、娘が父の昔の話をしても、当の本人は「そんなことあったかな」と飄々としている。まるで他人事である。

彼の場合ラッキーだったのは、奥さんがあえて深入りしようとしなかった点だ。奥さんは北杜夫を患者扱いし、自分は看護婦に徹したようだ(本書によるとそれでも一度は「オレは自由に生きるから出て行け!」奥さんも娘も追い出され、数年間別居生活を送っているが)。

この接し方は正しいと思う。躁うつ病を経験したことがない人間が躁うつ病患者の気持ちを理解しようとしたって、根本的に無理である。理解しようと無駄な努力をされるのはかえってうっとうしい。ほっておいてほしい。あえて面倒を診るとすれば、躁うつ病患者が自殺しないよう、見張っておくことくらいか。

娘はと言うと、本のタイトルにあるとおり、躁状態になった父が楽しかったらしい。父がうつ状態になるとつまらなくて、「はやく躁にならないかな」と待ち遠しかったと言う。無邪気と言うかなんと言うか。

ともかく僕の体験から言うと、躁うつ病というのは、はた目から見て楽そうでも実は本人は地獄の苦しみを味わっていたり、逆にものすごく大変そうでも実は恍惚とした至福感を味わっていたりと、わかりにくい病気だとは思う。

だからフツーの人からは理解されなくてもいい。ただ自分の居場所を確保してくれるだけで救われるところがある。

しかしやっぱり躁うつ病って、本人が精神科医でも治しにくい病気なんですかね。

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2009年01月12日

田園に死す



寺山修司映画の、言わずと知れた名作。知る人ぞ知る映画なので、サブカルチャー好きな人は当然知っているだろうが、そうでない人も一度見ていただきたい。ぶっとぶこと間違いなし

僕が寺山修司の映画を見出したのはけっこう遅い。彼のエッセイは18歳くらいの頃から読み親しんでいたが、映画を見たのは24歳くらいになってからである。

当時、僕は大学の哲学科の学生だった。その日たまたま知り合った女の子と、話の流れ上、いきなりいっしょに「寺山修司オールナイト」を見にいくことになったのである。

小汚い映画館、午後10時から朝の5時まで、寺山修司映画の5本立て。

映画を見てぶっとんだ。どの映画も、男の倒錯した性欲・エロティシズムが丸出しの映画ばかりなのである。こんな映画に女の子を連れてきてよかったのか。しかし彼女は案外平然としていたが。

映画の話に戻そう。この『田園に死す』という映画、寺山修司のほかの作品と同じテーマを貫いている。つまり、母親と自分との近親相姦的な関係。母親の影響から逃れたくても逃れられないジレンマ。

以前にも書いたが、人間には「心の基礎体温」と呼べるものが存在すると思う。何かの出来事に直面したとき、それを前向きに捕らえるか、後ろ向きにとらえるか。その志向性は、けっこう自分が幼少の頃に決定づけられているような気がする。

それを決定づけているのが、実は「母親」なのである。程度の差こそあれ、母親が子どもの人生観に与える影響は非常に大きい。

僕の母親は、ある意味偉大な女性だった。父親の単身赴任が決まったとき、母は子どもを前にして父に泣きすがり、「私は子どもを捨ててでもあなたについていく」と言い放った。

「私は子どもよりも自分が一番大事。自分を大事にできない人間は他人も大事にできない」、そう言い聞かされて僕は育った。母とケンカしたときは、僕よりも母のほうがむせび泣いた。そして2、3日すぎてすっかり忘れ去った頃に、母が僕に近づいてきて耳元でこうささやいた。

「これで許されたと思ったら大間違いだいからね」

とにかく偉大な母だったと思う(まだ生きているが)。そんな母の影響を僕は多大に受けている(影響が「よい」か「悪い」かは、結局のところ自分の生き方によって決まると思う。影響を与えた側に決定権はない)。

僕の母に対する感情は、「愛憎」と言う言葉が非常によく似合う。愛しながらもひどく憎んでいる。

寺山修司が映画で描く母親像も、僕の場合とよく似ている。

愛憎。母親から逃れたい。しかしどこまで逃げても、母親の影響はどこまでも追いかけてくる。お母さん、いっそ死んでくれ! 死んで僕を自由にしてくれ! そういう映画である。

映画の途中で流れる挿入歌が耳にこびりついて離れない。

「死んでくださいお母さん。死んでくださいお母さん」

これはあるいは僕だけなのかも知れないが、男が恋愛をする大きな理由のひとつは、本来の母親から逃れ、新しい母親と巡りあいたいという願望の現れなのではあるまいか。

「私はあなたのおかあさんじゃないのよ!」

ドラマとかでよく恋人が言い捨てるセリフである。でも結局のところ、男は心のどこかで、恋人に「自分の新しいお母さん」のイメージを求めているような気がする。

こういうことを書くと、たぶん女性は馬鹿にするんだろうなー。でもしょせん、男ってのはそういう馬鹿で甘えた生き物なのだ。

男はつまり「マルコ」なのである。『母お尋ねて三千里』のマルコ。

幼稚な話である。でも男は、そういう理想を追い続けなければいけない、そんな気もする。追い続けるのをやめたとき、男は男でなくなるのかもしれない。

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2009年01月07日

金字塔



中村一義というミュージシャンはデビュー当時から名前は聞いていて、興味はあったがずっと聴いていなかった。だが最近、ある事実を知って興味が再燃した。買ってみる気になった。

彼はひきこもりだったらしい。高校を卒業して所属事務所が決まるまで2年間、そこからデビューまでさらに2年間のブランクがある。

その期間、大学進学用に貯めていたお金で機材を買って宅録をしていたらしいので、完全なひきこもりとは言えないのかもしれないが。幼い頃より家庭不和、両親と離れて祖父母の家に暮らし、ひとり部屋にこもってひたすら宅録していたようだ。

そしてようやく世に出たデビューアルバムがこの『金字塔』。その中の『犬と猫』がデビューシングル。

犬と猫
作詞作曲:中村一義


どう?
街を背に僕は行く。今じゃワイワイ出来ないんだ。
奴落とす、もう。さぁ行こう! 探そぜ、奴等・・・ねぇ。
もうだって、狭いもんなぁ。

同情で群れ成して、否で通す(ありゃ、マズイよなぁ)。
難解な、その語意に、奴等宿る。・・・んで、どう?

どう?
僕として僕は行く。僕等、問題ないんだろうな。
奴は言う、こう・・・「あぁ、ていのう」。もう、けっこう!
奴等、住む場所へ行く。全て解決させたいんだ。
僕は僕。もう、最高潮! 落とせ、あんなもんは・・・ねぇ。
インチキばっかのさぁ。

単に、皆、損で、あっさり、振り回されたんで・・・。我欲成したんだ。
歴然に、いざ、吐いて死ぬと、どう? 妙な冗談で撒いて・・・。
笑えやしないんだ。大変、もう・・・。ねぇ、どう?
こんなんで、ええんか?

調教で得た知恵で、世を焼く(僕、マズイかなぁ)。
状況が裂いた部屋に、僕は眠る・・・。みんな、どう?

どう?
のんびりと僕は行く。傷みの雨ん中で。
“痛み”なんて どう? 最近どう? あぁ・・・そう・・・。
皆、嫌う、荒野を行く。ブルースに殺されちゃうんだ。
流行りもねぇ、もう・・・。伝統、ノー。
んで、行こう! ほらボス落とせ!
そう・・・。皆、そう。同じようなもんかねぇ。
犬や猫のようにね。


そして批評家らから「10年に一人の天才」「桑田佳祐を継ぐ日本語詞の使い手」と絶賛されたらしい(以上、Wikipediaを参考)。

僕が聴いた感想を述べると、正直なところこの『金字塔』というアルバム、そこまですごいか?という疑問は感じる。

でもこの『犬と猫』は別格である。何度も聴いてしまう。でも「好きだから聴く」というのとはちょっとちがう。なんだか気味悪いのである。何度聴いても「??」という気持ち悪さが残る。だから何度も聴いてしまう。質の悪い麻薬とでも言おうか。

歌詞からして不気味である。意味がわからない。唯一判明しているのは、『状況が裂いた部屋』という言葉が自分の宅録の部屋を指しているということだけ。彼はほとんどひとりきりでこの曲とアルバムをつくった。

だがものすごい気迫は感じる。いや、殺気、狂気とでも言うべきか。歌詞中の『奴等』『僕等』が誰を指すのかはわからないが、なんだかひとり部屋にこもって、架空の仲間と共に妄想上の敵と戦っているようなイメージを受ける。

この歌詞、例えるなら、捕まった猟奇殺人犯が持っていたノートとかに書いてありそうな文章だ。

「容疑者のノートにはこのようなわけのわからない文章が綴られていました」

それでこの歌詞が出てきたら、僕はきっと妙に納得してしまうだろう。

中村一義は、デビューできなかったら自殺しようと心に決めていたらしい。

それだけ怨念が込められた曲ということか。

posted by にあごのすけ at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月06日

アフターダーク


アフターダーク」と聞いてパソコンのスクリーンセーバーを思い浮かべる人は、かなり古参のマックユーザーであること間違いなし

今回紹介する「アフターダーク」はスクリーンセーバーではなくて、村上春樹の小説である。

各章の冒頭にアナログ時計の絵が書いてある。時計の針は深夜12時からはじまり、午前7時前で終わる。つまり、一晩のあいだに起こる出来事を、いわばリアルタイムにたどったのがこの小説である。

登場人物は少ない。ファミレスで本を読む少女、青年、少女の姉、ラブホテルの従業員、会社員、など。これらの人々の夜が微妙にからまりながらストーリーは進んでいく。

しかし驚くことに。この小説にはオチがない。ネタバレも何も、オチがないのだからバラしようがない。

ところどころに、不可思議なシーン、深読みできそうなエピソードがちりばめられているが、それらが最後のクライマックスへとつながっていくかと思いきや、結局大したことも起こらないまま話は終わってしまう。

このことについて、年上の友達に話をしたことがあった。すると意外な答えがかえってきた。

「何言ってんだ、オチもないのに読者に最後まで読ませてしまうところが村上春樹のすごいところなんだよ」

なるほど。たしかに村上春樹は、「ストーリー」ではなくて「表現」で読ませる作家であると言える。

だから彼の小説は、極端な話、最初から読む必要がない。パッと開いた途中のページ、そこから読み始めても、たちまち村上ワールドに惹き込まれてしまう。

目的と手段。小説のストーリー(とオチ)が目的ならば、それをどのように表現するかが手段だ。村上春樹は「手段」にとことんこだわった作家であると言える。

思えば人生も似たようなモンか。

もしも人生が無意味ならば。人生をどう生きるかという「手段」にこだわって、そこに意義を見出すしかない。

ひとつ格言を思いついた。

人生の目的は哲学から学べ。
人生の生き方は文学から学べ。


どんなモンでしょう。

posted by にあごのすけ at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

復活

11月からの長いウツの冬眠から復活。。。

できるか??

例年通りなら冬至を過ぎた頃から徐々に調子が戻ってくるはずだ。

乞うご期待。

posted by にあごのすけ at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月24日

オイラーの贈物



数学書である。

「中学生レベルの数学からスタートして、大学理工学部1回生レベルの数学までをこの1冊でマスターする!」

壮大な目的を持った本である。

しかし実際、僕は浪人時代は数学はこの本しか読まなかった。予備校にしろ何にしろ、みんなと同じ時間に同じ場所に集まって勉強するのが大の苦手なのである。

高校では文系クラスだったので、数学の知識ゼロである(高校では数学は赤点ばかりとっていた)。

そんな僕が、この本だけで大学の理工学部に合格したのだから、やっぱり名著なのだろう(単に僕の大学がアホだったのかもしれないが)。

本書の最終目標として、著者は次のことを挙げている。

公式「e~iπ=-1」を理解する!!

簡単に説明すると、

「e」はオイラー数と呼ばれるものである(ややこしいので説明省略)。
「i」は複素数である(2乗したら-1になる仮想の数字)。
「π」はご存知円周率である。


別々の数学者が別々に発見したこの3つの定数。

そのはずなのに、

eを(i×π)乗したらなぜかマイナス1になる!!

これをスゴイと感じるかどうかは人それぞれのセンスなのだろうが。

たとえるならば、3人が別々のパズルを解いていたはずなのに、答えをつき合わせたらなぜか同じ結果だった。そいういう不思議さである。

もっと一般的に言うならば、「言葉」「理屈」「論理」の不思議さである。

たとえば友達と約束をする。

「じゃあ明日5時に駅前で。前貸してたCD持ってきてー」

すると翌日、友達はちゃんと5時にCDを持って駅前にやってくる。

あたりまえな話である。でもよくよく考えたら不思議ではないか?

考え方、感じ方は人それぞれ。
さらに言うと、他人の考えてることなんてわからない。
そのくせ、なぜか言葉は互いにちゃんと通じるのである。


この「言葉」や「理屈」という存在。あまりにもよくできすぎているのである。

そんな不思議さを体験できるのがこの本である。

数学があまりにもよくできすぎていることに驚嘆し、

「ひょっとしたら神様っているんじゃないのか?」

読み進んでいくうち、そんな宗教めいた思いさえ抱いてしまう。

そんな哲学的な話はおいといて。

もう一度数学を勉強しなおしたい、数学嫌いをなおしたい、そういう人には是非とも読んでほしい本である。

数式がいっぱい出てきて面食らうが、じっくり読めば誰にでもわかるように書かれている。

「3ヶ月ほど時間があるので旅に出るが、ひまでひまでしかたがない」

そんな人はこの1冊を持っていくといいかもしれない。

そんな人なかなかいないだろうけれど。

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2008年10月23日

尾崎放哉句集



五・七・五にしばられない自由律俳句といえば種田山頭火が有名だが、僕は尾崎放哉のほうが好きである。

あまりくわしくないのにこんなことを書くのは恐縮だが、山頭火は僕にとっては明るすぎるのである。なんだか陽気に旅をし、人の世話になりながら楽しく俳句をひねっているイメージがある。それはそれで「悟り」の境地なのだろうが。

尾崎放哉から受けるイメージは正反対である。

若い頃からエリート一直線、一時は生命保険会社の重役にまで昇りつめるが、職を捨て(正確に言うとクビになったのだが)、財産も失くし、妻とも別れ、無一文、文字通り「乞食」となる。

そして彼はこう俳句を詠む。

いれものがない両手でうける


本当に、人からの施しを受ける入れ物すらなくなったのだ。

その後、あちこちの寺を転々といそうろうしながら暮らすが、わずか3年で亡くなっている。

享年41歳。自らの死を予感していたのか、彼の俳句にははかなさが感じられる。本当に「いま」しかないのだ、それがすべてなのだ、そんな覚悟のようなものを感じる。

足のうら洗えば白くなる
咳をしても一人
めしたべにおりるわが足音
爪切るはさみさへ借りねばならぬ
行きては帰る病後の道に咲くもの


以前に石川啄木のところで書いたが、一時期短歌にはまっていたことがあった。そのとき思ったことがある。

小説が「映画」だとすると、短歌や俳句は「写真」である。

小説にはストーリーがある。つまり過去と未来があって、そのあいだにはさまれている現在が存在している。

しかし短歌や俳句には時間が流れていない。過去の余韻や未来の予感のようなものは漂っているのが、そこに描かれているのは、時間上のある1点、ある瞬間の出来事であり思いである。そのあたりが写真に似ていると思ったのだ。

乞食。ホームレス。そんな生活から抜け出したいと思っている人もいるだろうが、中にはきっと、人生を悟りきっている人もいる。

彼らには未来も過去もない。失うものはなにもない。あるのはただ「いま」だけ。ならばそれは一種の至福の境地と言えないだろうか。

乞食(こつじき)とは実は仏教用語である。

自ら働くことを放棄し、人からものを乞うという修行をしている僧侶のことを呼ぶ。ならば仏教的には、乞食は実は敬うべき存在である。

そんなことを考え出すと、僕は人と自分を比べたり、誰が誰よりも偉いか比べたり、そういうことを考えるのがアホらしくなってくる。

きっと乞食の中にも「勝ち組」はいるし、六本木ヒルズの社長の中にも「負け組」がいる。

だいたい僕がいつも言っているように、

すべての人生は「死」の前では負け戦である。
すべての人間は「無」のもとに平等である。


僕はいま、いっちょまえにまっとうな生活をしているが、それでもこれまでたくさんのものを捨ててきた。

言い方を変えれば「たくさんのものを失った」のでもあるが。

でもその結果、僕の人生はちょっとずつ軽くなっているような気もするのである。

喜ぶべきなのか。哀しむべきなのかはわからないけれど。

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2008年10月22日

ひとめあなたに・・・



これを読んだのはもうかなり前、僕が高校生のときだったが、一気にひきこまれた。こんなに熱中してしまう小説はあまり巡り合ったことがなかった。作者が(当時)まだ20歳そこそこの女性だと知ってさらに驚いた。

あとあと知ったのだが、新井素子と言えば、ライトノベルの元祖的存在とされる作家である。

例によってWikipediaによれば、高2で作家デビュー。口語体を取り入れた斬新な文体で、星新一の絶賛を受ける。「あたし」「おたく」と言った呼び方を多用し、のちの「おたく」という言葉を広める火付け役ともなった。「新口語体」との評価を受ける一方、日本語の貧弱化のきっかけともなったとの批判もある・・・・・・云々。

実際、彼女の他の小説もいくつか読んでみたのだが、「80年代おたく」のにおいがあまりにもプンプンしていて、ついていけなかった。

でもこの小説『ひとめあなたに・・・』だけは別である。

一週間後に隕石が地球に衝突して人類滅亡!

そのニュースを聞いて、主人公「圭子」は、骨肉腫におかされた恋人「朗」に会いに行くのだった。江古田から鎌倉まで。

ニュースが流れてから都市機能はマヒし、無法地帯。歩いていくしかない。その途中で、「圭子」はさまざまな人たちと出会う。

「明日地球が終わるとしたら何をする?」

無駄話で時々そんな話をしたりするが、そのケースパターンを並べたような小説である。人それぞれの「終わり」の迎え方。それが短編風に並んでいる。

これは別の小説にあった言葉だが、

「テレビで時代劇を見たら、そこにはさまざまな喜怒哀楽、悲劇、恨み、復讐などが描かれているが、よくよく考えたらそれは江戸時代の話。登場人物みんなすでに死んでいるのだ」

地球が滅びれば、すべては無に帰る。喜びも苦しみもすべて消える。あとに残される人もなく、悲しむ人もいない。オールリセット。終了。

しかし僕はなぜか「地球滅亡」という言葉に得体の知れない魅力を感じてしまうのだ。これは僕だけだろうか。

キリスト教には終末思想がある。中には、あからさまに世界の終わりを待ち望んでいる宗派もある。なぜならそのとき諸悪は滅び、信じる者は救われるから。

でも日本にはそういう思想はない。ただ、漠然とした「無」への誘惑はある。それも「自殺」よりも「地球滅亡」のほうに魅力を感じる、僕は。

これは一種の心中願望みたいなものなのだろうか。

たしかに、人生で一番幸せな瞬間に、すべての終わりが訪れたら、と感じることはある。

昔聞かされたおとぎ話、でも僕はいつも不安にかられた。

「そして王子様とお姫様は、一生しあわせに暮らしました・・・・・・」

でも実際にはそんなことはありえない。

人生最高の瞬間に、本当に幕が降りてきてくれたら・・・・・・。
ビデオが終わるみたいに、ブツッと切れて砂嵐の画面に切り替わってくれたら・・・・・・。


いやいや。
こんな破滅志向な話はこのへんで終わりにしておこう。

posted by にあごのすけ at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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